Masuk勢いよくマンションを飛び出したものの、恵はすぐに足を止めた。
「……最悪」
夜風が頬を撫でる。
怒りに任せて出てきたが、行く当てなどない。
実家へは帰れない。
佳苗にも断られた。
そして今、悟の家まで飛び出してしまった。
「何なのよ、みんなして……」
スマートフォンを取り出す。
連絡先をスクロールしても、頼れそうな相手は誰もいない。
昔の友人たちは、働き始めたり結婚したりして疎遠になっていた。
今さら「泊めて」と言えるような関係でもない。
「……っ」
苛立ってスマートフォンをバッグへ押し込む。
気づけば、公園のベンチに座っていた。
時刻は午後十時を過ぎている。
昼間は暑かったのに、夜になると少し肌寒い。
その頃。
マン
「ずっと……苦しかったです」 口にしてしまうと、これまで必死に押し込めていた気持ちが、一気に溢れ出してきた。「でも、私が嫉妬しているだけだと思っていました」「佳苗」「一条さんは何も悪くないのに、私が勝手に気にしているんだって」 絢子はいつも優しかった。 謝ってくれた。 自分を気遣ってくれた。 雄吾とのことも、隠さず教えてくれた。 だから疑うこと自体が悪いことのように思えていた。「でも……今日のことは」 佳苗は雄吾の手にあるスマートフォンを見る。「違うんですよね?」「ああ」「雄吾さんは、一条さんと食事に行くって言ってない」「言ってない」「私が待っているから帰るとも」「言ってない」 雄吾ははっきり答えた。 佳苗の胸が苦しくなる。「じゃあ、どうして……」 そこから先を口にするのが怖かった。 雄吾がスマートフォンを佳苗へ返す。「俺にも分からない」「……」「ただ、少なくとも事実とは違う」 佳苗はスマートフォンを受け取った。「私……一条さんを疑ってもいいんでしょうか」 雄吾が眉を寄せる。「疑うのに許可なんていらない」「でも」「佳苗はずっと、絢子に悪意がないことを前提に考えてただろ」「……はい」「その結果、全部自分が悪いことにしてた」 佳苗は俯いた。 否定できなかった。「だったら、一度くらい逆に考えてもいいんじゃないか?」「逆に……」「絢子が、佳苗を不安にさせるためにやっていたとしたら
『今ちょうど終わった。これから帰る』 雄吾から届いたメッセージを、佳苗は何度も読み返した。 そして、絢子からのメッセージを見る。『今から二人で何か食べに行くことにしたの』「……どういうこと?」 どちらかが嘘をついている。 そんな考えが浮かび、佳苗はすぐに打ち消した。 雄吾が嘘をつく理由などない。 だったら――。 スマートフォンが震えた。 絢子からだった。『ごめんなさい』『雄吾さん、やっぱり帰るって』「……」 続けて、もう一件。『佳苗さんが待ってるからって』 佳苗は息を吐いた。(そういうことだったんだ……) 自分がメッセージを送ったから、雄吾は予定を変えたのだろうか。 それなら、言葉が食い違っていたわけではない。 そう思ったのに。『昔なら、無理やりにでも連れていったんだけど』『今はもう、私がそこまですることじゃないものね』 また、昔。 佳苗の胸に小さな棘が刺さる。 返事をせずにいると、さらにメッセージが届いた。『佳苗さんがいてくれてよかった』『これからは雄吾さんのこと、佳苗さんがちゃんと見ていてあげてね』「……」 なぜだろう。 恋人である自分が、絢子から雄吾を任されているように感じる。 まるで今まで雄吾を支えてきたのは自分だとでも言うように。 佳苗はスマートフォンを伏せた。 ◇ 三十分ほどして、雄吾が帰宅した。「ただいま」「おかえりなさい」 佳苗は玄関へ向かう。「夕食、まだですよね?」「ああ」「すぐ用意しますね」
「……それは、できません」 佳苗の言葉に、雄吾は黙った。「どうして?」「一条さんから、私に話してくださったことだからです」「俺には見せられない?」「……はい」 雄吾の表情が険しくなる。 佳苗は慌てて続けた。「雄吾さんに隠し事をしたいわけじゃないんです」「でも、絢子から連絡が来るたびに佳苗は傷ついてる」「それは……」「だったら、俺にも関係があるだろ」 何も言い返せなかった。 確かにそうなのかもしれない。 けれど。『昔、雄吾さんのことが好きだったの』『好きじゃなくなったのかと聞かれたら、自信はないけれど』 あれは絢子が自分だけに打ち明けた気持ちだ。 勝手に雄吾へ見せることなどできない。「ごめんなさい」「佳苗」「これだけは……」 佳苗はスマートフォンを胸元へ引き寄せた。「私から雄吾さんに話してはいけないと思うんです」「……分かった」 意外にも、雄吾はそれ以上求めなかった。「無理に見るつもりはない」「雄吾さん……」「ただ、一つ約束してくれ」「何ですか?」「絢子から何を言われても、一人で抱え込むな」「……はい」「俺に話せないことなら、話せないでいい。でも、嫌だったとか、苦しかったとか、それくらいは言ってくれ」 佳苗は少し迷ってから頷いた。「分かりました」「それと」 雄吾の声が少し低くなる。「俺のことを絢子から聞いて判断するな」「え?」「俺が何を考えてるか知りたいなら
「よかったら、一緒に行く?」 絢子の言葉に、佳苗はすぐには答えられなかった。 雄吾の会社へ。 絢子と一緒に。 行けば、二人が何を話しているのか気にせずに済む。 けれど――。(それじゃあ、まるで……) 絢子と雄吾を二人きりにしたくないから、ついていくようではないか。 仕事の話なのに。 そこまで自分が口を出していいはずがない。「……私は行きません」 佳苗はそう答えた。「そう?」「はい。雄吾さんもお仕事ですし、私がお邪魔したら申し訳ないので」「邪魔だなんてことはないと思うけれど」「大丈夫です」 佳苗は笑った。「私はこのまま帰ります」「分かったわ」 絢子も微笑む。「じゃあ、またね」「はい」 絢子が去っていく。 その後ろ姿を見送りながら、佳苗は胸の奥に残るざわつきを必死に押し込めた。(大丈夫) 仕事なのだから。 雄吾だって、自分を愛していると言ってくれている。 絢子も何もしないと言っている。 信じればいい。 ◇「来たか」 雄吾の会社へ到着した絢子は、応接室へ通された。「急に呼んで悪かったな」「いいのよ。ちょうど近くにいたから」 絢子は向かいのソファへ腰を下ろす。「そういえば、佳苗さんと会ったわ」「ああ。さっき聞いた」「一緒に来るか聞いたんだけど、帰るって」「そうか」「私と二人になるの、嫌じゃないかしら」 雄吾が眉を寄せる。「仕事だろ」「そうだけど」 絢子は少し困ったように笑う。「この前、佳苗さんを不安にさせてしまった
午後の仕事を終えても、佳苗の胸には小さなもやが残っていた。 美佐子と絢子。 そこへ雄吾も加わって、今頃三人で過ごしている。(別に、何もおかしくない) 雄吾は仕事が近くで終わったから、母親に呼ばれて顔を出しただけ。 絢子と二人きりでもない。 それに絢子は、自分も一緒ならよかったと言ってくれた。 頭では何度もそう考える。 それでも。 スマートフォンが震えるたび、佳苗は反射的に画面を見てしまった。 また絢子からだった。『雄吾さんも来たわ』 その下には、一枚の写真。「……」 美佐子と雄吾と絢子。 三人がテーブルを囲んでいる。 雄吾はカメラを意識していないらしく、美佐子の方を向いている。 絢子はその隣で微笑んでいた。 家族写真のようだった。『おばさまが撮ってって店員さんにお願いしたの』『昔みたいで嬉しいって』 佳苗の胸が痛む。 昔みたい。 自分と出会うよりずっと前から、この三人にはこういう時間があったのだ。『今度は佳苗さんも一緒に四人で撮りましょうね』「……はい」 誰もいないところで、佳苗は小さく返事をした。 そしてスマートフォンを伏せた。 ◇「ただいま」 夜。 玄関から雄吾の声がした。「おかえりなさい」 佳苗はいつものように迎えに出る。「今日は、お母様たちと楽しかったですか?」「ああ。少し顔を出しただけだけどな」「写真、見ました」「写真?」「三人で撮った写真です。一条さんが送ってくださって」 雄吾が眉を寄せた。「また絢子から?」「はい」「&he
その夜。「ただいま」「おかえりなさい」 帰宅した雄吾を、佳苗はいつものように迎えた。「今日は遅かったですね」「ああ。午後から会議が続いてた」「お疲れさまです」 雄吾からジャケットを受け取る。 いつもと同じ。 何も変わらない。 それなのに、佳苗は昼間に届いた絢子からのメッセージを思い出していた。『雄吾さんにお昼へ誘われて、一緒に食事をしたの』 雄吾からは、まだ何も聞いていない。(別に、わざわざ話すようなことじゃないよね) 仕事の合間に、昔からの友人と昼食を食べただけ。 雄吾にとっては、それくらいのことなのだろう。「佳苗?」「はい?」「また考え事?」「……少しだけ」「何かあった?」「いえ」 いつものように答えかけて、佳苗は口を閉じた。 また黙ってしまう。 それでいいのだろうか。「あの、雄吾さん」「ん?」「今日……一条さんに会いましたか?」「ああ」 雄吾はあっさり頷いた。「母に頼まれたものを持ってきた」「そうなんですね」「聞いたのか?」「はい。一条さんから」 佳苗は雄吾の顔を見た。「一緒にお昼を食べたって」「ああ。ちょうど昼だったからな」 やはり雄吾にとっては、それだけのことらしい。「……そうですか」「佳苗」「はい?」「嫌だった?」 不意に聞かれ、佳苗は言葉に詰まった。「それは……」「絢子と二人で食事したこと」 雄吾はまっすぐ佳苗を見ている。
もう二度と、お前をあいつらのところへ戻したりしない。 その言葉が、佳苗の胸に重く落ちる。「……どうして」 気づけば口にしていた。 雄吾が視線を向ける。「どうして、そこまでしてくれるんですか」 本当に分からなかった。 大学時代、少し関わりがあっただけ。 卒業後は一度も会っていない。 それなのに、この男は突然現れて、自分を助けると言う。 しかも、まるで最初から全部知っていたみたいに。「昔世話になった」 雄吾は短く答えた。「レポート、覚えてるか」 佳苗は目を瞬く。 大学二年の頃。 雄吾が長期入院していた時期があった。 単位が危ないと聞いて、佳苗は講義ノートをまと
「やっと捕まえた」 耳元で囁かれた低い声に、佳苗の心臓が大きく跳ねた。 捕まえた。 その言葉は、優しいのにどこか危険だった。「榊原、先輩……?」 佳苗が戸惑う中、雄吾は佳苗の手首を掴んだまま、ゆっくり顔を上げる。 その視線の先には、こちらへ歩いてくる悟がいた。「佳苗!」 苛立った声。 悟は佳苗を見るなり、露骨に顔をしかめた。「何やってんだよ」 だが次の瞬間、雄吾の姿に気づき、動きが止まる。「……誰?」 警戒した声音。 雄吾は答えない。 ただ静かに佳苗の前へ立った。 庇うように。 その背中の広さに、佳苗は息を呑む。「佳苗、こっち来い」 悟が手を伸ばす。
恵が帰ったあとも、佳苗はしばらく動けなかった。 心臓が嫌なほど脈打っている。 あの目。 一瞬だけ見せた、冷たい視線。 前世では最後まで気づかなかった。 恵はずっと、自分から奪うことを楽しんでいたのだ。「……っ」 佳苗は唇を噛み締める。 怖い。 けれど、それ以上に悔しかった。 どうして自分は、あんな人たちのために命まで懸けてしまったのだろう。 テーブルの上に置かれた結婚写真が目に入る。 幸せそうに笑う自分。 悟の腕に寄り添って、未来を信じ切っていた頃の自分。 ――滑稽。 佳苗は震える手で写真立てを伏せた。 もう戻れない。 戻りたくもない。 今度こそ終わらせ
「……今、泣いてるのか?」 低く静かな声が耳に落ちる。 その一言だけで、張り詰めていた感情が崩れそうになった。 佳苗は慌てて口元を押さえた。「な、泣いてません」『嘘が下手だな、お前は昔から』 昔から。 その言葉に、大学時代の記憶が蘇る。 榊原雄吾。 成績優秀、容姿端麗、誰にも媚びない孤高の男。 学生の頃から有名だった。 近寄りがたい人だったのに、なぜか佳苗にはよく話しかけてきた。『また他人の仕事押し付けられてるのか』『断れないのか、お前は』 呆れたように言いながら、結局いつも助けてくれた。 けれど卒業後は一度も会っていない。 それなのに、どうして今。「どうし







