Masuk「……離婚届?」
佳苗は思わず聞き返した。
「うん。受付の人も困ってたみたい。とりあえず預かったけど、どうするかって」
「私、そんなもの頼んでません」
「だよねえ。そもそも、会社に持ってくるものじゃないし」
佐藤は首を傾げた。
「高瀬課長に話しておく?」
「はい。お願いします」
佳苗は自分の席に戻った。
悟だろうか。
けれど、悟とはとっくに離婚している。今さら離婚届を持ってくる理由などない。
直哉の嫌がらせだとしたら、何を考えているのだろう。
しばらくすると、高瀬が封筒を持ってやってきた。
「朝倉さん、受付に預けられたものだけど」
「すみません。お騒がせして」
「いや、君が謝ることじゃないよ」
高瀬は茶封筒を机に置いた。
「差出人の名前はないね。中身を確認する?」
「…&he
『俺が持っていったのは、お前と俺が結婚してた頃の写真だよ!』 佳苗はスマートフォンを握り直した。「……どういうこと?」『だから、写真だって! 久世って男に頼まれて、会社の受付に預けたんだよ』「どうしてそんなことしたの!」『十万円払うって言われたんだよ!』 悟は逆ギレしたように声を荒らげた。『でも、昨日になって急に、写真は会社に届けろって言われてさ。言われたとおりにしたのに、金が振り込まれねえんだ!』「……それで私に電話してきたの?」『ああ。久世に連絡しても出ねえし、お前なら何か知ってるかと思って』 佳苗は呆れてしまった。「知らないよ。私に届いたのは離婚届だったんだから」『おかしいだろ! 俺は確かに写真を入れたんだぞ!』「封筒には何て書いたの?」『榊原佳苗様って。それだけだよ』 佳苗は眉をひそめた。 昨日受け取った封筒にも、自分の名前だけが書かれていた。「受付には、直接渡したの?」『いや、受付の女の人に預けた。本人に渡してくれって』「……そう」『なあ、俺の写真はどうなったんだよ。あれがないと金がもらえねえんだ』「そんなの知らない。そもそも、勝手に私の写真を売ろうとしないで」『お前は金に困ってないから、そんなことが言えるんだよ!』 佳苗は返事をせず、電話を切った。 朝からひどく疲れてしまった。 それでも、気になることがある。 悟が嘘をついている可能性もあるが、わざわざ写真の行方を尋ねてくる理由が分からない。 佳苗は高瀬の席へ向かった。「高瀬課長、昨日の封筒について、少しお話ししてもいいですか?」「うん。どうしたの?」 佳苗は、悟から電話があったことを説明した。「本人は、写真を入れたと言っているん
「……離婚届?」 佳苗は思わず聞き返した。「うん。受付の人も困ってたみたい。とりあえず預かったけど、どうするかって」「私、そんなもの頼んでません」「だよねえ。そもそも、会社に持ってくるものじゃないし」 佐藤は首を傾げた。「高瀬課長に話しておく?」「はい。お願いします」 佳苗は自分の席に戻った。 悟だろうか。 けれど、悟とはとっくに離婚している。今さら離婚届を持ってくる理由などない。 直哉の嫌がらせだとしたら、何を考えているのだろう。 しばらくすると、高瀬が封筒を持ってやってきた。「朝倉さん、受付に預けられたものだけど」「すみません。お騒がせして」「いや、君が謝ることじゃないよ」 高瀬は茶封筒を机に置いた。「差出人の名前はないね。中身を確認する?」「……はい」 佳苗は封筒を開けた。 中には、確かに離婚届が入っていた。 しかも、ただの白紙ではない。 妻の欄には、榊原佳苗。 夫の欄には、榊原雄吾。 それぞれの住所まで記入されていた。「……何、これ」 佳苗の手が止まった。 当然、雄吾の筆跡ではない。 自分の名前も、誰かが勝手に書いたものだ。 高瀬が書類を覗き込み、顔をしかめた。「これは……悪質だね」「どうして、こんなものを……」 佳苗は離婚届を机に置いた。 雄吾との結婚を、直哉が快く思っていないことは知っている。 けれど、わざわざ離婚届を作り、勤務先に届けさせるなんて。「これも、例の嫌がらせですか?」 高瀬に尋ねられ、佳苗は頷いた。「おそらく&hel
「昨日、榊原さんが電話してた相手って、本当に旦那さんだったのかなって」 田中の言葉に、佐藤が首を傾げた。「え? どういうこと?」「いや、男の人と話してたからさ。旦那さんなのかなって思っただけ」「それなら普通に旦那さんじゃないの?」「まあ、そうなんだけど……」 田中は曖昧に笑った。 佳苗は二人の会話を聞きながら、胸が苦しくなった。 昨日、雄吾と電話をしたのは事実だ。 けれど、電話の相手が誰なのかも分からないまま、高瀬に報告されたのだろうか。「……田中さん」 思わず声をかけると、田中が振り返った。「あ、榊原さん」「昨日、私が電話していたのを見たんですか?」「えっ? ああ、うん。たまたまね」「夫と話していました」「あ、そうなんだ」 田中は少し気まずそうに笑った。「ごめんね。別に変な意味じゃなかったんだけど」「……はい」 佳苗はそれ以上何も言わず、自分の席に戻った。 怒りたい気持ちもあった。 けれど、田中が何かを決めつけたわけではないことも分かっている。 ただ、気になったことを口にした。 それだけで、佳苗はまた高瀬に説明しなければならなくなったのだ。 午後、佳苗は備品の発注作業を進めていた。 契約関係の書類には、まだ触れられない。 隣では佐藤が確認作業を続けている。「あー、やっと終わった」 佐藤が大きく伸びをした。「お疲れさまです」「ありがとう。こっちの分は全部確認できたよ」「何か間違いはありましたか?」「最初に見つかったところだけ。ほかは大丈夫だった」 佳苗は少しだけほっとした。「よかったです」「うん。あとは田中さんの
「……もし旦那さんの会社が取引先と競合してたら、結構まずいんじゃない?」 田中の言葉に、佳苗は思わず顔を上げた。 佐藤は困ったように笑った。「でも、そんな話、誰もしてないじゃん」「そうだけどさ。なんか、いろいろ重なってるから気になっちゃって」「まあ、変なメールが何通も来たらねえ」 二人はそれきり別の話題に移った。 佳苗はパソコンの画面に視線を戻したが、指が動かなかった。 田中は、佳苗が情報を漏らしたと決めつけたわけではない。ただ、そんな可能性もあるのではないかと口にしただけだ。 それでも、胸が痛んだ。 以前なら、そんなことを疑われることさえなかったのに。 終業時間になると、佳苗は仕事を片付け、会社を出た。 雄吾の車は、少し離れた場所に停まっていた。「お疲れ」「……ただいま」 助手席に乗り込むと、雄吾が佳苗の顔を見た。「何かあったか?」「うん。ちょっとね」 佳苗は、田中たちの会話について話した。「別に悪口じゃないんだよ。ただ、私が雄吾さんに会社の情報を話してるんじゃないかって、気になってるみたい」「そうか」「なんかね、どんどん変な方向に話が広がっていくの」 佳苗は膝の上で手を握った。「最初は、私が絢子さんを助けたことだったのに。今度は仕事のことまで疑われて……」 雄吾はしばらく黙っていた。「弁護士には、今日の件も伝えた。久世への通知は準備を進めている」「うん」「ただ、警告を出したからといって、すぐに収まるとは限らない」「……そうだよね」 佳苗は窓の外を見た。「私、会社を辞めたほうがいいのかな」 雄吾がこちらを向いた。「辞めたいのか?」
翌朝、佳苗が目を覚ますと、雄吾はすでに身支度を整えていた。「おはよう。早いね」「ああ。弁護士に連絡を入れておきたいからな」「昨日の件?」「そうだ。まずは相談してみる」 雄吾は佳苗の顔を覗き込んだ。「少しは眠れたか?」「うん。昨日はありがとう」「気にするな」 佳苗は微笑んだ。 雄吾に話を聞いてもらっただけで、ずいぶん気持ちが楽になっていた。 会社に着くと、佐藤と田中はすでに書類の確認を始めていた。「おはようございます」「あ、おはよう、榊原さん」 佐藤はいつもどおり挨拶を返した。 田中も軽く会釈する。 佳苗は自分の席に着き、今日の業務を確認した。 契約関係の仕事は、まだ任されていない。 それでも、今できることをきちんと進めようと思った。 午前中、高瀬に声をかけられた。「朝倉さん、例のメールの件なんだけど」「はい」「ご主人が弁護士に相談されるんだったね。会社に届いたものについては、必要な記録を残してあるよ」「ありがとうございます」「ただ、外部に出す資料については、こちらでも確認させてもらいたい」「もちろんです」 佳苗は頭を下げた。 高瀬が協力してくれることがありがたかった。 昼休みになる頃には、少し落ち着いて仕事ができるようになっていた。 ところが、午後二時を過ぎた頃だった。 高瀬の電話が鳴った。「はい、高瀬です」 いつもの調子で応じた高瀬だったが、相手の話を聞くうちに表情が変わった。「……それは、いつ届いたものですか?」 佳苗は思わず顔を上げた。「分かりました。確認して、折り返しご連絡します」 電話を切った高瀬は、しばらく考え込んでいた。 そして、佳苗の
帰宅した佳苗を、雄吾はいつものように迎えてくれた。「おかえり。今日は早かったな」「うん。ただいま」 佳苗は笑顔を作り、バッグを置いた。 リビングのテーブルには、雄吾が買ってきた夕食が並んでいる。「お寿司だ。おいしそう」「好きだっただろう?」「うん。ありがとう」 向かい合って食事を始めたものの、佳苗はなかなか箸が進まなかった。「……何かあったのか?」 雄吾に尋ねられ、佳苗は顔を上げた。「ううん。ちょっと疲れただけ」「そうか」 雄吾はそれ以上聞かなかった。 その気遣いが、かえって胸に染みた。「……あのね」「うん?」「今日も、会社で書類の確認をしてたの」 佳苗は箸を置いた。「また小さな間違いが見つかって。それで、確認する書類も増えちゃった」「そうか」「私が間違えたのは本当なの。だから、確認されるのは仕方ないと思う」 話しているうちに、声が小さくなった。「でも、佐藤さんも田中さんも、普段の仕事があるのに、私の書類まで調べなきゃいけなくなって……」 雄吾は黙って聞いていた。「二人とも、私を責めたりはしないんだよ。ただ、仕事が増えて困ってるだけで」「……ああ」「それが分かるから、余計につらくて」 佳苗は膝の上で手を握った。「最近、会社にいると、誰かが話してるだけで私のことかなって思っちゃうの。前はそんなことなかったのに」 声が震えた。「私、ちゃんと仕事をしたかっただけなのにな……」 最後まで言い終わる前に、涙がこぼれた。「あ、ごめん。泣くつもりじゃなかったのに」 慌てて目元を拭うと、雄吾が隣に移動し
「……今、泣いてるのか?」 低く静かな声が耳に落ちる。 その一言だけで、張り詰めていた感情が崩れそうになった。 佳苗は慌てて口元を押さえた。「な、泣いてません」『嘘が下手だな、お前は昔から』 昔から。 その言葉に、大学時代の記憶が蘇る。 榊原雄吾。 成績優秀、容姿端麗、誰にも媚びない孤高の男。 学生の頃から有名だった。 近寄りがたい人だったのに、なぜか佳苗にはよく話しかけてきた。『また他人の仕事押し付けられてるのか』『断れないのか、お前は』 呆れたように言いながら、結局いつも助けてくれた。 けれど卒業後は一度も会っていない。 それなのに、どうして今。「どうし
「佳苗? 本当にどうしたんだよ」 怪訝そうな顔で、悟がこちらを見る。 その優しげな声に、佳苗は思わず身を強張らせた。 前世でも、この男はこんな顔をしていた。 穏やかで、頼れて、優しくて。 だから信じてしまったのだ。 まさか裏で妹と不倫し、自分を“代理母”として利用していたなんて、夢にも思わなかった。「顔色悪いぞ。熱でもある?」 悟が立ち上がり、額に触れようと手を伸ばしてくる。「っ……!」 佳苗は反射的にその手を振り払った。 ぱしん、と乾いた音が響く。 悟が目を見開いた。「……佳苗?」 しまった、と思った。 前世の記憶が蘇ったとはいえ、今の悟はまだ“何も知らない夫
「……っ、はぁ……ぁっ……!」 全身を引き裂かれるような痛みに、藤倉佳苗は汗で濡れたシーツを握り締めた。 眩しい手術灯。鼻を刺す消毒液の匂い。何度も響く機械音。 苦しい。 息ができない。「もう少しです! 頑張ってください!」 医師の声が遠い。 お腹の奥が裂けるように熱い。 それでも佳苗は必死に意識を繋いだ。(赤ちゃん……) やっと会える。 悟との子供。 愛する夫との、大切な命。 その一心だけで耐えていた。 けれど次の瞬間、医師たちの声色が変わった。「血圧低下!」「出血が止まりません!」「急げ!」 視界がぐらりと揺れる。 寒い。 急激に体温が奪われていく。
ホテルへ入る佳苗と雄吾。 暗い夜道で撮られたはずなのに、驚くほど鮮明だった。「……どうして」 佳苗の指先が震える。 まるで誰かに見張られていたみたいだった。『ねぇお姉ちゃん』『その人、誰?』『もしかして浮気?』 次々届くメッセージ。 佳苗は顔を青ざめさせた。 浮気。 その言葉に胸が痛む。 裏切っていたのは悟たちの方なのに、なぜ自分が責められなければいけないのだろう。「見せろ」 雄吾が静かにスマホを受け取る。 メッセージ画面を見た瞬間、その目が冷えた。「……なるほど」「先輩」「撮られていたな」 低い声。 感情を押し殺したような響き。「どうしよう……」







