LOGIN「佳苗? 本当にどうしたんだよ」
怪訝そうな顔で、悟がこちらを見る。
その優しげな声に、佳苗は思わず身を強張らせた。
前世でも、この男はこんな顔をしていた。
穏やかで、頼れて、優しくて。
だから信じてしまったのだ。
まさか裏で妹と不倫し、自分を“代理母”として利用していたなんて、夢にも思わなかった。
「顔色悪いぞ。熱でもある?」
悟が立ち上がり、額に触れようと手を伸ばしてくる。
「っ……!」
佳苗は反射的にその手を振り払った。
ぱしん、と乾いた音が響く。
悟が目を見開いた。
「……佳苗?」
しまった、と思った。
前世の記憶が蘇ったとはいえ、今の悟はまだ“何も知らない夫”の顔をしている。
だが、触れられるだけで吐き気がした。
「ご、ごめんなさい……少し気分が悪くて」
佳苗は俯きながら言い訳をする。
心臓が嫌なほど早く脈打っていた。
落ち着かなければ。
今ここで感情的になってはいけない。
まずは状況を整理するべきだ。
スマホの日付は、一年前だった。
つまり、自分は妊娠前に戻っている。
まだ何も始まっていない。
――やり直せる。
その事実に、佳苗はぎゅっと拳を握った。
「本当に大丈夫か?」
「ええ……少し疲れてるだけ」
「なら今日は休めよ。夕飯も適当でいいから」
そう言って悟はソファに座り直す。
まるで気遣う夫。
だがその姿すら、今の佳苗には恐ろしく見えた。
ピロン。
再びスマホが鳴る。
悟は素早く画面を伏せた。
けれど佳苗は、今度こそ見逃さなかった。
『恵♡』
胸がずきりと痛む。
ハート付き。
そこまでしていたの。
前世の自分は、本当に何も見えていなかった。
「……仕事関係じゃなかったの?」
静かに問うと、悟の肩がぴくりと揺れた。
「え?」
「さっき、仕事の連絡って言ってたから」
「ああ……いや、ちょっと相談受けてて」
目が泳いでいる。
嘘をつく時の癖だ。
前世では気づかなかった小さな違和感が、今は痛いほど分かる。
「恵から?」
「っ……なんで」
悟が一瞬言葉に詰まる。
図星だった。
「別に。ただ、見えたから」
佳苗は淡々と答えた。
すると悟は露骨に不機嫌そうな顔をした。
「スマホ覗くとか感じ悪いぞ」
――ああ。
やっぱり。
前世と同じだ。
自分が悪いように話をすり替える。
佳苗は奥歯を噛み締めた。
「ごめんなさい」
そう謝るしかない自分が悔しい。
昔からそうだった。
両親は妹の恵ばかり可愛がった。
『お姉ちゃんなんだから譲ってあげなさい』
そう言われ続けて育った。
欲しい服も、好きな人も、褒められる言葉さえも。
恵が欲しがれば、全部譲ってきた。
だから恵は、当たり前のように佳苗から奪う。
そして佳苗もまた、奪われることに慣れてしまっていた。
……でも、もう違う。
今度こそ。
絶対に。
私は、この人たちから逃げる。
「佳苗?」
気づけば、悟が怪訝そうにこちらを見ていた。
「……何?」
「いや、なんか今日変じゃないか?」
「そうかも」
佳苗はふっと笑った。
自分でも驚くほど冷たい声だった。
「でも、人って急に目が覚めることもあるんじゃない?」
「は?」
悟が眉をひそめる。
佳苗はそれ以上何も言わず、立ち上がった。
「少し休むね」
「あ、ああ……」
背後から視線を感じる。
けれど振り返らなかった。
寝室へ入り、ドアを閉めた瞬間。
佳苗はその場に崩れ落ちた。
「っ……」
苦しい。
怖い。
涙が零れる。
前世で、自分は死んだ。
愛していた夫に裏切られ、妹に利用され、子供さえ奪われて。
全部失った。
でも――。
ゆっくりと腹部に触れる。
まだ、何も始まっていない。
この身体には、まだ子供はいない。
やり直せる。
その瞬間、不意にスマホが震えた。
知らない番号からの着信。
佳苗は眉をひそめながら通話ボタンを押す。
「……はい」
『久しぶりだな、藤倉』
低く落ち着いた男の声。
聞いた瞬間、佳苗の呼吸が止まった。
「……榊原、先輩?」
大学時代、一つ上だった男。
誰もが恐れる冷徹な秀才。
けれどなぜか、自分にだけは妙に優しかった人。
『やっと繋がった』
その声音に、ぞくりと背筋が震えた。
『……今、泣いてるのか?』
人事のヒアリングは、それから数日続いた。 佳苗自身が呼ばれたのは最初の一度だけだったが、周囲の社員は何人も順番に話を聞かれていた。 そして翌週の午後。「榊原さん、少しいい?」 再び上司に呼ばれた。「はい」 会議室へ入ると、前回と同じ人事担当者が待っていた。「先日はありがとうございました」「いえ」「その後、複数の社員への聞き取りと、業務の割り振りについて確認を行いました」 佳苗は黙って続きを待つ。「まず、榊原さんがお話しくださった内容については、複数の証言が一致しています」「そうですか」「配偶者の職業や経済状況に関する発言が繰り返されていたことも確認できました。また、業務を依頼する際、それを理由にした発言があったことも事実と判断しています」 佳苗は少しだけ肩の力を抜いた。 自分が気にしすぎていただけではなかった。「会社としては、適切ではない言動だったと考えています」「はい」「関係した社員には個別に指導を行います。特に、繰り返し発言していた社員については、社内規定に沿って対応する予定です」「……処分されるんですか?」「詳細はお伝えできませんが、人事上の措置を含めて検討しています」 そこまでになるとは思っていなかった。 佳苗は少し戸惑ったものの、人事担当者は静かに続けた。「榊原さんが申し訳なく思う必要はありません。会社として確認した上での判断です」「でも……」「今回問題としているのは、単なる雑談だけではありません。配偶者の収入を理由に業務負担を決めようとしたことや、相談後の発言についても確認しています」 そう言われれば、佳苗に口を挟めることではなかった。「分かりました」「今後も何かあれば、上司か人事へ直接相談してください」「ありがとうございます」
人事のヒアリングが始まってから、職場の空気はさらに変わった。 午前中だけで数人が会議室へ呼ばれた。 誰が何を聞かれたのかは分からない。 けれど、理由を想像するのは難しくなかった。「……私、別に悪口なんて言ってないんだけど」 午後、コピー機の前でそんな声が聞こえた。「私だって。ちょっと冗談言っただけ」「でも何言ったかまで聞かれたよ」「誰がそんな細かいこと覚えてるの?」 佳苗は資料を抱えたまま、その横を通り過ぎた。 すると会話が止まった。 まただ。 最近は、佳苗が近づくだけで会話が途切れる。 ◇ 翌日。「榊原さん」 以前、佳苗へ仕事を頼んできた社員が声を掛けてきた。「はい?」「ちょっといいですか?」 人の少ない廊下へ移動すると、相手は困ったような顔をした。「この前の仕事のことなんですけど」「ああ、はい」「私、別に榊原さんに嫌がらせしようと思って頼んだわけじゃないんです」「それは分かってます」「じゃあ、なんで人事にまで話したんですか?」 佳苗は目を瞬いた。「私は上司に相談しただけですよ」「でも今、人事からいろいろ聞かれてて」「会社が確認する必要があると判断したんじゃないですか?」「……こんな大げさになると思わなくて」 その言葉に、佳苗の眉がわずかに寄った。「大げさなんですか?」「そういう意味じゃなくて」「私は仕事を頼まれたことを問題にしたわけじゃないです。夫の収入を理由に、私なら残業しても困らないと言われたことを話しました」「だから、それは冗談というか……」「私は嫌でした」 はっきり言うと、相手は黙った。
「……と、申しますと?」 役員の笑顔がわずかに引きつった。 雄吾は手にしていたグラスをテーブルへ置いた。「そのままの意味です。妻から少し気になる話を聞きまして」「何かございましたか?」「俺と結婚してから、『働かなくても困らない』『残業しても困らない』と言われているそうです」「それは……」「生活に困っていないからという理由で、本来の業務とは別の仕事を回されたこともあると聞いています」 役員の表情が変わった。「申し訳ございません。私は把握しておりませんでした」「でしょうね」 雄吾も、目の前の男が関与しているとは思っていない。「妻は自分で対応しています。上司にも相談したそうです」「でしたら、社内でも確認を――」「ただ、そのあとも『社長夫人には逆らわない方がいい』『仕事は社会参加みたいなものだ』と言われているようですが」「……そんなことまで?」「ええ」 役員は完全に笑顔を消した。「それは弊社としても看過できません。事実関係を確認いたします」 その言葉に、雄吾は一瞬黙った。 ――だから雄吾も、何もしないでね。 佳苗にはそう言われた。 それでも、ここまで話した以上、なかったことにはできない。「妻は仕事を辞めるつもりはありません」「はい」「あの会社で働くことを気に入っています。だから俺も、妻が安心して働ける会社であってほしいと思っています」「もちろんです」「俺の妻だから特別扱いしろと言っているわけではありません。むしろ逆です」 雄吾は相手をまっすぐ見た。「配偶者が誰であろうと、一人の社員として扱っていただきたい」「おっしゃる通りです」「よろしくお願いします」 雄吾はそこで話を終えた。
「それで?」 雄吾に促され、佳苗は少し迷ってから続きを話した。「最初は、本当にただの冗談みたいな感じだったの。旦那さんが社長なら働かなくてもいいでしょう、とか」「それだけじゃないんだろ」「……うん」 佳苗は給湯室で聞いた言葉も、仕事を押しつけられたことも話した。「私なら残業しても困らないって。生活のために働いてるわけじゃないからって」「それで仕事を回されたのか?」「一回だけね。そのときは本人にも言ったし、上司にも話したよ」「上司は?」「続くなら言ってくれって」「続いてるじゃないか」「ちょっと形が変わったの」 佳苗は苦笑した。「今度は逆。私に仕事を頼むのを怖がられるようになった」「なぜ?」「上司に言いつけられるから。あと――」 一瞬、言うのをためらう。「雄吾にも言いつけるかもしれないから、だって」 雄吾の眉間に皺が寄った。「俺?」「社長夫人には逆らわない方がいい、みたいな」「佳苗は俺の名前を出したのか?」「出してないよ。だから困ってるの」 佳苗は膝を抱えた。「私が何を言っても、『でも旦那さん社長でしょ』ってなるの。バッグも雄吾に買ってもらったものだからとか、お給料なんて全部お小遣いなんでしょうとか」「くだらないな」「うん。くだらない」 佳苗もそう思う。 けれど毎日続けば、くだらないだけでは済まない。「今日なんて、休憩室に入ったら急にみんな黙った」「それで大したことじゃないのか?」「……大したことになってほしくない、かな」 雄吾が佳苗を見る。「仕事、辞めたいのか?」「辞めたくない」 それだけは即答できた。「今の仕事、好きなの。別
給湯室での一件から、数日が経った。 表立って何かを言われることは減った。 けれど、佳苗にはかえって居心地が悪くなったように感じられた。「これ、榊原さんに頼んでも大丈夫かな」「やめといた方がいいんじゃない?」 少し離れた席から聞こえた声に、佳苗は顔を上げる。「なんで?」「だって、この前……ねえ?」「ああ」 声が小さくなる。 けれど、聞こえないほどではなかった。「下手なこと言ったら、また上司に報告されるかもしれないし」「旦那さんにもね」 くすくすと笑う声。 佳苗は唇を結んだ。 雄吾には何も話していない。 そもそも、自分の職場の人間関係に雄吾を巻き込むつもりなどなかった。「榊原さん」「はい」 声を掛けてきたのは、別の同僚だった。「この契約書、確認お願いしていいですか?」「もちろんです」「あ……急ぎじゃないんで。いつでも大丈夫です」「明日の午前中まででいいですか?」「全然! 本当に暇なときでいいので!」 妙に気を遣われる。 以前なら普通に渡されていた仕事なのに。「明日の午前中に確認しますね」「お願いします」 同僚が去ったあと、また小さな声が聞こえた。「怖いよね」「何が?」「だって社長夫人だよ? こっちとは立場違うじゃん」 佳苗は思わず振り返った。 目が合った瞬間、二人は何事もなかったようにパソコンへ視線を戻した。 ◇ 昼休みになっても、状況は変わらなかった。 休憩室へ入ると、それまで話していた三人が一瞬だけ黙る。「……お疲れさまです」「お疲れさまです」
数日後。 佳苗は朝から請求書の確認に追われていた。 月末が近い。 取引先ごとに金額と締め日を確認し、不備があれば担当部署へ戻す。昼休みまであと十分というところで、営業部から一通のメールが届いた。「……金額、違う」 添付された発注書と請求データが一致していない。 佳苗はすぐに担当者へ連絡した。「この案件、発注書は八十六万円ですけど、請求データが九十六万円になってます」『え? あ、本当だ』「このまま処理できないので、確認して修正お願いします」『今日中?』「締めが今日なので」『分かりました』 電話を切り、該当箇所に付箋を貼る。 その様子を見ていた同僚が笑った。「榊原さん、相変わらず細かいですね」「十万円違いますから」「まあ、そうですけど」 佳苗は次の書類を手に取った。 すると別の社員が、冗談めかして言う。「でも榊原さんにとって十万なんて、もう誤差みたいなものでしょ?」 佳苗は顔を上げた。「どういう意味ですか?」「旦那さん社長だし」「会社のお金と私の夫は関係ないですよね?」「あ、いや、そういう意味じゃなくて」「十万円違ったら困るから確認してるんです」 相手が気まずそうに笑う。「真面目だなあと思って」「仕事なので」 それだけ答え、佳苗は作業へ戻った。 ◇ 午後、修正されたデータが届いた。 確認すると、今度は問題ない。 処理を終えたところで、上司に呼ばれた。「榊原さん、さっきの件ありがとう。危なかったね」「いえ。締め前に気づけてよかったです」「最近ちょっと処理件数増えてるけど、大丈夫?」「はい。ただ、急ぎの依頼が重なると厳しい日もあります
もう二度と、お前をあいつらのところへ戻したりしない。 その言葉が、佳苗の胸に重く落ちる。「……どうして」 気づけば口にしていた。 雄吾が視線を向ける。「どうして、そこまでしてくれるんですか」 本当に分からなかった。 大学時代、少し関わりがあっただけ。 卒業後は一度も会っていない。 それなのに、この男は突然現れて、自分を助けると言う。 しかも、まるで最初から全部知っていたみたいに。「昔世話になった」 雄吾は短く答えた。「レポート、覚えてるか」 佳苗は目を瞬く。 大学二年の頃。 雄吾が長期入院していた時期があった。 単位が危ないと聞いて、佳苗は講義ノートをまと
「やっと捕まえた」 耳元で囁かれた低い声に、佳苗の心臓が大きく跳ねた。 捕まえた。 その言葉は、優しいのにどこか危険だった。「榊原、先輩……?」 佳苗が戸惑う中、雄吾は佳苗の手首を掴んだまま、ゆっくり顔を上げる。 その視線の先には、こちらへ歩いてくる悟がいた。「佳苗!」 苛立った声。 悟は佳苗を見るなり、露骨に顔をしかめた。「何やってんだよ」 だが次の瞬間、雄吾の姿に気づき、動きが止まる。「……誰?」 警戒した声音。 雄吾は答えない。 ただ静かに佳苗の前へ立った。 庇うように。 その背中の広さに、佳苗は息を呑む。「佳苗、こっち来い」 悟が手を伸ばす。
恵が帰ったあとも、佳苗はしばらく動けなかった。 心臓が嫌なほど脈打っている。 あの目。 一瞬だけ見せた、冷たい視線。 前世では最後まで気づかなかった。 恵はずっと、自分から奪うことを楽しんでいたのだ。「……っ」 佳苗は唇を噛み締める。 怖い。 けれど、それ以上に悔しかった。 どうして自分は、あんな人たちのために命まで懸けてしまったのだろう。 テーブルの上に置かれた結婚写真が目に入る。 幸せそうに笑う自分。 悟の腕に寄り添って、未来を信じ切っていた頃の自分。 ――滑稽。 佳苗は震える手で写真立てを伏せた。 もう戻れない。 戻りたくもない。 今度こそ終わらせ
「……今、泣いてるのか?」 低く静かな声が耳に落ちる。 その一言だけで、張り詰めていた感情が崩れそうになった。 佳苗は慌てて口元を押さえた。「な、泣いてません」『嘘が下手だな、お前は昔から』 昔から。 その言葉に、大学時代の記憶が蘇る。 榊原雄吾。 成績優秀、容姿端麗、誰にも媚びない孤高の男。 学生の頃から有名だった。 近寄りがたい人だったのに、なぜか佳苗にはよく話しかけてきた。『また他人の仕事押し付けられてるのか』『断れないのか、お前は』 呆れたように言いながら、結局いつも助けてくれた。 けれど卒業後は一度も会っていない。 それなのに、どうして今。「どうし