ログイン自室へ戻った香織は、急いで頬の手当てを始めた。
亮太は加減することなく香織を殴ったようで、彼の手の痕がくっきりと残っていた。
「ホンット、頭に血が上るとすぐに手を上げるんだから」
何故あのような男に恋をしていたのだろう。今ではよくわからなかった。
香織と亮太の初めての出会いは大学だった。入学したての一年生の夏、香織は羽川家の御曹司だった亮太と大学構内でたまたますれ違った。
学部も違えば、特に家同士でつながりがあったわけではなかった。香織に特に興味のない様子だった亮太とは違い、その美しい容姿に彼女はあっという間に虜になった。
それから香織は亮太のファンクラブに入り、少しでも自分を認識してもらえるようにと彼のあとを追いかけ続けた。
亮太が香織を疎ましく思うのも当然だったのかもしれない。
それから香織は父親に頼み込み、亮太との婚約を半ば強引に結んだ。
今思えば、何て愚かな行動だったのだろう。
『何故俺がお前と結婚しなければならないんだ。せめて、他の誰かだったら……』
婚約が決まった日、亮太はそれだけ言って香織の前から立ち去った。
亮太は香織を激しく嫌っていた。亮太にとって香織は、自身につきまとう煩わしい女でしかなかったのだ。
しかし香織は諦めなかった。
彼の身の回りの世話を全てこなし、仕事面においてもサポートをした。彼にほんの少しでも自分を見てほしい、というその一心で。
しかし彼は香織に気持ちを返すことはなく、自身が経営する会社の社員だった日菜乃と恋に落ちた。
日菜乃との間に子供まで作られたのだから、香織のプライドはズタズタだった。
香織はスマホを取り出し、ある場所に電話をかけた。
五日後には日菜乃の妊娠を祝うパーティーが開かれる。そのための準備をしなければならなかった。
「もしもし――店長」
「香織お嬢様?お久しぶりです!」
香織が電話をかけた先は彼女の行きつけの美容院の店長だった。
彼女が通っている美容院は都内でも有名人が多く通っていることで有名な場所だった。
「五日後、急遽パーティーに参加することになったの。準備をお願いしたいのだけれど」
「もちろんです!香織お嬢様にはいつもお世話になっていますから」
今やベテラン美容師となっている店長の彼は、開業するにあたって香織の父親の支援を多く受けた。
そのため、香織の父親に恩を感じ、彼女を特別な客として扱っているのだ。
「香織お嬢様、よろしければ当日は俺が会場まで車で送っていきますよ。羽川家の車は……使えないでしょうし」
「あら、そこまでしてくれるの?嬉しいわ」
「香織お嬢様は忠嗣様の大切な一人娘ですから」
「大切な一人娘……」
九条忠嗣(くじょうただつぐ)――香織の父親であり、九条グループのトップだった。
忠嗣は仕事人間だったため、香織は幼い頃からあまり父との接点がなかった。最後に話したのも香織が羽川家へ嫁ぐ前で、結婚後は一度も会っていない。
香織の父親の忠嗣は仕事面では優秀な人だったが、夫・父親として良い人だとはいえなかった。
好きでも嫌いでもない。ただ、母親よりはマシというだけ。
金銭面で何不自由なく育ててくれたことに感謝こそしているが、香織にとっては母親よりも遠い存在だった。
「そうね……お父さんはすごい人だもの……」
「香織お嬢様?」
「何でもないわ。とても大事な日だから、よろしく頼むわ」
「もちろんです、お嬢様!」
電話を切った香織はフゥと息を吐いた。
そして、部屋にあるクローゼットの一番奥に閉まってあった一着のドレスを引っ張り出した。
それは彼女にとって苦い思い出のあるドレスだった。
三年前、初めてこのドレスを着て亮太の前へ現れたとき、彼は冷たく吐き捨てた。
『なんて汚らわしいんだ!まるで売春婦のようだな!』
その言葉にショックを受けた香織は、すぐに着替え直し、二度とこのドレスを着ることはなかった。
しかしもったいなくて捨てることもできず、ずっとクローゼットの奥に閉まったままだったのだ。
「……でもやっぱり、このドレスが私に一番似合ってるのよね」
香織は鏡の前に立ち、ドレスを自身の身体に合わせて微笑んだ。
あっという間に五日が過ぎ、パーティーの日になった。「香織お嬢様、本当によくお似合いです。会場にいる全員がお嬢様に目を奪われるでしょう!」「そうかしら?」華やかな青いドレスに身を包み、長い黒髪を結い上げた香織は、行きつけの美容院の店長――鏑木壮太(かぶらぎそうた)の手を取り、彼の車へと向かっていた。「あなたの腕がいいのよ、いつも感謝しているわ」「それはこちらのほうですよ、お嬢様。お嬢様の父君には感謝してもしきれません」壮太は優雅に香織をエスコートし、車のドアを開けた。香織が黒のSUVの後部座席に乗り込むと、壮太が運転席に座った。「あなたが運転してくれるのね」「安物の車で申し訳ありません」「そんなことないわよ」九条や羽川に劣るとはいえ、人気美容院を経営する彼もかなり稼いでいるはずだ。成功してもなお、父親への恩を忘れることなく、謙虚な彼に香織は好印象を抱いた。「ところで、今から向かわれるパーティーは一体どのような会なのですか?」運転中の壮太が香織に尋ねた。「亮太の愛人の妊娠祝いのパーティーよ」「あ、愛人……!?妊娠……!?」壮太は驚いて咳き込んだ。「あ、これ内緒ね?一応近しい人しか呼んでないパーティーだから」「は、はい……お嬢様……」壮太は香織が平気な顔でそのようなことを口にしているのが信じられなかった。愛人の妊娠に、何故そんなにも平然としていられるのか。もし自分が香織の立場だったらきっと正気を失っていただろう。それに香織は学生時代から亮太を深く愛していたはず。そんな彼女が愛人と子供の存在を知ってもなお、毅然とした態度でいるのだ。驚かないほうがおかしいだろう。壮太は香織のそのようなところが父である忠嗣にそっくりだと思った。彼も妻の不倫を知ったとき、取り乱すことなく冷静だった。壮太は香織より七つ年上で、三十を過ぎている。香織のことは昔から見てきていた。壮太にとって彼女は大恩人の娘であり、少し年の離れた妹のような存在だった。だからこそ、心配だった。「お嬢様、会場に着きました」「もう?やっぱり車移動だと楽ね」「羽川家の夫人が電車やバスで移動しているほうがおかしいんですよ……」「あら、それはたしかにその通りね」香織は笑っていたが、壮太の不安はいつまでたっても拭えなかった。壮太の手を取って車から降りた香織は、彼の様子がお
自室へ戻った香織は、急いで頬の手当てを始めた。亮太は加減することなく香織を殴ったようで、彼の手の痕がくっきりと残っていた。「ホンット、頭に血が上るとすぐに手を上げるんだから」何故あのような男に恋をしていたのだろう。今ではよくわからなかった。香織と亮太の初めての出会いは大学だった。入学したての一年生の夏、香織は羽川家の御曹司だった亮太と大学構内でたまたますれ違った。学部も違えば、特に家同士でつながりがあったわけではなかった。香織に特に興味のない様子だった亮太とは違い、その美しい容姿に彼女はあっという間に虜になった。それから香織は亮太のファンクラブに入り、少しでも自分を認識してもらえるようにと彼のあとを追いかけ続けた。亮太が香織を疎ましく思うのも当然だったのかもしれない。それから香織は父親に頼み込み、亮太との婚約を半ば強引に結んだ。今思えば、何て愚かな行動だったのだろう。『何故俺がお前と結婚しなければならないんだ。せめて、他の誰かだったら……』婚約が決まった日、亮太はそれだけ言って香織の前から立ち去った。亮太は香織を激しく嫌っていた。亮太にとって香織は、自身につきまとう煩わしい女でしかなかったのだ。しかし香織は諦めなかった。彼の身の回りの世話を全てこなし、仕事面においてもサポートをした。彼にほんの少しでも自分を見てほしい、というその一心で。しかし彼は香織に気持ちを返すことはなく、自身が経営する会社の社員だった日菜乃と恋に落ちた。日菜乃との間に子供まで作られたのだから、香織のプライドはズタズタだった。香織はスマホを取り出し、ある場所に電話をかけた。五日後には日菜乃の妊娠を祝うパーティーが開かれる。そのための準備をしなければならなかった。「もしもし――店長」「香織お嬢様?お久しぶりです!」香織が電話をかけた先は彼女の行きつけの美容院の店長だった。彼女が通っている美容院は都内でも有名人が多く通っていることで有名な場所だった。「五日後、急遽パーティーに参加することになったの。準備をお願いしたいのだけれど」「もちろんです!香織お嬢様にはいつもお世話になっていますから」今やベテラン美容師となっている店長の彼は、開業するにあたって香織の父親の支援を多く受けた。そのため、香織の父親に恩を感じ、彼女を特別な客として扱っているのだ。「
「奥様、お帰りなさい。どちらへ出かけていたんですか?」「……」帰宅した香織は、たまたま邸宅の前で日菜乃と遭遇した。美佐子に会っただけでもひどく疲れたのに、逃げた先で日菜乃にまで遭遇してしまうとは。今日は何てツイてないんだろう。「……ちょっと用事があったのよ」「そうだったんですね!言ってくれたら、私が運転手に頼んで送ってさしあげたのに」「……」羽川家の人間からことごとく嫌われている香織は、正式な妻となったにもかかわらず、羽川家の所有する車に未だに乗ったことが無かった。これまで開かれたパーティーも亮太は先に一人で車に乗って行ってしまうため、残された香織は徒歩か公共交通機関を使って移動するほかなかった。一方、愛人である日菜乃は既に羽川家の女主人のような扱いだった。人目を気にすることなく亮太と常に行動を共にし、まるで彼の妻であるかのように振舞っていたのだ。香織は惨めな気持ちを抑えきれなかった。「奥様、何だか目元が赤いですよ、どうかなさったのですか?」「……何でもないわ」香織は顔を背けた。日菜乃は心配そうに香織を見つめ、彼女の顔に手を伸ばした。「もしかして、泣いていたんですか?奥様、一体何が――」「何でもないって言ってるでしょう!」「キャアッ!」香織が日菜乃の手を振り払うと、彼女は後ろに倒れこんだ。「ッ……!」母親に会ったあとで心に余裕のなかった香織は、力の加減ができなかったのだ。まずい、こんなところ、誰かに見られでもしたら――そう思ったのも束の間、突然後ろから強い力で肩を掴まれた。強引に振り向かされた香織は、相手の顔を見る前に強い衝撃を受け、わけもわからないまま吹き飛んだ。それと同時に頬に鈍い痛みが走った。「あ……」顔を上げた香織の視界に、見慣れた顔が映った。冷たい目で彼女を見下ろしていたのは亮太だった。「お前、日菜乃に何をしているんだ」「亮太……」彼は倒れこんだ香織をさらに痛めつけようと、再び手を振り上げた。――「社長、やめてください!私が先に奥様に失礼なことをしたんです!」それを慌てて止めに入ったのは日菜乃だった。「日菜乃……」彼は自身にしがみついて懇願する日菜乃を視界に入れると、すぐにいつもの顔に戻った。「奥様は……ただちょっとイラついてただけですよ。本当は優しい方だということ、私は知ってますから
「香織!久しぶりね!私の愛する娘!」「お母さん、人前でこのようなことをするのはやめてください」「あら、どうして?感動的な親子の再会なんだから、少しくらいいいじゃない」「ここは人目が多すぎます。通りすがりの人たちがお母さんを見ていますよ」「あら、注目を集めていたみたい。何だか恥ずかしいわね」芹沢からパーティーの招待を受けた翌日、香織は久しぶりに母親である九条美佐子(くじょうみさこ)に会っていた。香織は母親とは絶縁状態だった。血は繋がっているものの、母親らしいことをされたことはこれまでに一度もなかった。美佐子は昔から男遊びが激しい人で、父と結婚したあとも多くの男と浮名を流していた。香織が十歳の頃に父に不倫がバレ、二人は離婚。美佐子はその後不倫相手と再婚したが、数年後には離婚した。離婚した今でも九条姓を名乗っているのは、父に――いや、九条グループの社長夫人という座に未練があるからだろう。娘である香織から見ても、母親はどうしようもない人間だった。今回だって本当は顔を見たくもなかったが、誘いを断り続けると羽川家にまで押しかけてくるのだからしかたがなかった。「お父様は元気にしているのかしら?」「さぁ、結婚してからは会ってないからわからないわ」香織は冷たく答えた。美佐子は香織を自らの手で育てていないくせに、彼女が羽川家の御曹司と結婚した途端手のひらを返すようにすり寄ってきたのだ。「お母さん、お父さんにまだ未練があるんですか?お父さんだってもうとっくに再婚していますよ」「知っているわ。二十歳も年下の女と再婚したという話は有名だものね。きっとあの人の遺産が目当てに違いないわ」父の財産が目当てというのなら、美佐子も同じだろう。自分を棚に上げ、他人を批判する母にはうんざりだ。「ところで、亮太くんとの結婚生活はうまくいっているのかしら?」「……それをお母さんが知る必要がありますか」「あら、母親が娘の心配をするのは当然のことでしょう?」普通の母親なら当然のことだといえるものの、美佐子は違う。彼女は誰から見ても普通の母親ではなかった。「……亮太は他に愛する人がいるみたいです」「あら、亮太くんったら。遊んでいるのね。私にもそういう時期があったわ、懐かしい」「私、亮太と離婚しようと思っているんです」「……何ですって?」離婚の話を出した途端
香織は何とかして日菜乃の流産を阻止できないか考えた。もちろん、彼女が罪を着せられることを防ぐためだったが、何の罪もない赤子が亡くなるのは耐え難かった。事件が起きるのは一週間後だ。あの事件は結局、亮太が血眼になって犯人探しをしたが何の手がかりも得られなかった未解決事件だった。亮太は香織がやったと思い込み、当然のように彼女を犯人だと決めつけた。何の証拠も無く決めつけるのは良くないが、香織は亮太の気持ちがまったく理解できないわけではなかった。香織から見ても、自分は怪しい人物だったからだ。しかし、やっていないものはやっていない。日菜乃は狡猾な女だ。前世で自ら毒を飲み、香織を犯人に仕立て上げた。しかし、いくら性根が腐っていても自らの血を分けた子を殺すとは考えにくい。愛する亮太との子供ならなおさらだった。なら、日菜乃をよく思わない者の仕業か。香織は日菜乃に敵意を抱いてる者たちを思い浮かべてみるものの、多すぎて誰がやったかなんて見当がつかなかった。日菜乃はあのような性格のため、会社ではかなり嫌われていた。仕事ができないうえに、不倫関係となった社長との仲を平然と社内にバラしていたのだ。結局、彼らの関係を知らなかったのは妻である香織だけだったのだ。そのことを思うと悔しくてたまらなかった。ふと窓の外に目を向けると、亮太と日菜乃、そして二人の娘である朱里が庭にいるのが見えた。笑い合っている三人は、とても幸せそうな家族に見えた。完璧だった、香織さえいなければ。「とにかく、二度とあのような仕打ちを受けるわけにはいかない」今回の事件は、亮太が香織を激しく憎むようになるきっかけだった。あの事件以降、亮太は日菜乃に何かあるとすぐに香織のせいだと決めつけるようになった。そのとき、部屋の扉がノックされた。――「奥様、失礼します」「……あなたは」部屋に入ってきたのは亮太の秘書だった。名前はたしか、芹沢隆二(せりざわりゅうじ)だったはずだ。私ははっきり言ってこの男に良い印象がない。いつも亮太や日菜乃にこびへつらい、お飾りの妻である私のことは見下していた。私が拷問を受けたとき、平然と極寒の外へ放り出したのもこの男だった。「社長が日菜乃様の懐妊祝いのパーティーを開くそうです。社長が奥様も参加していいとおっしゃっていましたよ。当然、出席なさいますよね?」「…
それからすぐに、日菜乃との同居が始まった。亮太と離婚するとはいっても、二人の結婚は政略結婚のためそう簡単に離婚することはできなかった。香織の両親は厳格な人だった。離婚された女を、受け入れてなどくれないだろう。離婚には入念な準備が必要だった。「奥様には本当に悪かったと思っています……離婚を考え直してください……!」「……」そして今日も日菜乃は香織の元へと訪れた。亮太と離婚しないでほしいと何度も懇願してくるのだ。香織はずっと日菜乃がこのような行動を取る意味がわからなかった。日菜乃にとって香織は邪魔者であり、離婚することになったとしても彼女には何のダメージもない。むしろ愛する亮太と念願だった社長夫人の座を手に入れられる。「あなたは私が亮太と離婚しないでほしいと思ってるわけ?」「はい、私、お二人の仲を壊そうと思ったことは一度も無いんです……!ただ恋人として彼の傍にいられればよかったんです……離婚なんてそんな……」なら何故わざわざここへ来たのか。言ってることがめちゃくちゃだ。だけど、日菜乃の考えも今ならわかる気がする。香織は日菜乃の耳元でそっと囁いた。「そりゃあそうよね。困るもの、不倫の末に本妻を追い出した女がのうのうと後妻の座に収まった、なんて噂されちゃったら」「……!」だから日菜乃は前世であのようなことを仕掛けたのだろう。香織を悪人にすることで、自分の不倫を正当化しようとしたのだ。亮太はそんな日菜乃のドス黒い本性に気付いていないのか、それとも知っていて傍においているのか。知っていたとしたら何て尊い愛なのだろう。日菜乃の顔が青くなっていく。図星だったのだろう。何も言い返せないようだ。「香織!日菜乃に何しているんだ!」「……亮太?」「社長!」突如扉を開けて部屋に入ってきた亮太が日菜乃を抱きしめた。日菜乃は目に涙を浮かべて亮太の胸に抱かれていた。何かあるとすぐにそうやって被害者のようにふるまうのは日菜乃の常套手段だった。「お前は知らないだろうが、日菜乃は妊娠中なんだ!あまりストレスを与えないでくれ」それだけ言うと、亮太は日菜乃を抱き上げて部屋から出て行った。二人が出て行った部屋で、香織は一人取り残された。「妊娠中……」そうだ、どうして忘れていたんだろう。日菜乃はここへ来たとき、ちょうど二人目を妊娠していた。しかし、子が無事に生まれ







