Masuk香織は何とかして日菜乃の流産を阻止できないか考えた。
もちろん、彼女が罪を着せられることを防ぐためだったが、何の罪もない赤子が亡くなるのは耐え難かった。 事件が起きるのは一週間後だ。あの事件は結局、亮太が血眼になって犯人探しをしたが何の手がかりも得られなかった未解決事件だった。 亮太は香織がやったと思い込み、当然のように彼女を犯人だと決めつけた。 何の証拠も無く決めつけるのは良くないが、香織は亮太の気持ちがまったく理解できないわけではなかった。 香織から見ても、自分は怪しい人物だったからだ。 しかし、やっていないものはやっていない。 日菜乃は狡猾な女だ。前世で自ら毒を飲み、香織を犯人に仕立て上げた。 しかし、いくら性根が腐っていても自らの血を分けた子を殺すとは考えにくい。愛する亮太との子供ならなおさらだった。 なら、日菜乃をよく思わない者の仕業か。 香織は日菜乃に敵意を抱いてる者たちを思い浮かべてみるものの、多すぎて誰がやったかなんて見当がつかなかった。 日菜乃はあのような性格のため、会社ではかなり嫌われていた。 仕事ができないうえに、不倫関係となった社長との仲を平然と社内にバラしていたのだ。 結局、彼らの関係を知らなかったのは妻である香織だけだったのだ。そのことを思うと悔しくてたまらなかった。 ふと窓の外に目を向けると、亮太と日菜乃、そして二人の娘である朱里が庭にいるのが見えた。 笑い合っている三人は、とても幸せそうな家族に見えた。完璧だった、香織さえいなければ。「とにかく、二度とあのような仕打ちを受けるわけにはいかない」
今回の事件は、亮太が香織を激しく憎むようになるきっかけだった。あの事件以降、亮太は日菜乃に何かあるとすぐに香織のせいだと決めつけるようになった。
そのとき、部屋の扉がノックされた。
――「奥様、失礼します」
「……あなたは」
部屋に入ってきたのは亮太の秘書だった。
名前はたしか、芹沢隆二(せりざわりゅうじ)だったはずだ。
私ははっきり言ってこの男に良い印象がない。いつも亮太や日菜乃にこびへつらい、お飾りの妻である私のことは見下していた。
私が拷問を受けたとき、平然と極寒の外へ放り出したのもこの男だった。
「社長が日菜乃様の懐妊祝いのパーティーを開くそうです。社長が奥様も参加していいとおっしゃっていましたよ。当然、出席なさいますよね?」
「……」
芹沢はニヤニヤと笑みを浮かべて香織の返事を待っていた。愛人の妊娠祝いのパーティーに本妻を呼ぶだなんて。
前世で、亮太は日菜乃の懐妊祝いのパーティーを開いた。日菜乃は本妻ではなく愛人だったため、盛大にやることはできなかったが、近しい仲の者たちを呼んで彼女の妊娠を祝った。
そんな中、香織は日菜乃の妊娠に不満を抱きながらも亮太に会うため会に出席した。
ドレスに身を包み、日菜乃の妊娠を祝いにやってきた香織は、人々からの軽蔑の眼差しと亮太の罵声を一斉に浴びる羽目となった。
『何故お前がここにいるんだ!』
亮太はドレスアップし、入念に化粧を施した香織の頬を思いきり殴った。
香織は勢いで床に倒れこみ、人々はそんな彼女を蔑みの目で見つめた。
『この会はお前のような者が来ていい場所ではない!さっさとつまみ出せ!』
香織は警備の者に腕を掴まれ、会場から引きずり出されるという醜態を晒すこととなった。
亮太は香織をパーティーに招待などしていなかったのだ。全て、秘書である芹沢の陰謀だった。
それからというもの、香織は呼ばれてもいないパーティーに強引に参加した恥知らずな女というレッテルを貼られることになってしまったのだ。
そしてその翌日、日菜乃が子供を流産した。
「そうね、せっかく日菜乃さんが第二子を妊娠したのだから私がお祝いしないわけにはいかないわ。ぜひ、出席させてちょうだい」
香織は芹沢に笑顔で答えた。今回はあえてその陰謀にのってやろう。それが香織の考えだった。
芹沢はその笑みが気に食わなかったのか、眉をピクリとさせた。
「社長は日菜乃様のご懐妊をとても喜んでおられます。彼女に何かあったらただでは済まないでしょう」
「あら、あなたは私が彼女に何かすると思っているのかしら?」
「……あなたのような人ならやりかねないことです」
「……」
芹沢は香織と亮太が婚約していた頃から彼女のことを嫌っていた。貧乏家庭に生まれ、苦労して社長の秘書にまでなった芹沢にとって、何の努力もせずに悠々自適に暮らしている香織は許しがたい存在だったのだ。
しかし実際、香織は芹沢の想像しているように楽に生きてきたわけでなかった。大企業の令嬢として生を受けたものの、両親からの愛は得られなかった。
仕事人間で厳格な父親はいつも彼女に完璧を求めていた。
生まれた娘に興味のない母親は、赤子の頃からシッターに彼女を任せ、遊び歩いていた。
香織はそのような複雑な家庭環境で生きてきたのだ。
「私はあなたが思っているような女ではないわ」
「……」
芹沢は何も言わずに香織を睨みつけて部屋から出て行った。相変わらず無礼な男だ。
香織は部屋の中で一人、退屈な時間を過ごしていた。(もう丸一日が経つのね……お父さんや有真さんが不審に思っているかも……)二人に余計な心配をかけたくなかった。何より、永遠にこの場所から出られないのだけは御免だ。香織は思い切った行動に出ることを決めた。「――すみません、どなたかいらっしゃいますか?」香織は固く閉ざされた扉に向かって声をかけた。聞こえているのかいないのか、わからない。しかし、こうでもしなければ永遠に外へは出れないだろう。香織は切羽詰まったように大声を上げた。「すみません、緊急事態なんです!どなたか、いらっしゃいませんか!」彼女は扉に向かって叫び続けた。それからしばらくして、ガチャリと鍵が開く音と同時に、固く閉ざされていたはずの扉が開いた。外から姿を現したのは、昨日柚果と共に部屋へ入ってきた見知らぬ男だった。「………………何だ?」「――えいっ!!!」香織は扉の陰に潜み、男が入ってきた瞬間を狙って棒で思いきり頭を殴った。「うぐッ――!」頭を殴られた男は床に倒れ込んだ。香織はそんな彼をじっと見下ろした。「……意識を失っているようね」衝撃で彼は一時的に気絶していた。目覚めるまでの間、香織は男を部屋にあった電気コードで手足を縛った。そのままの姿で目覚めてしまえば、女の香織は彼に勝つことができない。何の考えも無しに暴力を振るうほど彼女は馬鹿ではない。「何か持ってないかしら……スマホとか……」香織は彼のポケットの中に手を入れるが、脱出に使えそうなものは何も入っていなかった。「扉が開いているわ……あそこから外へ出られるかも……」香織は男を一人置き去りにし、開いた扉から外へ出た。家の中は案外狭く、部屋も三つほどしかなかった。香織を閉じ込めていた部屋、キッチン、そしてつい最近まで誰かが暮らしていた痕跡が色濃く残るリビング。それらを全て通り、香織は出口を探した。「きっとここが玄関ね……このドアが開けば外に出られるわ……!」香織は外に続く扉を強い力で押してみるが、ビクともしなかった。まるで外側から何者かが押さえつけているかのように動かない。(嘘でしょう……?)肝心の玄関の扉は、部屋と同じように固く閉ざされていて開かなかった。香織はショックを隠しきれなかったが、一度倒れている男の元へ戻った。部屋の中を歩き回り、何とか脱出する方法が
忠嗣は警察へ連絡を入れたが、警察はすぐには動かなかった。「しばらくは様子を見てください」「ちょっと、どうしてですか!娘が行方不明だっていうのに」近くにある警察署を訪れた有真は、署内で声を荒らげた。「娘さん、既に成人しているんでしょう?子供でもないんですから……」「あの子はそういうことをする子では……」「二十五歳の女性なら、親に無断で外泊することだってありますよ。普段実家で暮らしているならなおさら。たまには親から離れたいとも思うでしょう」警察官は有真の言葉を遮った。彼は事の重大さを捉えていないようだった。「ですが……」「それにしてもあなた、ずいぶん若いですね?二十五歳の娘がいるって言ってましたけど……ということは、十歳で産んだんですか?」警察官はニヤニヤ笑いながら有真に尋ねた。「……香織さんは私の夫の連れ子です。血は繋がっていません」有真はこれ以上は何を言っても無駄だと思い、そのまま警察署を立ち去った。あまりにも無礼な警察官の態度に、我慢の限界だった。「私も香織さんを探そうかな……日中は時間があるし……」今日はちょうど何の予定もない。忠嗣は外せない用事で捜索には加われないから……そう思っていたそのとき、有真はある人物とたまたま遭遇した。「……あれ?あなたはもしかして、福本さん?」「……あなたは、香織の……」偶然、出会ったのは前に九条邸を訪れた福本礼音だった。「はい、継母の九条有真です」有真は軽く自己紹介をした。礼音は有真から後ろにある警察署に視線を移した。たった今、彼女がここから出てくるところを目撃していた。「……こんなところに何の用で?」「あぁ、それは……」有真は他人である礼音に言うべきか悩んだが、彼なら何か知っているかもしれないと思い、説明した。「実は、香織さんがいなくなってしまったんです」「……何だと?」礼音は眉間にシワを寄せた。香織がいなくなったとは一体どういうことか。「それはいつからですか?」「昨日からです。香織さんから友達の家に泊まると連絡が入ったのですが……電話をかけても一向に繋がらなくて」「……」礼音は平静を装っていたが、内心気が気ではなかった。「……事件の香りがしますね」「ええ、私もそう思います。ですが、警察はあてになりません」彼の言葉に、有真は頷いた。二人とも、ちょうど同じ考えが頭
二人が部屋から出て行ったのを確認すると、香織はそっと起き上がった。「行ったみたいね……」部屋の扉に手をかけてみるが、どれだけ押してもうんともすんともしなかった。どうやら再び閉じ込められてしまったようだ。こんなことになるんなら、二人が入ったあのときに殴ってでも強引に外へ出るべきだったかな。しかし、犯人が二人だと確定しているわけではないため、その行為は危険だった。(どうすればここから出られるのかしら……)それに、柚果の言うあの方とは一体誰なのか。どのような目的で、私をここに監禁しているのか。皆目見当もつかない。「私、拉致監禁されるほど誰かの恨みを買ったのかしら……」考えても全くわからなかった。前世では当然、このようなことはなかった。ドアも窓も開かないし、スマホも無いから外へ連絡を取る手段もない。香織の目の前が絶望で暗く染まっていった。「あーもう、誰か助けて!」その叫びは誰にも届かないまま、消えていった。***その頃、有真と忠嗣はあまりにも遅い香織の帰宅を不審に思っていた。「香織は……まだ帰ってこないのか?」「ええ、旦那様。一応香織さんから連絡はあったのですが……」有真の元には、香織から帰宅が遅くなるという連絡が入っていた。そして、今日は友人の家に泊まって行くということも。しかし、有真と忠嗣はそのメッセージを不審に感じていた。「香織が急に外泊するだなんて……今までそんなことは一度も無かったというのに……」香織は昔から真面目で、朝帰りなんてしたこともなかった。そのせいで今、九条邸の空気はピリピリしていた。「……もしかすると、香織さんの身に何かあったのではないでしょうか」「……」有真の言葉に、忠嗣は黙り込んだ。彼もまた、娘の異変を感じ取っていたようだ。「だって明らかに変ではありませんか。電話をかけてみても、繋がらないんですよ?」「……そうだな」有真は香織のスマートフォンに何度も電話をかけたが、昨日からずっと繋がらないままだ。以前の香織ならともかく、今の彼女が有真からの電話を無視するとは考えにくい。「さっき会社に連絡してみたのですが、出社していないそうです。無断欠勤なんてするような人ではないというのに」「……」明らかに異様ともいえる事態だった。忠嗣はポケットから自身のスマホを取り出した。「……今、九条家の者で周辺を捜
目を覚ますと、香織は知らない場所にいた。(ここはどこ……?)見知らぬ天井がぼんやりとした視界に入る。小さな部屋の床に、彼女は倒れるようにして寝ていた。体をそっと起こすと、頭がズキズキと痛んだ。やっぱり飲みすぎたようだ。香織は痛む頭をそっと手で押さえた。二日酔いしたかのように気分が悪かった。「誰もいない……のかな……?」何とか立ち上がると、部屋の中を見渡した。香織のほかに人はいなさそうだった。部屋にはベッドやテレビ、テーブルなどがあり、誰かが暮らしている形跡が残っていた。それらの状況から、考えられる可能性は一つ。「ここはもしかして……桜庭さんの部屋かしら?」飲み会からの記憶が随分曖昧だったが、最後に柚果の顔を見たことだけは覚えている。彼女が家まで送ってくれている途中に倒れたはずだから……「倒れた私を、桜庭さんが運んでくれたのね……」愚かにも、彼女は今の状況を理解できていなかった。部屋の扉へ向かった香織は、ドアノブに手をかけた。しかし、固く閉ざされていて開かない。どうやら外側から鍵をかけられているようだった。なら、外へ連絡しようと思いポケットの中に手を入れてみるも――「あれ?スマホが無いわ……」何故か彼女の体からはスマホも財布も無くなっていた。たしかにいつも同じポケットに入れているはずなのに。「一体何が起きているというの?」部屋の窓に手をかけてみるが、こちらもまた扉と同じように開かなかった。つまり、彼女はこの部屋に閉じ込められてしまったということだ。「どうして……」一体誰がこんなことを。いや、考えなくてもわかることだった。犯人としてあり得るのは一人だけだったから。「外にも連絡できないんじゃ……永遠にここから出られないわ……」時刻は既に夜の十時。この時間まで何の連絡も無しに帰らないだなんて、きっと両親が心配しているだろう。焦って部屋の中をウロウロしていたそのとき、外から足音がした。「……誰か、来る」香織は即座に床に寝転がって目を閉じた。自分が連れてこられたときのように、寝ているフリをした。それからしばらくして、部屋の扉が開いた。誰かが中に入ってきたようだ。目を閉じているため誰かはわからないが、聞こえてくる足音は二つ。つまり、彼女を誘拐した犯人は少なくとも二人いるということだ。一人ならともかく、か弱い女性が二人を相手にす
飲み会が終わり、社員たちはそれぞれ帰路についた。(ちょっと飲みすぎたかな……何だか頭がクラクラする……)居酒屋を出た香織は、朦朧とする意識の中で何とか立っていた。さほど飲んでいないはずなのに、どうしてこうも具合が悪いのだろうか。彼女は思わず頭を手で押さえた。久々に酒を飲んだせいか。「九条さん、大丈夫?」「……はい、平気です」心配そうにこちらを見つめる同僚に、香織は平静を装って言葉を返した。本当は全然平気ではなかったが、彼らに余計な心配をかけるわけにはいかない。「せんぱぁい……何かフラフラする……」明らかに飲みすぎている希美は、女性社員に肩を支えられて何とか立っていた。「……大丈夫でしょうか?」「ああ、いつものことだから心配しないで。彼女は私が家まで送って行くし」なら安心――と言いかけたそのとき、後ろから鈴の鳴るような穏やかな声が割って入った。「――なら、九条さんは私が家まで送っていくわ」「……!」振り返ると、立っていたのは柚果だった。「桜庭さんが送ってくれるなら安心ね!九条さんはちょっと体調が悪そうだから……」「い、いえ……私は平気です……」香織は慌てて両手を横に振った。「だけど、九条さん……」柚果が彼女に手を伸ばした。何をする気か、香織は恐怖で動くことができなかった。伸ばされた彼女の手は、優しく香織の頬を両手で包み込んだ。「――とっても、顔色が悪いわ……」「……そ、そう見えますか?」柚果は心配そうな顔で香織を見つめているが、その瞳の奥には何の感情も感じられなかった。気のせいだろうか、何だか彼女が全くの別人であるかのように見える。「そうよ、九条さん。途中で倒れでもしたら大変だわ。桜庭さんに送っていってもらうべきよ」「……いえ、そこまで迷惑をかけるわけには」「九条さん、あなたに何かあったら社長に合わせる顔が無いわ。私たちのためにも……提案を受け入れてほしいわ」「……」そう言われてしまえば、香織は柚果に送ってもらうほかなかった。「さぁ、行きましょう。九条さん」「……はい」香織は大人しく柚果について行った。二人は間隔を空けて横並びで九条邸までの道を歩いた。その隙間が、今の二人の距離感を表しているかのようだった。柚果は笑みを零しながら口を開いた。「九条さん、ちょっと飲みすぎちゃったみたいだね」「……いえ
それからすぐに、飲み会が始まった。乾杯という掛け声と共に、ジョッキがぶつかる音が響いた。飲み会のスタートだ。「九条さん、今日は九条さんが主役ですから!楽しんでいってくださいね!」「ええ、ありがとうございます」香織は希美にすすめられた酒を一口だけ飲んだ。(酔いそう……)酒にあまり強くない彼女は飲みすぎに注意しなければならなかった。「ところで、九条さんは再婚とか考えていないんですか?」「再婚……ですか?」唐突に希美から話を振られ、香織は我に返った。「いえ、特には考えていないですね……今は自分のことだけで手一杯というか……」「そうだったんですね……九条さん美人だから男性陣が放っておかなさそうですけど」一人の女性社員のその言葉に、飲み会に参加していた男性たちが気まずそうに顔を見合わせた。香織は美しい見た目に加え、スタイルが良かった。そのため、彼女を狙っている男は社内でも一人や二人ではなかったのだ。亮太との離婚が成立したとはいえ、香織は新しく恋愛を始める気なんてなかった。彼らの好意には応えられない。そのことをアピールするかのように香織は彼らの視線を避けて黙り込んだ。「そういえば私、九条さんに関するある噂を耳にしたんです」「……噂?」すでにかなり酔いが回っている希美が、顔を赤くしながら口を開いた。「――九条さんがavisの社長さんと恋仲だって噂です!」「………………へ?」香織は口を開けたまま固まった。avisの社長といえば、礼音だ。彼は今や多くの人が知っている有名人であり、敏腕経営者だ。(私と礼音が恋仲?いやいや、ありえない!こないだ彼からもそういう仲ではないとハッキリ言われたし……)大体彼が私に優しくしているのは元カノに似ているからであって、私のことを好きというわけではないのだ。香織は必死で自分に言い聞かせた。「違いますよ、社長とはただの友人です。付き合っているわけじゃありません」「あらぁ、残念。お似合いだと思ってたんだけどなー」希美はそれだけ言い残すと、机に顔を伏せて寝てしまった。(私に危ないだなんて言っておいて……)彼女の危機感の無さには驚かされる。香織よりも自分の心配をするべきだろう。「――九条さんは、もし付き合うとしたらどんな人がいいの?」「……?」声のしたほうに振り返ると、香織の左隣に座っていた柚果が頬杖
あっという間に五日が過ぎ、パーティーの日になった。「香織お嬢様、本当によくお似合いです。会場にいる全員がお嬢様に目を奪われるでしょう!」「そうかしら?」華やかな青いドレスに身を包み、長い黒髪を結い上げた香織は、行きつけの美容院の店長――鏑木壮太(かぶらぎそうた)の手を取り、彼の車へと向かっていた。「あなたの腕がいいのよ、いつも感謝しているわ」「それはこちらのほうですよ、お嬢様。お嬢様の父君には感謝してもしきれません」壮太は優雅に香織をエスコートし、車のドアを開けた。香織が黒のSUVの後部座席に乗り込むと、壮太が運転席に座った。「あなたが運転してくれるのね」「安物の車で申し訳
有真は結婚する十年前まで、忠嗣の経営する会社の社員として働いていた。彼女は一般家庭の生まれだったが、努力を重ねて有名大学を卒業後、大企業へと就職することができた。そんな有真は、学生時代から明るい性格でクラスの人気者だった。絶世の美人というわけではなかったが、穏やかで優しく、いつだって周囲に気さくに振舞うその姿は男女問わず魅了した。――そんなところが、彼を虜にしたのかもしれない。彼女が九条グループに入社してから一ヵ月、有真は広い会社内で迷子になっていた。(道に迷っちゃったわ……会議室はどこかしら……)会議が始まるまではあと少しだ。入社早々遅刻するわけにはいかない。有真は焦っていた。彼
夜になり、ドキドキ初出勤を終えた香織は九条邸へと戻った。結婚前はどんな小さな用でも車で送り迎えをしてもらっていた香織だったが、今日は歩きだった。(職場まではそう遠くないし……運動のためにも歩こう)羽川家では車に乗れないのが普通だったせいか、歩きに慣れてしまったようだ。しばらく歩くと、羽川家の邸宅に到着した。(今でもここへ帰るのは慣れないわね)香織はそう思いながら鍵を使って中に入った。「香織さん、おかえりなさい」「ただいま、有真さん」帰宅した香織を、継母の有真が出迎えた。夜ご飯を作っている最中だったのか、長い髪を一つにまとめてエプロンを着ていた。有真は忠嗣の二十歳年下で、香織の
それから一週間後。「初めまして、九条香織です。これからよろしくお願いいたします」「……」香織は父親の会社で新入社員として入社していた。彼女を見た社員たちはしばらく固まったあと、ヒソヒソと噂話をし始めた。「九条って言った……?もしかして社長の娘さん……?」「間違いないわ。社長の娘、夫と離婚して実家に帰ったらしいわよ」「よりによって何でこの部署に……社長の娘とか気使うわー……」「……」香織の第一印象はあまり良くなかった。コネ入社、血筋が良いだけ、だとか散々な言われようだ。しかし香織はそんな中傷など気にも留めなかった。彼女が羽川家で受けた屈辱に比べれば、こんなもの大したことないか