ログイン3日間、何も投稿できなかった。
書けば、香織は「疑っている相手」から「夫の隣にいた妹」になる。
私が書かなくても、事実は変わらない。
それでも、指が動かなかった。
タイムラインには、心配する言葉が増えていった。
【更新がないけど、大丈夫かな】
【お子さんと無事なら、それでいいです】
【待っています。返事はいりません】
まる子さんからは、DMが来た。
【何も聞きません。ごはんは食べていますか】
【食べています】
嘘だった。
陽翔が残したうどんを、数本飲み込むのがやっとだった。
<11月27日、金曜日。決定的というのは、言い逃れの余地が限りなく少ない、という意味だ。弁護士に教わった。写り込んだ鞄では弱い。後ろ姿では弱い。「似ている」は、法廷では「別人かもしれない」と同じ意味になる。顔が判別できて、2人の距離が言い訳できなくて、日時と場所が特定できる1枚。それが、最後のピースだった。……チャンスは、私が香織にだけ渡した偽の予定から生まれた。崇は、まだ行き先も決まっていないと言いながら、泊まりの着替えを黒い鞄へ詰めていた。今夜が、その夜だ。調査会社には、崇の顔写真、香織の公開プロフィール、ホテルSの所在地を渡してある。確認するのは接触した人物、入った場所、時刻、出てきた時刻。私は追わない。陽翔を連れて行かない。私と陽翔は、実家ではなく自宅にいた。嘘の予定を実行する必要はない。2人がその予定を使った事実だけを、第三者に残してもらえばいい。……金曜の夜。崇は「じゃ、行ってくるわ」と黒い鞄を持って出ていった。陽翔を寝かせたあと、私は照明を落としたリビングで、調査会社からの連絡を待った。夕食は、予定どおりオムライスにした。陽翔はケチャップで描いた丸を見て、「パパのかお」と言った。私はスプーンを持つ手を止めず、「似てるね」と答えた。崇がいま誰といるかを知るための日でも、陽翔にとっては父親が仕事で帰らない、いつもの金曜だった。私はその日常を壊さないよう、食事を終え
過去の嘘は、2分以内に別々に記録した。次は、いまも情報を渡し合っていることを確かめる。同じ検証ではない。弁護士へ相談すると、返事は短かった。【危険のない範囲で。偽の予定を伝えるだけにして、ご自身で追わないでください】11月22日、日曜日の夜。私は香織にだけLINEを送った。【来週の金曜、陽翔と実家に泊まることになったの。崇にはまだ言ってないけど、久しぶりにひとりでゆっくりしてもらおうかな】送信する指が、一度止まった。妹を試す姉になりたいわけではない。間違っていたら、私は香織に謝る。疑ったことも、嘘の予定を送ったことも、言い訳をせずに謝る。それでも、見ないふりを続けるよりはましだった。送信。すぐに返信が来た。【いいと思う!崇さんも仕事忙しかったし】崇には、何も言わなかった。……翌朝、11月23日。崇は玄関で靴を履きながら言った。「来週の金曜、得意先と飲みになった。遅くなるから、そのまま泊まるかも」背中に、冷たい汗が流れた。「どこに?」「まだ決まってない。向こう次第」「そう。わかった」
11月20日、金曜日、午後0時10分。先に電話をかけたのは、崇だった。香織へ先に聞けば、崇へ知らせる時間を与えてしまう。だから崇の昼休みを選び、通話用のスマホをスピーカーにした。テーブルの上では、以前使っていた古いスマホが録音を始めている。私自身が参加する会話だ。質問は短く、答えを誘導しない。弁護士と確認したとおりにする。録音前に、質問を紙へ3つだけ書いた。どこにいたか。何時に戻ったか。誰といたか。4つ目は書かなかった。なぜ嘘をついたのか。その質問は、事実ではなく言い訳を集めるためのものになる。聞きたいことと、いま聞くべきことは違う。弁護士からは、録音の前後を切らず、元データを残すよう言われていた。私は時刻が映る画面を写真に撮り、古いスマホを機内モードにした。証拠は、内容だけでなく、どう残したかまで説明できなければならない。「どうした?」崇の背後で、食器の触れ合う音がした。「家計簿と予定表を整理してるの。韓国出張の2日目の夜、どこにいた?」「急だな」「忘れないうちに書いておきたくて」2秒の沈黙。「向こうの担当と会食。ソウルの焼き肉屋」「ホテルへ戻ったのは?」「11時くらい。疲れて、すぐ寝た」「誰と食べた?」「会社の連中。美咲が知らないやつ」嘘は、質問を重ねるほど具体的になった。「ありがとう。仕事中にごめんね」通話を切る。午後0時12分。録音を止めず、そのまま香織へ電話した。「もしもし、お姉ちゃん?」「急にごめん。ひとつ確認したいことがあるの」「なに?」「崇が韓国へ行った2日目の夜、香織はどこにいた?」受話口が、静かになった。「え、なんで?」「手伝いを頼もうとした日があった気がして。予定表へ残しておきたいの」「ああ。あの日は、新宿でクライアントと食事。終電近くまで一緒だったよ」「誰と?」「仕事の人。お姉ちゃんの知らない人」崇と同じ言い方だった。私が知らない人。「そう。ありがとう」「それだけ?」「うん。それだけ」午後0時14分、通話を終えた。崇はソウル。香織は新宿。実際には、ホテルSの同じ客室で、シャンパングラスを2つ並べていた。2人に相談する時間を与えず、別々の嘘を記録できた。2つの録音を聞き返すと、声の調子は驚くほど普通だった。崇は面倒な予定を説明するように。
3日間、何も投稿できなかった。書けば、香織は「疑っている相手」から「夫の隣にいた妹」になる。私が書かなくても、事実は変わらない。それでも、指が動かなかった。タイムラインには、心配する言葉が増えていった。【更新がないけど、大丈夫かな】【お子さんと無事なら、それでいいです】【待っています。返事はいりません】まる子さんからは、DMが来た。【何も聞きません。ごはんは食べていますか】【食べています】嘘だった。陽翔が残したうどんを、数本飲み込むのがやっとだった。崇は気づかなかった。毎朝、私が整えたシャツを着て出勤する。夜は私の作った夕食を食べ、陽翔の頭を撫で、先に眠る。香織からもLINEが来ていた。【お姉ちゃん、今週こそ手伝いに行こうか?】通知だけを読み、開かなかった。ありがとう。助かる。私はその2つの言葉で、何度、あの2人に時間を渡したのだろう。……3日目の夜、コメント欄のいちばん下に、短い一文があった。【あなたは、間違っていない】Rだった。がんばれ、でもない。
香織の仕事用アカウントは、パスワードがかかっていなかった。作品、打ち合わせ先のカフェ、ネイル。私は昔からフォローしている。新しい作品が出れば「いいね」を押し、妹が順調に働いていることを喜んでいた。ただ、投稿が複数枚あるときも、全部を見てはいなかった。3カ月前の投稿で、指が止まった。最初の1枚は、ノートパソコンとコーヒー。【大きな仕事が一区切り。たまには自分へご褒美】私はその写真に「いいね」を押していた。横へ滑らせる。2枚目は、夜景。3枚目は、ルームサービスのワゴンだった。シャンパングラスが2つ。窓際のソファ。投稿日は、崇の「韓国出張」3日目。私は写真を拡大した。窓の外に観覧車が見える。高速道路の曲がり方も、ホテルSの公式サイトに載っている客室の景色と同じだった。グラスの向こうに、ベージュの革と金色の金具。あの鞄。まだ、香織がホテルSへ行ったことしかわからない。そう言い聞かせて、もう一度、画面の端を見る。ソファの背に、紺色のジャケットが掛かっていた。袖口に、銀色の四角いカフス。陽翔が生まれた年、私が崇へ贈ったものだった。裏には、崇のイニシャルを彫ってもらった。画面をさらに広げる。夜景の映った窓に、人影が反射していた。スマホを構える香織。その後ろで、ワイシャツ姿の男がグラスを持っている。顔の半分しか見えない。それでも、見間違えなかった。崇だった。スマホが、手から落ちた。床に当たる音で、息をしていなかったことに気づいた。台所へ行き、シンクに両手をつく。何も食べていないのに、吐き気だけが上がってきた。水を出した。流れる音の向こうで、記憶が勝手につながっていく。香織が選んだ、崇の紺のネクタイ。聞かずに開けた、うちの台所の引き出し。崇のホテル利用日に限って届いた、「今日は忙しい」のLINE。私が欲しいと言った翌月、香織が買ったベージュの鞄。【お姉ちゃんのため】何度も聞いた言葉だった。お姉ちゃんのために、陽翔を預かる。お姉ちゃんのために、荷造りを手伝う。お姉ちゃんのために、家へ来る。そのたび、2人が会う時間を作らされていたのは、私だった。寝室から、崇の寝息が聞こえる。深く、規則正しい音。私が妹の投稿を見ている夜にも、この人は眠れる。悔しいより先に、不思議だった。何もしていない私が眠
香織の名前を書いた夜から、私は眠れなくなった。夫の浮気相手が知らない女なら、夫だけを失えばいい。香織なら、夫と妹を同時に失う。結婚式の日、香織は私のベールを何度も直した。緊張で手が冷えていた私に、『お姉ちゃん、絶対に幸せになってね』と言い、自分の方が先に泣いた。陽翔が生まれた日も、家族の中で最初に病院へ駆けつけたのは香織だった。小さな手を怖々とのぞき込み、『私、何でも手伝うから』と笑っていた。あの涙も、笑顔も、最初から嘘だったとは思えない。少なくとも、あの瞬間の香織は、私の幸せを願っていたはずだ。だから余計に苦しかった。人は、昔愛していた相手を、あとから傷つけることがある。過去が本物だったからといって、現在まで無実になるわけではない。私は、結婚式の写真をしまった箱へ手を伸ばしかけ、やめた。確かめたいのは、あの日の香織ではない。いま、崇の隣にいる女性だった。だから私は、確かめたいのに、外れてほしかった。……水曜日、香織からLINEが来た。【今週、手伝いいる?金曜なら空いてるよ】いつもなら、迷わず頼んでいた。香織が来れば、陽翔は喜ぶ。私も買い物や家事が進む。でも今は、香織が台所の引き出しを迷わず開ける姿を見たくなかった。【ありがとう。今週は大丈夫。陽翔と2人でゆっくりするね】既読がつく。【そっか。何かあったら、いつでも呼んでね】何かあったら。も