LOGIN星は分かっている。たとえ清子に直接聞きに行ったとしても、返ってくる答えは明日香の話と大きくは違わないだろう。明日香のような女は、賢いからこそ、隠し事はしても、くだらない嘘はつかない。そして――清子。その名前を思い浮かべただけで、星の胸には何とも言えない感情が広がった。清子のやり方は、そこまで巧妙でもなければ、特別頭が切れるわけでもない。それなのに、雅臣とも、仁志とも、どうしても切り離せないほど深く絡みついている。まるで、喉に魚の小骨が刺さっているような感覚だった。吐き出すこともできない。かといって、飲み込むこともできない。もし自分にとって、どうしても避けられない宿敵のような存在がいるのだとしたら。それは明日香とは限らないが、清子に違いない。星は言った。「誰にだって過去はあるわ。仁志に過去があっても、別に不思議じゃない。それに、それは彼個人のプライバシーよ。私に必ず話さなきゃいけないことでもないわ」明日香はふっと笑った。「その通りね。でも、仁志の前妻がどんな人だったのか、あなたは知らない。二人の間にどれほど忘れられない過去があったのかも。もしその人が、仁志に近づく女をひどく嫌うタイプだったら?今度はあなたが狙われるかもしれない。星、また理不尽な災難に巻き込まれることになるんじゃない?」そして、静かに畳みかける。「昔の清子が、まさにそうだったでしょう?」星は何も答えなかった。明日香も、それ以上は言わずに立ち上がる。「星、言いたいことはもう伝えたわ。邪魔してごめんなさい。もう行くね」部屋を出る前、明日香は一度だけ振り返り、星を見た。――昔の恋人というのは、いつだって今の相手の胸に刺さる棘になる。まして、かつて元恋人に結婚を壊された経験を持つ星なら、なおさらだろう。一度蛇に噛まれれば、十年井戸の縄を怖がる。きっと、星も同じはずだ。自室に戻ると、明日香は朝陽に電話をかけた。「朝陽、仁志が戻ってきた」朝陽の声は低い。「ああ、翔から聞いた……今日はどうだった?仁志に何かされたのか?」昼間、あれだけ多くの株主の前で、仁志にわざと恥をかかされた場面を思い出し、明日香の目は冷たく沈んだ。彼女は昼間の出来事を細かく朝陽に話す。そして続けた。「朝陽、仁志を追い出す
星は少し考えてから、扉を開けた。ドアの外には、明日香が立っていた。彼女は微笑みながら尋ねる。「星、今ちょっと時間ある?少し話したいことがあるの」星は明日香を書斎の中へ招き入れた。「何か飲む?」「水でいいわ」星が雲井家に戻ってきてからというもの、彼女と明日香が二人きりでまともに話をしたことは一度もなかった。お互い、ある程度のことは察している。だからこそ、今さら表面だけ取り繕っても仕方がない。そんなことをすれば、かえって白々しくなるだけだ。明日香も、そのあたりはよく分かっていた。偶然顔を合わせた時に挨拶を交わすことはあっても、彼女の方から星に近づいてくることはなかった。雲井家の人間の前で、わざと気を遣うような態度を見せて好感を稼ごうとすることもない。だから立場の違いを別にすれば、星は明日香のことを好きにはなれなくても、清子ほど嫌ってはいなかった。星はよく分かっている。明日香は賢い女だ。清子のようなやり方は、尻尾をつかまれる危険が高すぎる。それに明日香は、もともと家族全員から偏愛されてきた。わざわざ誰かを徹底的に踏みつける必要などない。たとえ自分から策略を巡らせたり、誰かを陥れたりしなくても、雲井家の人間は原株のために勝手に動く。彼女にとって、そんな割に合わないことをする理由はなかった。だからこそ明日香は、いつだって俗世の埃ひとつついていないような顔をしていられるのだ。星は明日香に水を一杯注いでから、口を開いた。「わざわざ私に会いに来るなんて、一体何の話?」明日香は、目の前のグラスを見つめたまま、何かを考えているようだった。星は急かさない。しばらくしてから、明日香はようやく顔を上げた。「この前、仁志がいなくなった時、もう戻ってこないと思ってたの。だから、あなたに話していないことがあったわ」そこで一度言葉を切り、静かに続ける。「でも今日、仁志を見て……やっぱり、いくつかの真実は早めに知っておいた方がいいと思ったの。心の準備もできるでしょうし。何も知らされないまま、最後に知る立場でいるのって、つらいもの」遠回しな言い方ではあったが、それだけで十分伝わった。明日香は、仁志の身の上についてずっと前から知っていた。そして、自分だけが最後まで知らされなかったのだと。星は淡々と尋ねる。
仁志は笑みを浮かべたまま尋ねた。「お前、本当に……俺と話したいのか?」明日香の脳裏には、これまでの愉快とは言いがたい会話の数々がよぎる。それでも彼女は笑みを崩さなかった。「私たちの間には、何か誤解があるのかもしれない。ちゃんと説明したいの」仁志は時間を確認し、軽く首を振る。「悪いが、用事がある。今日は無理だ」明日香はそれを予想していたかのように、表情ひとつ変えない。「では、いつなら時間ある?」仁志は少し考えるふりをしてから答えた。「さあな。いつ空くかも分からない」――話す気はない。そうはっきり示しているようなものだった。それでも明日香は引かなかった。ちょうどその時、エレベーターの扉がゆっくりと開く。仁志が中へ入ると、明日香もすぐあとに続いた。なおも諦めず、彼女は口を開く。「仁志さん、以前言ったこと……まだ有効?」仁志は彼女をちらりと見た。「いろいろ言ったからな。どの話だ?」明日香は声を落とす。「私が雲井グループを離れれば、雲井家にも、私にも、もう手を出さないってやつ」仁志は意味ありげに笑った。「また言質を取って、録音でもするつもりか?」その瞬間、明日香の笑みがわずかに固まる。これまで彼女は、さまざまな男を見てきた。だが、仁志のように、まったく隙を見せない男は初めてだった。前回、彼の本性を暴こうと焦り、背水の陣で公の場から彼を追及した。あの時点で、彼女は自分の退路を断っていたのだ。――今となっては。明日香は長いまつげを伏せる。仁志が、そう簡単に自分を信用するはずがない。彼女は静かに言った。「仁志……もし私が雲井グループを辞めたら、私や兄たちをもう狙わないでくれる?私たちは、星とも家族なの。争う必要なんてないわ」仁志は、ゆっくり下がっていく階数表示を見つめたまま答える。「第一に、お前の性格からして簡単に雲井グループを辞めるとは思えない」そして彼は明日香を見て、唇の端をわずかに上げた。「第二に――その条件はあの時だけの話だ。もう期限切れだな」それでも明日香は引き下がらない。「じゃあ、今の条件は?」仁志は本気で少し考えるような素振りを見せた。「そうだな。お前の母親、もともと漁村の出身だったよな?」明日香の目がわず
「たとえこの案件を星が失ったとしても、それはせいぜい花を添える機会を逃す程度のことで、致命傷にはならない。だが、この案件がお前のせいで流れたとなれば――話は別だ。星を支持する株主たちが黙っていないのはもちろん、こちらの派閥の株主ですら、俺たちへの信頼を失いかねない」忠はもともと衝動的な性格だった。だが、正道にそう指摘されて初めて事の重大さを理解し、背筋に冷たい汗が伝う。歯ぎしりしながら吐き捨てた。「仁志のやつ……ほんと陰険だな!」自分が仕掛けたはずの罠なのに、最後には逆に一手打ち返されていたのだ。正道は首を横に振り、ため息をつく。「忠。仁志が溝口家の当主になれたのは、手腕も策も並の人間じゃないからだ。これから先、あいつに会ったらできるだけ距離を取れ。お前じゃ、あいつ相手に得をすることはまずない。少しでも油断すれば、大きな損を食うぞ」今日はたまたま正道がその場にいて、事の裏にある深刻さを見抜けた。もし彼がいなければ、忠はまたしても仁志の手のひらの上で転がされていただろう。しかも今回は、個人の恥では済まない。雲井グループ全体の評判にまで傷がついていたはずだ。……忠は不満を飲み込みながらも、これ以上星に利益を与えないため、素直に謝ることにした。多くの視線が集まる中、仁志もあえて彼を追い詰めることはせず、茶を差し出させて謝罪させるだけで済ませた。その態度を見て、忠はようやく正道の言葉が正しかったと悟る。最初から謝罪そのものが目的ではなかったのだ。仁志の狙いは、株主たちに「雲井家は信用できない」と思わせることにあった。仁志は差し出された茶を受け取り、かすかに笑った。「しばらく見ないうちに、お前も少しは賢くなったようだな」挑発だと分かっていても、忠はぐっとこらえ、何も言わなかった。仁志はひと口茶を飲み、それから静かに続ける。「いくつかのことは、ボディガードにはできても、今の俺にはできない。だが――一言、忠告しておこう」忠は思わず聞き返した。「……何だよ」仁志は茶器を置き、唇の端に冷たい笑みを浮かべる。「今後は口の利き方に気をつけろ。特に、星に対してな」そこで一拍置き、視線を雲井家の面々へ順に向けた。声は柔らかい。だが、そこにははっきりとした威圧があった。「今回
雲井グループの面々も、次々と口を開いた。「仁志さん、忠はすでに雲井グループで実権を持っておりません。彼の判断が会社の意思を代表することはありません」「どうかご安心ください。先に無礼を働いたのは忠の方です。このままうやむやにするつもりはございません。必ずご納得いただける説明をいたします」仁志は忠をちらりと見やる。その顔に悔しさと怒りが滲んでいるのを見て、かすかに笑みを浮かべた。「ですが、忠本人はどうもそうは思っていないようね?」その言葉に、一同は忠の方を見ようともせず、口々に言った。「仁志さん、ご安心ください。先ほどの無礼については、必ず忠本人に謝罪させます」正道派の株主たちは、同時に正道へ視線を向けた。その目には、隠しようのない不満と、はっきりとした圧力が滲んでいた。この一年、忠の愚かな振る舞いの数々に、正道派の株主たちの不満はすでに限界まで膨れ上がっていた。星を支持する株主たちが大きな利益を手にしていくのを横目に、自分たちは儲けを得られないどころか、忠の尻拭いばかりさせられている。差が大きすぎた。いや――悲惨なくらい差がありすぎたと言った方がいい。これで平静でいられるはずがない。靖三兄妹のうち、忠は星に太刀打ちできず、翔は星に案件を奪われた。明日香に至っては、星に完全にねじ伏せられ、見せ場らしい見せ場すらなかった。靖はまだいい。彼は雲井グループの次期後継者で、関わるのも重大な意思決定が中心だ。だが、忠、翔、明日香――この三人を合わせても、実績は星一人にすら及ばない。その事実に、正道派の株主たちは、この三人の実務能力そのものに疑いを抱き始めていた。三対一でも勝てない。それではまるで、星がこの三人を役立たずに見せつけているようなものだった。忠と翔は、長年雲井グループで働いてきただけあって、社内に自分たちの腹心や派閥を少なからず抱えている。明日香にも、葛西家と司馬家という二つの名家の後ろ盾があった。それに対して、星はどうか。仁志の助けがあるとはいえ、彼女の側にいるのは実質、仁志ただ一人だけだ。では、この三兄妹の周りにはどれほどの人間がいるのか。正道と靖の後押し。外部企業からの支援。明日香には、彼女に想いを寄せる男たちの支えまである。それだけの好条件が揃っていて、なお星
星は数歩前に出て、仁志の前に立った。そして、何気ない顔で彼に言う。「仁志、何か動物の鳴き声、聞こえない?」長く一緒に過ごしてきた二人だ。星の意図が、仁志に分からないはずがない。彼は意味ありげに忠をちらりと見やり、薄く笑った。「誰かの飼い犬が、自分で首輪を外して飛び出してきたんじゃないか。星、こういう勝手に飛び出してくる犬ってさ、たとえ叩き殺されたとしても、自業自得だと思わないか?」自分たちが当てこすられていることくらい、忠にも分かった。彼は仁志を指差し、怒鳴る。「誰が犬だって!?もう一回言ってみろ!」仁志は笑みを崩さないまま、淡々と言った。「俺たちが言ってるのは犬の話だ。別にお前のことじゃないのに。お前が、どうしてそんなにむきになるんだ?もしかして、お宅の犬が勝手に脱走して、そこら中に噛みついたせいで、誰かに叩き殺されたことでもあるのか?」もともと短気な忠は、あまりにもあからさまな皮肉に、ついに堪えきれなくなった。勢いよく仁志の襟元をつかむ。「てめえ……!」その瞬間――エレベーターが「チン」と音を立てた。扉がゆっくりと開いていく。契約締結が近いと聞きつけた株主たちと会社幹部は、満面の笑みでエレベーターの前に立ち、雲井グループに利益をもたらす福の神を出迎えるつもりだった。だが、中の様子を見た瞬間、全員の表情が凍りつく。忠が、その福の神の襟をつかみ、今にも殴りかかりそうな格好をしていたのだ。一同の背筋が冷えた。正道派の株主の何人かが、思わず声を荒らげる。「忠、お前何をしてる!?早く仁志さんを放せ!」星と仁志の見事な連携に煽られ、忠はすっかり理性を失っていた。そのせいで、エレベーターの扉がとっくに開いていたことにすら気づいていなかったのだ。外から大勢の視線が一斉に自分へ注がれているのを見て、忠は呆然とする。思わず口をついた。「なんでみんなここに……?」その中の一人、短気で知られる正道派の株主は、以前から忠に強い不満を抱いていた。会社に利益をもたらすどころか、問題ばかり起こしている。ついに怒りが限界を超えたのだ。その株主は雲井家の親族で、雲井老当主の従弟の息子にあたる人物だった。長年、一貫して雲井家を支持し続け、雲井グループが最も苦しかった時期でさえ見捨てなか
仁志は、手にしていたかすみ草の花束を差し出した。「星野さん。優勝、おめでとうございます」星はその花を見つめる。かすみ草――彼女が好きな花だ。きっと彩香が用意させたのだろう。星は微笑んで受け取った。「ありがとう」そのとき、急いで駆けてくる靴音が響いた。雅臣が姿を現した瞬間、星が仁志の花を嬉しそうに受け取る光景が目に飛び込んだ。その笑顔はあまりにも明るく、つい先ほどまでの自分への冷たさとは、まるで別人のようだった。その気配を察したのか、仁志が雅臣のほうへ視線を向ける。そして雅臣の手にあるバラを見やり、軽く眉を上げた。「神谷さんは、星野さんに花を届
配信を見ていたネットの視聴者たちも、狂ったようにコメントを書き込んでいた。「犬の真似!犬の真似!犬の真似!早くやれ、見たいんだよ!」「みんなで犬の真似しよ!ワンワンワンワンワン!」博はこの盛り上がりを見て、すぐさまライブの投票機能を開放した。――犬の真似をさせるか、引退させるか。どちらを支持するかを投票で決めるのだ。もちろん、第三の選択肢など存在しない。もともとハリーが星に選択肢を与えなかったのだから。博は聖母ではない。外国人に好き放題やられて、自国の選手を泣かせるつもりなど毛頭なかった。司会者はスタッフからこの投票のことを聞き、内心で舌を巻いた
ハリーは、自分が口にしたとおりの、誰も体験したことがないような苦痛を味わった。顔は原型を留めぬほど破壊され、指は切断され、腱も断たれ――修復など二度と不可能。さらに犯され、写真と動画まで撮られた。屈辱の極みに、ハリーは死にたくなるほど恥をかいたが、死ぬ勇気すらなかった。すべてが終わると、ハリーはまるで干からびた魚のように、冷たく横たわり、天井をぼんやりと見上げた。その視界に、ひとりの青年の整った顔がふっと現れる。隣家の好青年のように柔らかく微笑むその表情から、先ほどの冷酷さは微塵も感じられない――それが、なおさら恐ろしかった。ハリーは血にまみれた自分の手を見
「気のせいかな?なんでだろう......星野の『白い月光』、まるで原作者みたいじゃない?」「原作者?A大の雲井影子のこと?確か、影子はA大の殿堂入りメンバーで、すごく謎なんだろ?いまだに顔を見た人はいないって!」「『白い月光』は演奏する名手も多いけど、原作者特有のあの音色を再現できた人は誰一人いないんだよな」「星野じゃないと思うけど?前に星野が『白い月光』を演奏した動画、私も見たけど、原作者の雰囲気とは全然違ってたし」「前に星野が使ってたのは夏の夜の星じゃなくて、無名モデルのヴァイオリンだったよな?スマホにまだ動画残ってるわ」「......星野って、







