LOGIN正道はそう言ったものの、靖にはよくわかっていた。正道は最初から、怜央のことを快く思っていない。まして今の怜央は、障害まで負っている。正道が明日香を彼に嫁がせる気になるはずがなかった。翔が言う。「明日香は、もうM国にはいない可能性が高い。怜央があんなふうに空も地上もひっくり返して探したって、たぶん無駄だろ」靖は冷静に返した。「M国にいない可能性は高い。だが、相手が陽動を仕掛けている線もまだある。怜央にM国中をかき回させるのも、悪くない」正道も続ける。「私はレイル国王と何度も話したが、やつは頑として明日香を捕らえたことを認めない。だが、D国にはすでに厳重に人を張らせてある。もし明日香がD国に現れたら――」正道の目に、鋭く冷たい光が宿った。「靖。その時は葛西家、司馬家、それに志村家も巻き込んで、レイル国王にきっちり説明を求めろ」……D国。レイル国王のもとに、部下から報告が入った。明日香の身柄の確保に成功した、という知らせだった。「陛下、この後はどうなさいますか?まずは極秘裏にD国へ移送いたしましょうか」レイル国王は、すでに明日香を骨の髄まで憎んでいた。だが同時に、今は雲井家が自分たちを監視していることもよく理解している。ここで証拠を掴まれれば、雲井家はそれを口実に攻勢をかけてくるだろう。逆に証拠さえ出なければ、たとえこちらの仕業だとわかっていても、向こうは手を出せない。レイル国王は、それほど愚かではなかった。しばらく考えた末、彼は口を開く。「ガヴァン。明日香と体格の近い女を何人か探せ。そいつらをD国に入れて、連中の目をくらませろ。時間を稼ぐんだ」そこで一度言葉を切り、薄気味悪く笑った。「それから明日香だが……そのままデルタ地帯へ送って、歓楽街に売り飛ばせ。ああいう上流育ちの令嬢は、ああいう場所じゃいい値で売れるだろう」……一週間後。星と彩香は、仁志の退院を迎えに来ていた。あの日以来、彩香は星と仁志の邪魔をしないよう、病院には顔を出していなかった。だが彼女は、面白い話を胸の内にしまっておける性格ではない。仁志の顔を見るなり、さっそく最近耳にした話を勢いよくまくしたてた。「仁志、前に明日香が失踪した件、覚えてるでしょ?あの時、雲井家の連中がみんな集まって会議してたじゃない?その日の
怜央は何も答えなかった。もともと彼は、陰気で掴みどころのない男だ。靖たちも、特に深くは気にしなかった。どれほど時間が経った頃だろう。不意に、怜央の携帯が鳴った。彼は着信画面を一瞥し、胸の内の苛立ちを押さえ込みながら通話に出る。「どうした」受話器の向こうから飛び込んできたのは、優芽利の取り乱した声だった。「お兄さん、大変なの!あのキジトラ猫が逃げちゃったの!」その瞬間、怜央の顔色が変わる。「逃げた?どうしてだ」優芽利の声には、今にも泣き出しそうな響きが混じっていた。「出前を受け取ったあと……たぶんドアを閉め忘れちゃって……ご飯を食べ終わってから猫を探したら、ドアが少し開いてて……もういなくなってたの……」怜央は出かける前、優芽利にそのキジトラ猫の世話を任せていた。たいてい彼が外出する時や家を空ける時は、優芽利を呼びつける。他人に任せる気にはなれないのだ。怜央が普段どれだけその猫を大事にしているか、優芽利はよく知っていた。その猫は野性味が強く、怜央にだけは従順だが、優芽利にはいつも牙を剥く。実際、彼女は顔を引っかかれそうになり、危うく傷が残るところだった。叩くなんてもってのほか。普段、少し文句を言うことすら許されない。たった数句、その猫の悪口を言っただけで、怜央にきつく叱りつけられたこともある。そのくせ怜央は、使用人に世話を任せることも許さず、必ず優芽利自身に面倒を見させた。彼が不在の間、優芽利はまるでご先祖様でも祀るみたいに、その猫を扱ってきた。完全に猫の下僕である。優芽利はもう、怜央がわざと自分をいじめているのではないかと疑い始めていた。しかも聞くところによれば、その猫は星から贈られたものだという。自分だって名門の令嬢だ。それなのに、たかが獣一匹に頭が上がらない。腹が立たないはずがない。怜央は敵を排除する時には冷酷無比で、人を殺すことすらためらわない。それなのに、たった一匹の猫には信じられないほどの寛容さと愛情を見せる。その落差が、優芽利には滑稽で仕方なかった。優芽利はその猫が嫌いだった。星が嫌いなのと同じくらい。それでも、猫に何かする勇気はなかった。ましてや故意に逃がすなど、できるはずもない。怜央のその猫への執着は、彼女にはもはや病的に見えた。世間で
たとえそれが星だったとして――だから何だというのだろう。逆に、星でなかったとして――それで何かが変わるのか。まさか本気で、星の責任を追及するつもりなのか。今の星には、雲井グループ株主の半数の支持がある。それに加えて、ランス家、さらに溝口家とも手を組んでいる。そんな相手を、「責任を取り立てたい」というだけで、どうこうできるはずがない。結局、星を呼び戻したのも探りを入れるためにすぎなかった。明日香の誘拐に、彼女が関わっているのかどうか。可能性は低い。だが、ゼロとも言い切れない。翔自身も、今の自分に星や仁志をどうこうする力がないことはわかっていた。だから黙るしかなかった。一方で星のほうも、この家族会議に来たのは半分野次馬みたいなものだった。彼女自身も、どうしてレイル国王がそこまで明日香を憎むのか、わからなかったのだ。たとえ、明日香がウィンザー姫を助けた件が自作自演だと見抜かれていたとしても――そこまで執拗な憎しみに変わるとは思えない。その後も皆が思い思いに意見を口にし、悠白までいくつか見解を述べた。そんな中で、星と仁志だけは、まるで部外者のように黙って聞いていた。そしてもう一人。怜央だけが、最初から最後まで一言も発しなかった。しばらく聞いていた星は、少し退屈になって、小声で仁志に尋ねた。「仁志、まだ怪我も治ってないし……少し外で休む?気分も変わると思うけど」仁志は、明日香の救出そのものにはあまり興味がなかった。星について来たのも、彼女がこの場で理不尽に責められないか気になったからにすぎない。今のところ大きな問題も起きていない。そう判断して、彼は静かにうなずいた。星は正道にひと声かけると、そのまま仁志と一緒に応接間を出た。二人が抜けたことに対しても、周囲はさほど反応しなかった。そもそも星や仁志が明日香を助けるために動くなど、誰も期待していない。むしろ余計なことをしないだけましだ――そんな空気ですらあった。怜央は、去っていく二人の背中をじっと見つめ、薄い唇を真一文字に結んだ。窓越しに見える外のテラスでは、星と仁志がそのまま屋敷を出ることもなく、ソファに腰掛けて景色を眺めながら何か話していた。星は自分でお茶をいれ、果物まで洗っている。怜央には、二人が何を話しているのか聞こえない。だが
ああいう言葉は、今まで何度も聞いてきた。星の口からも、少なくなかった。以前なら、何も感じなかったはずだ。なのに今は――妙に胸に引っかかる。やがて、顔を腫らした忠もやってきた。眉間には疲労がにじみ、明らかにやつれている。髪も乱れ、見るからにみすぼらしかった。すでに結羽に振り回され、限界だった。明日香の失踪を聞いても、気にかける余裕すらない。さらに、自分が都合よく利用された挙げ句、株まで星に奪われたことで、靖たちにも不満を抱いている。今の彼には、雲井グループ内での実権など何一つない。この先も、飼い殺し同然だ。心はとっくに折れていた。もう争う気などない。どうせ勝っても、自分のものにはならない。誰かのために道を整えるだけだ。それなら、意味はない。やがて、正道と靖が電話を終えた。靖の顔は重い。「レイル国王は、明日香の誘拐を認めなかった」忠が即座に口を挟む。「そりゃそうだろ。普通そんなの認めるわけないじゃん。自分から弱み差し出すようなもんだろ」靖は無視した。「すでにD国には人を張らせている」そして、朝陽、怜央、悠白へ視線を向ける。「雲井家だけで対応すると、他の捜索が手薄になる。だから今日来てもらった。人手を貸してほしい」朝陽と悠白は即答で引き受けた。怜央だけは、終始無言。だが誰も気にしない。黙っていても協力する、と勝手に決めつけている。段取りが一通り決まったあと、正道が星を見た。「星。お前と仁志、D国で何をした?なぜレイルが明日香を攫う?」星は答える。「ウィンザー姫が彩香を誘拐したから、助けに行っただけ」翔が冷笑する。「助けただけ、ね。その結果、イーサン王子は死んでる。星、お前わざとだろ?殺しておいて、明日香に罪被せるつもりだったんじゃないのか」その瞬間――「人を殺したのは俺だ」仁志が先に口を開いた。「星は関係ない。それに俺は、レイル国王の前でイーサン王子を殺してる。どうやっても、その罪を明日香に押しつけることはできない」わずかに笑う。「それとも、明日香が裏で何かやったか?息子を殺す以上に、国王の恨みを買うようなことを。そうでもなきゃ、わざわざ明日香を攫う理由がないだろ」翔の目が鋭く光る。「つまりお前らは無関係って顔して高み
今度こそ、星は完全に言葉を失った。「……どうして、わかったの?」仁志は淡々と答える。「さっき、お前は一度周りを見た。その中で、明日香に関わりのある連中のうち――来ていないのは怜央だけだった」一拍置いて、続ける。「それに、少し前に彩香が言ってただろ。お前たちは病院で怜央に会ったって。そのあと、明日香は怜央の見舞いに行って、そのまま行方不明になった」仁志の口元には、相変わらず薄い笑みが浮かんでいる。だがその瞳の奥には、小川の水のように冷たい光が静かに流れていた。「星。怜央が王宮に火を放った理由――ただの恋敵潰しだけじゃないって、お前も薄々気づいてたんだろ」星は何も言えなかった。彼の推測は――自分の考えと、ほとんど同じだったからだ。ほんの一瞬。こんな男のそばにいるのは、恐ろしいことかもしれないと、星は思った。あまりにも頭が切れる。相手の心の中を、一目で見抜いてしまうほどに。その気になれば、彼の前では何一つ隠し通せない。仁志は、じっと彼女を見つめた。「今の怜央って、そんなに気になる存在か?」星は、なぜ彼がそこまで怜央を気にするのか理解できなかった。自分と怜央の関係は、水と油。顔を合わせれば衝突するだけの関係だ。むしろ朝陽や誠一を警戒していると言った方が自然なほどだった。そう思いながらも、彼女は説明する。「違う。ただ――また何か企んでるんじゃないかって思っただけ。あの人、陰湿で容赦ないから……警戒しないわけにはいかないの」その言葉が終わる前に。背後から、低くかすれた声が落ちてきた。「そこ、道塞いでる」振り返ると――怜央が車椅子に座ったまま、無表情でこちらを見ていた。その後ろの秘書は、何度も唾を飲み込み、額にはうっすら汗が浮かんでいる。星は一瞬、黙り込んだ。……さっきの、悪口聞かれた?とはいえ、そこまで気まずさはない。怜央を嫌っていることなど、今さら隠す必要もない。本人の前でも、何度もはっきり言ってきたことだ。星は仁志の腕を引き、脇へ寄った。道を空ける。怜央は何も言わず、そのまま秘書に押されて応接間へ入っていった。仁志は、その背中を見送りながら、黒い瞳をわずかに沈めた。……雲井家の人間は、自分たちの番号が怜央に着信拒否されていると知ると
そのとき、翔の携帯が鳴った。通話に出ると、正道の声が響く。「お前も星も、すぐ戻ってこい。明日香の居場所、手がかりを見つけた」電話を切ると、翔は冷たく言った。「父さんが呼んでる。今すぐ戻れ」「わかった」そう答えたものの、動こうとしない星を見て、翔は眉をひそめる。「わかったなら動けよ。まさか、頼まれないと動けないのか?」星は淡々と返す。「あなたが先に行って。私は自分で帰るから。嫌いな人と一緒にいるのって、普通に気分悪いでしょ」翔はそれ以上何も言わなかった。ここにいても何も得られない。伝えることは伝えた。彼はそのまま立ち去った。場を乱された仁志の機嫌は当然よくない。星は少し気まずさを感じていたが、翔のおかげで多少は紛れていた。「仁志、あなたはここで休んでて。私は一度戻るね」少し間を置いて、付け加える。「……終わったら、また来るから」仁志は即答した。「俺も行く」星が何か言おうとする前に、彼が先に続ける。「明日香が行方不明になった以上、雲井家は手段選ばない。朝陽だけじゃない。怜央も呼ぶはずだ。俺がいれば、連中も好き勝手はできない」星の視線が、彼の負傷した腕へ落ちる。「でも、その腕……」「問題ない。あいつらは俺に手出しできない」少しだけ声を落とし、彼女を見つめた。「それに――お前がいるだろ」星は静かに目を伏せた。結局――断れなかった。……雲井家に戻ると、案の定、客間には人が集まっていた。朝陽と誠一。さらに――志村悠白(しむら ゆうはく)の姿まである。星は彼と何度か面識があった。澄玲との関係もあり、驚きはない。そして澄玲自身も、当然動じていなかった。あと一ヶ月もすれば、彼女は靖と婚約する。星は、心の中で小さく息をつく。周囲を見回して――気づいた。怜央がいない。ついさっき退院したばかりのはずだ。あの男が、明日香の件で来ないはずがない。たとえ両足を折っていようと、這ってでも来る男だ。――それなのに、いない。考え込んでいた星は、仁志が足を止めたことに気づかなかった。ぶつかって、ようやく我に返る。「ごめん」仁志の深い視線が落ちてくる。すべてを見透かすような目だった。「星、誰のこと考えてた?」一瞬、息が詰
優芽利が身を乗り出し、興味津々に尋ねた。「それで?そのあとどうなったの?」語りながら、誠一の目には抑えきれない興奮と敬意が宿っていた。「――Xは、両方のチームのマシンの間を、まるで風みたいにすり抜けたんだ。他の車は一台も、Xの車体に触れることさえできなかった。そして、何より衝撃だったのは......直哉が追いかけたのに、追いつけなかったってことだ!」その場の空気が一瞬張りつめる。明日香はプロレーサーでもある。その親友である優芽利もまた、多少の知識を持っていた。「えっ......森川直哉って、世界でもトップクラスのプロでしょ?そんな人でも敵わない相手が
星の手はまだ少し腫れており、ヴァイオリンを弾くには不便だった。とはいえ、数日ほど練習を休んでも大きな支障はない。その間に、彩香とコンサートの準備について話し合う時間も取れる。星が数日間練習できないと知った仁志は、どこか落胆した様子を見せた。それを見た彩香が、からかうように笑った。「星のヴァイオリンって、そんなに催眠効果があるの?一日聴かないだけで眠れないとか?」軽口のつもりで言ったのだが、仁志は真面目な顔でこくりと頷いた。「星野さんの演奏には、人の心を解きほぐす力があります。一日でも聴けないと、どうにも眠れないんです」彩香は目を瞬かせた。「.....
朝陽は、電話口の父の小言に反論する気にもなれず、「......じゃあ、失礼するよ。デート中に長電話というのも失礼だから」と淡々と告げた。その言葉に、葛西先生もそれ以上は言えず、不満を飲み込みながら通話を切った。電話をしまうと、朝陽は正面の星へと視線を戻す。「星野さん、注文する?それとも......まだ話を?」――話をなどと言っても、どうせまた皮肉の応酬にしかならない。星は涼やかに微笑み、軽く首を振った。「注文しましょう」無駄な口論より、これから始まる本題のほうがよほど楽しみだった。ふたりが料理を選び終えたころ、星のスマホがわずかに震えた。画面を覗くと
星は思わず苦笑をもらした。凛が首を傾げる。「ねえ星ちゃん、絵を売ったときのサインって、本名だったの?」星は首を横に振る。「ううん、違うの。正直言うと......どんな名前を使ったのかも、もう覚えてないわ」影斗が小さく笑った。「星ちゃんのサインはサマーだったはずだ」その言葉に、一同が「なるほど」と頷く中――これまで黙っていた仁志が、何かを考え込むように目を細めた。そのとき、彩香が星の袖を軽く引く。「星、見て。あそこ......あれって、明日香じゃない?」星が視線を向けると、明日香が前方の席へ歩いていくところだった。彩香がぼそりと呟く。「