Mag-log in「ただし、あいつにも条件があるの」朝陽が尋ねた。「どんな条件だ?」明日香は淡々と答える。「星には手を出さないこと」朝陽と明日香は視線を交わし、暗黙の了解でも交わしたかのように、ふっと笑った。星を傷つけるかどうかは、結局のところ――彼女が空気を読めるかどうかにかかっている。朝陽には葛西先生という後ろ盾があり、明日香には星の親族という立場がある。彼らは怜央のように、何でも力でねじ伏せるやり方を好まない。朝陽と明日香が選ぶのは、もっと陰湿で、もっと確実な――策だ。明日香は続けた。「航平は、私と手を組むくせに、心の底では私を見下してるはずよ。でも、それでいいの」その目には冷たい計算が宿っていた。「その方が、あいつは私に警戒しなくなる。今はまだ、あいつから情報を引き出す必要があるわ」一拍置いて、静かに付け加える。「だから、しばらくは航平と正面からぶつかるわけにはいかないの」それはつまり、かつて自分が航平に攫われた件で感情的になって、計画を壊すなという牽制でもあった。朝陽は静かに言う。「安心しろ。そこは分かってる」明日香はうなずいた。「この件は、まだ大勢に知られるべきじゃない。知るのは、私と朝陽だけで十分よ」朝陽も異論はなかった。明日香には協力者が必要だった。いろいろ考えた末、最も適任だと判断したのが朝陽だった。朝陽の医療資源は、星によって奪われ、切り崩されている。今の彼は、星と完全に利害が対立していた。星は、朝陽の利益に手をつけた。だから彼が、このまま黙って引き下がるはずがない。怜央とは違う。朝陽は、たとえ自分を好いてくれていたとしても、そのためにすべてを投げ打つような男ではなかった。彼は常に、自分が許容できる範囲の中でしか動かない。だが今、星は彼の取り分を削っただけではない。奪い、食い込み、大きな損害を与えた。だから彼はもう、星を目の上のたんこぶのように見ている。となれば、朝陽はきっと自分に手を貸す。全力で、星を引きずり下ろしに来る。明日香はさらに言った。「もう父さんとお兄さんには、星を呼び戻すよう頼んであるわ。たぶん、仁志も一緒に来るはず。その時に、少し探りを入れましょう。今の仁志が、どんな状態なのか」朝陽は彼女を見つめ、
朝陽は、その言葉にふっと眉を上げた。「様子がおかしい?どういう意味だ?」明日香は朝陽を見つめ、唇の端に意味深な笑みを浮かべる。「朝陽、溝口家にまつわるあの噂、覚えてるでしょう?」朝陽の目がわずかに揺れる。「……症状は深刻なのか?」「そこまでは分からないわ。接触してた時間は、そこまで長くなかったもの」明日香はそこで言葉を切った。だが、その瞳は妖しく光っている。「でも……たとえ今は深刻じゃなくても、こっち次第で深刻にすることはできる」さらに、ゆっくりと言葉を落とした。「それどころか――狂わせることだってできる」朝陽は彼女を見た。「もう何か考えてるのか?」明日香は、かすかに笑った。「今回、星がいなくなったことで、仁志はかなり打撃を受けてたみたい。朝陽、それが何を意味するか分かる?」朝陽も、鈍い男ではない。その意味を、彼は一瞬で理解した。「だが、今の星は簡単に手を出せる相手じゃない。一度拉致された以上、次は相当警戒するはずだ。しかも俺の調べじゃ、今は仁志が毎日ぴったり張り付いてる。もう一度攫うなんて、ほとんど無理だろう」明日香の笑みはさらに深くなる。「別に、星を攫う必要なんてないわ」彼女は落ち着き払っていた。「仁志に、星にまた何かあったって思い込ませれば、それで十分」朝陽は言った。「でも、あの男をそう簡単に騙せるか?」明日香は一切動じない。「平常時の仁志を騙すのは難しいわ。でも、心が乱れてる時なら話は別。こっちが繰り返し刺激を与えて、精神を揺さぶれば、成功する可能性は高くなる」朝陽は眉を寄せる。「話としては悪くない。だが実行は簡単じゃないな。たとえ状態に問題があるとしても、継続的に刺激を与えるのは難しい。仁志も、星も馬鹿じゃない。そんな状況を放っておくわけがない」明日香の視線は、どこか遠くを見ていた。「ただ刺激するだけなんて、一番馬鹿なやり方よ」その声は静かだったが、冷えていた。「いちばん効く刺激は、まず幸せを味わわせて、それから、いちばん幸せな瞬間に崖から突き落とすこと」朝陽は黙って聞いている。明日香はさらに続ける。「あれだけの落差を食らえば、仁志みたいに精神疾患の素因がある人間ならもちろん、普通の人間だって耐えられないはずよ」そ
翔はさらに問いかけた。「それ以外に、仁志が自分を攫ったって直接証明できるものはあるのか?」明日香は口を開きかけた。頭の中に、あの屈辱的な出来事の数々が次々とよみがえる。だが、その瞬間――彼女は気づいてしまった。自分には、何ひとつ決定的な証拠がない。自分の証言だけでは、証拠にはならない。それはまるで、あの時、星が怜央に攫われたと訴えても――そこまで思い至った瞬間、明日香は一度きょとんとした。そして次の瞬間、突然笑い出した。その笑い声に、雲井家の父子三人は面食らう。全員が呆然と、彼女を見つめた。正道が心配そうに声をかける。「明日香……大丈夫か?」そう言うや否や、彼は振り返って外へ向かって声を張り上げた。「先生!誰か来てくれ!」この時の彼は、明日香が本当に精神をやられてしまったのではないかと、本気で疑い始めていた。明日香は、ほどなくして笑うのをやめた。そして正道を見て、ぽつりと言う。「仁志は、星のためなら本当に何でもするのね」その目は、どこか空虚だった。「あの時、星が怜央に攫われた時、怜央はわざと自分じゃないって認めなかった。だから今度は、仁志が私を攫って、星の代わりに復讐したのよ」翔は、冷えきった目で妹を見つめていた。その眼差しは深い。目の前にいるこの妹が、急にひどく知らない人間のように思えた。星が大きく変わったように、明日香もまた負けていない。この二度の出来事が、彼女の内側を根こそぎ変えてしまったのだ。結局、はっきりした証拠は何も出てこなかった。しかも雲井家は、これまでにも仁志相手に散々苦杯をなめてきている。この件は、ひとまず保留にするしかなかった。部屋を出る前、翔は最後にもう一度だけ振り返る。明日香はベッドにもたれたまま、無表情で窓の外を見つめていた。なぜだろう。翔は強く感じていた。――今回のことを、彼女は絶対にこのままでは終わらせない。……翌日。朝陽が雲井家を訪れ、明日香の見舞いにやって来た。メコン・デルタでの一件については、綾羽からすでに聞いている。多少の引っかかりはあったものの、M国で生まれ育ち、新しい価値観の中で育った彼にとって、それは致命的なことではなかった。むしろ、明日香が見せた冷静さ、決断力、そ
雲井家の父子三人は、互いに顔を見合わせた。だが、それぞれの表情に驚きはない。星が姿を消して間もなく、今度は明日香まで失踪した。犯人が仁志である可能性は、もともと高かったのだ。とはいえ、疑いはあっても証拠はない。それは、仁志が星の失踪に明日香が関わっていると疑っていても、証拠がなければ彼女をどうにもできなかったのと同じことだった。靖が口を開く。「明日香、攫われてから何があったのか、詳しく話してくれないか?」明日香は、もともと感情を顔に出さない女だった。いつだって高貴で、優雅で、取り乱すことなどない。だが今の彼女の目には、底知れない怨毒が浮かんでいた。「仁志は、ずっと私に星の居場所を吐けって迫ってきたの」その声はかすれていたが、憎しみだけははっきりと滲んでいる。「知らないって言ったら、拷問されたわ」明日香は唇を噛みしめる。「鎖で手足を縛られて、それから、どこからか集めてきた医者たちに毎日電気を流された。何度も気を失ったけど、そのたびに冷たい水を浴びせられて、また続けられたの……!」そこまで言うと、明日香は全身を震わせた。目には抑えきれない憎悪が燃えている。メコン・デルタにいたときも、彼女は身体こそ奪われたが、肉体的な苦痛はそこまで受けていなかった。虎の餌になりかけたことはあっても、あれは最終的には自分で選んだ結果だった。だが今回は違う。これほどの屈辱を与えられたのは、生まれて初めてだった。それを聞いた靖は、怒りで顔を歪める。「仁志、やりすぎだ!」思わず声を荒げた。「明日香を攫っただけじゃなく、電気まで流すなんて!」そしてすぐに正道へ向き直る。「父さん、たとえ相手が溝口家の当主だろうと、今回は絶対に報いを受けさせるべきだ!でなければ、雲井家なんて誰にでも攫えて、好き勝手に扱える家だと思われる」さらに勢いづく。「今なら、前に明日香がメコン・デルタに攫われた件にも、仁志が関わっていたと考える理由は十分ある」仁志は、星にとって最大の後ろ盾だった。ただの参謀ではない。雲井家に匹敵するだけの背景と勢力も持っている。今すぐ雲井家そのものをどうこうできるわけではなくても、靖はすでに調べていた。仁志は着々と産業移転を進めている。もし溝口家がM国に根を下ろ
「仁志、実は私と怜央のあいだには、何も――」最後まで言い切る前に、仁志が彼女の手を握った。その指先に、星も反射的に力を込める。彼は一瞬で、星が何を誤解したのか悟ったのだろう。仁志は彼女を見つめた。黒い瞳は深い淵のようで、その奥にははっきりと星の姿が映っていた。「星」低い声で、ゆっくりと言う。「そのことを気にして、一緒に寝たくないわけじゃない……本当は、すごくそうしたい」彼は無意識に眉間を揉んだ。「でも、今はだめなんだ」星は黙って彼を見つめている。仁志は視線を落とし、さらに続けた。「頭の症状が、また出始めてるのかもしれない。お前に近づきすぎるのは危ない」その声はかすかに掠れていた。「感情が制御できなくなって、お前を傷つけるのが怖い」本当なら、同じ部屋で過ごすことすら避けた方がいいのかもしれない。彼自身、それは分かっていた。できるだけ距離を取るべきだと。離れた方がいいのだと。けれど、少しでも彼女の姿が見えなくなると、心がひどくざわついた。落ち着かない。焦る。どうしようもなく、胸の内が騒がしくなる。たとえ数分でも、離れていることに耐えられなかった。だからこそ、星に一緒に寝ようと誘われたとき――彼は理性を手放して、そのまま頷きそうになった。けれど、それはできない。自分の欲のために、彼女の安全を賭けるわけにはいかなかった。もう二度と、彼女を傷つけたくなかったのだ。星はただ黙って、そんな仁志を見つめていた。胸の奥が、苦しく詰まっていく。彼は自分の状態がここまで危ういのに、それでもなお真っ先に彼女のことを考えている。星はそっと手を伸ばし、彼の指のあいだに自分の指を滑り込ませた。そして、十本の指を絡める。「仁志」やわらかな声だった。「一緒に、この病気を治そう」仁志も、その手を握り返した。「……うん」……数日後。星は一度、雲井家へ戻り、雲井家の面々と顔を合わせた。拉致された件について、彼女は多くを語らなかった。どうせ雲井家の人間たちは、本気でそのことを心配してなどいないのだから。適当に理由をつけてごまかしても、誰も深く追及してこない。一か月姿を消していたとはいえ、星は実質的に何も失ってはいなかった。雲井グループ内の
夜は深く更けていた。星は、何度も繰り返される小さな呼びかけで目を覚ました。「星……星……」最初は、仁志が自分を呼んでいるのだと思った。けれど目を開けると、彼は相変わらず床で眠ったままだった。薄絹のようなカーテン越しに、月の光が銀色の膜のように差し込んでいる。星はベッドを下り、枕元の小さなナイトランプを灯した。仁志はずっと寝言を漏らしていた。眠りは浅く不安定で、額には細かな汗がにじんでいる。眉間には深い皺が寄り、何か恐ろしい夢でも見ているようだった。星は慌てて彼を起こそうとする。「仁志、起きて……早く起きて……」何度呼びかけても、なかなか目を覚まさない。普段の仁志は、誰よりも警戒心が強い。これだけ呼んでも起きないなんて、ありえないことだった。どうしたらいいのかと考えかけた、そのとき――ようやく仁志が目を開けた。星はほっと息をつく。そばにあったティッシュを手に取り、やさしく彼の額の汗を拭った。「仁志、怖い夢を見たの?」橙色の灯りに照らされた彼女の瞳は、暗闇を照らすやわらかな光のようだった。仁志の散っていた焦点が、少しずつ戻っていく。次の瞬間、彼は勢いよく身を起こし、星を強く抱きしめた。乱れた鼓動が、静かな夜の中でやけにはっきり伝わってくる。体はわずかに震え、呼吸もまだ荒い。星は静かに問いかける。「仁志、何の夢を見たの?」しばらくしてから、彼は掠れた声で答えた。「……お前を失う夢だ」その声は低く、か細かった。「ずっと探してたのに、どこにもいなくて……何をしても見つからなかった」星は胸が痛んだ。彼の背をそっと撫でながら、やさしくなだめる。「仁志、夢は夢よ。本当じゃない」その声に包まれるように、仁志の呼吸も少しずつ落ち着いていった。星は立ち上がり、水を一杯注いで戻る。仁志はそれを受け取って数口飲み、ようやく完全に平静を取り戻した。「星、悪かった。睡眠を邪魔したな」星は軽く首を振った。そして、輪郭の整った彼の横顔を見つめながら、低い声で言う。「仁志。美咲と、治療の方針はもう確認したの。あなたの主治医のチームで評価が終わったら、治療を始めたいと思ってる。……いい?」仁志は少しだけ黙った。それから静かに答える。「……うん。しばら
浩太の失踪――それがいったい、星とどう関係しているというのか。星には、揺るぎないアリバイがあった。小林夫妻は、「星が浩太を誘拐した」と頑なに主張する。だが星も、一歩も引かない。むしろ浩太の両親こそ、責任を逃れるために、わざと息子をどこかに隠して、自分たちの前で芝居を打っているんじゃないかと。そのとき、雅臣が静かに口を開いた。「星から伺いましたが、小林家と雲井家は、代々のお付き合いだそうですね。それなのに浩太さんは、こんな下劣な真似をしました。挙げ句の果てには動画まで撮って、星をゆすろうとしていました。この件について、小林家として星にきちんと筋の通った説明をしていただ
優芽利は一瞬、言葉を失い、思わず口にした。「兄さん、何か誤解しているんじゃない?仁志とは無関係でしょう。恨みもないのに、どうして兄さんを狙うの?」怜央の声は、まるで歯の隙間から絞り出されるようだった。「......あいつは、星のためにやった」「星のため?」優芽利はそれを聞いて、かえって笑った。「兄さん、それは本当に誤解だと思うわ。少し前に、彼の一族で問題が起きて、仁志は急いで戻って対応していたの。溝口家の周辺にいる人たちから聞いたけど、ここ二、三日でようやく騒動が収まったばかり。そんな状況で、兄さんのところに来る余裕なんてあるはずがないわ。それに
「私は母のお腹から生まれた娘よ。それのどこに恥じるところがあるの?言いたいなら、どうぞ言えばいいわ。令嬢なんて虚名にすぎないもの。そんなつまらない称号のために、実の母を否定したりしないわ」怜央がこんな言葉を聞いたのは、生まれて初めてだった。そのとき、どう返すべきかすら分からなかった。彼は当然、明日香が名誉を最も重んじると思っていた。だが明日香は、それをまるで意に介していなかった。明日香は続けた。「さっき叔父さんと話していた内容、あなたも聞いていたでしょう。私の母は、父の命を救った人よ。父は記憶を失ったあと、母と恋に落ちたの。母は、父に家庭があ
国際大会が始まる前から、どうやら雅臣によってどこかへ送られ、合宿と称した訓練を受けていたらしい。訓練とは名ばかりで、実際には翔太を厳重に守るための措置だった。合宿というのは、外向けの言い訳に過ぎない。怜央は冷笑した。「やはりな。明日香を陥れるために、あの二人は前もって準備していたわけだ」朝陽はため息をついた。「怜央、明日香はあの子のことが本当に好きなんだ。もしお前があの子を利用するような真似をしたら、明日香はお前を恨むぞ」朝陽も、利用できるものは利用したいと思っていたが、それでも幼い子どもを標的にするほど、心が荒みきっているわけではなかった。葛西家で育ち







