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第124話

Author: かおる
「何の騒ぎだ」

低く冷ややかな声が病室に響き、清子の火傷した手を目にした瞬間、その声は途切れた。

雅臣は大股で歩み寄り、傍らにいた星を思わず押しのける。

「清子、大丈夫か」

一晩中眠らず、何も口にせず、翔太を案じ続けていた星の体は限界に近かった。

不意に押された拍子に踏ん張れず、背後の机に腰を打ちつけて転倒を免れた。

清子の手には、火傷で水ぶくれが浮かび上がっていた。

今度ばかりは演技ではない。

本当に痛みに耐えきれず、涙をこぼしていた。

「雅臣......私、星野さんを怒らせるようなことをした覚えはないのに、突然お粥をかけられて......」

そのとき初めて、雅臣の視線が星に向く。

蒼白な顔、徹夜の疲労でやつれきった頬。

一瞬だけ動揺を見せたが、すぐにその表情は冷えきったものに変わった。

「星......また何の騒ぎを起こしてるんだ?」

腰の痛みにめまいすら覚え、言葉が出ない星。

一方で、清子は涙に濡れた顔で訴える。

「きっと、昨日のことをまだ恨んでいるんだと思うの、ごめんなさい、全部私が悪いの。

翔太くんを危険にさらしたのも、私のせい......」

「ナッツは翔太くんが食べられないとわかっていたから、星野さんなら絶対に手をつけないと思ったのに......」

そう言って、彼女は立ち上がると星に向かってひざまずこうとした。

「星野さん、どうか私を罰して。

なんでも受けるから」

「やめろ!」

雅臣は彼女の肩を押さえ、冷ややかな声を放つ。

「清子おばさんのせいじゃない!」

翔太も慌てて叫んだ。

「僕たちだって知らなかったんだ、ケーキにナッツが入ってるなんて!

あれはお母さんが頼んだテーブルのケーキで、清子おばさんがわざと選んだわけじゃない!

お母さんがナッツのケーキを頼まなければ、僕は間違って食べたりしなかった!」

ようやく落ち着きかけていた腰の痛みが、翔太の言葉に再び鋭く蘇る。

――一晩中そばで必死に看病した、この子が。

今は目の前の女を気遣い、必死にかばっている。

星は愕然と息子を見つめた。

翔太の視線はただ清子だけを追い、心配と不安でいっぱいになっている。

そして雅臣もまた、強く眉をひそめ、険しい顔で清子を守るように立っている。

――誰ひとりとして、自分の痛みを気遣わない。

声をかける者さえい
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