Masuk綾羽の顔色が変わった。「自分から出たの?明日香、正気なの?あそこは本当に死ぬ場所よ!」明日香は静かに答える。「自分から出なければ、もう少し長く生きられたかもしれない。でも、あの兄弟に飽きられたら……結局は同じように死ぬだけ。だったら、賭けに出たほうがいいと思ったの」淡々とした声だった。「……ああいう、常に死と隣り合わせで生きてきた人間はね、弱肉強食とか、強い者が正しいっていう考えを、誰よりも信じてる。女たちを玩具や娯楽として扱うのも、根本では見下してるからよ。その認識を変えられなければ――私も同じ結末になるだけだった」その言葉に、綾羽は思わず息を呑んだ。理屈は、痛いほど理解できたからだ。「それで……どうなったの?」明日香の瞳に、わずかな冷笑が浮かぶ。「連れて来られて間もなかったから、多少は興味を持たれていたの。最初は断られたけど……何度も食い下がったら、最後は認められたわ」一拍置いて。「護身用に拳銃も渡された」その興味すら、明日香がこれまで積み上げてきたすべてを使って、ようやく引き出したものだった。弟は慢性的な不眠を抱えていた。かつて調香師だった彼女は、特別に調合した安眠の香りを与えた。兄は違法薬物の調合を好んでいた。理系の素養を持つ彼女は、それを少し改良してみせた。――自分の価値を、ほんのわずか見せる。それだけで、ひとまず命は繋がった。だが明日香は理解していた。それも、ただの延命措置に過ぎない。宮崎兄弟にとって彼女は、あくまで「少し面白い玩具」殺されなくても、いずれは商品として他の男に回される可能性すらあった。――だから。「手放したくない」と思わせる必要があった。兄弟は下層から這い上がってきた人間。怜央や朝陽に通用したやり方は、ここでは意味を持たない。もう、上から見下ろすことはできない。生きるためには――自分を下げるしかなかった。かつての誇りは、媚びることも、屈することも許さなかった。だが命の前では、そんなものは何の価値もない。一歩踏み出してしまえば――思っていたほど難しくはなかった。すべてを捨てたとき、明日香は悟った。男を支配するには、柔と剛を使い分けるしかない。かつて自分がしていたやり方など――今思えば、あまりにも幼稚だった。
明日香はゆっくりと意識を取り戻し、視線を横に向けて綾羽を見た。「綾羽……来てくれたのね」その一瞥に、綾羽は違和感を覚えた。――何かが違う。かつての明日香は、気高く、近寄りがたいほどに整った美しさを持っていた。だが今は――明らかに変わっている。メコン・デルタから戻ってきたのだから、変化があって当然だ。それでも、想像していたような動揺や崩れは見当たらない。むしろ――異様なほど落ち着いていた。その瞳は、以前よりもずっと深く、薄い霧に覆われたように感情が読めない。そして何より――その仕草の一つひとつに、どこか艶やかで、人を惹きつける色気が滲んでいる。それは、以前の彼女にはなかったものだ。綾羽は、明日香が過ごした三ヶ月を思い出し、ほとんど瞬時に――何があったのかを察した。若く、美しく、そして特別な存在である彼女が、あの場所で無事でいられるはずがない。本当は、聞くつもりだった。だが――その想像に至った瞬間、言葉が喉で止まった。――聞けない。そんな綾羽の心を見透かしたように、明日香が淡々と口を開く。「私たち、長年の親友でしょう?聞きたいことがあるなら、遠慮しなくていいわ」以前なら、迷わず聞いていたはずだ。だが今は違う。目の前の明日香に、説明のつかない畏れのようなものを感じていた。彼女の纏う空気は、以前よりも鋭く、強くなっている。かつてが高嶺の花だとすれば――今の彼女は、地上へ引きずり下ろされた王。純粋さが削がれた代わりに、圧倒的な存在感と威圧を手に入れていた。綾羽は胸の奥の好奇心を抑えきれず、静かに問いかける。「明日香……この三ヶ月、メコン・デルタで……何があったの?」明日香はゆっくりと身体を起こし、語り始めた。最初に連れて行かれた頃は、不安こそあったが、まだ安全だった。だが――悪夢は、宮崎兄弟のもとに送られてから始まった。その声は穏やかで、まるで他人の話をしているかのように淡々としている。「あの兄弟は、人を殺すことに躊躇がないだけじゃない。完全な異常者よ。女が苦しむ姿を見るのが好きで、残酷で血なまぐさい見世物をよく用意していたわ」その場にいた女たちの中で、明日香の容姿と気質は群を抜いていた。だから――送られた初日の夜、すぐに目をつけられた。そして、
靖は違和感を覚えながらも、相手の縄張りで強硬手段に出るべきではないと理解していた。そこで別の策を講じ、密かに明日香と連絡を取り、内外から連携して――ようやく彼女を救い出したのだった。その話になると、靖の表情は一気に冷え込む。「宮崎兄弟は、メコン・デルタでは王様気取りだ。懐柔も脅しも一切通じない。明日香が雲井家の人間だと分かっていて、あえて手放さなかった……完全に、こちらを舐めている」翔が低く問う。「それで……最後はどうやって助け出した?」靖はベッドの上の明日香に視線を向けた。彼女はまだ昏睡したままだ。小さく息を吐き、静かに答える。「明日香が、兄弟の一人を刺して、屋敷に火を放った。その混乱に乗じて、こちらの迎えと合流し、脱出した」その言葉に、翔は息を詰まらせた。火を放ち、人を刺す――どれほど追い詰められていたのか、想像するまでもない。思わず問いかける。「メコン・デルタで……一体、何があった?」靖は顔を曇らせ、口を閉ざした。――どう説明すればいい。名家の令嬢である明日香が、宮崎兄弟に玩具のように扱われていたなどと。その時、診察を終えた医師が口を開いた。「靖様、明日香様の身体に施された刺青ですが……特殊な染料が使われており、完全に除去するのは難しいかもしれません」その一言で、正道と靖の顔色が一気に沈む。星は思わず明日香を見た。――刺青?その疑問を、忠がそのまま口にした。「刺青って……なんだよ?」靖は怒りを押し殺しきれず、声を荒げた。「宮崎兄弟は明日香を裏庭に放り込んだ。そこには奴らが飼っている猛獣がいる。明日香は……危うく食い殺されるところだった……!」拳を握りしめる。「命は取り留めたが、全身に傷が残った。それを見て、あいつらは――その傷の上に、下品な刺青を刻ませたんだ!」名家の令嬢の身体に、本来あってはならないもの。それも広範囲に及ぶ、消すことのできない刻印。――将来、どうやって縁談をまとめるというのか。靖の声が大きくなりすぎたのか、眠っていた明日香がわずかに眉を寄せた。それを見て、正道が静かに言う。「明日香を休ませよう。話は外で」誰も異論はなく、全員が会議室へ移動した。――しばらくして、知らせを受けた綾羽が駆けつけた。ベッドに
明日香の失踪もあり、今年の星の誕生日は控えめなものになった。今回は大勢の友人を招かず、仁志と二人きりで、静かなキャンドルディナーを過ごした。星は例年通り、自分の誕生日に、昨年用意していたプレゼントを仁志に渡した。彩香や奏たちも、この日に祝福の言葉を送り、プレゼントは彩香を通じて届けられていた。レストランで、仁志がプレゼントを渡した直後――星の携帯が鳴る。着信表示を見た瞬間、彼女の目がわずかに沈んだ。――正道だ。星は通話を取る。「父さん」受話器の向こうから、落ち着いた声が返ってきた。「星、まだ外で誕生日を過ごしているのか?」「うん。父さん、どうした?」「明日香が見つかった。時間があるときでいい、一度戻ってこられるか?」その知らせを聞いても、星は驚かなかった。むしろ、思ったより時間がかかったと感じたほどだ。「分かった。すぐ戻るわ」電話を切り、仁志に向き直る。「仁志、明日香が見つかった」仁志は眉を上げた。「やっとか?」星は静かに頷く。「一度戻らないといけないわ」こういう場面で、彼女は雲井家に隙を見せるつもりはない。仁志は言った。「先に食事を終えよう。俺も一緒に行く」「うん」食事を終えた二人は、そのまま雲井家へ向かった。――屋敷に戻ると、星は朝陽たちも集まっていると思っていた。だが、そこにいたのは雲井家の人間だけだった。忠はソファにもたれ、あくびをしている。まだ酒が抜けきっていない様子だ。靖は険しい表情で、家庭医と何かを話している。正道は星を見ると、小さく息をついた。「星、戻ったか」その後ろに立つ仁志に視線を向け、軽くうなずく。それだけで挨拶は済んだ。一方、翔は星を一瞥したあと、何も言わず視線を逸らし、明日香へと意識を向けた。星の長い睫毛が、わずかに揺れる。――以前なら、理由も聞かずに彼女を責めていたはずだ。今日は何も言わない。それはつまり――彼らの計画が、少しずつ効き始めている証拠かもしれない。星も視線を移す。ベッドの上で、明日香は眠っていた。以前よりも痩せ、眉間には疲れがにじんでいる。正道と靖の会話から、星はおおよその経緯を把握した。最初の捜索のタイミングを逃したことで、雲井家は三ヶ月もの時間をかけて、よ
これまでずっと誰かに駒のように扱われてきたせいで、忠は雲井家の人間すべてに、等しく恨みを抱いていた。翔との関係も、もはや昔のようではない。彼はほとんど、雲井家のことに関わろうとしなくなっていた。明日香の失踪にも、まるで興味を示さない。翔は彼の前に立ち、低く言った。「忠、ちょっと来い。話がある」忠は酔いで霞んだ目を持ち上げる。「……なんだよ、明日にしてくれ。飲んでんのに邪魔すんな」翔は拒否など意に介さず、そのまま腕を掴み、半ば引きずるようにして人気のない個室へ連れて行った。そして何も言わず、頭を押さえつけると、蛇口の下で一気に水を浴びせる。「うわっ、やめろって――!」忠は叫び続け、やがて観念した。「わかった、わかった!話すから!だから乱暴すんなって!」翔は淡々と問いかける。「忠、頭は冷えたか?」忠は顔の水を拭いながら答えた。「冷えた冷えた。もういいだろ」翔はようやく手を放し、タオルを投げてやる。忠はそれで顔を拭きながら、不満げにぼやいた。「で、何の用だよ?まさか明日香が見つかったとか?先に言っとくけどな、また星に罪なすりつける気なら、俺はもう関わらねえからな。仁志あのイカれたやつに目つけられたら、損すんのは俺だけなんだよ」翔はその愚痴を完全に無視した。「忠……母さんがあの時、俺たちを置いて出て行った本当の理由、知ってるか?」忠は気にも留めない様子で肩をすくめる。「は?なんだよそれ。親父と喧嘩して拗ねて出てっただけだろ」――そう。これまでずっと、二人はそう思っていた。夜は父に腹を立てて家を出たのだと。命の恩人の娘を受け入れられず、記憶喪失の間に父が犯した過ちも許せなかった。だから明日香を雲井家に入れさせないために、三兄弟を捨てて去ったのだと。母の愛を知らずに育った彼らは、両親の意地の張り合いの犠牲だった。彼女は自分のことしか考えず、子どもたちの気持ちなど顧みなかった――翔は拳を強く握りしめた。「違う……そんな単純な話じゃない!」低く震える声だった。「当時、明日香の母親は父を助けたあと、匿って、夫婦だと偽った。その後、母さんが父を見つけても、責めなかった。それどころか、あの女に補償しようとしたんだ。だが、あの女は欲が深すぎた。母さんの結婚まで
翌日、彩香が書類を届けに星のもとを訪れると、彼女が首にスカーフを巻き、口紅もいつになく鮮やかな赤を引いているのに気づいた。前夜、彩香は用事があって雲井家に戻らず、外で一泊していた。そのため朝は、星と一緒に出社していなかった。長年の親友である二人は、お互いの服装の癖も、好みも、よく知っている。星は普段、派手な色の口紅をあまり好まない。その変化に気づいた彩香は、しばらく反応できなかった。彼女はスカーフをじっと見ながら言う。「星、あんたスカーフ嫌いじゃなかった?今日はどうしたの?」そして、小声で続けた。「もしかして、そのスカーフに何か意味でもあるの?それとも……仁志からのプレゼント?いや、でも仁志も、あんたがスカーフ嫌いなの知ってるはずよね?」視線を向けられた星は、どこか落ち着かない様子で目を逸らした。すぐに話題を変える。「彩香、コーヒー淹れてくれる?」「うん、わかった」そう言って立ち去ろうとした瞬間、彩香の視線が星の首元をかすめた。そこに、うっすら赤い痕が見えた。彼女の表情が変わる。すぐに引き返した。「星、ケガしたの?」「……彩香、ケガじゃないから」突然スカーフを巻き、さらに言葉まで濁す。彩香は、まったく納得しなかった。足早に近づき、真剣な顔で言う。「星、仕事も大事だけど、体も大事なんだからね。忙しいからって無理してない?小さいケガでも放っておいちゃダメなんだから」「……」数秒の沈黙のあと、星は言った。「彩香、あんた……そろそろ彼氏作ったほうがいいと思う」彩香はまだ理解していない。「は?私はあんな男どもに時間も労力も使う気ないけど……って、それと何の関係があるの?」星は複雑そうな顔で、彼女を見つめた。しばらく見つめ合ったあと、彩香はようやく察した。顔が一気に赤くなり、気まずそうに咳払いする。「……あー、その、コーヒー淹れてくるね」なるほど、ケガじゃなくて――そういうことか。それにしても……昨日、そんなに激しかったの?いや、それより。あの二人、結婚のことで揉めたんじゃなかったの?彩香の中で、好奇心が一気に膨らむ。足を止め、思わず振り返った。「星、仁志、またあんたに丸め込まれたの?」星の表情はやわらかい。「うん。待ってくれる
優芽利は一瞬、言葉を失い、思わず口にした。「兄さん、何か誤解しているんじゃない?仁志とは無関係でしょう。恨みもないのに、どうして兄さんを狙うの?」怜央の声は、まるで歯の隙間から絞り出されるようだった。「......あいつは、星のためにやった」「星のため?」優芽利はそれを聞いて、かえって笑った。「兄さん、それは本当に誤解だと思うわ。少し前に、彼の一族で問題が起きて、仁志は急いで戻って対応していたの。溝口家の周辺にいる人たちから聞いたけど、ここ二、三日でようやく騒動が収まったばかり。そんな状況で、兄さんのところに来る余裕なんてあるはずがないわ。それに
葛西先生は、重く息をついた。「......分かった」本来であれば、星の状態は、まず家族に伝えるべき内容だ。だが、この場にいるのは、皆、彼女の友人たちだった。雅臣については――もはや元夫であり、家族とは言えない。この状況で、星にだけ事実を伏せるのは、かえって失礼に当たる。葛西先生は、もう一度、ため息をついた。「......そうだな」彼の医術に、疑いの余地はない。治せると言ったものは、必ず治す。治せないと言ったものは、ほとんど望みがない。葛西先生は、静かに告げた。「星。ワシが保証できるのは、両手が元の形に戻り、骨が変形せず、雨の日でも痛まない
国際大会を前に、彩香は一度、仁志の自宅を訪ねた。しかし家には誰もおらず、留守のままだった。彩香はそのことを星に伝えた。「星、かなり長いことドアを叩いたのに、返事がなかったの。仁志、ずっと帰ってないみたい。......まさか、挨拶もせずに行っちゃったんじゃないでしょうね?管理人さんにも聞いたけど、仁志はおとといの早朝に出ていったきり、戻ってきてないって」彩香は、もう一度仁志を引き留めるつもりで来ていた。まさか、こんなふうにいなくなるとは思わなかった。星は言った。「記憶が戻ったばかりで、向こうでやらなきゃいけないことが沢山あるんだと思う。だから急いで帰っ
仁志の反応を見た優芽利の胸中には、静かな不満が湧き上がっていた。――星の前では、わざと距離を置こうとしているのでは?いつだって、星がいる場面では、自分の優先順位が下がるのだ。星は視線をそらし、問いかけた。「犯人は捕まったの?」靖の表情はひどく重かった。「いや。司馬さんが明日香を病院に運ぶので精一杯で、犯人を追う余裕がなかったんだ」そこへ、朝陽が口を開いた。「俺が犯人を捜そうとした時には、すでに影も形もなかった」彼は星を正面から見つめ、意味ありげに言った。「監視カメラにも一切映っていなかった。誰かが意図的に、犯人の痕跡を消したんだ」星は眉を寄せ







