LOGIN――雅臣の初恋と息子を同時にさらうなど、正気の沙汰ではない。これほどの相手に手を出すなら、完璧な準備をしていなければ命がいくつあっても足りない。仁志は、そのあいだずっと黙って座っていた。余計な口を挟むことも、立ち去る素振りも見せず、ただ静かに。疑われる隙を一切与えないよう、慎重に振る舞っていた。さらに二時間ほど経ったころ、ようやく電話が鳴る。「神谷さん、金は揃ったか?」「用意できている」「いいだろう。三十分以内に、元妻に金を持たせて指定の場所まで来させろ。いいか、来るのは彼女一人だけだ。もし、約束を守らなかったら、一人殺す。彼女に一人で来る勇気がないなら、もう身代金を持ってくる必要もない」室内に重い沈黙が落ちた。星が、毅然とした声で口を開く。「いいわ。ただし、二人が無事かどうか、今すぐ確認させて」「当然だ」次の瞬間、スマホにビデオ通話が届いた。映像の中には、椅子に縛られた翔太と清子の姿があった。翔太の目は真っ赤に腫れており、泣きはらしたことが一目で分かる。だが幸い、外傷は見当たらなかった。問題は清子だった。髪は乱れ、頬は大きく腫れ上がり、血と埃が頬を汚している。見るも痛ましい姿だった。「ほら、挨拶でもしてやれ」と、男の声。翔太はまだ幼く、こんな事件など経験したことがない。怯えに震えながら、か細い声を絞り出した。「パパ......助けて......」清子は顔を上げようとしたが、涙が先にこぼれた。何かを言おうとしても、喉が詰まって言葉にならない。雅臣の瞳が鋭く光る。「恨みがあるなら、俺を狙え。女や子どもを巻き込むとは、卑怯だな」「俺だってお前を狙いたいさ」変声機の向こうで、男が歪んだ笑いを漏らす。「でもお前は警備が厳重すぎて手が出せねえ。だから、まずは弱い方からだ」「......」雅臣は言葉を失った。そのとき、星が立ち上がる。「もういい。これ以上時間を無駄にする気はないわ。今すぐ行く」その声を聞いた瞬間、翔太の瞳がぱっと輝いた。涙が溢れ、声にならない嗚咽が漏れる。「......ママ!」生死の境にある恐怖の中で、彼の心に浮かんだのは母の顔だった。これまで鬱陶しいと思っていた母の姿――
雅臣は、綾子の理不尽な言葉に、こめかみを押さえるようにして低く言った。「母さん、もういい。上に行って休んでて」それを合図に、雨音がすぐに彼女の腕を取り、強引に階段の方へ導いた。「お母さん、ここはお兄ちゃんに任せて。きっとうまくやってくれるから」――母が感情的なのは仕方ない。けれど、娘の雨音は冷静だった。星は翔太の実母であり、しかも今は葛西先生という強力な後ろ盾がいる。その彼女と敵対するのは、得策ではない――そう理解していたのだ。綾子が退室すると、重苦しい空気が少し和らぎ、屋敷のリビングに静寂が戻った。航平の視線が、ようやく仁志の方へと向く。彼はずっと無言だったが、存在感の薄さとは裏腹に、どこか周囲の空気を変えるものを纏っていた。「こちらの方は......?」星は考えごとに沈んだまま、短く答える。「......ただの友人よ」彼女がそれ以上語る気がないと察して、航平も深く追及しなかった。話題はすぐに翔太の拉致事件へと戻る。犯人の目的が金なのか、怨恨なのか――全員が推測を巡らせていた、そのとき。――着信音が鳴り響いた。雅臣がスマホを取り出す。画面に表示されたのは、登録のない番号。一瞬、眉がわずかに動く。星を一瞥してから、彼は通話ボタンを押し、スピーカーモードに切り替えた。「......神谷雅臣。お前の息子と――初恋の女、今俺が預かってる」変声機を通した、くぐもった声。聞く者の背筋を冷たく撫でていくような、歪んだ響きだった。「通報なんてしたら、どうなるか分かるだろう?人質は一人いれば十分だ、どちらか殺しても構わない」雅臣の声は低く、沈着だった。「分かった。警察には通報しない」彼と航平の実力を考えれば、警察の介入がなくとも対処は可能だ。相手は笑ったような息を漏らし、続けた。「身代金は一人二十億。金と人を同時に交換する。――それから、取引には元妻を来させろ。変な真似をすれば......その時は容赦しない」言い終えると同時に、通話が切れた。沈黙が落ちたリビング。そこに、航平の低い声が落ちる。「今すぐ、発信源を特定させる」そう言って素早く別の電話をかける。雅臣の視線が、星へと向かった。彼女はわずかに頷
電話の向こうで、影斗の低く落ち着いた声が響いた。「心配するな。すぐに探させる」その声には、不思議と安心させるような温かみがあった。すぐそばでその様子を見ていた雅臣は、眉をわずかに動かしたが、結局、何も言わずに見守った。通話を終えた星は、続けて葛西先生にも電話をかける。事情を聞いた葛西先生はすぐさま部下に対応を指示し、手配を進めるよう命じた。一方、澄玲たちには連絡をしなかった。彼女たちはS市の外に拠点を置いており、この件では力になれないだろうと判断したのだ。何本もの電話をかけ終えたあとでも、星の顔色は晴れなかった。ハンドルを握る雅臣は、ルームミラー越しに仁志へと視線を送る。「――その男を一緒に連れて行って、本当に大丈夫なのか」その言葉の裏にある意図を、星はすぐに悟った。「問題ないわ。彼、いまは携帯も持っていないもの」つまり、もし彼が意図的に近づいてきたとしても、外部へ情報を流す術はないということだ。星は完全に警戒を解いたわけではなかった。雅臣はそれ以上何も言わず、車を走らせた。やがて車は、神谷家の古い邸宅の前で止まる。重厚な扉をくぐると、リビングには張り詰めた空気が満ちていた。綾子と雨音が焦燥の面持ちで、室内を何度も行き来している。航平は電話を握ったまま、誰かと短く言葉を交わしていた。星と雅臣が入ってくると、航平が顔を上げた。彼の瞳に、一瞬だけ柔らかな光が宿る。「星......いや、星野さん」声がかすかに震えている。星は一瞬だけ歩を止め、静かに会釈した。「鈴木さん」そのやり取りを見た綾子の表情が、みるみる険しくなる。――あの女が、どうしてここに?葛西先生と親しくしていると知ってからというもの、綾子の心には後悔と苛立ちが入り混じっていた。だが、それでも彼女の中で、星への嫌悪は消えなかった。自分が嫌いな女が、幸せそうにしている――それだけで腹が立つ。「この女、何しに来たの!」綾子の鋭い声がリビングに響く。「ここはあなたの来る場所じゃないわ。――出ていきなさい!」星の眉間に、冷ややかな影が差した。反論もせず、彼女はくるりと背を向ける。その腕を、雅臣がとっさに掴んだ。「どこへ行く」「出ていけって言われたもの。言
雅臣の冷ややかで挑むような視線が、仁志の上に落ちた。「星――俺の電話を切り続けていた理由は、こいつのためか?」星は淡々とした声で答えた。「なにか問題が起きるたびに、他人に原因があると思い込む。それが神谷グループの社長のやり方なの?」雅臣は目を細めた。「じゃあ、おまえは男と会って遊んでるからって、息子が拉致されても探しもしないのか?それが正しいと言いたいのか?」仁志はその言葉に、穏やかに微笑みながら口を挟んだ。「他人の家庭のことに口を出すのは筋違いかもしれませんが――俺は、生まれつき間違ったことには、黙っていられない性分でして。ですから、ひとつだけ弁明させてください。俺は彼女の恋人でも何でもありません。昨日、彼女がうっかり俺を車ではねてしまい、病院へ連れて来てくれたんです。それを何も確かめずに、いきなり責めるなんて......」彼は一度言葉を切り、ふと首を傾げた。「失礼ですが、あなたは彼女のご主人ですか?」善意の説明のはずが、雅臣の耳には妙に癇に障る響きとなって届いた。星は冷静に言った。「......元夫よ」仁志は「ああ、そういうことか」と言わんばかりに、軽くうなずいた。「元夫ですか。それなら、ちょっと干渉しすぎかもしれませんね。離婚している以上、彼女が誰と会おうと、もうあなたに関係ないでしょ」雅臣の瞳に、氷のような光が走った。「星――いま翔太の生死が分からない状況だ。それでもまだ、俺と口論を続ける気か?」星は沈黙した。そして、車の後部ドアを開けかけた瞬間――隣にいた仁志が、彼女より先に乗り込んだ。星は驚いて動きを止める。仁志はにこやかに笑って言った。「ありがとう」星は唇を開きかけたが、結局何も言わず、静かにドアを閉めた。雅臣の唇が固く結ばれる。その整った顔立ちは、怒りを抑えた冷たさに満ちていた。だが、翔太の拉致という現実の前では、感情をぶつけている暇などない。「......前に座れ」低く抑えた声。星は無言でうなずき、助手席に回り込む。「シートベルト」短い指示に従い、シートベルトを締める。次の瞬間、車はものすごいスピードで走り出した。星はふと気づいた。車内から、清子の持ち物がすべて消えている。
――だが、問題がないように見えるほど、むしろ問題なのだ。証拠がない以上、葛西先生が軽々しく断定することはない。だが、仁志はおそらく、星に興味を抱いて近づいたのだろう。そこまで言われては、星もこれ以上強くは断れなかった。「......わかりました」葛西先生は満足げに頷き、穏やかな笑みを浮かべた。その後、星は少しだけ葛西先生と世間話を交わし、席を立った。屋敷を出た直後、彼女のスマホが突然鳴り出す。画面に表示された番号を見た瞬間、星の表情がこわばった。――雅臣。彼がいまさら何の用なのか。星は反射的に「通話拒否」を押した。だが、一分も経たないうちに、再び同じ番号から着信があった。再び、通話拒否。もう彼と話すことなど、何一つ残っていない。けれど、今度は別の番号が表示された。――航平。星は胸騒ぎを覚えながら、数秒だけ迷った末に通話を取った。「星」受話口から聞こえたのは、鈴木の緊迫した声だった。「翔太くんが......拉致された」「......なに?」星の血の気が引いた。「今日、週末で、清子が翔太くんを遊園地へ連れて行ったんだが――二人とも、そこで行方不明になった」「......」「いま、こっちで捜索を進めてる。星、君も来られるか?」星は、翔太にどれだけ失望していようと――彼はこの身に宿して産んだ、たった一人の息子だ。「どこにいるの?」「雅臣が、もう君を迎えに向かった。あと十分もすれば着く。そこを動くな」星は短く息を呑んだ。「......わかったわ」通話を切ったあとも、胸の鼓動が早鐘のように打ちつづける。その様子を見た阿仁志が、静かに尋ねた。「そんな顔をして、どうしました?」星は隠さず答えた。「――息子が拉致されたんです」「あなたに......息子がいるんですか?」「ええ。なにか問題でもあります?」「いや......ただ、そうは見えなかっただけです」星はそれ以上、言葉を返さなかった。「私はこれから翔太を探しに行きます。あなたは彩香に連絡してください。彼女がもう部屋を借りてくれているから、そこへ戻っててください」仁志は首を横に振る。「だめです。俺は携帯も金も持ってません。迷ったら、
翌日。彩香は賃貸の手続きを進めるために出かけ、星は仁志を連れて葛西先生のもとを訪ねた。便宜上、星は彼を「仁志さん」そう呼ぶことにした。診療室に入ると、葛西先生は白い眉を寄せ、仁志をじっと見つめた。そして、首をゆっくり横に振る。「......見覚えはないな。こんな整った顔立ちの男なら、一度でも会っていれば忘れないはずだ」その言葉に、星は軽くうなずいた。「葛西先生、彼の記憶喪失は......治せそうでしょうか?」葛西先生は白髪のひげを撫でながら、静かに言った。「わしは難病も不治の病も治してきた。だが――失われた記憶ばかりは、どうにもならん。......とはいえ、脈くらいは診てみよう」仁志は素直に葛西先生の前に座り、きちんと姿勢を正して「葛西先生」と礼を述べた。その態度は礼儀正しく、どこまでも無害そうだった。葛西先生は目を細め、老練な眼差しで彼を上から下まで観察する。仁志はその視線を受けても動じず、唇の端に穏やかな笑みを浮かべたままだ。やがて、葛西先生はその手を取り、脈をとった。だが――失憶など、脈で分かるものではない。「......うむ。やはり、この記憶喪失はわしの手には負えん」予想していた答えではあった。星は落胆の色も見せず、静かに頭を下げた。「お手数をおかけしました」そのとき、葛西先生がふと思い出したように言った。「星、昨日の誠一の件、調べさせたよ。――随分、つらい思いをしたようだな」星は柔らかく微笑む。「葛西先生、彼の問題は葛西先生のせいじゃありません。昨日も私を庇ってくださって、それだけで十分です」「ふん、悪いのはあいつだ。あんなもの、叩きのめして当然だ。あいつがまた手を出してきたら、すぐわしに言え。――次は、脚の一本や二本じゃ済まさん」そう言ってため息をつく。「まったく、小さいころはあれほど素直で義理堅い子だったのにな。どうしてああ育ってしまったんだか」二人の会話は、仁志の前で遠慮なく交わされた。とはいえ、特に隠すような話題でもない。しばし沈黙が続いた後、葛西先生はふいに話題を転じた。「そういえば星、あの誠一とはもう縁がないんだろう?だったら、あいつの叔父――葛西朝陽(かさい あさひ)なんてどうだ?