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第144話

Author: かおる
清子の狂乱した感情は、まるで冷水を浴びせられたように、一瞬で鎮まった。

自分が取り乱したことを、ようやく悟ったのだ。

もし以前のように、星に手を上げられた時に涙を落とし、哀れを装っていれば――雅臣も翔太も、迷わず自分の側に立ってくれただろう。

だが今は違う。

怜の仕掛けに翻弄され、星の平手打ちで冷静さを失った結果、理性を欠いた愚かな行動に出てしまった。

「......頭が痛いわ」

清子はこめかみを押さえ、ふと正気を取り戻したかのように顔を上げる。

「ごめんなさい、雅臣。

また持病が出たみたい」

星は冷笑を浮かべる。

「まあ小林さん。

前世は病弱な悲劇のヒロインかしら?

病が治らないまま生まれ変わってきたのね」

清子はすでに理性を取り戻しており、星の皮肉を聞こえなかったふりをして静かに涙を流す。

「星野さん......それから怜くん。

本当にごめんなさい。

怖い思いをさせてしまったわね」

影斗が意味深に目を細める。

「小林さん。

さっきのこと......まさか全部忘れたとは言わないでしょうね?」

「忘れていません」

清子は引きつった笑みを浮かべた。

「ただ......感情を抑えきれないことがあるだけで」

「ほう?」

影斗は大げさに驚いたふりをする。

「つまり重病に加えて、感情の病までお持ちだと。

数々の病を抱えた小林さんが、わざわざうちの怜に謝罪とは......かえって気の毒じゃないですか?」

「いえ、確かに私が悪かったんです」

清子は怜の前に歩み寄り、柔らかく言った。

「怜くん、ごめんなさい。

さっき病気のせいで感情を抑えられなくて、あなたを突き飛ばしてしまったの。

許してくれる?」

清子にとって、この手のやり方はお手の物だった。

余計な弁解をすればするほど泥を塗るだけ。

ならば、最初から素直に非を認めた方がまだ傷は浅い。

それでも屈辱には変わりなかったが――

怜は、いかにも聞き分けのいい子のようにうなずいた。

「そうだったんだ。

病気なら仕方ないね。

許してあげる」

星がすかさず声を掛ける。

「翔太、あんたは?」

呼び出された翔太は、まだ頭の中が整理できておらず、星に名を呼ばれても納得いかない顔で横を向く。

雅臣の声が鋭く響く。

「翔太」

「僕は悪くない!」

翔太の目は涙で
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