――今ごろ、彼女はまだ役所の前で待っているのだろうか。雅臣の脳裏にそんな思いがよぎる。かつて一度、ふたりでウェディングドレスの試着に行く約束をしたことがあった。だがその日に限って、清子が急病で倒れた。事態が切迫していたため、試着の約束などすっかり頭から飛んでしまった。しかも携帯の電池も切れていた。思い出した時には、すでに夜。慌てて星に電話を入れると、彼女はまだ約束の場所にいた。丸一日、ただ待ち続けていたのだ。その時はただ、愚かしい女だと思った。来ないとわかれば、自分の時間を好きに使えばいい。なぜ、ひたすら立ち尽くして待ち続ける必要があるのか。けれど今は、まるで違う感情が胸をかすめる。――自分がいつ現れても、必ずそこに待つ人がいる。そんな錯覚を覚えたのだ。まだ朝早い。午後に足を運んでも、構わないだろう。「雅臣?聞いてるの?」清子の声に、雅臣は意識を現実へ引き戻された。目を向けると、間近に見る彼女の顔は蒼白で病的な陰りを帯びていた。「......ああ」低い声で応じる。「わかっている」清子の胸に冷たい予感が広がる。彼が「わかっている」と言う時、それはつまりここを離れるつもりだという意味。――彼の心は、まだ星の方へ向いている。悔しさを噛み殺した清子がそっと勇に目をやる。勇は即座にそれを理解し、安心させるように視線で合図を返した。「雅臣、少し清子を見ていてくれ。俺は医者に容態を確かめてくる」雅臣は淡々と頷いた。およそ十分後。勇は医師を伴って戻ってきた。医師の表情は硬い。「小林さんの数値に異常が見られます。さらに詳しい検査が必要です」雅臣の眉がひそめられる。「どういうことだ」「検査結果の数値に不整合が見られます。再検査して確かめなければ」「では、すぐに再検査を」勇が口を挟んだ。「明日、雅臣は清子を連れてあの葛西先生に会いに行く予定だろう?詳細なデータを持参すれば、あの頑固者でも病状を的確に把握し、的確に治療を施せるはずだ」その理屈には一理あった。雅臣は静かに頷いた。一方そのころ。通話を切られた星は、顔を曇らせていた。清子が発作を起こしたとしても、なぜ今日なのか。しかも、なぜこの時間
「今日は都合が悪くて行けそうにない......」そう言いかけた星の耳に、受話口から別の声が割り込んだ。「雅臣、清子の処置はもう終わった。早く来てやれよ」――清子?そうだ。星は思い出す。雅臣が約束を反故にする時、必ずそこには清子がいたのだ。もはや心は波立たない。星の声は冷えきっていた。「もう助かったんでしょう?午後なら時間があるから、その時に来てちょうだい。長引かせるつもりはないわ」だが言葉の途中、またしても勇の声が重なった。「雅臣、何をぐずぐず電話してるんだ!清子はずっとお前の名前を呼んでるんだぞ。早く行ってやれ!医者も今回の容態は危ういって言ってた。もしかしたら、これが最後になるかもしれないんだ!」「......すぐ行く」雅臣の声色は一変し、冷然と切り捨てた。そして思い出したように受話口へ。「今は忙しい。また後で掛け直す」通話を終えると、雅臣は勇を見やった。「清子の容態は?」勇は彼の手に握られた携帯を一瞥し、唇の端に一瞬ほくそ笑みを忍ばせる。だが顔には深刻さを貼り付けて言った。「芳しくない。医者は今の体では半年もたないって」雅臣の眉間がわずかに動く。「お前の言っていた名医は、まだ見つからないのか」「見つかった」「では、なぜ治療を頼まない?」その問いに勇は憤然とした。「葛西とかいう頑固ジジイが首を縦に振らないんだ!どんな条件を出しても、いくら金を積んでも動かない。腹が立って仕方ない!」「他の条件は提示されなかったのか?」「何も言わなかった」勇は首を振る。「隠居だと言うくせに、しょぼい漢方診療所を開いていて、客もいる。なのに俺が三度も頭を下げても駄目だ。世にも変わった奴だ」目を細め、勇は吐き捨てる。「明日もう一度行く。今度こそ無理やりでも連れて来てやる」雅臣の目が暗く光る。「清子を連れて直接会いに行ったことは?」勇は一瞬言葉に詰まり、口ごもる。「......ない」「彼は来るなとは言わなかったのだろう?」「まあ、確かに」「なら清子を伴って行け。もしかすると、他の患者も診たいから拘束されるのを嫌っただけかもしれん」勇の視線が泳ぐ。「実は......昨日
「そうだよ」怜は真剣に言った。「神谷おじさんは星野おばさんに優しくないし、星野おばさんも幸せそうじゃない。だから僕は、星野おばさんにそんな人と一緒にいてほしくないんだ。もっといい人と、もっと幸せな生活をしてほしい」星は思わず苦笑する。――数えるほどしか雅臣に会ったことのない怜ですら、彼が自分に冷たいとわかるのか。彩香が言った。「じゃあ明日は無理ね。奏には別の日にしてもらう?」「大丈夫」星は答えた。「午前中に離婚の熟慮期間の手続きがあるけど、三十分もかからないはず。彩香、先輩には午後からなら大丈夫って伝えて」「了解」彩香は携帯を取り出し、すぐにメールを送った。怜が目を輝かせて尋ねる。「星野おばさん、川澄おじさんとどこで演奏するの?」星は葛西先生の言葉を思い出しながら答えた。「たぶん老人ホームとか、そういう場所ね」「僕も一緒に出たい!」怜の声は期待に弾んだ。「最近ずっと練習してるから、絶対足を引っ張らないよ!」星は少し逡巡した。もし自分が決められる演奏会なら、怜を舞台に立たせてもいい。だが、これは葛西先生が主催する演奏会。勝手に決めるわけにはいかない。怜は彼女のためらいを敏感に感じ取り、必死に訴える。「本当に毎日頑張って練習してるんだ。信じて!」星は柔らかく微笑んだ。「これは私だけでは決められないの。でも明日、葛西先生に聞いてみるわ。その後でね」怜の顔が一気に輝いた。「うん!」星と一緒に演奏するあの感覚――初めての誇らしさと、母親のぬくもりを思わせる安心感。怜はますます彼女を手放したくないと感じた。心の中で、密かに誓う。――必ず星野おばさんを自分のものにする、と。翌朝。遅れまいと、星は早々に起き出した。必要な書類を繰り返し確認し、忘れ物がないのを確かめてから家を出る。雅臣は時間に厳しい男だ。清子以外の誰をも、待つようなことはない。渋滞を避けるため、早めに家を出た星が役所に着いたのは、午前九時十分。約束の一時間前。星は建物の前で静かに待った。同じころ。午前九時ちょうど。雅臣は車のキーを手に、出かけようとした。その時、電話が鳴る。「雅臣、大変だ!清子が家で入浴中に転
勇がさらに声を潜めて言った。「そうだ、あいつら明日デートするつもりなんだ!」清子の表情が一変する。「デート?どこで会うっていうの?」「場所までははっきり聞き取れなかったけど......星が明日の午前十時って言ってた。清子、絶対にあの女をのさばらせるなよ!」清子の瞳に鋭い光が閃いた。「わかっているわ」その頃、彩香は怜が落水して入院したと知り、慌てて病院へ駆けつけた。無事だとわかってようやく胸をなで下ろす。ふと思い出したように、彼女は星に声をかけた。「そうだ、星。今月末、あなたと奏がチャリティ演奏会に出るでしょう?ちょうど明日、彼に空きがあるから、新しく整えたスタジオでリハーサルできるって」「明日......」星は一瞬考え込み、すぐには答えなかった。彩香は不思議そうに目を瞬く。「どうしたの?明日、都合が悪いの?」昼間は怜が幼稚園に行っているので、普段の星は比較的自由なはずだった。星は少し考えたあと、率直に打ち明ける。「明日は雅臣と一緒に、役所へ離婚届を出しに行くの」「本当に......本当に離婚するの?」彩香は思わず声を張り上げた。話していた影斗と怜も、その声に驚き同時にこちらを見た。星は静かにうなずいた。「ええ」「雅臣が、本当に離婚に同意したの?」星の唇には、かすかな皮肉が浮かんだ。「財産は一切持ち出さないって条件を出したんだもの。反対する理由がある?」彩香は鼻で笑った。「前に離婚を切り出した時は、雅臣はあなたを信用してなかった。手口だと思って相手にもしなかったでしょう。結局、あの人はタダで済ませたいだけ。あなたに何も渡さず、離婚だけ成立させたいって魂胆よ」星は肩をすくめ、淡々と言った。「手続きで離婚するとなると、あの人が協力しなければ最短でも二年はかかる。けれど同意してくれるなら、一ヶ月もかからないの。離婚できるなら財産はいらないわ」彩香も同意するようにうなずいた。「早く離れた方がいいわ。長引けば長引くほど厄介になる。二年も経てば、雅臣の気が変わって離婚できなくなる可能性だってあるんだから。だいたい、清子なんてあと数ヶ月の命でしょ。彼女が死んだら、またあなたに戻って来かねない」「数
雅臣がふと振り返り、近くに立つ勇の姿を見つけた。眉間に皺を寄せ、低く問う。「勇、何をしている」だが勇は厚顔無恥で、見咎められても一切動じない。にやりと笑い、答えた。「翔太くんが見つかったと聞いたから、清子と一緒に見舞いに来たんだ」勇が近寄ってきたのを見て、星はそれ以上口を開かず言い残す。「私は先に戻るわ。忘れないで、あなたが約束したこと。明日の十時、必ず」勇には一瞥もくれず、颯然と背を向け去っていく。勇は鼻で笑い、雅臣に顔を向けた。「雅臣、明日って何の予定だ?」「余計な詮索はするな」雅臣の端正な顔には淡々とした色が浮かんでいる。勇はさらに踏み込んだ。「もしかして......デートか?」デート――雅臣の歩みが止まり、黒い瞳が深い闇をたたえる。星が本当に離婚する気などあるはずがない。子どもを焚きつけたのも、結局は駆け引きの一環だ。ならば勇の言うとおり、離婚を口実に自分を呼び出そうとしているのかもしれない。雅臣が無言でいるのを見て、勇は確信めいた顔をした。「ほら、やっぱり。あの女が離婚するはずない。全部お前の気を引くための小細工だ。きっと明日会おうなんて口実を作ったんだろう。病気のふりだの、誘拐の芝居だの、そんな三流手口ばかり繰り返して。雅臣、騙されるなよ!」雅臣は返事をしなかった。その瞳は暗く沈み、底の見えない深井戸のよう。――昔なら、星の小細工など一笑に付していただろう。だが近ごろの彼女の変化は、確かに彼の心を捉え始めていた。自分の妻は、つまらない女ではなかった。もっと知りたい、という衝動さえ覚える。ならば、約束に応じてみてもいい。彼女がどんなデートを仕掛けてくるのか、この目で確かめたかった。どうやって自分に歩み寄ろうとするのか――星が家を出てから、雅臣は初めて子育ての大変さを思い知った。正直に言えば、これまでの星が自分の家庭をどれだけ支えてきたか、ようやく理解し始めてもいた。もし彼女が本気で過ちを認めるなら――翔太のために、もう一度だけ機会を与えてもいい。勇は雅臣が以前のように突き放さないことに気づき、背筋が凍った。沈黙は、即ち容認。――まさか。本当にあの女とデートするつもりなのか。絶対に
勇は聞いた話をさらに誇張して、翔太に吹き込んだ。翔太の顔には、傷ついた怒りが浮かんでいた。――ママは本当に怜に惑わされてしまったんだ。やっぱり、ひどい母親だ。勇は畳みかけるように言う。「前にお前の母親が清子に勝てたのも、偶然の産物だ。ジュースを浴びせかける卑怯な手を使った上に、あの世界的名楽器、夏の夜の星まで使ったんだぞ。有利な条件をあれだけ揃えても、清子との差はたったの0.1ポイント。威張れるほどのことか?」翔太の瞳が暗く沈んでいく。――ママはすごいんだと思っていたのに。でも清子おばさんや山田おじさんの言葉を聞くと、ただの運にすぎなかったのかもしれない。なぜなら、母が清子にジュースを浴びせた場面を、この目で見ているのだから。清子はそんな翔太の心の動きなど意に介さず、やわらかな声で問いかけた。「翔太くん、お父さんとお母さんは......どこに行ったの?」翔太は首を横に振る。「知らない」「じゃあ翔太くん、お父さんとお母さん......本当に離婚するの?」清子の声がひそやかに揺れる。「そんなわけない!」翔太は即座に大声で否定した。「さっきパパに聞いたんだ。ママは絶対にパパと離婚しないって!」清子の瞳に、不安の影がさっと走った。勇は彼女の肩に手を置き、安心させるように笑った。「清子、俺が雅臣を連れてくる」清子はしとやかな笑みを浮かべ、うなずいた。「ええ。私はここで翔太くんを見ているわ」病院へ来る道すがら、清子は意図的に、雅臣の星に対する態度が変わりつつあることを勇に漏らしていた。それを聞いた勇は、自ら名乗り出た。「清子、雅臣が星なんていう中卒女を選ぶはずがない。安心しろ、俺がいる限り、絶対にそんなことは許さない。どうせ駆け引きの小細工だ。雅臣が本気にするはずがない」和解させるのは難しい。だが壊すのは、いとも容易い。――あの日、大勢の前で犬の真似をさせられ、笑い者にされた。この恨み、忘れるものか。今度こそ、星に報いを受けさせてやる。雅臣と星?そんなもの、絶対に許さない。勇は病室を出て、雅臣を探しに向かった。実際には、ふたりの関係を壊すつもりで。あの演奏会で星が勝てたのは、たまたまの幸運。それでも、