Share

第5話

Author: かおる
星が振り返ると、雅臣の後ろに翔太が立っていた。

翔太は星に話しかけていたが、心配そうな視線は清子に向けられていた。

昔から、清子が少しでも体調の異変を起こすと、雅臣と翔太は過剰なほど心配していた。

ある日、4人で公園に行った時のこと。

清子は、熱中症になってしまったのか、それともただ持病が悪化したのかは分からないが、

突然、倒れそうになった。

雅臣と翔太は、同時に清子の元へ駆け寄った。

雅臣は慌てて駆け寄ろうとするあまり、星を突き飛ばしてしまった。

しかし、誰もそのことに気づかなかった。

皮肉なことに、後で雅臣は、星のけがに気づき、そのけがはどうしたのかと尋ねられたのだ。

今でも息が絶えそうなか細い声が、星の思考を遮った。

「翔太くん、私が勝手に倒れそうになっただけよ。お母さんとは関係ないわ」

清子は翔太に向かって首を横に振り、涙を流した。その姿は、見るに堪えないほど可憐だった。「私の体が弱いせいで、本当にごめん……」

翔太は口を尖らせた。「でも……僕は見たんだ。ママが清子おばさんを突き飛ばしたの」

そう言うと、彼は星の方を向き、真剣な表情で言った。

「ママは、間違ったことをしたら謝らないといけないって、僕が小さい頃から言ってるよね?大人なのに……約束を破るつもり?」

星は翔太の体調管理に、大変な苦労をかけた。

しかし、彼の勉強については、ほとんど何もしていなかった。

翔太はまだ5歳だというのに、3ヶ国語も堪能し、口が達者だった。

時には、大人を言い負かすこともあった。

雅臣の母親は、翔太の賢さは、雅臣の幼い頃にそっくりだと言っていた。

しかし今、翔太は、きれいなお姉ちゃんのために、星を責めていた。

彼女は大人であり、翔太の母親でもあるため、当然模範的な姿を示さなければならない。

自分ができていないことを、子供に要求することなんてできない。

約束を破ったら、今後、どうやって子供を教育すればいいのだろうか?

星は、清子の周りを囲んでいる大人と子供、二人の姿を見た。

ふと、自分よりも、彼らのほうがよっぽど家族らしいと感じた。

この親子には何も期待していなかったはずなのに、翔太の態度に、星は胸を締め付けられた。

彼女は翔太の目を見つめ、「確かに、間違ったことをしたら謝らないといけないって、言ったわね。でも……」と言った。

星は言葉を区切り、はっきりと告げた。「私は何も悪いことをしていないわ。どうして謝らなければならないの?」

以前なら、星は翔太のために妥協していただろう。

しかし、今日は違った。

翔太は、思わず言った。「だって、ママが清子おばさんを突き飛ばしたのを僕が見たんだ」

星は言い訳せず、微笑んだ。

「私が彼女を突き飛ばしたからって、それが悪かったっていうの?」

「だって、ママは人を殴るのはダメだって……」

星は静かに言った。「人に意地悪をしてはいけない、だけど、誰かに意地悪をされるのもいけない。もし誰かがあなたの我慢の限界を超えるようなことをしてきたら……遠慮なんてしなくていいんだよ」

翔太は賢いが、まだ5歳だった。

星からこんな言葉を聞かされるとは思っていなかったので、彼は呆然として、何も言えなくなってしまった。

その時、奏の声が聞こえてきた。

「翔太くん、お母さんにそんな口の利き方をしてはだめだ」

奏の声に、雅臣と翔太は同時に彼の方を振り返った。まるで今、彼の存在に気づいたかのように。

翔太は、ぽつりと呟いた。「川澄おじさん?」

雅臣は眉をひそめた。「どうしてお前がここに?」

奏は、星の兄弟子であり、幼馴染でもあったので、雅臣は何度も彼に会ったことがあった。また、星からも彼の話を何度も聞いていた。

星は、奏は幼い頃に両親を亡くし、祖父母に育てられたと言っていた。

中学生の頃には、祖父母も亡くなり、彼は独り身になってしまった。

ちょうどその時、星の母親が奏の音楽の才能を見出し、彼を弟子にしたのだ。

しかし、当時の奏は、孤独で心を閉ざし、誰とも口をきかなかった。

星が3年かけて、ようやく奏に心を開かせ、兄弟子、そして友人として受け入れてもらったのだ。

しかし、なぜか雅臣は、初めて会った時から、この男のことをひどく嫌っていた。

「君は元恋人と会っているというのに、星が幼馴染の兄弟子と食事をすることぐらい、何がおかしいんだ?」

奏の声は冷静だったが、その言葉は鋭い皮肉が込められていた。

さらにそれは、雅臣と清子の偽りを暴く言葉でもあった。

雅臣の表情は険しくなり、顔色が悪くなった。

「星、俺と一緒に帰るぞ」

星は冷淡に断った。「いいえ、先輩との食事がまだ終わってないから」

雅臣の声に、冷たい響きが加わった。「星、もう一度だけ言う。俺と一緒に帰るぞ」

星は知っていた、これはもう、彼がすでに怒り心頭になっている証拠だと。

これ以上逆らえば、単なる無視では済まないだろう。

彼はあらゆる手段を使って、自分を屈服させようとするだろう。

彼女は、あの嵐の夜のことを、決して忘れることができなかった。

びしょ濡れになった自分が、雅臣の足元に跪き、泣きながら翔太を返してほしいと懇願していた。

彼は自分のことを見下ろしながら、冷たく尋ねた。「お前は、自分のしたことが分かっているのか?」

涙が雨粒のように地面に落ち、自分は清子が池に落ちた件を謝るしかなかった。

彼は、いつも自分を操る方法を知っていた。

それを思い出して、星は静かに微笑み、一言、静かに告げた。

「いいえ」

雅臣の目つきが冷たくなり、唇が固く結ばれた。

「星、後で後悔するなよ」

「神谷さん、どんな手を使ってくるのか、楽しみだわ」

星の弱点は、翔太だけだった。

しかし今、彼女は翔太さえも諦めた。雅臣には、もう彼女を脅迫する手段は何も残されていなかった。

星は奏に言った。「先輩、ここは空気が悪いわ。どこか別の場所で食事をしよう」

奏は少しの間、黙っていた後、静かに頷いた。

「ああ」

星は三人に一瞥もせず、テーブルの上に置いてあるバッグを手に取り、席を立とうとした。

背後から、翔太の頑固な声が聞こえてきた。

「ママ、本当に清子おばさんに謝らないの?」

星は一瞬だけ足を止めたが、その後、振り返ることなく去っていった。

雅臣は星の去っていく背中を見つめ、目つきが冷たく、暗くなった。

翔太も星の後ろ姿を見つめていた。彼の美しい顔に、戸惑いの色が浮かんだ。

ママ、何か変わった?

二人の視線が星に向けているのを見て、清子の目に、深い冷たさが宿った。

彼女は小さく叫んだ。「あっ!」

雅臣と翔太の視線は、一瞬にして清子に向けられた。

清子の顔色は真っ青で、今にも倒れそうだった。

雅臣の顔色が変わり、彼は清子を抱き上げた。
Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 夫も息子もあの女を選ぶんだから、離婚する!   第184話

    だが星は、勇の剣呑な視線にも一歩も退かず、淡々と告げた。「――それで、山田さん。覚悟はできた?」周囲で見物している人々の中には、山田グループと取り引きのある者も少なくない。だが同時に、敵対する家も多い。勇は普段から口の悪さで人を敵に回すことが多く、もしここで約束を反故にすれば、今日の一件は間違いなく大きく取り沙汰されるだろう。会社にすら影響しかねない。勇はなおも納得いかず、雅臣に視線を送った。――星は雅臣の言葉だけはよく聞く。彼が庇ってくれれば、どうにかなるはずだ。だが雅臣は一瞥すら与えなかった。暗い瞳はただ、星の姿を見つめている。その沈黙が答えだった。勇の顔の筋肉が引きつった。重圧に耐えきれず、ついにその場に膝をついた。「......わ、ワン......ワンワン!」間抜けな犬の鳴き真似に、見物人の間から忍び笑いが漏れ、やがてどっと笑い声が広がった。勇は羞恥と屈辱で顔が火照り、殴られたわけでもないのに頬が焼けつくように痛む。頭を上げずとも分かる。自分がどれほどの嘲笑の目にさらされているかを。彩香は、この千載一遇の瞬間をしっかり録画していた。――もう二度と、彼が星をいじめることは許さない。清子は顔を背け、見ていられないとばかりに嫌悪をあらわにした。雅臣の顔には冷淡な無表情が張りついている。だが綾子は、星が得意げな様子を見て我慢ならず、鼻を鳴らした。「下品だこと!たかが一度勝ったくらいで、ここまで増長するなんて。どうせ高校も出ていないくせに。中卒同然の学歴で、いくらヴァイオリンが弾けたところで何になるの?世に名を馳せる音楽家が皆、名門校を出ているのを知らないのかしら。英語ひとつ満足に話せないでしょうに」息子の嫁が大勢の前で大きな勝利を収めたというのに、神谷家の面々の表情は死人のように暗い。喜びのかけらもなく、むしろ哀悼のように沈んでいた。綾子の言葉は確かに酷かった。だが事実でもあった。どれほどの才能を見せようと、学歴という「傷」は消せない。もし彼女が今後名を上げれば、必ずそこを突かれ、過去の黒歴史として晒され続けるだろう。だが星は一歩も引かない。「学歴がどうであれ、勝ちは勝ちです。綾子さん、他人を貶める暇があるなら、

  • 夫も息子もあの女を選ぶんだから、離婚する!   第183話

    清子は無意識に拳を握りしめ、爪が掌に食い込み砕けるように割れても、その痛みすら感じなかった。――実力者であればあるほど、相手の力量を見抜ける。彼女には分かっていた。何度やり直そうと、自分が星に勝つことは絶対にない、と。銀歯が砕けそうなほど食いしばられ、星を見る目にはもう取り繕う余裕もなく、初めて怨念と悔しさがあらわになった。――自分が、星に負ける?どうして?「......清子」澄んだ男の声が不意に響いた。「賭けに出た以上、負けを認めろ」誰もが予想していなかった。星が本当に清子に勝つなどと。――彼自身でさえ、そうだった。音楽のことが分からなくても、どれほど清子をひいき目に見ていようとも。この時ばかりは、良心を裏切って「清子の方が上だ」とは言えなかった。まともな感性を持つ者なら、誰だって聞き分けられる。星の演奏の方が、圧倒的に心を打つと。清子は悔しさで震えた。帰国して以来、ずっと星を踏みつけにしてきた。過去に失態はあったが、そのたびに雅臣が後始末をしてくれた。だが今日は――雅臣すら庇ってくれない!星は、清子が動かないのを見て、冷ややかに言った。「自分で外せないの?それとも、私が外してあげましょうか」清子は目に涙をにじませ、屈辱を噛み殺しながらネックレスを外した。「......今回ばかりは、星野さんの方が上だったわ」大勢の視線がある中でなお居直れば、体面も信義も一気に失う。清子は深く息を吸い込み、どうにか気持ちを整えると、差し出した。「星野さん、どうぞ」彼女がこのネックレスを返したくなかったのは、毎日身につけて見せびらかすことで、星を逆なでするためにほかならなかった。返してしまうこと自体は構わない。だが――あの夏の夜の星だけは。清子の瞳に、陰険な光が閃いた。あれは必ず手に入れる。星は手のひらに収めた懐かしいネックレスを見つめ、目の奥に薄く涙をにじませた。その姿を見て、雅臣の瞳孔がかすかに縮む。――このネックレスが、彼女にとってそこまで大切なものだったのか?薄い唇が動きかけたその時、先に彩香の皮肉混じりの声が響いた。「やっぱり頼れるのは自分だけね。星が努力して勝ち取ったから、戻ってきた。でなきゃ、大事な物だって人の手

  • 夫も息子もあの女を選ぶんだから、離婚する!   第182話

    星の瞳がかすかに揺れた。「――私に負けたのは、翔太?」勇は胸を張って答える。「そうだ。清子達とお前達の差は0.1点。その0.1点は翔太くんと怜の差なんだから、この勝負は清子の負けじゃない」星はすべてを理解した。「つまり、あなたたちは最初から約束を守る気がなかったのね?」その表情は水面のように静かで、怒りも驚きもなく、まるで慣れきっているかのようだった。その様子を見た雅臣の胸に、妙なざらつきが走る。そして初めて知った――勇がここまで屁理屈をこねる人間だったとは。勇はさらに声を張り上げる。「負けてないんだ!審査員だって言ったろ?0.1点は翔太くんが落とした分だって!」心の動揺を隠すため、勇はわざと大声を出した。「だいたいな!五歳児に勝って何が誇らしいんだ?しかも自分の息子に!」「そんなことで胸を張れるなら、勝手に言いふらせばいいさ。誰も止めやしない」星はゆっくりと視線を巡らせる。「皆さんも、同じ考えなのかしら?」雨音は視線を逸らし、目を合わせようとしない。綾子は顔を背け、硬い表情を崩さなかった。翔太は罪悪感に押し潰されそうになりながら、小さな声で呟く。「......僕が負けたんだ」清子は俯いたまま黙り込み、勇の言葉を否定しようとしない。――そして雅臣は。星は一瞥すらくれなかった。彼は「人」として数えられていなかった。勇は嘲るように口角を上げる。「ほらな?みんな同じ意見だろ」星の唇に、かすかな笑みが浮かぶ。「山田さんがそんなに必死で小林さんのために出しゃばるのは......彼女を庇いたいんじゃなくて、自分が私との賭けに負けた際の約束を守りたくないからじゃないの?」勇の顔色が一瞬で変わった。その言葉に、清子以外の全員が目を見開いて勇を見つめた。――誰も、賭けの存在を知らなかったのだ。勇は狼狽し、怒鳴り返す。「な、何をでたらめを!」言い逃れしようとした瞬間、星がスマホを取り出し、録音を再生した。勇の顔が一瞬ひきつり、歪んだ。それでもなお言い張る。「お前は清子に勝ってない!だからこの賭けは無効だ!」その時、休憩室の扉が再び開いた。彩香が数人を引き連れて入ってきた。「――恥を知りなさい!」

  • 夫も息子もあの女を選ぶんだから、離婚する!   第181話

    そう言って、勇は翔太へと視線を向け、責任を押し付けようとした。「翔太くん、この勝負で負けたのは、主に君が足を引っ張ったせいだ。あの怜を見てみろ、どれだけ見事に演奏してたか。清子が0.1点減点されたのは、全部君のせいだぞ」その時もなお、翔太の脳裏には舞台に立つ母――星の姿が鮮烈に焼きついていた。あれは、今まで見たことのない母親の姿だった。眩しく、どこか別人のようで、それでも目を離せなかった。――あれが本当に、自分のママなのか?いつから、あんなにすごい人になっていたんだ?清子おばさんよりも、ずっと。音楽のことはまだ分からなくても、その幼い感覚でも分かった。母の演奏は、清子おばさんの演奏よりもはるかに美しかった。そして怜のことも......認めたくはないが、自分より上手だった。しかも母との息はぴたりと合い、ほとんど完璧な演奏だった。それに比べて自分の出来は。翔太は反論できず、うなだれて小さな声で言った。「ごめんなさい、僕が清子おばさんの足を引っ張っちゃった......」勇は頷きながら言う。「そうだろう。君がいなければ、清子はきっと満点だったんだ。だから清子は負けたことにはならない」その言葉に、綾子は烈火のごとく怒った。「馬鹿も休み休み言いなさい!そんなの、翔太みたいな五歳児しか騙せないわよ!本気で皆が耳も頭も悪いとでも思ってるの?!」勇は綾子の剣幕に気圧され、勢いを失った。彼自身も、綾子の前で「翔太が無能だった」などと言うのはまずかったと気づく。軽く咳払いし、取り繕うように言った。「綾子さん、そんなつもりはなかったんです。ただ星にいい気にさせたくなくて。翔太くんが優秀なのは、皆わかってます。でもご存知でしょう、さっき清子は星と賭けを......」綾子は冷たく遮る。「清子が賭けに負けただけ。翔太とは何の関係もないでしょう」勇は慌てて言い返す。「でも、清子は翔太くんと一緒に出たんですよ......結果的に一位を取れなかった。その一位を星が取ったんですよ。清子の負けを認めたら、それはつまり翔太くんの負けも認めることになる。「綾子さん、星がこの後、得意げにふんぞり返るのを見たいですか?しかも翔太くんは彼女の実の息子です

  • 夫も息子もあの女を選ぶんだから、離婚する!   第180話

    来た人物を見て、怜はすぐに察し、星に言った。「星野おばさん、僕は先に休んでるね。お話が終わったら迎えに来て」星は穏やかな声で応えた。「ええ、先に行ってて」――母の形見のネックレス。必ず取り戻す。清子や雅臣が約束を守るかは分からない。だが、たとえ反故にされたとしても構わない。無恥な人間に対しては、最初から手を打ってある。ネットの話題なんてすぐに忘れ去られるけど、彼らをもう一度炎上させるくらい、いくらでもできるのだから。「......ヴァイオリン弾けたのか?」雅臣の低い声が響き、瞳には彼女には読み取れない感情が宿っていた。星は否定しない。「ええ」「どうして一度も言わなかった?」「あなた、一度でも私に尋ねたことがあった?」星は唇に皮肉な笑みを浮かべる。「出産のあと、働きたいと言った時も子どもを他人に預けるのは不安だから、家にいて世話をしろの一言で済ませたじゃない。あの時だって、私がどんな仕事をしたいのかすら聞かなかった」雅臣は黙り込む。――そうだ。彼は一度も尋ねなかった。なぜなら、彼女に関心がなかったからだ。この瞬間、彼は気づいた。自分は星について、あまりにも無知だったのだと。星はもう彼と無駄な言葉を交わすつもりはなかった。「結果はもう出たわ。約束どおり、清子は母のネックレスを返してもらうわ。神谷さんが今さら約束を破るなんてこと、ないでしょうね?」本来なら清子に直接言うべきこと。だが、彼女を後ろから支えている最大の力がこの男だった。もし彼がいなければ、清子がこれほど好き勝手できるはずもない。――皮肉なことに、この男は自分の夫なのだ。雅臣の黒い瞳がさらに深みを帯びる。「お前はいつも、俺を悪人として扱う」「人を悪く見すぎてるのは、あなたの方よ」星は冷ややかに言い放つ。「いつだって清子に何かあると、真っ先に私がいじめたって決めつけてきたじゃない」言葉を失った雅臣は、数秒の沈黙のあと、静かに口を開いた。「一緒に清子のところへ行こう」星は拒まなかった。だが同時に、彩香へ密かにメッセージを送っていた。清子の周りには勇、翔太、綾子、そして腹の底を探れない雅臣までいる。自分ひとりでは荷が重い。援軍が必要だ。

  • 夫も息子もあの女を選ぶんだから、離婚する!   第179話

    「今回、星は新しい編曲を施し、怜くんの個性と強みを生かして再構築したのよ。これからは、この白い月光も合奏曲として演奏できるわね」影斗がふいに口を開いた。「......今になって、ようやく信じられる」客席はまだ暗く、彼の表情は見えない。ただ、低くかすれた声だけが闇の中に響いた。「彼女は......本当に、素晴らしい」彩香は神谷家の席を横目に見て、冷ややかに笑った。「星が清子の真似をした?――笑わせないで。これこそが本物の白い月光よ」一方、綾子と雨音も、目を見開いて舞台を凝視していた。演奏の冒頭こそ、二人は嘲笑混じりに星を貶めていた。だが、いつの間にかその声は消え失せていた。雨音の口がぽかんと開く。「お母さん......星って何もできない無能だって聞いてたよね?なんであんなにヴァイオリンが弾けるの?」しかも、弾けるなんて言葉では到底足りない。あれほどの演奏は、もはや神技の域だった。綾子もまた、信じられないという色を隠せない。ヴァイオリンを知らない者なら「清流のように耳に心地よい」と思うだろう。だが心得のある者なら、「神技」としか形容できないほどの演奏だった。星は何もできないのではなかったのか?どうにか一曲弾けても、せいぜい耳障りでしかないはずではなかったのか?――これは、一体どういうことなのか。清子は呆然と立ち尽くし、唇を噛みしめ、見開いた瞳を震わせていた。小さく首を振りながら、かすれ声を漏らす。「そんなはず、ない......」彼女は自分の技術に絶対の自信を持っていた。世界の頂点に届くとは言わないまでも、神の域にいると信じて疑わなかった。音楽学院でも、常にトップ十に入っていたのだ。A大への合格が、その証だった。容姿では星に敵わないことは、重々承知していた。だがヴァイオリンだけは、絶対に勝てると信じていた。心の奥底で、清子はいつも星を見下していた。――結局は男の寝床に取り入ってのし上がっただけの存在。美貌以外に何もない、出産の道具にすぎない。雅臣の妻にふさわしい資格など、あるはずもない。もしあのとき、綾子に反対されなければ、今ごろ神谷家の妻は自分だったはず。だから戻ってきた今、すべてで星を打ち負かし、自分の前で自らを卑

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status