LOGIN最初、彼女は仁志に対して強い警戒心を抱いていた。夏の夜の星でさえ、軽々しく取り出すことをためらったほどだ。仁志がわざと近づいてきて、何かを壊すつもりなのでは、と疑っていた。けれど、これほど長く一緒に過ごすうちに、星は思うようになった。自分の彼に対する警戒は――少し、相手を悪く疑うような卑しいものだったのではないかと。仁志は、彼女を何度も救い、助けになり続けてくれた。彩香の言葉を借りれば、「仁志みたいな万能アシスタントなら、月給二百万でも安いくらい」というほどだ。いざという時、本当に役に立つ人だった。輝が凛にちょっかいを出した時も、もし仁志が間に合わなければ、彼女は痛い目を見るところだった。先日の交通事故も、仁志の的確な判断と落ち着いた対応があったからこそ、無事に切り抜けられた。正直なところ――仁志がそばにいると、星はとても安心できた。だからこそ今、記憶が戻った仁志が、まもなく去るだろうと思うと、胸の奥に小さな寂しさと名残惜しさが生まれた。仁志はあまりにも使える存在だった。容姿端麗で、身のこなしは優れ、子どもの扱いまで上手い。翔太と怜は、彼を自分たちのヒーローのように慕っていた。身元こそ分からないが、言動の端々から、仁志が普通の人間ではないことだけは察せられた。――だから、いつか去っていく運命なのだ。気づけば、星は忘れていた。かつては早く記憶を取り戻して去ってほしいと思っていたことを。彼が去る前には、多少なりのお金でも包んで、今までの助力に礼をしたい――そんな気持ちすら湧いていた。仁志は、それ以上何も言わなかった。星も、問いを続けることはしなかった。車はそのまま走り、彼女の家の下へ到着した。星が車を降り、ドアを閉めた瞬間、仁志の声が背後から飛んできた。「......星」足を止めて振り返る。「どうしたの?」男は短く告げた。「僕の名前は――溝口仁志です」それだけ言うと、彼女の反応を待つことなく車を走らせ、去って行った。星はその場に立ち尽くし、遠ざかる車影を見つめたまま、長いあいだ動けずにいた。……翌日。案の定、仁志は姿を見せなかった。彩香は彼が星と一緒に来ていないことに驚いた。「えっ?仁志、今日はどうして来てないの?そ
仁志は言った。「確かに......騙されていました」星は小さく息をついた。「真相を知った時、やっぱりがっかりした?」仁志は静かに答えた。「実は、かなり早い段階で本物じゃないと気づいていました。ただ、その頃は不眠がひどくて......あの人を探せば、あの音色を聞けば、少しは楽になるんじゃないかと思ったんです」恩人という言葉に、彼の唇が夜の中で皮肉に歪んだ。――そんなものは、外に向けての聞こえのいい建前にすぎない。曲を聞いた程度で誰かに心を委ねるほど、彼は甘くない。「恩人」などという呼び名は、人間味を装うための飾りにすぎなかった。星は薄く察するものがあった。「寄るべき気持ちの置き場所が欲しかったから......その人を本物だと思い込んだの?」「そうです。もし僕を一生騙し通せるなら、それはそれで彼女の才能だと思ってました。......残念なことに、あまり賢い人ではなかったですが。その人は僕にとって重要である可能性はありました。ですが、同時に――どうでもいい存在にもなり得ました」星は納得したように頷き、驚きも否定も見せなかった。それがかえって仁志には意外だった。「......変だとは思わないんですか?」「全然。むしろ普通の感覚だと思うわ」「どうしてです?」「その人の演奏が、情緒崩壊寸前のあなたを落ち着かせた。だから恩人と言うなら理解はできる。でも実際、その人がしたことって、ただ裏庭でヴァイオリンを弾いただけでしょ?あなたのために命を張ったわけでもないし」思いがけない言葉に、仁志のまなざしが星へ向いた。「......もしその人があなただったら、どうします?」星は淡々と答えた。「助けてくれてありがとうと言われるなら受け取るけど、恩なんて言われたら困るわ。たまたま弾いただけで恩を着せられるなんて、プレッシャーでしかないもの」彼は言った。「ですが、この恩を手に入れたら、いろいろなものが得られるかもしれないって、考えたことはないんですか?」星は答えた。「助けた人が見返りを求めるって、ほとんど道徳的な押しつけよ。人を助けるって、本来はそういうものじゃないはず」「ということは、あなたなら、見返りは求めないのですか?」「当然よ。
仁志はしばし静かに沈黙し、それからようやく答えた。「いえ......実は、けっこう嬉しかったんです」言葉こそそうだったが、星には、彼が少しも喜んでいるようには見えなかった。本来なら、人の私事に踏み込むべきではない。だが、これまで何度も仁志に助けられてきた身として、あまりに無関心でいるのも違う。星は思い切って尋ねた。「仁志......何か思い出したの?」彼の態度が今日これほど妙なのは、その理由しか考えられない。ハンドルを握る指先が、かすかに止まった。「......そうかもしれないです」「話してもらえる?私で良ければ、何か力になれるかもしれない。もちろん、話したくなければ無理にとは言わないけど」車内がふいに静まり返った。張り詰めた空気が満ちる。星は、仁志が話す気はないのだと思い、それ以上は追及しなかった。窓の外へ視線を向け、迫る国際大会のことを考え始めた――その時だった。清らかで澄んだ、しかし今夜はどこか深い影を帯びた声が、車内に落ちた。「......ずっと探していた人を、見つけたんです」星は驚いて振り返った。街灯の光が揺らめき、仁志の整った横顔に交互に影を落とす。星の脳裏に、優芽利の姿が過ぎった。だが、余計な詮索は押し込め、穏やかに尋ねた。「いいことじゃない。なのに、あまり嬉しそうじゃないのは......どうして?」夜の闇に溶け込むように、彼の声はどこか寂寥を帯びていた。「......本当は、その恩人なんて存在しなかったんです。ただ僕が、勝手に自分の感情をそれに寄せていただけで......」「ある時期、僕の生活は最悪でした。息が詰まるほどに暗くて、精神も崩れかけていました。自分でも分かっていました。――このままなら、狂うか、死ぬかだって。世界を壊してしまいたいほどに、心が荒れ果てていたのだろう」星は怯えなかった。自分も暗闇を経験したことがある。比べれば彼ほどではないが、それでも、壊れそうになった気持ちは理解できた。「......それで?」促すように静かに問うと、仁志は続けた。「その頃、裏庭でヴァイオリンを弾いている人に出会ったんです」当時、彼は死にものぐるいで自我を保っていた――ほとんど限界だった。もう、溝口家
星の返事は、あくまで礼儀正しく形式的だった。「ありがとうございます」話が一区切りつくと、星は病床の明日香を見た。「明日香さん、今は少しは楽になった?」星は、正道と靖のことは父と兄と呼べる。だが――どうしても明日香を「姉」とは呼べなかった。自分の口から言えば、嘘くさくて、心がついていかない。明日香はそんなことを気にする様子もなく、穏やかに笑った。「大丈夫。しばらく休めば、試合に影響は出ないと思うわ」星は頷いた。「それなら、よかったわ」そして正道へ向き直った。「ほかに特に用事がないようだったら、私は先に失礼するわ」「うむ。今日はずっと忙しかっただろう。帰ってゆっくり休みなさい」星が去ったあと、靖がようやく口を開いた。「明日香......正直に父さんと俺に言ってほしい。さっき司馬さんを庇ったと話したのは......星をかばうためじゃないのか?」明日香は疲れたように、しかし誠実に言った。「違うわ。私は本当のことしか言ってない」鷹のように鋭い靖の視線が、しばし明日香を射抜いた。その目から逃げることなく、明日香は静かに視線を返した。それを確認して、靖はようやく目をそらした。病室の外。優芽利は、星と雲井家の人々が中で話しているのを見届け、ようやく仁志に話しかける機会を得た。「仁志さん、明日は空いてますか?一緒に射撃に行きませんか?」その声は、以前よりもずっと柔らかった。以前から興味はあったが、どうしても身についたお嬢様の傲慢さが滲んでしまっていた。だが今は違う。仁志が溝口家当主だと知った今、彼女の態度は慎重で丁寧だった。仁志は彼女を一瞥し、冷たく返した。「無理です」優芽利は目を見開いた。――仁志が、こんなに冷たい?今まで、一度だってこんな態度を取られたことはなかった。胸に不安が走る。......まさか、自分が偽物だと気づかれた?彼女の心がざわつき始めた。溝口家の当主と知った瞬間から、彼女は仁志を絶対に手に入れると決めていた。彼が他の女性のものになるなど、考えたこともなかった。思わず彼の袖を掴んだ。「仁志さん、どうしたんです......?」その瞬間――病室の扉が開き、星が出てきた。袖を引かれた
司馬家のやり口については、その場にいる誰もが耳にしていた。優芽利の手段は容赦ないが――人が自分を害さない限り、自分も相手を害さないという性格で、義理を重んじ、情にも厚い。彼女が明日香と親友になれたのも、かつて明日香が一度、彼女を庇ってくれたことがきっかけだった。優芽利はその恩を忘れず、明日香が困れば、可能な限りすべてのことを解決してきた。自分で解決できなければ、兄である怜央に助けを求める。怜央と優芽利は幼い頃から支え合って生きてきた。彼は妹をとても大切にしている。怜央が明日香に心を奪われたのも――優芽利の後押しがあってこそだった。言ってしまえば、優芽利は明日香の切り札だった。その場にいる全員が、それを理解していた。優芽利自身も分かっていた。だが、彼女は気にしなかった。人間関係は、結局価値の交換で成り立つもの。自分は明日香の刃となり、明日香は自分の頭脳となる。その関係でずっと上手くやってきた。今まで、明日香の助けを借り、優芽利は司馬家で地位を固めた。かつてのように怜央の背に隠れ、誰かの都合で翻弄される幼稚な可哀想な子ではなくなった。怜央には自身の事業があり、妹をずっと守り続けることはできない。司馬家は食うか食われるかの一族。幼い頃、優芽利はさまざまな策謀に巻き込まれ、命を落としかけたことすらあった。明日香と出会ってからは、そんなことは一度も起きていない。司馬家での居場所も手に入れた。――感情で結ばれた関係は脆い。価値を与え合う関係こそ、揺るぎない。仁志に出会うまでは、優芽利はそう信じていた。彼女は明日香ほど頭が切れるわけではないが、愚かでもない。でなければ、明日香がこんなに深く関わるはずがない。状況に応じて、どう動けばいいか分かっている。今回も、星に責任を押しつけるのが最善だと分かっていた。しかし――明日香は血縁への情を、まだ捨てきれていない。明日香と優芽利の言葉を聞き、正道と靖の表情がいくらか和らいだ。彼らは身内同士で争うことを望んではいなかった。だが朝陽は違う。彼は、優芽利が明日香に合わせているだけだと解釈した。ほどなくして、明日香は病室へ運ばれていった。朝陽は、すでに名医たちを次々と手配し始めていた。病室に入
明日香は、いつも品があり優雅な女性として知られていた。みじめさを見せることを嫌い、弱者のふりをして同情を買うような真似は決してしない。雲井家の人間にとっても、世間にとっても、彼女はいつだって光り輝く完璧な女神。どんなことがあっても、彼女を打ち倒すものなどない――誰もがそう思っていた。そんな彼女が、こんなにも脆く弱い姿を見せるとは。雲井家の父子、朝陽と誠一の顔には、同じように深い痛みが浮かんでいた。優芽利の顔にも、後悔と自責の色がにじむ。そのとき、明日香の睫毛が小さく震え、ゆっくりと目を開いた。正道、靖、朝陽、誠一は、ちょうど駆けつけたばかりの星を押しのけるようにして、いっせいに近づいた。「明日香、大丈夫か?」勢いよく押された星は、よろけて転びそうになった。その瞬間――白く細い腕が、そっと彼女を支えた。振り返ると、仁志だった。「ありがとう」星が小さく礼を言うと、仁志はすぐに手を離した。彼女の目を見ることもなく、口も開かない。以前より、明らかに冷えた距離があった。――そのときだった。星は、誰かの視線が自分に向いているのを感じた。目を向けると、優芽利がじっと、自分だけを見つめていた。星は胸中で察した。......仁志と優芽利の間に、何か進展があったのかもしれない。彼は、余計な誤解をさせたくないのだろう。明日香は周囲の心配そうな表情を見て、弱々しく言った。「私は大丈夫......心配しないで」誠一は思わず声を上げた。「明日香、お前の腕はほとんどダメになるところだったんだぞ!ヴァイオリンも絵もレースも、全部手が命じゃないか!お前がこんな怪我をするなんて、今まで一度もなかっただろう!」明日香は、生まれてからずっと大切に育てられ、まさにお姫様のような人生を送ってきた。苦痛とは無縁の存在だった。だが彼女は、蒼白な唇にかすかな笑みを浮かべた。「先生が言ってたわ......傷跡は残るけど、絵もヴァイオリンも、レースも......続けられるって」誠一の瞳に、消せないほどの哀れみが滲んだ。そのとき、朝陽が前に出た。「明日香、お前に硫酸をかけたやつ......顔は見たか?心配するな。誰だろうと、必ず見つけ出して百倍返しにしてやる」







