ログイン「それなら、私の昔のことも、これ以上聞かないでください」
若菜が言うと、祥子は口を開きかけた。けれど何も聞き返さず、膝のバッグへ目を落とした。
「……分かったわ」
若菜は、それ以上の約束はしなかった。
祥子は帰り際まで、もう恋人の名を尋ねなかった。
玄関の扉を閉め、若菜は息を吐いた。
ようやく帰ってもらえた。
謝ってくれたときには、もう少し違う気持ちで見送れると思ったのに。
……
翌日の午後6時半、個室の扉が開いた。
若菜は椅子から立ちかけた。直人が入口に立ち、店の係へ短く礼を言っている。
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「あなたは、私が何をしたと話すつもりなの」祥子が尋ねると、英明は日程を書いた紙から顔を上げた。「あったことを話すだけだ」「医師を待つと決めたのは私だと、それだけ言うんでしょう」英明は紙を卓へ戻した。「違うのか」祥子はその紙を自分のほうへ寄せた。違わない。だから、英明に任せてはいけないのだと思った。息子を見たとき、声が出たことに安心した。家の医師なら何とかしてくれると思った。いまなら別の手配をする、と言っても、その夜へは戻れない。そこへ至るまでに何を聞かされたかも、自分が何を思い込んだかも、英明に代わりに話してもらいたくなかった。「私が答えるわ。私に聞かれていることだもの」「別々に話して、食い違えばどうする」「合わせれば、食い違わなくなるの?」英明の頬が動いた。祥子は携帯を手元へ戻した。いつもなら、ここで夫の返事を待った。声を荒らげられる前に別の話へ移り、あとから自分の望むほうへ仕向ければいいと思っていた。今度は、そのやり方では済まない。圭吾の出生について口にした言葉は、もう戻せなかった。夫の隣に座り、何も知らない顔をして孫を呼ぶ場所も、自分で壊した。「お前は、圭吾のことまで何を言いだすか分からん」英明が言った。祥子は携帯を握る手を止めた。「私があなたに黙っていたことなら、私に聞いて。あの夜のこととは、別でしょう」
相馬から届いた封筒を、若菜は弁護士の前で開いた。中に入っていたのは、本邸で見せてもらった連絡控えの写しだった。添えられた紙には、原本は手元に保管していることと、説明のために連絡してほしいという相馬の希望が書かれていた。「この方が、ご主人の転倒を見ていたんですか」向かいの女性弁護士が尋ねた。「いいえ。圭吾とお義父さんが話していたときは、席を外していたと聞いています。こちらは、人を呼ぶ手配の控えです」若菜は紙へ手を添えた。ずっと、この家の中だけで見ていたものだった。榊原家の誰とも面識のない人が、その時刻を読み、相馬の連絡先を書き留めている。若菜は手を膝へ戻した。「ご自身が見たことから、順番に伺ってもいいですか」そう言われ、若菜は持ってきたメモを開いた。当夜、その場にはいなかった。夫は本邸で転んだと聞いた。英明が接触したことを知ったのは、一昨日だった。何度も読んで準備したはずなのに、話し始めると順番が前後した。英明の言葉を思い出せば祥子の顔も浮かび、葬儀の日に言われたことまで口にしかける。弁護士は急がせず、若菜が言い直すたび、記録した箇所を確かめた。「いまのお話は、英明さんご本人の言葉ですね」「はい。私がそう思った、ということではありません」答えながら、自分がどれほど聞いてもらいたかったのかが分かった。あの家では、圭吾のためになるのかと返された。知ってどうするのかとも聞かれた。ここではまず、何を聞いたかを尋ねてくれる。それだけで、続
「ここ、以前にも来たことがあるんですか」若菜は駅から歩きながら尋ねた。修哉が持っていた案内には、古い商店街の写真が載っている。大きな美術館ではなく、通りに面した小さな展示室だった。「何度か。気になる展示があると、ひとりで寄ります」「今日は、私がいてもいいんですね」「いてほしくて、誘ったんです」修哉は言い、先に入口へ向かった。若菜はその背を追った。さらりと聞き流せるほど、そういう言葉に慣れてはいない。彼がどんな顔で言ったのか、横に並んで確かめたくなった。展示室には、雨の日の通りや、朝の市場の写真が並んでいた。若菜は傘を差してバスを待つ人々の前で足を止めた。一枚の傘から、ふたり分の足が出ている。「この人たち、近いですね」修哉ものぞき込んだ。「雨が強そうですから」「それだけでしょうか」若菜が小さく笑うと、修哉はもう一度写真を見た。「俺は、後ろの店の看板を見ていました」「看板?」「隣より低いところに出ているでしょう。通りを歩いたら、どこから見えるのか気になって」若菜は写真へ近づいた。雨宿りのふたりばかり見ていたので、その奥に店があることにも気づかなかった。「修哉さんと見ると、違うところが見えるんですね」「こっちの台詞です」彼は傘の下を指さしかけ、手を下ろした。
「昨日、英明さんに電話した。何にどこまで出してくれるのか、聞いたんだ」湊が寝てからかけた電話で、直人は先にそう言った。若菜は居間の椅子に座り直した。今日のことを書いたメモの横に、圭吾のファイルを置いている。「何て?」「金額は、そのとき決めると。大きな金が必要なことは、決める前に話せと言われた」「話したら、あの人がいいと言うまで待つの?」「そこを聞いたら、相談もせず金だけ出せと言うのかって」若菜は目を閉じた。助けるという言葉だけを、何度も思い返していた。先へ進めば、何をするにも英明の返事を待つことになるのかもしれない。「まだ返事はしていない。お前と話してからにすると言った」「うん。……今日、圭吾のことで聞いたことがあるの」若菜はメモへ目を落とし、本邸での話を伝えた。圭吾が帰ろうとしたこと。英明が腕をつかみ、肩を押し戻したと言ったこと。頭を打った場所も、若菜が当時聞いていた話にはなかった。直人は途中で一度、短く聞き返した。「本人が、そう言ったんだな」「うん。祥子さんと相馬さんもいた」祥子が葬儀前から知っていたことまで話すと、若菜は携帯を膝へ下ろしかけた。まだ通話中だと思い出し、耳へ戻す。「今、大丈夫か」直人の声がした。「聞いたときより、今のほうが……」続きを言えなかった。人に話すと、英明の
「私も、圭吾の家族です」若菜は開いた扉の前で振り返った。英明は椅子に座ったまま、こちらを見ていた。「家族なら、何をしてもこの家だけで済ませていいんですか」「誰がそんなことを言った。お前は、聞いたことを全部分かったつもりなのか」「分からないから、ほかの人にも聞いてもらいます」「何をする気だ」英明が椅子の肘をつかんだ。若菜はバッグの持ち手を握り直した。声を張り合えば、今度は何を言われるだろう。圭吾を失ってから、何度もこの家で答えを求められた。そのたびに、自分が隠していることが怖かった。今も、怖くなくなったわけではない。「私ひとりでは決められません。今日聞いたことも、まだ知らないこともあります。でも、なかったことにはしません」祥子が顔を上げた。「若菜さん。湊くんのことまで、人に話すことになるかもしれないのよ」その言葉に、足が止まった。湊の出生を伏せたのは自分だ。圭吾に言えなかったことも、言わずに過ごした日々もある。自分に都合の悪いところだけ閉じて、誰かに話を聞いてほしいとは言えない。「必要なら、私が答えます」若菜は祥子を見た。「でも、私に話せなかったことがあるからって、圭吾がどうして亡くなったのか、聞いてはいけないわけではないでしょう」祥子は返事をしなかった。相馬が廊下へ下がった。若菜はふたりに背を向け、開いている扉を通った。&n
「知っていて、私にあんなことを言ったんですか」若菜が尋ねると、祥子は膝の上で握っていた布を離した。白い花の前で、祥子は湊を呼び戻せと怒鳴った。父親との最後の別れまで奪うのかと、母親として何とも思わないのかと。そのとき、この人は知っていた。若菜の夫が、自分で転んだわけではなかったことを。「あの日は、圭吾のことしか考えられなかったの」祥子が言った。「棺が閉まったら、もう顔も見られない。なのに湊くんまでいなくて……」「私も、圭吾を見送っていたんです」若菜の声が震えた。棺のそばで立っていた自分を、祥子は見ていたはずだった。泣き崩れなかったから悲しくないとでも思ったのだろうか。湊がいない理由を説明するために立っていたわけではない。「祥子さんに責められながら、私も、あの人とお別れしていたんです」祥子は若菜を見た。何か言おうとしたが、言葉は続かなかった。英明が椅子の上で身じろぎした。若菜はそちらを見ず、祥子へ尋ねた。「どうして、英明さんは話したんですか」「私が聞いたのよ。ふたりで話していただけなのに、どうしてあんなことになったのかって」祥子の目が、隣の英明へ向いた。「圭吾が亡くなってからよ。何度考えても、分からなかった。転んだとしか聞いていなかったから」英明は何も言わなかった。「引き止めただけだと言ったわ。話が終わるまで、部屋







