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その夜、悠人は重い荷物を背負ってキャンプ地へやって来た。テントを張り、お菓子を並べ、焚き火を起こすまで、莉緒には一切手伝わせず、すべて1人でこなした。支度が整うと、悠人は柔らかなクッションをぽんぽんと叩いて莉緒に座るよう促し、用意していた毛布を肩にかけた。「ここ、よく見えそうだよ。写真は僕が撮るから、莉緒はオーロラを楽しんで」言い終えた悠人の袖を、莉緒がそっと引いた。「せっかくの景色なんだから、自分の目で見なくちゃもったいないよ。座って、一緒に見よう」悠人の耳が、また赤くなった。オーロラが現れるのを待つあいだ、2人は静かに夜空を見上げていた。莉緒はお菓子を口へ運びながら、焚き火のぬくもりを感じていた。そのとき、スマートフォンにニュースの通知が届いた。【久世怜司氏が今朝病死久世グループはすでに経営破綻】見慣れた名前に、莉緒は一瞬だけぼんやりと画面を見つめた。悠人のスマートフォンにも、同じ通知が届いていた。ひそかに莉緒へ好意を寄せている彼は、彼女の過去について調べたことがあり、莉緒がこれまで何を経験してきたのかも、怜司という男の存在も知っていた。訃報を見た悠人は、とっさに莉緒の横顔をうかがった。けれど莉緒は、黙って画面を見ただけで、すぐにスマートフォンをしまった。「莉緒、あの……」「見て、オーロラ!」悠人が何か言いかけたそのとき、夜空に光の帯が現れた。周りにいた学生たちが一斉にカメラを構え、莉緒も双眼鏡を手に取って、少し背伸びをしながら夜空を見上げる。深い藍色の夜空を裂くように、鮮やかな緑の光が幾重にも広がっていく。真っ白な雪原まで淡い光に包まれ、莉緒はその神秘的な美しさに見入っていた。やがて双眼鏡を下ろして隣を見ると、悠人はオーロラではなく莉緒を見つめていた。夜の闇の中で黒い髪がほのかにつやめき、前髪が風に揺れている。ほんの一瞬、莉緒はその瞳の中に自分が映っているような気がした。悠人の顔がみるみる赤くなっていくのを見て、莉緒はふと何かを思い出したようにリュックを探り、手編みの白いマフラーを取り出した。もともとは美月のために編んだものだったが、先月恋人ができた美月は、彼氏とおそろいのマフラーを使うようになっていた。冷たい風にさらされて赤くなった悠人の首元を見ているうちに、莉緒はそのマ
莉緒は長いあいだ静養した。美月は、あのとき怜司に近づくよう勧めてしまったことをずっと悔やんでいた。そのため自ら莉緒のそばに残り、身の回りの世話をしてくれた。莉緒の前で怜司の話をすることはほとんどなかったが、ひとたび名前が出れば、決まって辛辣な悪口が飛び出した。あの一件以来、美月は顔のいい男をすっかり警戒するようになり、「イケメンにろくな奴はいない」と何かにつけてこぼすほどだった。そんな美月に支えられ、莉緒は少しずつ暗い日々から抜け出していった。4月の初め、莉緒は荷物をまとめ、美月とともに留学先へ戻ることにした。空港まで見送りに来た正雄は、名残惜しそうに莉緒を見つめた。「体には気をつけるんだぞ」そう声をかけられ、莉緒が保安検査場へ向かおうとした、そのときだった。ぶかぶかの病衣を着た怜司が、おぼつかない足取りでこちらへ走ってくる。その姿に気づくなり、美月はすぐさま莉緒を背後にかばった。「あんた、まだ生きてたの!?」怜司は美月の怒声など耳に入っていないかのように、その向こうにいる莉緒だけを見つめていた。「莉緒、行かないでくれ……そばに残ってくれるなら、何だってする。持ってるもの全部、お前にやるから……」こんな怜司を見るのは初めてだった。ひどくやつれ、すっかり弱々しくなっていた。莉緒はしばらく黙ったまま、その姿を見つめていた。やがて、心配そうにそばにいる美月の腕をそっと握ってから、まっすぐ怜司の前へ進み出た。「莉緒……」怜司が手を伸ばしたが、莉緒は触れられる前に静かに身を引いた。絶望した怜司を前に、莉緒は静かに口を開いた。「私、本当にあなたを愛してた。何もかも差し出せるくらい、心から。いじめられていた私を、あなたが助けてくれたでしょう。あのころの私には、あなたが暗闇に差し込んだ光みたいに見えた。この人となら、一生一緒にいられるって、本気で思ってたの。一緒に過ごした時間は、何もかもが大切だった。私に近づいてきたのには何か裏があるって分かっても、少しくらいは本気だったかもしれないって、ずっと自分に嘘をついてた。でも最後には、あなたがその手で私を地獄に突き落とした。怜司、チャンスなら何度もあげたわ。一度だけじゃない。でも、もう終わりよ。あなたへの気持ちは、もう何も残ってない」それだ
「莉緒!」正雄は娘を強く抱きしめ、こらえきれないように涙を流した。莉緒が海外へ渡ってからも、ずっと心配でならなかった。毎月欠かさず送金を続けていたが、あるとき口座の金がまったく使われていないことに気づき、そこで初めて、娘が黙って戦地の医療支援活動に参加していたことを知ったのだ。それからというもの、戦地で無事に過ごしているのか、危険な目に遭ってはいないかと、毎日のように莉緒のことばかり考えていた。やがて、怜司が莉緒を連れ戻し、屋敷に閉じ込めていると知った。正雄は何度も屋敷へ乗り込もうとしたが、周囲の警備が厳しく、どうしても中へ入れない。とうとう正雄は、莉緒を救い出すために屋敷へ火を放った。無茶なやり方ではあったが、こうして娘は無事に戻ってきた。「莉緒、父さんが悪かった。お前を疑って、あんなにつらい思いをさせて……」声を詰まらせながら、正雄は何度も謝った。これまでは、莉緒の素行が悪く、沙織に嫉妬しているのだと思い込んでいた。だが、あとになってようやく分かった。莉緒は初めからずっと被害者だったのだ。怜司と沙織にもてあそばれ、辱められ、命まで失いかけた。正雄は悔やんでも悔やみきれなかった。怜司と沙織には、必ず自分たちのしたことを償わせる。そう心に固く誓った。父と抱き合ってしばらく泣いていた莉緒だったが、ふと何かを思い出し、不安そうに顔を上げた。「でも、怜司は何をするか分からないわ。私を連れ出したって知ったら、お父さんたちまで何をされるか……」閉じ込められている間に、嫌というほど分かっていた。怜司の執着も残酷さも、すでに常軌を逸している。そんな莉緒を安心させるように、美月が口を開いた。「大丈夫だよ、莉緒。お父さんが、ちゃんと先のことまで考えてくれてるから。莉緒を助け出すだけじゃなくて、久世グループを追い詰めるためにも動いてたの。今までのことは、もう全部メディアに出てる。あの人も、もう好き勝手できないよ」……その夜、久世家と桐谷家をめぐるこれまでの騒動が、瞬く間にSNSで拡散された。怜司と沙織が莉緒に何をしてきたのかを知った人々は一斉に2人を非難し、その影響は久世グループにも及んだ。株価は一気に下落し、怜司自身も重圧に耐えられず、持病を悪化させて入院することになった。入院してからは、意識が戻ったかと
莉緒は、怜司の屋敷に閉じ込められた。手首と足首には冷たい鎖が巻かれ、少し身じろぎするだけでも硬い金属音が響く。そこで初めて、莉緒は怜司が見た目以上に恐ろしい人間なのだと思い知らされた。遠い戦地まで危険を冒して捜しに来たのも、彼女を愛しているからではない。ただ、自分の独占欲を満たすためだったのだ。38回目の逃亡も失敗に終わったとき、莉緒はかすれた声で尋ねた。「怜司……私って、あなたにとって何なの?」怜司は彼女の頬をなでながら、その顔をじっと見つめた。「俺が一番愛してる女だ」その言葉を聞いた莉緒は、ふいに笑った。けれど、笑っているうちに、いつの間にか涙が頬を伝っていた。そんな彼女を屋敷に閉じ込めたまま、怜司は毎日さまざまな料理を用意させ、高価な品も次々と与えた。しまいには、世話をする使用人たちまでが口をそろえて勧めてくる。「こんなに何不自由なく暮らせるんですから、もう久世様とご結婚をされればいいのに」けれど、与えられるものが増えるほど、莉緒の心は空っぽになっていった。手首と足首につながれた鎖を見るたび、嫌でも思い知らされる。ここでは1人の人間として扱われているのではない。ただもてあそばれるだけの存在にすぎないのだと。やがてうつ症状が再び現れ、莉緒はみるみるやせていった。出張から戻った怜司は、変わり果てた彼女の姿を見て驚いた。慌てて鎖を外させたものの、莉緒にはもう逃げる力さえ残っておらず、力なく怜司にもたれ、弱々しく呼吸を繰り返すだけだった。「お前ら、いったいどうやって世話をしていたんだ!」怜司は使用人たちをにらみつけ、そのまま声を荒らげた。「医者を呼べ。今すぐ!」ほどなくして医師が駆けつけ、莉緒を診察した。ひととおり診察を終えると、医師は怜司を少し離れたところへ呼び、慎重に口を開く。「ここまで衰弱しているのは、精神的な負担が原因です。これ以上、このようにお閉じ込めになるのは危険です。このままでは……」「このままだと、どうなる?」鋭い目を向けられ、医師は言葉に詰まった。怜司の気性の荒さについては以前から耳にしている。しばらく迷った末、医師はそれ以上何も言わず、診察を終えて部屋を出ようとした。その背中に、莉緒のか細い声が届く。「お願い……私をここから連れ出して……」医師は
莉緒は支援隊の人々とともに前線へ向かい、瓦礫の中に男の姿を必死に捜した。どれほど捜しただろうか。やがて、放置されたトラックのそばでようやく男の姿を見つける。男が担架に乗せられ、運ばれ始めたそのとき、顔を覆っていた黒い仮面がふいに落ちた。「うわ、すごいイケメン!」美月の声につられて莉緒も男の顔をのぞき込み――次の瞬間、息をのんだ。怜司……本当に彼だった。ちょうどそのとき、担架の上で怜司がゆっくりと目を開けた。そばに莉緒がいることに気づくなり、その手首をつかむ。「莉緒、行かないでくれ……」かすかに震えるその声を聞き、美月が驚いたように2人を見比べた。「2人、知り合いなの?」莉緒は何と答えればいいのか分からなかった。手を振りほどこうとしても、怜司の力は強く、どうしても離してもらえない。結局、そのまま宿営地まで戻ることになった。到着してからも、莉緒が立ち去ろうとするたびに怜司は手を放そうとせず、彼女以外には手当てをさせようとしない。とうとう美月まで困り果て、莉緒に声をかけた。「莉緒、もう手当てしてあげたら?こんなイケメンなんだしさ」半ば無理やり残された莉緒は、黙って救急箱を持ってくると、そのままひと言も交わさず傷の処置を始めた。けれど、怜司に名前を呼ばれた瞬間、莉緒は怒りを込めてその傷口を強く押した。怜司が痛みに息をのんでも、莉緒の胸に残る怒りは少しも収まらなかった。とっくに忘れたつもりでいたのに、この顔を目の前にすると、あの屈辱的な過去が嫌でもよみがえってくる。あれほど信じていたのに、怜司がしたことといえば――動画を出回らせて莉緒を辱め、友人たちを使って唐辛子エキスで苦しめた。あの男たちに連れ去られたときには、莉緒がどうなっても構わないと見捨てたのだ。それなのに、今さらよく自分を捜しに来られたものだと思う。莉緒の手にはさらに力がこもり、やがて怜司の額に痛みで玉の汗が浮かび始めた。それを見て、ようやく傷口から手を離す。「包帯は巻いたわ。もう行くから」そう言い残し、莉緒はためらうことなく背を向けた。ところが、怜司はふらつきながらも立ち上がると、取り乱したように彼女の手首をつかんだ。そのままベッドへ押し倒され、莉緒は思わず声を上げる。「怜司、何するの!」傷から血がにじんでいること
鋭い破片が男の背中を襲い、いくつもの傷をつくった。それでも男は身じろぎひとつせず、歯を食いしばって低くうめいただけだった。「危ない、こっちへ」そう言うと、男は莉緒を半ば強引にテントへ連れ戻した。そこで初めて、莉緒は男の体が血に染まっていることに気づいた。破片による傷は深く、骨が見えているところさえある。「動かないで。すぐ手当てするから」莉緒は急いで男を椅子に座らせると、慎重に服を切り開き、傷口に入り込んだ破片をピンセットで1つずつ取り除いていった。男も拒まず、黙って彼女に任せている。ようやく包帯を巻き終えたところで、莉緒は男が黒い仮面をつけていることに気づいた。「その顔……」「やけどしてるんだ。人を驚かせたくなくて」莉緒はそれ以上何も聞かなかった。助けてもらった礼を言おうとした、そのときだった。どこからともなく美月が駆けてきて、興奮した様子で莉緒の腕を引き、少し離れたところまで連れていく。「莉緒、あの人の顔見た?」「え?」「さっき言ってた通信の専門家!どんな顔だった?」莉緒は首を振った。「やけどしてて、人を驚かせたくないんだって」美月は驚いたように目を丸くしたあと、残念そうにため息をついた。「えー、わざと顔を隠してるのかと思った。ほんとに顔がひどいことになってるんだ……」「美月、そういうこと言わないの。任務中でけがをしたのかもしれないでしょ。失礼だよ」莉緒にたしなめられ、美月はぺろっと舌を出し、それ以上は何も言わなかった。3日後、戦闘はいったん収まった。支援隊はすぐには次の地域へ移らず、その場に残って負傷者たちの治療を続けた。そんななか、莉緒はあの通信の専門家が、いつも黙って自分のそばにいることに気づいた。命を救ってもらったこともあり、莉緒も何かと彼を気遣っていた。けれど、一緒に過ごすうちに、どこか引っかかるようになった。仕草も、声も、ある人物によく似ている。そんなはずがない。怜司はすでに沙織と婚約している。こんな戦火の絶えない場所まで来るはずがないし、そもそも自分の居場所を知るはずもなかった。そう考え、莉緒は浮かんだ疑念を打ち消した。少し離れたところでは、怜司がそんな彼女の姿を見つめていた。遠くまで捜し続け、ようやく莉緒を見つけた瞬間、胸は喜びで満たされ
由希が次に目を覚ました時、すでに病院のベッドに横たわっていた。凛平はベッドサイドに座り、ノートパソコンで仕事の処理をしていたが、何かを感じ取ったかのように、顔を上げて由希を見た。二人の目が合い、凛平は微かに安堵のため息をついたが、口調は相変わらず冷たく硬かった。「人にいじめられる気分はどうだ?」「今回の教訓を覚えておけ。二度と錐菜にちょっかいを出すな」由希は黙って顔をそむけ、一筋の涙が目尻を伝って静かに滑り落ちた。以前は凛平を救いだと考えていた。しかし今、この男の所業は、彼女をいじめていた者たちと何の違いがあるというのだろうか?凛平はベッドで黙り込んでいる女の子
「どうして?」由希は錐菜の発言に理解できなかった。「どうしてって?決まってるじゃない、あんたが身の程知らずだからよ。あんたのお母さんが死んで何年経つと思ってるの?まだ喜多川家のものにしがみついてるなんて」「あれは元々全部私のものだったはずなのよ。愛人の子が喜多川家の富や名誉を享受する資格なんてないわ!」由希はどんなことでも耐えられたが、母を侮辱されることだけは我慢ならなかった。彼女は勢いよく錐菜の前に駆け寄り、歯の間から声を絞り出した。「母は愛人なんかじゃありません。父と結婚した時、あなたたちの存在なんて全く知らなかったのよ」「あなたたちこそが母を死に追いやったのよ
凛平の視線は由希にしっかりと注がれ、明らかに彼女の連絡途絶に不満を感じていた。由希は唇を引き結び、勇気を振り絞って凛平の視線に向かい合った。「まさか桐島理事が、取るに足らない遊び相手のことまで心配なさるとは思いませんでしたわ」いつもは従順な由希が突然反抗的な態度を見せたことに、凛平は少なからず驚いた。凛平はふいに反発心を覚え、ぐいと由希を引き寄せ、腕を彼女の腰に強く巻き付けた。「桐島理事?遊び相手?」「二年間でたった一度きりだぞ。それを遊び相手の関係だと言うのか?」由希には凛平が突然どうして怒り出したのかわからなかった。彼は彼女の顎を掴み、キスをしようとした。その時
凛平はいつものように身を屈め、由希のためにシートベルトを締めてやった。彼女の目の縁が赤くなっているのを見て、低い声で慰めた。「動画の件はアクシデントだ。後始末の手配をするよ。今日は具合が悪そうだから、まず家まで送って休ませよう」由希は唇をわずかに結び、オフィスでの彼の言葉を思い出すと、涙が抑えきれずに溢れ出た。凛平は少し驚いた様子で、手を伸ばして彼女の涙を拭い、それから何かを思い出したように、車のドアを開けて言った。「少し待っていてくれ。ちょっと買いたいものがある」車のドアが閉まると、由希は凛平がスマホを取り違えたことに気づいた。彼のスマホはアームレスト横のくぼみに置かれた