LOGIN朝、美月は腹部の張りで目を覚ました。
しばらく横になったまま様子を見ていると、やがて治まっていく。
「……びっくりした」
予定日が近付けば、こういうこともあると聞いている。それでも、いよいよなのかと思うと緊張した。
時計を見ると、まだ早い時間だった。
念のため時間を記録してから起き上がり、ゆっくりと身支度をする。
入院用のバッグは玄関に置いてある。必要な連絡先も確認してあるし、両親にも出産が近いことは伝えていた。
蒼真にも、何かあれば連絡することになっている。
準備はできている。
そう思っていたのに、いざその日が近付いてくると落ち着かなかった。
◇
「張りが増えてきた気がします」
その日の健診で美月が伝えると、医師は診察をした上で頷いた。
「予定日も近いですからね。ただ、今のところすぐに入院という状態ではありません」
「はい」
朝になってからも、美月の痛みは続いていた。 母親には病院へ来てもらったものの、すぐに生まれるわけではない。痛みが強くなるたびに呼吸を整え、治まったわずかな時間に身体を休めることを繰り返しているうちに、時間の感覚まで曖昧になっていった。「美月、水飲める?」「……うん」 差し出された水を少しだけ飲む。「お父さんも来てるけど、外で待ってるからね」「分かった」「九条さんにも連絡した方がいい?」「ううん、大丈夫。昨日送ってもらったから」 今は出産することだけを考えたかった。 拓也のことも、裁判のことも考えない。 今日だけは、全部を外へ置いておきたかった。 ◇ それからさらに時間が過ぎた。 痛みはますます強くなり、美月には時計を見る余裕もなくなっていた。 助産師の声を聞きながら、ただ言われた通りに呼吸をする。「朝倉さん、もう少しですよ」「はい……っ」 もう少し。 その言葉を何度聞いたのか分からない。 苦しくて、痛くて、途中で何度も弱音を吐きそうになった。 それでも時間は進んでいく。 そして――。「朝倉さん、生まれましたよ」 その声とほとんど同時に、小さな産声が聞こえた。 美月は一瞬、何を言われたのか分からなかった。「……生まれた?」「はい。元気ですよ」 赤ちゃんの泣き声が聞こえる。 急に身体から力が抜けた。「よかった……」 涙が出た。 悲しいわけでも、怖いわけでもない。ただ無事に生まれたことに安心して、止めようとしても涙が流れてくる。 やがて赤ちゃんを見せてもらうと、美月はしばらく何も言えなかった。 小さい。
美月はベッドの上で、スマートフォンに記録した時刻を確認した。 最初はばらばらだった痛みの間隔が、少しずつ揃ってきている。 まだ耐えられないほどではない。それでも、さっきまでの張りとは明らかに違っていた。「……電話しよう」 一人で判断し続けるより、病院に聞いた方がいい。 美月は教えられていた番号へ電話を掛け、痛みの間隔や現在の状態を伝えた。 いくつか質問を受けたあと、病院へ来るように言われる。「分かりました。これから向かいます」 通話を終えると、急に緊張が増した。 本当に始まったのだ。 美月は一度深く息を吐き、次に蒼真へ電話を掛けた。 深夜だから、出なければタクシーを呼べばいい。 そう思っていたが、数回の呼び出し音で繋がった。『はい』「九条さん……すみません、こんな時間に」『大丈夫です』「病院に来るように言われました」『分かりました。すぐ行きます』「急がなくて大丈夫です。まだ歩けますから」『はい』 それだけ答えて、電話が切れる。 美月は着替えを済ませ、玄関に置いてあった入院用のバッグを確認した。 その途中で、また痛みが来る。「っ……」 壁に手をつき、治まるのを待った。 怖い。 けれど、今はやることがある。 痛みが引いてから靴を履き、蒼真を待った。 ◇ ほどなくして、インターホンが鳴った。 美月が玄関を開けると、蒼真が立っていた。「歩けますか」「はい」 蒼真は入院用のバッグを受け取った。 美月は鍵を掛け、ゆっくり廊下を進む。 エレベーターを待っている途中で、また痛みが来た。 美月が足を止めると、蒼真も黙って
朝、美月は腹部の張りで目を覚ました。 しばらく横になったまま様子を見ていると、やがて治まっていく。「……びっくりした」 予定日が近付けば、こういうこともあると聞いている。それでも、いよいよなのかと思うと緊張した。 時計を見ると、まだ早い時間だった。 念のため時間を記録してから起き上がり、ゆっくりと身支度をする。 入院用のバッグは玄関に置いてある。必要な連絡先も確認してあるし、両親にも出産が近いことは伝えていた。 蒼真にも、何かあれば連絡することになっている。 準備はできている。 そう思っていたのに、いざその日が近付いてくると落ち着かなかった。 ◇「張りが増えてきた気がします」 その日の健診で美月が伝えると、医師は診察をした上で頷いた。「予定日も近いですからね。ただ、今のところすぐに入院という状態ではありません」「はい」「規則的な痛みが続くようになったり、破水したりした場合は連絡してください。ほかにも心配な症状があれば、迷わず病院へ」「分かりました」 診察を終え、美月はほっと息を吐いた。 今日ではなかった。 けれど、いつ始まってもおかしくない時期に入っている。 病院を出ると、蒼真が待っていた。「どうでしたか」「まだ大丈夫みたいです。でも、そろそろだと思います」「そうですか」 蒼真はそれ以上聞かず、美月が乗りやすいように助手席のドアを開けた。「ありがとうございます」 車へ乗り込み、美月はシートベルトを締める。 窓の外へ流れていく景色を見ながら、ふと考えた。 もし夜中に始まったら。 もし蒼真が仕事中だったら。 もちろんタクシーを使うこともできるし、病院へ行く方法は一つではない。それでも、念のため確認しておきたかった。「九条さん」
法律相談を終えた翌日、拓也は紹介された書式を確認しながら、答弁書に書く内容を考えていた。 離婚には同意しない。 夫婦関係を修復したい。 生まれてくる子供と三人で暮らしたい。 書きたいことはいくらでもあったが、相談した弁護士からは、感情のまま長々と書くのではなく、まずは必要な対応をするよう言われている。 拓也は結局、その弁護士に依頼することにした。「今後、相手方とのやり取りはどうなるんですか?」「訴訟についてはこちらで対応します。奥様には代理人がついていますので、必要な連絡も原則として代理人を通すことになります」「美月本人とは?」「以前から直接の面会を拒否されているんですよね?」「はい」「でしたら、連絡や接触は控えてください」 また同じことを言われた。 拓也は不満を飲み込む。「子供が生まれたら、それは教えてもらえますか?」「奥様側から連絡があるとは限りません」「俺、父親ですよ?」「出生後のお子さんに関することと、奥様への直接の接触は分けて考える必要があります」「……じゃあ、知らないままになることもあるんですか?」「少なくとも、出産予定の病院を探したり、奥様の行動を確認したりすることはやめてください」 拓也は口を閉じた。 そんなことをするつもりはない。 病院には行かないと決めているし、警察にも言われている。 ただ、自分の子供が生まれるのに何も知らされないということだけが、どうしても理解できなかった。 ◇ 美月の腹は、以前よりさらに大きくなっていた。 立ち上がる時にも自然と動作がゆっくりになり、長く歩けば疲れる。 カフェへの復帰は、出産後に落ち着いてから考えることにした。「これで大体揃ったかな」 サービスアパートの部屋で、美月は入院用のバッグを確認していた。
それから数日、美月は藤崎から頼まれた資料を確認していた。 拓也から届いたメッセージやメールは、すでに藤崎のもとにも多く残っている。それでも、結婚生活について時系列で整理するため、美月自身にしか分からないことを確認する必要があった。「これ、全部ですか?」「現時点でこちらが把握しているものは、ほぼ揃っています」 藤崎の机の上には、印刷された記録が並んでいる。 見覚えのある文章を読むたびに、美月は当時のことを思い出した。「こんなにあったんですね」「一件ずつ見ている時には、分かりにくいものですから」「そうかもしれません」 病院へ来たこと。蒼真の車を追って住んでいる建物を突き止めたこと。両親の家へ知人を使って手紙を届けたことや、蒼真の会社を訪ねたこと。 それぞれが別々に起きた時には、ただ怖くて、その場をやり過ごすことしか考えられなかった。 けれど、こうして順番に並べると違って見える。「私、ずっと嫌だって言ってたんですね」「はい」 藤崎は短く答えた。 美月は一枚の書類を見つめた。 自分がもっとはっきり言えばよかったのではないか。どこかで誤解させたのではないか。 そんなことを考えた時期もあった。 けれど記録の中には、何度も同じ意思が残っている。 戻らない。 会わない。 離婚したい。「これでお願いします」「分かりました。こちらで準備を進めます」 ◇ 拓也はその日も、仕事から帰ると郵便受けを開けた。 封筒が何通か入っている。 広告。 公共料金の知らせ。 そして、その奥に見慣れない封筒があった。「……」 差出人を確認した瞬間、指が止まった。 裁判所。 その文字を見ただけで、心臓が強く鳴った。 拓也は急いで部屋
翌日、藤崎から拓也の申し出を聞いた美月は、しばらく何も言わなかった。「ご主人は、二人だけで直接話す機会を設けるのであれば、離婚について考える、と」「二人だけで?」「はい」 美月は眉を寄せた。 家庭裁判所で、すでに直接伝えたはずだ。離婚したいことも、もう一緒には暮らさないことも、会いたくないことも。九条や藤崎に言わされているわけではなく、すべて自分の意思なのだとも伝えた。 それでも、拓也にはまだ足りないらしい。「会いません」「分かりました」「それで拓也が離婚しないと言うなら、裁判を進めてください」「はい」 藤崎は淡々と答えた。「ご主人の同意を得るために、直接会うことを条件として受け入れる必要はありません」 美月は頷いた。「前だったら……裁判なんて大変だから、一回くらい我慢した方がいいのかなって思ったかもしれません」 十分だけ、一度だけ。それで済むなら我慢すればいい。 そうやって美月は何度も、自分が嫌だと思うことを後回しにしてきた。「でも、もう嫌です」「そのご意向でお伝えします」「お願いします」 ◇ その日の夕方、拓也のもとへ藤崎から連絡が入った。『奥様は、直接の面会には応じないとのことです』「……じゃあ、裁判するんですか?」『今後の手続きについて準備を進めています』「俺、離婚を考えるって言いましたよね?」『伺っています』「だったら普通、会うでしょう」『奥様はそうお考えではありません』「なんでですか?」『朝倉さん』 藤崎の声は変わらない。『奥様は、離婚に応じてもらうために直接会うことを希望していません』「でも、裁判しなくて済むんですよ?」『ご主人が離婚に同意されるのであれば、直接会うことを条件にせず、その旨をお伝えいただければと思います』 拓也は黙り込んだ。「……それじゃ意味ないでしょう」『意味がない、とは?』「俺は美月と話したいんです」『奥様は希望していません』「だから!」 思わず声が大きくなり、拓也は周囲を見回した。まだ会社の近くだ。通行人の視線に気づき、慌てて声を落とす。「俺が離婚を考えるって言ってるんだから、美月だって少しくらい譲るべきじゃないですか?」『そのような条件での面会には応じない、というのが奥様の回答です』「……」『ほかにご用件がなければ、失礼します』