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第 3 話

last update publish date: 2026-08-09 11:21:07
「詭弁だ」

「では、殿下。これらを作る役職名をお教えくださいませ」

ジュリアスが黙った。

そんな役職はない。

王太子妃候補。

それが、クラリスに与えられていた唯一の名だった。

けれど、その名で支払われたものはなかった。

朝から晩まで王宮に詰め、王妃執務院の滞りを直し、貴族夫人の機嫌を取り、神殿への寄付金が遅れないよう財務卿に書簡を送り、王太子の挨拶文を直し、妹のドレスの色まで気にかける。

それらはすべて、未来のため。

いつか王太子妃になるのだから。

そう言われれば、断れなかった。

だが、その未来は今、王太子自身の口で消された。

「クラリス」

ジュリアスの声には、苛立ちが混じっていた。

「最後くらい、潔く振る舞え」

「潔く?」

「ミレーヌのためにも、引き継ぎをしていけ。姉だろう」

その瞬間、イリスが口を開きかけた。

クラリスは片手で制した。

侍女の怒りを借りる必要はない。

これは、クラリス自身が終わらせるべきことだった。

「ミレーヌ」

妹は肩を震わせた。

「はい……」

「引き継ぎは必要かしら」

ミレーヌは、ジュリアスとクラリスを交互に見た。

今、ここで必要だと言えば、先ほどの言葉が崩れる。

自分にもできると言った。

姉の仕事くらいと言った。

王太子の隣で、笑顔で言った。

だから、彼女は引けなかった。

「……必要、ありませんわ」

声は少し細かった。

それでも、言った。

「私、自分でできます。殿下もいてくださいますもの」

ジュリアスは安堵したように頷いた。

「そうだ。ミレーヌには私がついている」

クラリスは、初めてほんの少しだけ口元を緩めた。

笑みというには淡すぎるものだった。

「承知いたしました」

補足資料をすべて鞄へ収める。

羽根ペンを置く。

インク壺の蓋を閉める。

自分の紋章入りの封蝋をしまう。

そして、最後に王太子の挨拶文を机の上に残した。

それはすでに修正済みだった。

今夜だけは、まだ王宮に傷をつけずに済む。

そこまでしてしまう自分に、クラリスは内心で少しだけ呆れた。

手放すと決めても、最後の紙一枚を整えてしまう。

十年で染みついた癖は、そう簡単には抜けないらしい。

イリスが外套を差し出した。

「お嬢様」

「ありがとう」

クラリスは外套を羽織り、机から一歩下がった。

ミレーヌは不安を隠すように、花のように笑う。

「お姉様、怒っていらっしゃるの?」

「いいえ」

「本当に?」

「ええ」

怒っているのか。

クラリスは自分の胸に問うた。

怒りは、あるのかもしれない。

けれど、それより先に、ひどく静かな疲れがあった。

寝不足の朝に、ようやく重い鞄を床へ置いた時のような、頼りない解放感。

自分でも驚くほど、涙は出なかった。

「ミレーヌ」

「はい」

「王宮は、笑顔だけでは回りません」

妹の表情が強張る。

クラリスは続けた。

「けれど、あなたができると言ったのなら、きっとなさるのでしょう」

「もちろんですわ」

「では」

クラリスは、王太子と妹へ深く一礼した。

王妃教育で叩き込まれた、完璧な礼だった。

「明日から、お願いいたします」

それが、クラリス・フォン・エルディアが王太子妃候補として残した最後の言葉になった。

扉の外へ出ると、廊下は夜会前の慌ただしさで満ちていた。

銀の盆を持った侍女。

花を運ぶ庭師。

控え室へ案内される伯爵夫人。

廊下の端で小声で打ち合わせをする文官。

誰も、今この瞬間に王宮の土台から一本の柱が抜けたことを知らない。

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