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第 4 話

last update publish date: 2026-08-09 11:21:07
知らないまま、いつもどおりに夜会は始まろうとしている。

イリスはしばらく黙って歩いていたが、人気のない回廊に入ると、低い声で言った。

「お嬢様」

「何?」

「今夜のうちに、王宮の厨房へ白薔薇の件だけでも伝えますか」

クラリスは足を止めた。

窓の外に、夜の庭が見える。

白薔薇が揺れていた。

ノルヴァルト公国では、白薔薇は和解拒絶の花。

今夜、大使夫人に贈られれば問題になる。

ただ、正式な贈花の確認は明朝。

今夜はまだ間に合う。

クラリスは少しだけ目を閉じた。

十年。

十年、こうしてきた。

誰かが傷つく前に止める。

誰かが失敗する前に直す。

誰かが責められる前に謝罪の道筋を作る。

その結果、誰も失敗しなかった。

誰も傷つかなかった。

誰も責められなかった。

そして、誰もクラリスの仕事を知らなかった。

「いいえ」

クラリスは言った。

声は、自分でも驚くほど穏やかだった。

「もう、わたくしの仕事ではないわ」

イリスは、深く息を吐いた。

怒りとも安堵ともつかない吐息だった。

「ようやく、そのお言葉を聞けました」

「そんなに待っていたの?」

「はい。五年ほど」

「長いわね」

「お嬢様ほどではございません」

クラリスは、少しだけ笑った。

本当に少しだけ。

王宮の回廊で笑う時、彼女はいつも周囲の目を計算していた。

今の笑みには、計算がなかった。

それがかえって、ひどく頼りなく感じられた。

正門へ向かう途中、王宮書記官のオスカー・ベルンとすれ違った。

彼は書類の束を抱え、片手で眼鏡を押し上げながら走っていたが、クラリスに気づくと慌てて足を止めた。

「クラリス様? 夜会前にどちらへ」

言いかけて、彼はクラリスの外套と、イリスの持つ鞄に目を留めた。

王宮に慣れた者は、荷物の意味を読み取る。

それが一時的な移動なのか、完全な撤収なのかを。

オスカーの顔色が変わった。

「まさか」

クラリスは、いつもどおり丁寧に礼をした。

「オスカー様。これまで大変お世話になりました」

「お世話に……いや、クラリス様、今夜の進行表は」

「机の上に正式なものを残してあります」

「正式なもの、ということは」

オスカーの声がかすれた。

「補足は?」

「ございません」

「大使夫妻の禁忌一覧は」

「ございません」

「明朝の朝会の議題順は」

「作成しておりません」

オスカーは、数秒ほど無言になった。

そして、ひどく真面目な顔で言った。

「胃薬を倍にしてまいります」

イリスが淡々と返す。

「三倍をおすすめいたします」

「そうします」

クラリスは思わず目を瞬かせた。

オスカーは小さく頭を下げる。

「クラリス様。事情は存じませんが……いえ、何となく察しましたが」

彼は廊下の奥、白薔薇の控えの間の方をちらりと見た。

「どうか、ご自分をお責めになりませんように」

クラリスは返事に少し迷った。

おかしな人だと思った。

責めるべき相手が誰かを、オスカーはもう知っている。

けれど、クラリスが自分を責めることまで知っている。

「ありがとうございます」

それだけを言うと、彼はまた走っていった。

ただし、先ほどより足取りが重い。

イリスが呟く。

「王宮で数少ない、目のある方ですね」

「そうね」

「では、あの方のためにも、少しだけ戻りますか」

「イリス」

「冗談でございます」

「あなたの冗談は、時々顔が怖いわ」

「本気を混ぜておりますので」

クラリスは返事をしなかった。

王宮の正門を出ると、夜の風が頬を撫でた。

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