Share

第 5 話

last update Petsa ng paglalathala: 2026-08-09 11:21:07
馬車が用意されている。

エルディア公爵家の紋章が入った馬車だ。

その扉の前で、クラリスは一度だけ振り返った。

王宮は灯りに包まれていた。

高い窓から音楽が漏れ、薔薇の香りが夜気に混じり、招待客たちの笑い声が遠く響く。

美しい場所だ。

そう思った。

そして、恐ろしく脆い場所だとも思った。

この灯りが消えないように。

この音楽が止まらないように。

誰かの笑顔が凍らないように。

クラリスはずっと、裏側で手を動かしてきた。

けれど明日からは違う。

妹が言った。

私にもできますわ、と。

王太子が選んだ。

ミレーヌの明るさこそ必要だ、と。

ならば、明日からは彼らの王宮だ。

クラリスは、馬車に乗り込んだ。

イリスが向かいに座る。

扉が閉まる直前、王宮の方から小さなざわめきが聞こえた。

夜会が始まったのだろう。

それとも、何か一つ、早くも予定と違うことが起きたのだろうか。

クラリスは確認しなかった。

馬車が静かに動き出す。

石畳を車輪が鳴らす音が、王宮から少しずつ遠ざかっていく。

「お嬢様」

イリスが言った。

「明日の朝会、止まりますね」

クラリスは、膝の上で重ねた手を見つめた。

その手は、まだ何かを書類に書き込もうとしているように、かすかに緊張している。

彼女はゆっくりと指をほどいた。

「止まらないようにしてきたのよ」

窓の外で、王宮の灯りが遠くなる。

「十年も」

その夜、アルヴィア王宮の灯りはいつもどおり輝いていた。

誰もまだ知らない。

翌朝、その輝きの下で、最初の会議が始まらなくなることを。

そして、王宮という巨大な仕組みが、たった一人の令嬢の無償の手によって支えられていたのだと、誰もがようやく思い知ることを。

アルヴィア王宮の朝は、鐘の音から始まる。

一の鐘で侍従が廊下を開け、二の鐘で女官たちが各室の燭台を消し、三の鐘で政務院の文官が東棟へ集まる。

そして四の鐘が鳴る頃、王族と重臣たちは朝会の間へ入る。

その流れは、十年近く乱れたことがなかった。

少なくとも、表向きは。

「……進行表がない?」

朝会の間の端で、王宮書記官オスカー・ベルンは、眼鏡の奥の目を細めた。

目の前には、文官補佐の青年がいる。

顔色が悪い。

「はい。いつもの机にも、控えの棚にも、書記官室にもございません」

「昨日の夜、クラリス様が残された正式文書は?」

「ございます。こちらに」

差し出された書類を受け取り、オスカーは一枚目に視線を走らせた。

招集者一覧。

出席予定者。

議題候補。

それだけだった。

「……候補」

オスカーは、思わず呟いた。

「候補、か」

文官補佐が不安そうに尋ねる。

「あの、何か問題が?」

「問題しかありません」

正式文書としては、これで正しい。

誰が来るか。

何を話すか。

どの案件が本日扱われる可能性があるか。

それは書いてある。

だが、朝会に必要なのは、それだけではない。

どの議題を先に出すか。

誰の発言を先に拾うか。

どの案件は国王の前で決め、どの案件は後日協議に回すか。

誰と誰を同時に発言させてはいけないか。

どの言葉を使うと財務卿が反発し、どの表現なら軍部が引くか。

そういう、正式文書に残らないものが必要だった。

クラリス・フォン・エルディアは、それを毎朝作っていた。

しかも、誰にも命じられずに。

オスカーは書類を閉じた。

「胃薬を」

「はい?」

「いえ、何でもありません。財務卿は?」

「すでにお着きです」

「軍務局長は?」

Patuloy na basahin ang aklat na ito nang libre
I-scan ang code upang i-download ang App

Pinakabagong kabanata

  • 妹が「お姉様の仕事くらい私にもできます」と言うので、婚約者も王妃教育も譲りました。ですが三日で王宮が止まりました   第 280 話

    「でしょうな」 それは、今日初めて少しだけ柔らかい声だった。 会議が終わった後、エリオットがクラリスへ近づいた。 「クラリス顧問」 「はい」 「先ほどの条件整理、助かりました。財務院側からも、交易利益と慈善物資を分ける理由が立ちます」 「あなたの発言があったからです」 エリオットは少しだけ目を伏せた。 「財務院内では、また嫌がられると思います」 「でしょうね」 「でも、財務院のためにも必要だと思います」 「はい」 クラリスは、少し声を低くした。 「無理をしすぎないでください」 エリオットは苦笑した。 「それは、クラリス顧問に言われると不思議です」 「最

  • 妹が「お姉様の仕事くらい私にもできます」と言うので、婚約者も王妃教育も譲りました。ですが三日で王宮が止まりました   第 279 話

    「確かに、慈善免除分の荷が商業倉庫へ移れば、関税記録にも影響します」 「はい」 エリオットは続けた。 「金額が大きいほど、確認が必要です。交易路だからこそ、です」 その言葉は、前の協議でも彼が言ったものに近かった。 だが今回は、より財務院の言葉になっている。 慈善のためだけではない。 財務のためにも、分ける必要がある。 グレゴールはしばらく黙っていた。 その沈黙は、エリオットにとって長かっただろう。 彼は財務院内で孤立し始めている。 ここでまた発言するのは、簡単ではなかったはずだ。 しかし、エリオットは目を伏せなかった。 「……一理あります」

  • 妹が「お姉様の仕事くらい私にもできます」と言うので、婚約者も王妃教育も譲りました。ですが三日で王宮が止まりました   第 278 話

    クラリスはその点を軽んじなかった。 「そこを確認するために、まず共同調査が必要です」 「共同管理ではなく?」 「はい。現時点では、共同管理に進む前に、毛織物と薬草布の二品目に絞った共同調査を提案します」 セルゲイ大使が静かに頷いた。 「ノルヴァルト公国としても、その方向で再提案する用意があります」 グレゴールはセルゲイを見た。 「大使も、共同管理ではなく調査からでよろしいと?」 「制度は、急げば壊れます」 セルゲイは穏やかに答えた。 「長い交易路ほど、最初の杭を深く打つべきです」 詩のような言い回しだが、内容は現実的だった。 グレゴールは少しだけ鼻から息を吐い

  • 妹が「お姉様の仕事くらい私にもできます」と言うので、婚約者も王妃教育も譲りました。ですが三日で王宮が止まりました   第 277 話

    その下に、まず一行。 財務院の関与は不可欠。ただし単独管理は不可。 オスカーが、その一文を見て頷いた。 「今回の中心ですね」 「はい」 「財務院が見たら、かなり嫌がりそうです」 「でしょうね」 クラリスは、淡々と答えた。 「でも、書きます」 午後、財務院との協議が開かれた。 場所は財務院ではなく、王宮中央棟の小会議室。 どちらかの部署の部屋に入ると、場の主導権が偏る。 そこで、あえて中立の部屋が選ばれた。 出席者は、クラリス、レオンハルト、オスカー。 財務院側からは、グレゴール財務参事官、エリオット若手監査官、港湾会計担当官のボルク。 ノルヴァ

  • 妹が「お姉様の仕事くらい私にもできます」と言うので、婚約者も王妃教育も譲りました。ですが三日で王宮が止まりました   第 276 話

    財務院からの照会文は、予想より早く届いた。 北方慈善交易路の提案が王宮筆頭実務顧問室に届いてから、まだ二日しか経っていない。 その間に、クラリスは王太子府、王弟府、王妃執務院、ノルヴァルト大使館との初期整理を始めたばかりだった。 財務院には、正式共有前の概要照会を出す予定だった。 こちらから出す予定だった。 しかし、向こうが先に動いた。 封筒には、財務院の公印。 差出人は、グレゴール財務参事官。 表題は、丁寧で、硬く、そして主張がはっきりしていた。 北方慈善交易路に関する財務院管轄確認について クラリスは、それを見ただけで小さく息を吐いた。 「来ました

  • 妹が「お姉様の仕事くらい私にもできます」と言うので、婚約者も王妃教育も譲りました。ですが三日で王宮が止まりました   第 275 話

    オスカーは何も聞かなかったふりで記録を続けている。 会議の最後に、セルゲイは改めて提案した。 「では、北方慈善交易路共同管理案については、直ちに制度化せず、まず共同調査案として再提出いたします。対象物資は毛織物と薬草布。期間は三か月。調査範囲は輸出記録、港湾到着、国内中継、慈善受領先まで」 「その方向で、初期検討に入ります」 ジュリアスが王太子として答えた。 クラリスは、はっきり補足した。 「ただし、正式承認ではありません」 「承知しています」 セルゲイは笑った。 「即答しない貴女の流儀にも、慣れてきました」 クラリスは、少しだけ苦笑した。 「最近、周囲に徹底さ

Higit pang Kabanata
Galugarin at basahin ang magagandang nobela
Libreng basahin ang magagandang nobela sa GoodNovel app. I-download ang mga librong gusto mo at basahin kahit saan at anumang oras.
Libreng basahin ang mga aklat sa app
I-scan ang code para mabasa sa App
DMCA.com Protection Status