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第7話

Auteur: 歌の夜行
以前は八千代がいたから、氷室家の食卓にも、ときどき辛い料理が並び、私の好みにも気を配ってくれていた。

けれど、その後氷室家に残ったのは、私と和哉だけだった。

私が唐辛子を使った料理を作るたび、和哉の声には決まって苛立ちが混じった。

「俺が澪の影響で辛いもの食べないって、お前だって知ってるだろ。なんでわざわざこんなもの作るんだよ。嫌がらせのつもりか?

俺はただ、澪のことをもう少し心の中に残しておきたいだけなんだ。もう一緒に暮らしてるんだから、そのくらいは大目に見てくれないか。

こんなくだらない真似、いったいいつまで続けるつもりだ」

これ以上、和哉の中で自分の印象を悪くしたくなくて、私はもとの好みを手放し、彼に合わせて淡い味つけのおかずばかり食べるようになった。

誕生日パーティーの数日前、彼が留守にしているあいだに、自分のためだけに辛い料理をいくつか作ったことがあった。けれど、その匂いに気づいた悠真が、何も言わずそのままゴミ箱に捨ててしまった。

あの愛らしい顔を怒りで歪め、悠真はきつい目で私を睨みつけた。

「パパが何回も言ってるでしょ!この家に唐辛子なんて置いちゃだめなん
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