Share

第6話

Author:
陸と湊は、彰人の結婚式で一度だけ静奈に会ったことがあった。

正直なところ、なかなかの美人であり、何年も経ってはいたが、二人は一目で彼女だと気づいた。

彰人の幼馴染である彼らもまた、静奈のことをひどく嫌っていた。

陸が、わざと嫌味な口調で言った。

「おやおや彰人、奥様のお出ましだぞ?旦那の不倫現場を押さえに来たってわけか」

彰人は鼻で笑った。

「こいつが?そんな資格があるとでも?」

彰人の冷酷な言葉、沙彩の勝ち誇ったような明るい笑顔、そして陸と湊の嘲笑が、静奈の心を深く突き刺した。

「ごめんなさい、部屋を間違えたわ」

彼女はそのままドアを閉め、外に出た。

静奈のあまりにも冷静な態度に、陸と湊は少し面食らった。

「普通の女なら、旦那が他の女といるのを見たら、泣きわめいたりするもんじゃないか?あいつ、なんで平然としてるんだ。彰人、まさか愛想を尽かされたとか?」

「あり得ないだろ?あいつは彰人のこと、死ぬほど愛してるんだ。ここで騒ぎ立てて、追い出されるのが怖かっただけだろ」

ドアの外で、静奈は深く息を吸った。

彼らの言葉を気にしてはいけないと、必死に心を落ち着かせようとした。

「お姉さん!」

その時、先ほどの男性モデルが彼女の方へ歩いてきた。

「探したよ、こんな所にいたんだ」

彼は、ごく自然に静奈の腰に腕を回した。

「行こう。雪乃さんが待ちくたびれてる」

静奈は、その馴れ馴れしさに戸惑いつつも、今度は拒まなかった。

陸が、ドアのガラス越しに、静奈がその男と親密そうに別の個室に入っていくのを目撃し、思わず大声を上げた。

「マジかよ!彰人、これはなんのプレイだ!あいつ、男を買いに来てやがるぞ!」

湊が分析する。

「てことは、さっきのは浮不倫調査じゃなくて、マジで部屋を間違えただけか?」

彰人の端正な顔が、瞬く間に恐ろしいほど黒く染まった。

静奈、よくも!

「長谷川夫人」の名を冠しながら、妻としての貞淑さも守らず、こんな場所で男遊びとは。自分の面子をどこまで潰せば気が済むんだ?

静奈が個室に戻ると、雪乃はすでにかなり酔っていた。

「静奈、どこ行ってたのよ、遅かったじゃない」

「すみなせん、ちょっと部屋を間違えて」

静奈は、彰人に遭遇したことを彼女には話さなかった。

雪乃が提案する。

「ねえ、ゲームしない?口でカードをリレーするの。失敗した人は、罰ゲームでお酒一気飲み!」

静奈は、その奇妙なゲームに全く興味が湧かなかった。

雪乃は、彼女の手を引いてソファに座らせた。

「いいからいいから、しらけないでよ」

静奈は、無理やりゲームに参加させられた。顔立ちの整った男性モデルが、カードを口にくわえて顔を近づけてくる。

知らない男が間近に迫ってくる感覚に、彼女は思わず顔を背けてしまった。

立て続けに失敗し、彼女も罰として何杯も酒を飲まされた。

最後の一回。彼女は必死に抵抗感を克服し、目を固く閉じてカードを受け取ろうとした。

その頃。陸が、携帯でこっそりその様子を撮影していた。

野次馬根性丸出しの彼は、その動画を彰人に見せに戻った。

「彰人、あいつ、結構やるじゃない!お前が十日も半月も家に帰らないから、その隙に他の男に乗り換えたとか?」

動画の中では、静奈とそのモデルが、キス寸前まで顔を近づけていた。

その光景を見た瞬間、彰人の胸に怒りの炎が燃え上がった。

どれほど嫌悪していても、自分の妻が目の前で他の男と戯れるのは許せなかった。

「彰人さん」

沙彩が隣で口を開いた。

「彼女、きっとあなたの気を引きたいだけなのよ」

陸が、はっとした顔になった。

「それだ!

静奈って女は、お前に薬を盛るような真似までしたんだ。わざと男を呼んで、お前を刺激しようとしてるに決まってる」

彰人は何も言わず、グラスの酒を一気に呷った。

彼は密かにバーの責任者を呼び出し、あのモデルを解雇するよう名指しで命じた。

どうであれ、静奈は戸籍上の妻だ。他の男が触れることなど許されるはずがなかった。

バーを出た後。静奈は、酔いつぶれた雪乃を自宅マンションに連れて帰った。

夜。彰人が汐見台の邸宅に戻ってきた。

パチン!

彼は不機嫌な顔で寝室の明かりをつけた。

しかし、ベッドはもぬけの殻で、静奈の姿はどこにもなかった。

物音を聞きつけて、敦子が慌てて二階に上がってきた。

「若様、お帰りなさいませ」

「あいつは?」

「若奥様は、今日は戻られておりません」

彰人の眉間に、深く皺が寄った。

戻っていない?まさか、あの男とホテルにでも行ったというのか?

「若奥様は、もうずっとこちらにはお住まいになっておらず……これを、若様にお渡しするようにと」

敦子は、離婚協議書を差し出した。

彰人はそれを受け取り、「離婚協議書」という大きな文字と、氏名欄に書かれた彼女の流麗な筆跡を見て、冷ややかに笑った。

以前、こちらから離婚を切り出し、金をやると言った時は、あれほど拒否されたというのに。

今になって離婚とは、一体どういうつもりだ?

駆け引きか?ここで一度引くふりをして、自分の気を引こうとでも?

彰人は、ためらうことなく、その書類に自分の名前をサインした。

離婚。望むところだ。

翌朝。静奈は簡単な朝食を作った。

サンドイッチとホットミルク、それにサーモンのソテーと、付け合わせのレタスとトマト。

雪乃が、まだ重い頭を抱えながら部屋から出てきた。

「起きた?食べて」

美味しい朝食を食べながら、雪乃は目の前にいる静奈を改めて見つめた。

豊満な胸、細い腰、まるで殻を剥いたゆで卵のように白く滑らかな肌。

すっぴんでもこれほど美しい静奈を見て、雪乃は思わずため息をついた。

ああ、静奈はこんなに綺麗で、性格も良いのに。

あのクソ野郎、本当に見る目がない。こんな宝物を大事にしないなんて

朝食を終えた頃。静奈の携帯に、知らない番号から電話がかかってきた。

「朝霧静奈様でしょうか?」

「はい、そうですが、どちら様ですか?」

「私、長谷川様の代理人を務めております、弁護士の遠山英則(とおやま ひでのり)と申します。離婚の件でお電話いたしました。離婚協議書は拝見いたしました。

長谷川様は、あなたに一定の経済的補償をお支払いになる意向です。ご希望であれば、汐見台の邸宅もあなたにお譲りするとのことですが」

彰人も、翌日になって初めて離婚協議書の内容に目を通したのだ。

彼女は、財産分与に何も要求していなかった。完全に、身一つで出て行くつもりらしかった。

彼も、ケチな男ではない。四年間、妻として傍にいた女だ。

数億、数十億の慰謝料くらいは払うつもりでいた。

「結構です」

静奈は、英則の申し出をきっぱりと断った。

「書類に書いてある通り、私は何も要りません。

それより、いつになれば、正式に離婚を成立させていただけますか?」

静奈の返答は、英則にとって予想外だった。

「……長谷川様と相談の上、日程が決まり次第、改めてご連絡差し上げます」

電話が切れる。雪乃が、もどかしそうに言った。

「静奈、馬鹿なの?なんでお金貰わないのよ!こういう時は、ふんだくれるだけふんだくらないと!」

静奈は、静かに首を振った。

「一刻も早く離婚できるなら、そんなもの、どうでもいいの」

元々、お金のために彰人と結婚したわけではない。

この数年間、長谷川家で質素な生活を送ってきた。

離婚になって彼のお金を受け取れば、それこそ自分が「金目当ての女」だったと認めるようなものだった。

長谷川グループ。

弁護士の英則が、静奈の意向を彰人に伝えた。

「長谷川様、若奥様は財産分与は一切不要、ただ、できるだけ早く離婚協議書を提出したい、と」

彰人は、わずかに目を見開いた。俺の資産が何兆あるか知っていて、一円も要らないだと?

「ならば、望み通りにしてやれ。俺は午後からM国に出張だ。離婚届の提出は、来週の水曜で調整しろ」

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 妻の血、愛人の祝宴   第10話

    シャワーを浴び、清潔な服に着替えると、静奈は彰人と共に階下へ降りた。使用人が、温かいスープを差し出す。「若奥様、温かいうちにどうぞ。体が冷え切っていらっしゃいますから」静奈はそれを受け取って飲み干した。胃のあたりがじんわりと温まり、少し気分が楽になった。食事中。大奥様は、静奈の好物を彼女の目の前に並べた。「静奈、もっとお食べ。ずいぶん痩せてしまったじゃないか。私がが留守にしていたこの二ヶ月、また彰人があなたをいじめたんじゃないだろうね?」確かに、このところの手術や入院、そして離婚の心労がたたって、静奈はかなり痩せていた。大奥様に心配をかけまいと、彼女は笑顔で首を振った。「ううん。最近ダイエットしてるだけです」「ダイエットなんて必要ないよ。ちっとも太ってない。そんなことしてたら、骨と皮になっちゃうよ」大奥様は、彰人に目配せした。「彰人、静奈に取り分けておやり」彰人は、仕方なくといった様子で、料理を静奈の皿に置いた。皿に盛られた豚肉の唐辛子炒めを見て、静奈の心は揺らいだ。自分は、辛いものが苦手だった。彰人が好きだからという理由だけで、味を受け入れようと努力してきた。おそらく、自分はあまりにもうまく演じすぎていたのだろう。彰人は、自分の好みも、苦手な食べ物も、何一つ知らなかった。これまでは、彼が取り分けてくれたものなら、たとえそれが何であっても喜んで食べた。口の中が火を噴き、唇がみっともないほど腫れ上がっても、心は甘美な喜びで満たされていたのだ。だが今回、もう自分に嘘をつきたくなかった。彰人が取り分けたその料理に、静奈は一口も手をつけなかった。夕食が終わり、使用人がテーブルを片付けている時、静奈の皿に手付かずで残っている豚肉の唐辛子炒めを見て、わずかに訝しげな顔をした。静奈と彰人の間に、何か妙な空気が流れている気がする。だが、それは自分の考えすぎかもしれないと、使用人は何も言わなかった。彰人は、仕事の処理があると言って書斎に向かった。大奥様は、静奈の手を取ってソファに座らせた。「静奈、この数年間、辛い思いをさせたね」その話題に触れると、大奥様は涙を抑えきれなかった。元はと言えば、自分が彰人に静奈を娶るよう強制したのだ。静奈ほどの素晴らしい娘であれば、彰人

  • 妻の血、愛人の祝宴   第9話

    辺りには雨宿りできる場所すらない。静奈は鞄を頭上に掲げ、本邸の方向へと足を速めた。ププーッ!背後で、車のクラクションが鳴り響いた。静奈は慌てて道の脇に寄った。黒い車が彼女のすぐそばを通り過ぎる。窓越しに、あの整った冷徹な顔が見えた。彼女が呆気に取られている間に、車はすでに遠ざかり、テールランプがぼんやりと霞むだけだった。彰人だ。間違いなく、彼は今、静奈に気づいたはずだ。それなのに、彼は減速する素振りも見せず、脇目もふらずに走り去っていった。冷たいものが静奈の全身を駆け巡り、体が思わず震えだす。それが打ち付ける雨による冷たさなのか、それとも心の冷たさなのか、もはや区別がつかなかった。三十分後。静奈は、ふらふらになりながら本邸にたどり着いた。全身ずぶ濡れで、まるで溺れたネズミのような有様だった。ドアを開けた使用人は、驚きに目を見開いた。「若奥様、どうしてそんなに濡れて……」大奥様は、寒さで唇を白くしている静奈の姿に胸を痛め、すぐに振り返るとソファに座る彰人を詰問した。「静奈を一緒に乗せてくるように言ったでしょう!この馬鹿者が!自分の妻を労わることも知らんのか!」彰人は、整った眉をわずかに吊り上げた。「静奈が、俺の電話に出なかったんだ」静奈は、わずかに目を見開いた。暗に何かを言っている。昨日、彼からの電話を切ったから、その仕返しに、わざと雨の中に放置したというのか?静奈は使用人から差し出されたタオルを受け取り、まだ水が滴る髪を拭いた。「おばあさん、大丈夫ですよ。平気ですから」大奥様は、持っていた杖で彰人の脚をピシャリと叩いた。「ぼうっと突っ立っていないで、早く静奈を部屋に連れて行って、シャワーを浴びさせてやりなさい!それから清潔な服に着替えさせるんだ!」彰人は親孝行な男だ。そうでなければ、そもそも大奥様の強引な仲介で、静奈を娶ることもなかっただろう。彼は長い脚を一歩踏み出すと、大股で二階へと上がっていった。静奈は、大奥様に何かを勘繰られたくなくて、仕方なく彼の後について行った。寝室。彰人は、ソファにふんぞり返るように座った。「さっさと入って洗え。何を突っ立ってる、まさか俺がお湯を溜めてやるとでも思ってるのか?」静奈は、部屋を濡らしてしまう

  • 妻の血、愛人の祝宴   第8話

    翌日の午前。静奈が仕事に没頭していると、病院から電話がかかってきた。復帰後の検診に来るよう、念を押す内容だった。会社は病院からそう遠くない。退勤後、静奈は歩いて十数分で病院に到着した。病院の正面玄関に着いた途端、見慣れた一台の高級車が目に入った。彰人の愛車だ。彼女は乗せてもらったことこそないが、一目で見分けることができた。この車種は、潮崎市全体でも数台しか走っていない。彰人は車体に寄りかかり、その長い指には火の点いたタバコが挟まれている。煙が薄い唇から吐き出され、アンニュイな雰囲気と冷酷さが同居していた。格好をつけているわけではないのだろうが、通り過ぎる若い女性たちは皆、彼から目を逸らせないようだった。「彰人さん!」女の声が響いた。沙彩が病院の診察棟から駆け寄ってくる。彰人は手慣れた様子でタバコの火を揉み消すと、走ってきた沙彩を抱きしめた。「出張中、私のこと、恋しかった?」沙彩が、ごく自然に彼に甘えた。「どう思う?」彰人は直接答えなかった。沙彩が助手席のドアを開けた瞬間、口を押さえて歓声を上げた。「うそ!」助手席は、シートが見えなくなるほどの花で埋め尽くされ、その中央には小さなギフトボックスが置かれていた。彼が念入りに選んだことが一目で分かる。「彰人さん、こんなサプライズ、ありがとう!」沙彩は彰人の首に腕を回し、彼の頬にキスをした。静奈は、物陰に隠れていた。目の前の光景を見て、彼女の顔からは血の気が引き、爪が手のひらに深く食い込んでいた。結婚して四年。彰人は、自分にプレゼントをくれたことなど一度もなかった。サプライズなどもってのほかだ。それどころか、自分が心を込めて用意したプレゼントさえ、彼は履き古した靴のようにゴミ箱に捨てたのだ。この結婚生活に、もう未練はない。しかし、これほど強烈なコントラストを見せつけられると、やはり心が痛むのを止められなかった。「朝霧さん、どうかなさったんですか?」ちょうど看護師が出てきた。「早く中へどうぞ。先生、もう終業の時間ですから」「はい、今行きます」静奈は感情を押し殺し、建物の中へと入っていった。三十分後。医師が検査報告書を手に口を開いた。「経過は良好ですね。ですが、絶対に安静にしてください。

  • 妻の血、愛人の祝宴   第7話

    月曜日の午前。静奈が明成バイオテクノロジーに出社すると、すぐに弁護士から電話がかかってきた。「朝霧様、長谷川様は水曜日の午前でしたらご都合がつくとのことです。当日の離婚届の提出で予約を取りましたので、必ず時間通りにお越しください」「はい、分かりました」電話を切り、静奈は深く息を吸った。水曜日。あと二日で、この息苦しい婚姻関係から解放されるのだ。「朝霧さんですね?」人事部の担当者が静奈を迎え入れた。「あなたの席はこちらです。主なお仕事は、創薬開発チームの実験操作や資料整理の補佐となります。現在、会社は抗がん剤の標的薬の開発に注力しています。こちらが関連資料ですので、先に目を通しておいてください」静奈の役職は、創薬開発アシスタント。人事担当者から、分厚い資料の束を手渡された。創薬研究は、長く複雑なプロセスを要する。彼女が短期間で戦力になるには、一刻も早くプロジェクトの全体像を把握しなければならなかった。静奈は自席で食事さえ忘れて資料を読みふけった。重点箇所には印をつけ、自身の考えや見解も書き加えていく。気づけば、とっくに退勤時間を過ぎていた。資料はまだ四分の一ほど残っており、彼女は迷わず残業することにした。すべてに目を通し終えたのは、夜の九時過ぎだった。外はすっかり暗くなり、オフィスには彼女一人だけが残っていた。静奈は席を立ち、トイレへ向かった。席に戻ると、デスクの傍らに長身の整った人影が立っており、彼女が資料に書き込んだメモを熱心に読んでいるのに気づいた。「社長」静奈は、努めて事務的に声をかけた。その声に、昭彦が顔を上げた。「この資料を三日で読み終えるだけでも早いが、君は一日で目を通したのか?」「いえ……大まかに把握しただけです。細かい部分は、まだ文献を調べる必要があります」昭彦は、手に持っていた資料を閉じた。「まだ夕食を食べていないだろう?行こう、何かご馳走する」「いえ、お構いなく、社長。それは……」静奈が断ろうとすると、昭彦は半分冗談といった口調で言った。「入社初日からこんな時間まで残業させて、人聞きが悪いな。僕がブラック企業の経営者だと思われる。僕の名誉のために、付き合ってくれないか?」そこまで言われては、静奈も断りきれず、頷くしかなかった。「

  • 妻の血、愛人の祝宴   第6話

    陸と湊は、彰人の結婚式で一度だけ静奈に会ったことがあった。正直なところ、なかなかの美人であり、何年も経ってはいたが、二人は一目で彼女だと気づいた。彰人の幼馴染である彼らもまた、静奈のことをひどく嫌っていた。陸が、わざと嫌味な口調で言った。「おやおや彰人、奥様のお出ましだぞ?旦那の不倫現場を押さえに来たってわけか」彰人は鼻で笑った。「こいつが?そんな資格があるとでも?」彰人の冷酷な言葉、沙彩の勝ち誇ったような明るい笑顔、そして陸と湊の嘲笑が、静奈の心を深く突き刺した。「ごめんなさい、部屋を間違えたわ」彼女はそのままドアを閉め、外に出た。静奈のあまりにも冷静な態度に、陸と湊は少し面食らった。「普通の女なら、旦那が他の女といるのを見たら、泣きわめいたりするもんじゃないか?あいつ、なんで平然としてるんだ。彰人、まさか愛想を尽かされたとか?」「あり得ないだろ?あいつは彰人のこと、死ぬほど愛してるんだ。ここで騒ぎ立てて、追い出されるのが怖かっただけだろ」ドアの外で、静奈は深く息を吸った。彼らの言葉を気にしてはいけないと、必死に心を落ち着かせようとした。「お姉さん!」その時、先ほどの男性モデルが彼女の方へ歩いてきた。「探したよ、こんな所にいたんだ」彼は、ごく自然に静奈の腰に腕を回した。「行こう。雪乃さんが待ちくたびれてる」静奈は、その馴れ馴れしさに戸惑いつつも、今度は拒まなかった。陸が、ドアのガラス越しに、静奈がその男と親密そうに別の個室に入っていくのを目撃し、思わず大声を上げた。「マジかよ!彰人、これはなんのプレイだ!あいつ、男を買いに来てやがるぞ!」湊が分析する。「てことは、さっきのは浮不倫調査じゃなくて、マジで部屋を間違えただけか?」彰人の端正な顔が、瞬く間に恐ろしいほど黒く染まった。静奈、よくも!「長谷川夫人」の名を冠しながら、妻としての貞淑さも守らず、こんな場所で男遊びとは。自分の面子をどこまで潰せば気が済むんだ?静奈が個室に戻ると、雪乃はすでにかなり酔っていた。「静奈、どこ行ってたのよ、遅かったじゃない」「すみなせん、ちょっと部屋を間違えて」静奈は、彰人に遭遇したことを彼女には話さなかった。雪乃が提案する。「ねえ、ゲームしない?口でカード

  • 妻の血、愛人の祝宴   第5話

    翌日の午前。明成バイオテクノロジー、社長室。人事部の人が書類を運んできた。「社長、こちらが本日の面接者の履歴書です」「そこに置いておいてくれ。この後会議があるから、面接はパスする」「かしこまりました」桐山昭彦(きりやま あきひこ)が会議室へ向かおうと立ち上がった時、ふと、一番上にあった履歴書に目が留まった。朝霧静奈。その名前を見た瞬間、彼は動きを止めた。履歴書を手に取り、そこに写る見慣れた顔を見て、彼の心には複雑な感情と、わずかな驚きがこみ上げてきた。彼は高野文教授の愛弟子であり、静奈より幾つか年上だった。海外で研究に没頭していた頃から、指導教師である文が「聡明で、まさに天才と呼ぶべき後輩を指導している」と話しているのを何度も耳にしていた。文は電話で学術的な議論をするたび、いつもその後輩のことを手放しで褒めていた。初めのうちは、教授にそこまで言わせるほどの逸材とはどんなものか、という単なる興味で彼女の情報を追っていた。だが、いつしか写真でしか見たことのないその後輩に、彼は惹かれていた。研究期間を終えると、彼はためらうことなく帰国の途についた。しかし、空港に降り立って真っ先に耳にしたのが、彼女の結婚の知らせだった。もう二度と関わることはないだろうと思っていた。まさか、彼女の履歴書を受け取ることになるとは。昭彦はすぐに秘書に内線を入れた。「午前の会議は全てキャンセルだ!」昭彦は面接室へ向かった。人事部の担当者は彼の姿を見て一瞬驚き、すぐに中央の席を譲った。「社長」昭彦は、内なる興奮を抑えつけた。「始めてくれ」面接が正式に始まった。昭彦は面接官の席に座ったまま一言も発さず、人事担当者が応募者に質問をしていく。「社長、先ほどの方は……」人事が昭彦の意見を求めた。「君たちで判断してくれ」「かしこまりました」「次の方、朝霧静奈さん」静奈が面接室に入ってきた瞬間、昭彦の意識は彼女に集中した。彼女の顔色は、あまり良くないように見えた。人事担当者が、いくつか専門的な質問をした。静奈は四年間のブランクがあったものの、その間も独学で知識をアップデートし続けていたため、淀みなく、的確に回答していく。人事部の担当者は満足げに頷き、結果は後日連絡すると伝えようとした。

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status