LOGIN午後、静奈は謙にメッセージを送った。【今日は、早く帰ってこられそう?】謙からの返信はすぐに来た。【ああ、できるだけそうするよ。ただ、案件が最終段階に入っていて、残業になるかもしれない。】静奈はそれを見てふふっと笑った。彼の頭の中は仕事でいっぱいで、自分の誕生日のことなど見事にすっぽり抜け落ちているに違いない。完璧に仕上がった手作りケーキと、綺麗にラッピングされたプレゼントを見つめ、彼女は謙の法律事務所へ赴き、サプライズを仕掛けることに決めた。法律事務所の受付。若い女性スタッフが書類の整理をしていた。彼女がこの事務所で働き始めてから半年が経つが、謙に対する印象は「高嶺の花」という四文字に尽きた。彼は息を呑むほどハンサムで、常に落ち着き払っており、法廷に立てば雷帝の勢いで情け容赦なく相手を論破する。若くして業界トップクラスの「スーパーエース弁護士」であり、大金持ちで、信じられないほどストイックだ。日常的に、彼に密かな恋心を抱く女性クライアントは後を絶たない。裁判が終わった後も、三日に一度は手を変え品を変え理由をつけて事務所に押し掛け、彼に一目会おうとする女たちが列をなしているのだ。彼に彼女がいると明確に知っていてもなお、飛び込んでくる女が後を絶たない。浅野先生はそういう女たちに対して、常に拒絶のオーラを放っている。しかし、彼が自分の彼女に電話をする時だけは、その声が甘くて優しくなるのだ。彼がどれほど彼女を深く愛しているか、それは誰の目にも明らかだった。ただ、その謎に包まれた「完璧な彼女」が事務所に姿を見せたことは、これまで一度もなかった。そんなことを考えていると、エレベーターがチンと音を立てて開き、一人の女性が降りてきた。淡いアプリコット色のワンピースに身を包み、スレンダーで美しく、そのオーラはどこまでも清潔で洗練されている。手にはケーキの箱と、上品なプレゼントの紙袋を持ち、眉目には柔らかい微笑みを浮かべていた。受付の女性はすぐに思考を切り替え、業務用のマニュアル通りの質問をした。「いらっしゃいませ。どのようなご用件でしょうか?」「浅野謙さんはいらっしゃいますか?」「何か、法的なご相談案件でしょうか?」「いいえ、違います」受付の女性は、心の中で「チッ」と舌打ちをした。またか。
遥はその場に立ち尽くし、湊の長身で孤独な背中が視界から完全に消えるのを見届けてから、ようやく肺の底から深く、重い息を吐き出した。彼女は心臓のあたりをバシバシと叩き、冷や汗を拭った。もう、本当に死ぬかと思った……緊張すると後先考えずにデタラメなことを口走ってしまうこの悪癖、一体いつになったら直るのよ?遥は携帯を取り出し、静奈に電話をしてこの一部始終を報告しようかと思ったが、すぐに思いとどまった。静奈さんは今、浅野先生を喜ばせようと満面の笑みでサプライズの準備をしている真っ最中なのだ。そんな時にこんな最悪な報告をして、彼女の気分を台無しにするわけにはいかない。……忘れよう。そう、何もなかったことにしよう!彼女は携帯をポケットに突っ込み、残りのケーキを提げてそそくさと宿舎へと逃げ帰った。湊が会社に戻ってきた時、その手にはあの歪に潰れたケーキの欠片が握られていた。彼の常に冷厳で隙のない完璧なオーラとは、あまりにも不釣り合いで滑稽な光景だった。会議の資料を整理し終えたアシスタントは、社長の手にあるケーキを見て、顔に明らかな驚きを浮かべた。社長は元々、甘いものなど全く口にしないはずだ。ましてや、こんな見た目も悪く、ぐちゃぐちゃに崩れたような惨めなケーキを、わざわざ彼が外から大事そうに持ち帰ってくるなんて、あり得ない。アシスタントは慌てて歩み寄った。「社長、会議が間もなく始まります。皆様すでにお集まりです。そのケーキは……」湊はそのケーキをアシスタントに手渡した。「冷蔵庫に入れておけ。会議が終わったら、社長室に持ってこい」アシスタントはその見た目が最悪なケーキを受け取り、たまらず進言した。「社長、もしケーキがお召し上がりになりたいのでしたら、私が知っている最高のパティスリーに連絡して、今すぐ特注品を取り寄せさせますが……」「その必要はない」湊の口調は淡々としていたが、そこには一切の反論を許さない絶対的な響きがあった。彼はスーツの襟元を正し、そのまま会議室へと向かった。アシスタントは手の中の無残なケーキを見下ろし、そして社長の遠ざかる背中を見つめた。こんなゴミみたいな状態になっているのに、どうして社長はあれを宝物のように扱っているんだ?しかし彼は、長年社長のそばで仕えてきたからこそ、社長の性
遥は箱に詰め込まれたケーキを抱え、心からの満足感に浸りながら研究センターへと戻ってきた。宿舎に向かって歩きながら、心の中で静奈を絶賛し続けていた。静奈さんって本当に凄すぎる。美人で性格も良くて仕事もバリバリできる上に、ケーキまでこんなにプロ級に美味しいなんて。浅野先生はこんな完璧な女性を手に入れられるとは、きっと前世に徳をたくさん積んていただろう。管理棟の前を通りかかった時、建物の中から長身で背筋の伸びた男性のシルエットが、風を切るような鋭い足取りで足早に出てきた。遥は自分の世界に浸っていたため避け遅れ、男と危うく正面衝突しそうになってしまった。「あっ!」驚いた拍子に、遥の手からケーキの箱が滑り落ち、ベチャッという鈍い音を立てて地面に激突した。透明な箱の中で、ただでさえ見た目の悪かった失敗作のケーキは無残に押し潰され、クリームが四方八方に飛び散って、もはや原型を留めていない大惨事となってしまった。遥は慌ててしゃがみ込み、ケーキの箱を拾い上げてから顔を上げ、そこで完全に呆然とした。ぶつかりそうになった相手は、なんと湊だったのだ。彼は仕立ての良いスーツをビシッと着こなし、手にはマチ付き封筒を握りしめ、眉間には微かなシワを寄せていた。明らかに何か急ぎの重要な案件を抱えている様子だった。彼が彼女の手にある無残に潰れたケーキの箱に目を留めると、その視線が一瞬だけ止まり、声にはいくばくかの申し訳なさが混じった。「すまない。急いでいたもので、気づかなかった。そのケーキは弁償させてもらう。どこの店で買ったか教えてくれ、後でアシスタントに同じものを届けさせよう」今回彼が研究センターに足を運んだのは、コア技術の提携入札に関する最終調整のためだった。神崎グループはプロジェクトの開発段階から多大な支援を行ってきた「パートナー企業」であり、当然のことながら優先提携権を有している。今回の訪問は、その後の具体的な協力スキームを確定させるためのものだった。しかし会社で急遽緊急の役員会議が入ってしまい、時間がギリギリだったため、彼は周囲に気を配る余裕もなく足早に歩いていたのだ。遥は慌てて両手を振り、顔の前で交差させた。「と、とんでもないです!神崎社長、どうかお気になさらないでください!このケーキ、元々こんな風に見た目が悪かっ
一方で、当初一緒に同じチームに配属されたもう一人の実習生である賢人は、厳しい環境に耐えきれず、とうの昔に途中リタイアしてしまっていた。遥が手にしたこの成果は、彼女自身の不屈の努力と献身によって勝ち取ったものであり、文句なしに彼女が受けるべき正当な報酬だったのだ。しかし遥は頑なに首を横に振り、真剣な口調で言った。「違うんです、静奈さん。静奈さんのそばで働いたこの一年弱で、私は本当にたくさんのことを教えてもらいました」彼女には痛いほどよく分かっていた。静奈はずっと密かに彼女の面倒を見てくれていた。重要な総括レポートを提出する際、静奈は必ず遥の名前も目立つように記載し、上層部に彼女の顔と名前を売る機会を与えてくれていたのだ。学術界という世界では、指導者が学生や部下の成果を横取りして自分の手柄にしてしまうことは珍しくない。しかし静奈は全く逆で、いつも裏からこっそりと彼女の背中を押し、トップクラスの研究機関の目に留まるよう取り計らってくれていた。この恩を、遥は一生忘れるつもりはなかった。「とにかく、私が今こうしていられるのは、全部静奈さんのおかげなんです」静奈は彼女のその真っ直ぐで真摯な瞳を見つめ、心がポカポカと温かくなるのを感じた。彼女は手を伸ばし、遥の頭を優しく撫でた。「もう、大げさね。あっちのエリアも見たいって言ってたでしょ?行くわよ」遥に付き合ってヨガに通ったりショッピングをしたりする以外にも、静奈は自分と謙の「愛の巣」の空間づくりにより多くの心を砕くようになっていた。彼女は生花を買ってきては丁寧に枝葉を整え、美しい花瓶に活けた。リビングのローテーブルの上や寝室の窓辺など、部屋の至る所に生き生きとした生命力と優しい彩りが添えられるようになった。さらに少しずつインテリアやファブリックを買い足し、少しずつ、確実に、二人の家を温かく居心地の良い空間へと作り変えていった。謙が毎日仕事を終えて家に帰り、玄関のドアを開けた瞬間、いつも美味しそうな手料理の香りが鼻をくすぐる。彼女はエプロン姿でフライパンのフライ返しを握ったままキッチンから顔を出し、満面の笑みで「手洗ってきてね、もうすぐご飯よ」と彼を迎えてくれる。その瞬間、彼は本当に「自分は夢を見ているのではないか」という錯覚に陥るのだった。俺の静奈は、まさに「
翌朝。カーテンの隙間から差し込む朝の陽光が、ベッドの上に降り注いでいた。静奈の睫毛が微かに震え、ゆっくりと意識が戻り始める。少し体を動かすと、自分が温かい腕の中にすっぽりと収まっており、鼻先には馴染み深い香りが漂っていることに気がついた。そして、昨夜の記憶が怒涛の波のように一気に押し寄せてきた。バスルームでの謙の熱い吐息、ベッドの上での甘く絡みつくキス、そして彼が下へと移動していったこと……さらに最後のあの瞬間、経験したことのない強烈で刺激的な快感の渦……静奈の顔は瞬時に沸騰したように真っ赤になった。彼女は謙の腕の中でカチンコチンに硬直させ、呼吸すら止めてしまった。頭上から、寝起きの少し嗄れた、甘い笑い声が降ってきた。「静奈、起きたのかい?」静奈の顔はさらに熱を持ち、モゴモゴと「はい……」とだけ答えると、そのまま布団の奥深くへ亀のように縮こまろうとした。謙は彼女が息を詰まらせてしまうのではないかと心配し、手を伸ばして彼女を布団の中から連れ出した。二人は至近距離で顔を見合わせた。彼女は顔を真っ赤にして視線を泳がせ、恥ずかしさのあまり睫毛を震わせている。彼と目を合わせることすらできない。そのあまりにも愛らしい様子を見て、謙の心はドロドロに甘く溶けてしまった。彼は顔を下ろし、彼女にキスをしようとした。しかし静奈は反射的に両手を伸ばし、彼の胸板をグッと押し返した。「ダメです……っ」昨日、彼は……そこにキスをしたのだ。押し返された謙は全く怒る様子もなく、ただ彼女を見つめ、その瞳には溢れんばかりの優しい笑みが満ちていた。「なんだい?自分のことが嫌いなのか?」静奈の顔は限界を超え、今にも真っ赤に染まった。「謙さん、これからは……そこは、キスしないでください……」「どうして?」彼の声は低く、朝特有の甘く気怠い色気を帯びていた。「お前はあんなに感じて……」静奈の頭の中でパーンと何かが弾け飛び、全身が火だるまになったかのように熱くなった。彼女は慌てて手を伸ばし、彼の口をピシャリと塞ぎ、顔を真っ赤にして抗議した。「もう、言わないでください!」謙は彼女が限界まで恥ずかしがっているのを察した。彼は自分の口を塞いでいる彼女の掌に、チュッと優しくキスを落とした。「分かっ
謙はまるで神に祈りを捧げるように、彼女の素肌に敬虔なキスを落としていった。華奢な鎖骨、柔らかい肩のくぼみ、そして微かに上下する胸元。そのすべてが彼を深く陶酔させた。静奈の呼吸は次第に乱れ、体は正直に彼を激しく求め始めていた。得体の知れない疼きと空虚感が、無意識のうちに彼女の体を彼へとすり寄らせる。しかし、彼がいよいよ最後の一線を越えようとしたその時、静奈の理性がふと僅かに引き戻された。彼女の指先が彼の肩をギュッと掴み、爪が微かに肌に食い込む。荒い息を吐きながら、まだ水気を帯びた瞳で必死に焦点を合わせ、彼を見つめた。「謙さん……」「ん?」彼の声は喉の最奥から絞り出されたように嗄れていた。「ちゃんと……予防して、ください」謙の動きがピタリと止まった。静奈が何を言っているのか、当然理解している。しかし……その準備を、彼はしていなかったのだ。彼女が肉体的な接触に対してトラウマや抵抗感を抱いていることを知っていたため、彼はずっと自分自身の情欲を理性で押さえ込み続けていた。そういう行為は、二人が本当に心から準備できた時に初めて迎えるべきだと考えていたのだ。事前に「ああいうもの」を用意しておくなんて、いかにも下心があるようで、彼女に警戒されるのではないかと避けていたのである……まさか、今夜こんな急展開を迎えるとは思ってもみなかった。彼の目には激しい葛藤が渦巻き、額には青筋が微かに浮かび上がり、体の奥底で暴れる渇望は今にも彼自身を飲み込んでしまいそうだった。あと一歩。あとほんの一歩踏み出せば、彼女のすべてを完全に自分のものにできるのだ。だが、彼は彼女を傷つけることを何よりも恐れた。彼女にほんの少しのリスクも負わせたくない。たとえ万分の一の確率の想定外であろうと、彼女に不安な思いをさせるわけにはいかなかった。謙は深く、深く息を吸い込み、強靭な精神力で自らの行動をストップさせた。しかし、欲情に潤んだ彼女の瞳、その姿を見つめていると、心底の情欲はさらに濃密に燃え上がっていく。彼女がようやく心を開き、自分を受け入れてくれたのだ。この最も重要な瞬間に、水を差すような真似はしたくなかった。彼は顔を下ろし、彼女の下腹部に優しいキスを落とすと、そのままゆっくりと下へと移動していった。その動きはどこま
週末。静奈は手土産の菓子折りを持って、長谷川家の本邸を訪れた。大奥様はソファでうたた寝をしていた。「おばあさん」静奈は優しく呼びかけ、箱をテーブルに置いた。「お好きなお菓子を買ってきましたよ」聞き慣れた声に大奥様は目を開け、顔をほころばせた。「静奈かい、よく来たね」手招きして隣に座らせ、痩せた頬を愛おしげに撫でる。「また痩せたねえ」二人は寄り添って近況を語り合い、リビングには穏やかな笑い声が響いた。話が途切れた頃、静奈は大奥様の手を握り、静かに切り出した。「おばあさん、明日、彰人と役所へ行って離婚届受理証明書をもらいます」大奥様の手が震え、瞳
静奈は最後に沙彩を一瞥した。その眼差しは、路傍の蟻を見るように軽蔑に満ちていた。彼女は希を連れて面会室を出た。ハイヒールが床を叩く音が、無機質な廊下に響き渡る。静奈は背筋を伸び、戦いに勝利した女王のように堂々としていた。後には、魂を抜かれたボロ人形のように陰の中にへたり込む沙彩だけが残された。重い鉄の扉がゆっくりと閉まり、彼女と光り輝く世界とを永遠に隔絶した。警察署を出る。太陽の光が降り注ぎ、体を温かく包み込む。希は足を止め、静奈に向き直り、深い呼吸をした。「私、やっと心の中の臆病な自分に勝てた気がします。これからはもう、誰にも過去をネタに脅されたりしません」
「あちらに並んでください」静奈は特に気にせず、素直にそちらへ向かった。前に並んでいた二人の女子学生が興奮気味に囁き合いながら、ある一点を見つめていた。「見て!石川晴美(いしかわ はるみ)先輩よ!学術フォーラムの動画で見るよりずっと素敵!」一人が口元を押さえて興奮している。「私の憧れなの!」もう一人が目を輝かせた。「二十五歳でトップジャーナルに何本も論文を通して、二十八歳で主任研究員としてこのプロジェクトに参加したのよ!実家もすごくて、正真正銘の首都セレブだし……」話している最中に、噂の晴美が近くを通りかかった。仕立ての良いカシミヤのコートを着こなし、メイクも
「ええ」静奈の答えに迷いはなかった。「離婚こそが、あなたができる最高の償いよ」彰人は長い沈黙に沈んだ。空気は凝固し、一秒ごとが拷問のように引き伸ばされる。静奈は彼が翻意し、強引にこの名ばかりの結婚に縛り付けるのではないかと危惧した。彼の喉仏が辛そうに動き、逆巻く痛みと哀願を飲み込んだ。最後には、砕け散りそうなほどか細い音節となった。「……分かった」顔を上げる。目には完全に粉砕された後の荒らしさだけ。「望み通りにしよう。それが……俺にできる唯一のことかもしれない。アシスタントに手配させる」静奈は驚いた。彼の激怒や執着を予想していたが、まさかこれほどあっ