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第4話

Author: 八雲詩乃
昭夫は、安藤グループの盛沢市における最重要取引先だ。安藤グループの全事業の8割を担っている。それだけでなく、若葉の取引先の中で最もやり取りしやすい相手でもあった。

若葉が盛沢市に来たばかりの頃、経験もなく名前も知られていない彼女は、冷ややかな視線を向けられ、仕事に苦しんでいた。その状況で、昭夫だけが助けの手を差し伸べてくれたのだ。彼が投資してくれたことで、他の企業も次々と取引に応じてくれるようになった。

それに、商談も値切ったり駆け引きしたりせず、非常に誠実だった。昭夫こそが、何年にもわたって若葉を支えてくれた恩人だと言える。

若葉は感情を素早く整え、電話に出た。「一ノ瀬さん、お疲れ様です」

「お疲れ様、若葉さん」

昭夫はいつも丁寧で謙虚で、取引相手としての傲慢さなど微塵も感じさせない。若葉はそこまで丁重に扱わないでほしいと何度も伝えたのだが、彼は一向に譲らなかった。

「深津市へ戻られたと伺いましたが……」

「ええ、昨晩帰ってきました」若葉は昭夫が仕事を心配しているのかと思い、補足した。「プロジェクトの件はご安心ください。同僚の青木拓海(あおき たくみ)さんへすべて申し送りを済ませています。何かあれば彼に直接連絡してもいいし、もちろん、私に直接連絡をくれても構いません」

「仕事の話ではありませんよ」昭夫は、若葉の説明が終わるのを待ってから続けた。「それほど急いで戻られたのは、何かあったのですか?」

「ええ……」若葉は隠さず言った。「母が病気で入院しまして」

「容体はどうなのですか?お手伝いできることはありませんか?」

その言葉を聞いて、若葉は目頭が熱くなった。母の病気を知って以来、心から気にかけてくれる人がいたのはこれが初めてだったからだ。

若葉が答えるより先に、昭夫がさらに重ねた。「お金か、それともコネクションか。どちらが必要ですか?」

他の人間から言われれば気分を害していたかもしれないが、昭夫の穏やかで誠実な口調を聞くと、彼が本当に心配してくれているのだとわかった。

追いつめられていたのか、それとも昭夫を信頼していたからか、若葉はとっさに口にした。「3400万円、お貸しいただけませんか?」

昭夫は即答した。「わかりました。口座の番号を教えていただけますか?」

「いえ、大丈夫です」自分の浅はかなお願いに気づいた若葉は、慌てて断った。「一ノ瀬さんにお金を借りる立場ではありませんでした」

安藤グループでの繋がりがなければ、そもそも昭夫と出会うことはなかった。自分は安藤グループに残る気はなかった。母が病気であるうちはここで働くしかないが、回復すれば遅かれ早かれ辞めるつもりでいた。

安藤グループを離れれば、昭夫との繋がりも断たれる。それは時間の問題だ。

「安藤グループとの仕事を気にしてお金を貸そうとしてくださるなら、お気持ちだけで十分です……私はこの仕事を長く続けるつもりはないので、その点はどうか気にしないでください」と若葉は言い添えた。

「安藤グループとは関係ありませんよ」昭夫は思いがけない答えを返した。「ところで若葉さん、次の仕事をお探しですか?もう行く先は決まりましたか?」

「いえ、まだ何も決まっていません」若葉は正直に打ち明けた。

「それでしたら、うちの会社で仕事をすることを検討してみませんか?」

その言葉に、若葉はぽかんとした。

昭夫の会社、明和バイオテクノロジーは、国内だけでなく世界トップのバイオテクノロジー企業だ。安藤グループとは規模が違う。そんな所に自分が行けるだろうか?安藤グループのリソースがなくなっても、自分を拾ってくれる場所があるのか?

若葉は相手が自分の言葉を聞き違えたのかと思い、もう一度説明した。「一ノ瀬さん、説明不足でした。安藤グループを離れる予定なので、安藤のリソースは一切使えなくなります」

「承知しています。うちが求めているのは安藤グループのリソースではなく、あなたという人材です」昭夫は静かに言った。「そんなにすぐ決める必要はありませんよ。ゆっくり考えてみてください」

ここまで言われて断るのも変だと思い、若葉は答えた。「本当にお力添えいただけるなら、喜んでお受けしたいです。ただ、安藤グループの退職手続きが必要なので、少しお時間をいただけますか?」

「急ぎません。若葉さんのタイミングに合わせて進めてください」

「ありがとうございます」感謝の気持ちで、今の若葉にはこの言葉しかなかった。

「礼には及びません。上からの指示ですから」昭夫は答えた。若葉はその意味がわからなかった。

「今後の協力、楽しみにしています」

「こちらこそ」

電話を切ると、昭夫は別の番号へ電話をかけた。昭夫は思わず背筋を伸ばして言った。「社長」

「片付いたか?」受話器の向こうから、冷静で沈んだ声が響く。

「はい、無事にお伝えいたしました」昭夫は丁寧に返事をした。

実は社長には恐怖を感じることもある。宮本司(みやもと つかさ)は若くして世界的なバイオテクノロジー企業の命運を握り、権力の頂点に立つ男だ。畏敬の念を抱かずにはいられない。

おまけに司はプライベートにおいても常に理性的で隙がない。業界からは「氷の閻魔」と呼ばれている。若葉の件がなければ、昭夫もこんな一面があるなんて一生知る由もなかっただろう。

「詳細を話せ」

……

一方、電話を終えた若葉は再び人事部へ向かった。

人事担当者は若葉が戻ったのを見て、罰を受け入れる覚悟を決めたのだと思い、早速皮肉を浴びせた。

「最初からそうしていればよかったのですよ。身の程を知らないっていうか、いい歳して何を勘違いしてるのでしょうか?まさか、自分が安藤部長のような人だとでも勘違いしてますか?」

最後まで言葉を聞くことなく、若葉は冷たく言葉を遮った。「長話は結構です。いま正式に退職の手続きをすることをお伝えします」

それを聞いた人事の担当者は、先ほどまでの生意気な表情を一瞬にして強張らせた。「えっ、何と言いましたか?」

「耳が悪いのでしょうか?退職すると言っていましたよ」若葉は相手の言葉に屈することなく、システム上の承認履歴を提示した。

そこには、既に承認が下りた退職届があり、宗介の承認印も押されていた。

人事担当者は事前に聞いていなかったが、宗介の承認印がある以上、揉める余地はない。それに若葉が宗介を怒らせて標的になっていたのは公然の秘密だ。報酬の差し押さえなども妥当だと見なされているのだろう。

人事担当者は鼻で笑った。「辞めるなら勝手にすれば?せいぜい頑張ることですね」

そして、書類を取り出し、投げつけるように差し出した。「サインしてください。引き継ぎ期間は30日です。しっかり日付を確認してくださいね」

若葉は淡々と署名し、その様子を写真に残すと、二度と振り返らずに出て行った。

若葉の背中を見送りながら、人事担当者はまだ不満そうに同僚に零していた。「あの太った体型からして、盛沢市ではかなり甘い汁を吸っていたんでしょうね。まあ退職届を自分で出したのは賢い判断だわ。そうでなければ、そのうち痛い目を見ることになるんだから」

実は、若葉が退職を申し出たとき、人事担当者は一度宗介に確認しようかと考えた。

だが退職届は既に承認されており、何より宗介から、若葉の件は一切耳に入れたくないと通達を受けていたのだ。余計なトラブルは避けるに限る。

こうして人事担当者は若葉の退職届を適当なバインダーに放り込んだことにより、若葉の退職に関することはすっかり忘れ去られた。

手続きを取った以上、若葉はもう引き下がらないと心に決めた。仕事の上でも、宗介という存在には二度と関わりたくなかった。プライベートに関しても、同じことだ。

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