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第3話

Auteur: 八雲詩乃
涼香のその言い草には違和感があった。勝ち誇ったようなその表情を見て、若葉はふと、もしかしてこの件に涼香が関わっているのではないかと疑念を抱いた。

考える間もなく、後ろから足音がした。そして宗介の声が響く。「一体、何があったんだ?」

若葉が言葉を発する前に、悠人が先に駆け寄って訴え始めた。彼は若葉を指差し、騒ぎ立てる。「パパ、この人が僕をいじめてきたんだ!今も叩こうとしてきたよ!ううっ……パパ、僕を助けて。早くこのおばさんを罰してよ!」

悠人はあざとい涙まで流してみせた。先ほどコロに対して見せていた残忍な姿とは別人のようだ。目の当たりにしなければ、若葉だって子供のそんな手の込んだ演技など信じられなかっただろう。

宗介は悠人の話を信じたようだった。いや、単に、宗介は最初から若葉の言葉など信じていなかったのかもしれない。

「悠人に謝れ」

その言葉を聞いて、若葉はただただ呆れた。事情を聞こうともせず、こうして問答無用で謝らせるのか?宗介、本当にえこひいきがひどすぎる。

若葉は冷たい視線を宗介に返すと、謝罪もせず言葉も交わさず、そのままコロを抱いて立ち去った。

背後から悠人の泣き声と、涼香がなだめる声が聞こえた。その響きは、若葉にとってただただ滑稽だった。

帰りの道中、若葉の腕の中でコロはずっと震えていた。どんなになだめても、その震えは止まらない。

動物病院に行くと、獣医は首を振った。長年この仕事をしてきたが、これほど酷い傷を負った犬は見たことがないと言う。打撲や骨折もさることながら、心身ともに深い傷を負っているようだ。処置を終えた後、獣医は若葉に言った。

「できるだけのことはしました。あとは生命力に懸けるしかありません」

元気いっぱいだったコロがこんな姿になってしまい、若葉の胸にはやり場のない恨みが渦巻いていた。けれど、自分自身にも責任はある。あの時、迷わずコロを連れて行くべきだったのだ。

過ぎてしまったことは仕方がない。これからは、一日一日を大切にコロに尽くすと心に決めた。

コロを寝かしつけた後、若葉は一度、安藤グループの本社へ向かうことにした。退職届はすでに出してあったが、許可なく深津市へ戻ってきた件について、事務的な手続きが残っていたからだ。

安藤グループ本社ビル。もう3年も足を運んでいない場所だが、目の前に立つとまるで別世界にいるかのような気分だった。

盛沢市へ派遣される前、若葉はここでインターンをしていたことがある。その際立つ美しさから社員の間では知られた存在だったため、ロビーに入った瞬間から周囲のひそひそ話が耳に入ってきた。

「あれ、若葉さんじゃない?こんな風になっちゃったの?昔はもっとすらっとしてた気がするけど、今ずいぶん太っちゃったね」

「ホントね。あそこまで自分をコントロールできなくなるなんて。今の姿じゃ、誰にも相手にされないんじゃない?」

「きっと盛沢市の駐在で調子に乗って贅沢三昧だったよ。あそこは、安藤部長のおかげで毎年すごい利益を上げてるのに、若葉さんが横領して太ったんじゃない?」

「……」

ヒソヒソ声とはいえ、ロビーは静かだったのでその悪意はすべて若葉の耳に届いた。

だが、若葉は気にも留めなかった。

ここ数年で、若葉は商談の荒波の中で鋼のような心を培っていた。今更こんな言葉に動じることはない。研究や案件獲得のために、もっと酷い言葉を散々投げつけられてきたのだ。陰口なんてものは長くは続かない。

果たしてその通り、すぐに周囲は別の話題で盛り上がり始めた。今度の主役は若葉ではない。

「安藤部長、やっぱり綺麗よね!あの立ち居振る舞いもスタイルも、芸能人顔負けだわ!」

「本当よね。安藤部長の方がむしろずっと気品があるわ。あんな透明感のある美しさは他じゃ見ないわよ」

「しかも才能まで兼ね備えてるんだ。A国の一流校で生物工学を極めて、博士号まで取って。在学中から特許をいくつも取って賞の常連だったらしいよ」

「……」

若葉が人だかりの方を見ると、長身で痩せ型の女性が入ってくるところだった。新作の高級ブランドの服に、クロコダイルのバッグを持つ涼香だった。

社員たちに終始愛想よく微笑んでいる涼香だったが、若葉の姿を目に留めた瞬間、その微笑みはさっと氷のように冷たくなった。

若葉は涼香を一瞥もせず、エレベーターを待ち、人事部のある階へと直行した。

事前の約束通り、人事担当者は若葉を待ち構えていた。

退職の手続きがまだだと思っている人事担当者は、若葉が許可なく戻った件についての社内罰則を言い渡した。会社の規定に従い、今月の給与の一部と、今年のボーナスを全額カットするとのことだ。

話を聞いて若葉は眉をひそめた。何かしらの罰はあるだろうと思っていたが、これほど厳しい内容だとは思わなかったのだ。会社の規定にはそんな条項など載っていなかったはずだ。

何度も問い質すと、人事担当者は渋々説明した。「社長が直々に決めた最新の規定で、本日より適用です」

若葉は即座に察した。宗介は、一切の容赦をするつもりはないらしい。

これ以上人事に文句を言う必要もなかったので、彼女はそのままエレベーターで宗介の社長室があるフロアへ向かった。今の彼女にとってお金は最も重要で、一銭たりとも手放すわけにはいかなかったのだ。

移動中、次々と変わる階数表示を眺めながら、若葉は考えた。宗介がこんな理不尽な対応をとるのは、自分のプライドを叩き折り、泣きついて謝る姿を見たいからだろうと。

過ちなどないと考えてはいるが、今の状況では形式的に頭を下げる必要もある。夫婦の縁も名目上の子供の存在もある以上、無用な騒ぎは避けたいのだ。

社長室のドアの前まで来ると、中から話し声が漏れてきた。宗介と涼香だった。

若葉は二人のことには興味などない。帰ろうとしたその時、涼香の口から自分の名前が出たのを聞き、足が止まった。

涼香が宗介に甘ったるい声で問いかけていた。「ねえ宗介、若葉さんっていつ出て行くの?」

「心配しなくていい。すぐに対処する」

宗介はためらわずにそう答えた。若葉はわざわざ覗かなくとも、今の彼の優しい顔つきが容易に想像できた。

「分かってる、信じてるから」と涼香は続ける。「でも知ってるでしょ?突然若葉さんが帰ってきて悠人まで落ち着かないのよ。彼女、別人のようになって性格も曲がってるし。まあ私は自分が辛いのは平気なんだけど、悠人が可哀想で……」

「分かってる。手続きは進めてある。もうすぐあいつを盛沢市へ戻す。それより、用意しておいた君へのプレゼントがあるんだ」

言葉の合間に少しの間が空いた。宗介がプレゼントを渡しているのだろう。

すぐに涼香の驚きの声が上がる。「え、このブレスレットを?これ、2億円もするじゃない?そんな高価なものを!」その声には、驚きを隠しきれない喜びが混じっていた。

「高くない。涼香によく似合うよ」宗介の優しい声が続く。

甘い会話を聞きながら、若葉は皮肉な笑みを漏らした。自分の母が病気で必要としている3400万円も貸してくれないくせに、涼香には平然と2億円もかける。これが、好かれる者とそうでない者に対する絶対的な違いだった。

すぐに涼香の泣き声が聞こえた。喜びに感極まった涙声だ。「本当に宗介って……あの時、私の妊娠をおばあさんに知られたら追い出されていたでしょう。私を救ってくれて、若葉さんと結婚までして……仮の姿とはいえ、こうして宗介と悠人のそばにいられて、本当に幸せ」

「安心して。あの時君を守ったように、これからもずっと……君と悠人の一生は、必ず守り抜く」

「……」

二人の話がその後どう続いたのか、若葉にはもはや何一つ頭に入らなかった。涼香のあの言葉を耳にしたとたん、彼女の頭の中がガーンとなった。

悠人は宗介と涼香の子供だったのか?宗介と結婚したのは、単に悠人を正当に引き取るためだけの口実だったのか?この3年間、全ては最初から仕組まれた罠で、宗介は最初から、自分を愛していなかったというのか?

胸の痛みで息もできない。視界がぼやけ、両足から力が抜け落ちていく。若葉はただ、壁にもたれかかるのが精一杯だった。

こんな状況でも思考はかえって冴え渡り、これまで見て見ぬふりをしていた微細なことが、パズルのように組み上がっていく。

なぜあの時、あれほど急いで自分と結婚したがったのか。

なぜ、新婚の翌日に自分を遠く離れた盛沢市へ追いやったのか。

なぜ、自分が宗介からプロポーズされたという事実を知った涼香があれほどあざ笑ったのか。

悠人と涼香の似た目鼻立ち……そして3人を見ているとまるで本物の家族に見えた、あの胸のつかえ……

そうか。最初から全て、涼香のために仕組まれた計画だったのだ。

自分はずっと騙され続け、運命の人だと勘違いして傷ついていた哀れなピエロに過ぎなかった。

昔、仕事を終えて帰宅する途中で拉致され、凄惨な侮辱を受けた。極度の混乱のせいで若葉自身の記憶も曖昧だが、犯人が盛沢市に関係していたことだけは覚えている。

若葉が目を覚ました時、付き添っていたのが他ならぬ宗介だった。彼は、若葉が受けた屈辱など気にしないと言い、結婚を申し込んだ。ただし、彼女が二度と子供を産めない体になってしまったことを告げ、家庭の平穏を保つために子供を養子に迎えようと提案した。

当時、若葉にとって宗介は救世主そのものだった。4年間ひそかに恋焦がれていた憧れの人が、どん底の弱りきった自分に救いの手を差し伸べてくれたのだ。若葉は迷うこともなく、そのプロポーズを受け入れた。

今は全てが芝居だったと分かる。宗介たちにとって若葉は、都合よく使い捨てられる捨て駒に過ぎなかった。

若葉は激しく涙をこぼし、爪を食い込ませていた。これまでに感じたことのない、底なしの絶望と空虚感が彼女を襲う。

その時、スマホが鳴った。着信を見て一呼吸置くと、若葉は乱暴に涙を拭い、出口に向かって歩き出した。

一ノ瀬昭夫(いちのせ あきお)からの着信だった。

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