LOGIN実家へ連れ戻されてからの10年間、私・高村渓音(たかむら けいと)は偽令嬢の高村静(たかむら しずか)と、本当の姉妹のように親しく過ごしてきた。 母でさえ、「あんたのことを一番大切にしてくれているのは、静なのよ」と言っていた。 私はかつて誓った――この命に代えてでも、このかけがえのない4人家族を守り抜くと。 姉の静が脳動脈瘤の破裂で緊急手術室へ運ばれた時、私はオフィスで、淡々と手術シミュレーターを使い、基本的な縫合動作の練習をしていた。 画面の中では、ロボットアームが正確に針を通し、糸を引いていく。 その動きは、まるで一つの芸術作品のように完璧だった。 数分後、恋人の梶原猛(かじわら たけし)がオフィスのドアを勢いよく開けて飛び込んできた。 そして私を見るなり、声を荒らげた。 「渓音!静さんが危ないんだ!彼女を救えるのは、君の微細剥離術だけなんだ。病院中の専門医が、みんな君を待ってる!手術できる時間は、もう1時間も残ってない!」 彼は期待を込めた目で私を見つめた。 私は国内で、このレベルの手術を行える唯一の医師だった。 そして私の両手は、「神の手」と呼ばれるほど高く評価されていた。 それでも私は、ただ淡々と「そう」とだけ返し、再び手術シミュレーターの操作に戻った。 父と母はほぼ同時にオフィスへ駆け込んできた。 母は私の腕を強く掴み、泣きながら叫んだ。 「渓音!静はあなたのお姉ちゃんなのよ!それでも見殺しにするつもりなの!?」 私はそっと母の手を振りほどき、右手を二人の前へ差し出した。 数えきれないほどの医学的奇跡を起こしてきたその手は、今、かすかに震えていた。 私は静かに告げる。 「残念だけど……昨日から、特発性振戦の症状が出始めた。父さん、母さん。この手は、もう使い物にならないの」
View More1週間後、職員から電話がかかってきた。猛が私に会いたがっているという。断るつもりだったけど、彼が恩師の名前を口にしたと聞いた瞬間、気持ちが変わった。「本当は……君が羨ましかったんだ」ガラス越しに、猛は苦笑を浮かべながら私を見ていた。「同じ周防教授の弟子だったのに、僕は何をやっても君には敵わなかった。体調不良を理由に、途中で諦めて研究を離れるしかなかった。教授は君にすべてを託した。君はそれをすぐに自分のものにして、何でも完璧にやり遂げていた」彼の告白に、私は一瞬だけ驚いたが、すぐに平静を取り戻して尋ねた。「それが、高村静と手を組んだ理由なの?」彼は一度うなずき、それからゆっくりと首を横に振った。「違う、ただ……悔しかっただけだ。本当に君を殺そうと思ったわけじゃない……」当時、微細剥離術の核心となる構想は、私の恩師である周防教授が半生をかけて築き上げた、未完成の研究だった。あの頃、私と猛は周防教授のもとで学ぶ同期の弟子だった。けれど猛は体調不良を理由に、結局研究を離れ、別の指導教授のもとへ移った。それでも、その後、私たちは恋人になった。毒を盛られるまでは、私は本気で信じていた。彼は心からこの分野を愛しているのだと。「先生が突然、心筋梗塞で亡くなったあと……君は先生が残したすべての研究資料と初期データを引き継いだ。僕は思ったんだ。どうしてだって。もし僕が続けていたら、僕だって『神の手』になれたんじゃないかって……」「いいえ。あなたには無理だったわ」私は彼の言葉を遮った。「医者の使命は、人を救うことよ。名声を手に入れることじゃないわ。あなたの心も、手も、もう汚れすぎている。先生の研究を受け継ぐ資格なんて、あなたにはない」猛の目が赤く染まった。私は立ち上がり、そのまま背を向けた。すると、背後から彼の声が追いかけてきた。「渓音……君は本当に、一度でも僕を愛したことがあるのか?」私は足を止めなかった。そんな問いに、もう意味などなかった。……私は10年間暮らしたその街を離れた。誰にも告げることなく。両親がどうしても譲渡した株式もすべて売却した。その一部は、恩師の名前を冠した医学基金を設立し、経済的に苦しい医学生たちの支援に充てた。残りは、私が育ったあの田舎町へ匿名
事件の後の処理については、何の心配もなかった。ハチドリが記録した動かぬ証拠を前に、猛と静は精神的な防壁を完全に崩され、すべての罪を認めた。2人は複数の罪状で起訴され、これから待っているのは長い刑務所生活だった。大智医療会社も、数々の違法行為の疑いで捜査対象となり、株価は大暴落し、倒産寸前まで追い込まれた。そして、私の両親は、一晩で20歳も老け込んだかのように見えた。2人は私のアパートの前まで押しかけてきて、何度も何度も謝罪し、泣きながら許しを乞うた。家に戻ってきてほしい、と。「渓音、父さんと母さんが間違っていた。本当にすまなかった……!」「私たちにはもう、あなたしかいないの。お願いだから、一緒に帰ってきて……」私は、すっかり老いた2人の顔を見つめた。胸の中にあったのは、憎しみでも愛情でもなかった。ただ、何も残っていない荒れ果てた心だけだった。私は静かに口を開いた。「2人は娘を1人失った。でも私は……本当の意味で『家』を持ったことなんて、一度もなかった。それと、高村グループの株式50%の受け取りを、私は拒否する。そして、2人とは法的な親子関係をすべて解消する」そう言って、私はドアを閉めた。2人の声を、すべて遮るように。残りの手続きは、弁護士に任せた。……その後、私が最初にしたことは、自分の名義で記者会見を開くことだった。会見の場で、私は正式に発表した。微細剥離術に関するすべての特許権を、無償で国に譲渡すると。そして、この手術の名称には、その真の創始者である周防教授の名を冠されることになる。微細剥離術は、正式に「周防手術」と名付けられた。次に向かったのは、恩師の墓前だった。私は判決文の写しを墓前で燃やした。青白い煙が細く立ち上る中、私は再び、先生の穏やかな笑顔を見たような気がした。「先生……あなたのものを、取り戻しました。誰にも汚されない、きれいな形で……」私は墓前に三度深く頭を下げた。この10年間、私は自分の居場所ではない家に馴染もうと必死だった。愛される価値があるのだと証明しようとして、がむしゃらになっていた。でも今、ようやく夢から覚めたのだ。私が3番目にしたことは、病院へ向かうことだった。院長を訪ねて退職届を差し出すために。院長は驚いた顔をした。
真実は、ついに白日の下へさらされた。あまりにも衝撃的などんでん返しに、会場全体……いや、ネット中までもが、異様な静寂に包まれた。父は、生涯をかけて「家族」を誇りにしてきた、品位ある大学教授だった。そんな彼が、すべての真実を知った瞬間、体を激しく震わせた。次の瞬間、突然血を吐き、そのまま真っ直ぐ後ろへ倒れ込んだ。母は人とは思えない悲鳴を上げ、その場で意識を失った。現場は一瞬にして騒然となった。警察がすぐに事態を収拾し、猛には手錠がかけられ、そのまま連行された。医療スタッフも駆けつけ、倒れた両親の救護にあたった。一方、車椅子に座る静――つい先ほどまで、涙を流しながら哀れな被害者を演じていた女は、今や顔面から完全に血の気が引いていた。「高村渓音!どうしてあんたは、田舎でそのまま死んでくれなかったのよ!」彼女は甲高い声で叫び、車椅子から私へ飛びかかろうともがいた。しかし、すでに体に力が入らず、そのまま床へ倒れ込む。その姿は、見る影もなく惨めだった。警察は彼女もその場で取り押さえた。私は静かにステージの上へ立っていた。まるで、孤独に佇む一体の彫像のように。現場を指揮していた警官が私のそばへ歩み寄り、低い声で尋ねた。「高村先生、イヤホン越しに指示を出していた人物は誰ですか?その方にも事情聴取に協力していただく必要があります」私は首を横に振り、会場の後方にある、人目につかない隅を指さした。そこには、私と同じくらいの年齢の男性が立っていた。服装は質素で、穏やかな目をしている。最初から最後まで、ただ静かに状況を見守っていた人だった。「彼は森田黙(もりた もく)。私の先輩です」私は静かに告げた。「そして、恩師のもう一人の後継者でもあります。手術の日、彼は隣の観察室で、ハチドリが送ってくるリアルタイム映像を確認しながら、指示を出していました。私たちがこうしたのは、ただ人の命を救うためだけではありません。梶原猛と大智医療会社が、この技術を自分たちだけの力で完成させる能力などなかったことを証明するために、最も完全な証拠の連鎖を残す必要があったんです」黙は私に軽く頷くと、自ら警察のもとへ歩いていき、事情聴取に応じた。私は知っていた。彼には、何の問題も起こらないと。なぜなら、私たちがしたこ
「ありえない……こんなこと、絶対にありえない……」父はそう呟き、瞳から涙を止めどなくこぼした。苦しみに打ちひしがれる2人の姿を見ても、私の心にはもう何ひとつ波紋は広がらなかった。猛と大智医療会社の幹部たちは、すぐに身柄を拘束された。その瞬間、母が突然、狂ったように私に駆け寄って、私の腕を掴み、泣きながら必死に訴えた。「渓音!お姉ちゃんを許してあげて!あの子は一時の過ちを犯しただけなのよ!きっとあの男に騙されたんだわ!お願い……私たちが跪くから、今回だけは許してちょうだい!」母と父は、またしても私の前に跪こうとした。数日前とまったく同じだった。姿勢も、表情も、何もかも。ただ、あのときは人の命を救うために、私へ手術を頼んでいた。そして今は、犯罪者を見逃してほしいと懇願している。私はそんな2人を見つめ、突然、どうしようもなく滑稽に感じた。「許してあげて?」私はゆっくり、噛みしめるように問いかけた。「あなたたちは……これですべてが終わると思っているの?」私の言葉に、周囲にいた全員が息を呑んだ。まさか……まだ、もっと恐ろしい真実が隠されているというのか。私は目を閉じ、ゆっくりと息を吸い込んだ。そして再び目を開けたとき、そこにあったのは、底知れない悲しみと憎しみだけだった。「それでもまだ、静は利用されただけの無実の被害者だと思っているの?違うわ」私はスタッフに指示を出し、USBメモリに保存されていた最後のファイルを再生させた。それは音声データ――私が静の部屋にあるぬいぐるみの中に隠していた録音機が記録したものだった。そこに残されていたのは、静と猛の密談だった。録音の中で響いた静の声は、普段の優しく穏やかなものとはまるで違っていた。そこにあったのは、むき出しの悪意と憎しみだった。「高村渓音なんて何なの?ただ運よく、いい家に生まれただけじゃない!高村家のすべては、もともと私のものになるはずだったのよ!18年間、私はずっとお姫様だった。それなのに、あの子が戻ってきただけで、どうして全部奪われなきゃいけないの?父さんと母さんの愛も、高村家の財産も、それにあなたも……全部、私のものなのに!あいつの手を壊して、医者としての未来もめちゃくちゃにしてやる。父さんと母さんに、どちらが本当に誇る