Share

法じゃ足りない

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2025-08-10 13:54:58

佐山は、再び椅子に深く座り直した。

指先で膝を押さえ、冷えた空気を肺にゆっくりと吸い込む。

雨上がりの湿った匂いが、窓の隙間から微かに漂ってきた。

外はすっかり明るくなっている。

けれど、部屋の中はまだ夜だった。

デスクライトは消していない。

その淡い光だけが、佐山の顔を照らしていた。

ディスプレイの中には、川上美咲のSNSが開かれたままだった。

笑顔。

成功。

賞賛。

幸福の象徴が、そこにはずらりと並んでいた。

佐山は、目を細めたまま、その画面を見つめていた。

一瞬だけ、頭をよぎるものがあった。

法で裁くという選択肢だ。

名誉毀損。

業務妨害。

個人攻撃による精神的損害。

証拠は揃っている。

匿名掲示板のIPアドレス。

チャットログ。

十分戦える。

法廷に持ち込めば、美咲は多少の社会的ダメージを負うかもしれない。

けれど、佐山は、次の瞬間その考えを吐き捨てた。

「そんなもんじゃ足りない」

声はかすかだったが、はっきりと耳に届いた。

名誉毀損で得られるのは、せいぜい金と、軽い世間体の崩れだけだ。

示談金か、和解か、場合によってはマスコミの小さな記事になるかもしれない。

でも、美咲はどうせ「誤解でした」「行き過ぎた行為でした」で済ませるだろう。

泣きながら頭を下げれば、世間はすぐに許す。

何も変わらない。

すぐにまた、SNSで「前を向いて進みます」とか言い出すだろう。

夫と一緒に海外で療養でもして、三ヶ月もすれば元通りだ。

社長の娘という肩書きも、夫のバックアップも、何も失われない。

「それで、姉さんの命は戻るのか」

佐山は、自分に問いかけた。

声に出すことで、より鮮明に現実を突きつけられる気がした。

姉の命は戻らない。

絶対に。

「法じゃ足りない」

その言葉を、もう一度心の中で繰り返した。

脳の奥が、ひやりと冷
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 姉を奪われた俺は、快楽と復讐を同時に味わった~復讐か、共依存か…堕ちた先で見つけたもの   心の隙間

    夜のオフィスは、昼間とは別の顔をしていた。雑音が消えたあとの空気はやけに冷たく、コピー機の待機音や遠くの車の音だけが時折、静けさを裂くように響いた。佐伯は、自分のデスクに残ってパソコンの画面を見つめていた。だが、目はほとんど動いていなかった。資料の文字はぼやけて見える。それが疲労のせいなのか、集中力の欠如なのか、自分でも分からなかった。手の中の缶コーヒーはすでに空になっていた。それに気づかないまま、指先で缶の表面を無意識に撫で続けている。掌の中で、缶の金属がかすかに凹む。そんなことすら、気に留めなかった。「佐伯部長」背後から声をかけられた。その声で、ふっと現実に引き戻される。振り返ると、そこには佐山が立っていた。「まだ残ってたんですね」佐山の声は、相変わらず柔らかい。だが、それがなぜか、胸の奥にひっかかった。ただの挨拶じゃない。もっと奥まで触れてくるような響き。「ああ、ちょっとな」佐伯は、わざと明るく言った。だが、その声が自分でも驚くほど力なく聞こえた。「資料ですか」「まあな。クライアントがうるさいから、念のためチェックしてるだけだよ」「大変ですね」佐山は、ゆっくりと佐伯の横に座った。普通なら、部下がこんなふうに隣に座ることはない。でも、佐山がそうしても、不思議と嫌じゃなかった。「……」佐伯は、ため息をつきそうになったが、飲み込んだ。いつもなら、ここで「大丈夫だよ」と笑ってみせる。でも、今日はなぜか、それができなかった。「部長、無理してません?」佐山の声が、横からふっと耳に入ってくる。それが、思った以上に響いた。「無理してない」と即答するべきなのに、口が動かなかった。「……まあな」気がつけば、そう答えて

  • 姉を奪われた俺は、快楽と復讐を同時に味わった~復讐か、共依存か…堕ちた先で見つけたもの   誘い水の言葉

    佐山は、缶コーヒーを渡した手をゆっくりと引っ込めた。隣の椅子に腰を下ろし、佐伯の横顔をちらりと見た。蛍光灯の光が、佐伯の頬に淡く影を作っている。眉間に刻まれた皺は、疲労のせいか、それとも年齢のせいか。いや、そうではない。心の中に積もった「何か」が、表情に滲んでいるだけだと佐山は知っていた。「佐伯部長も、今日は遅いですね」佐山は、あえて形式的な言葉をかけた。普通の新人なら、ここで「お疲れ様です」とだけ言って去る。だが、それでは何も始まらない。だからこそ、あえて声をかけた。佐伯は、缶コーヒーを口に運びながら答えた。「まあな。今週は案件詰まってるから」声は、柔らかい。だが、そのトーンには疲れが混じっていた。演技でも、取り繕いでもない。本当に、心から疲れている声だった。「大変ですね」佐山は、言葉を重ねた。だが、その声色はあくまで穏やか。「労わる部下」の顔を崩さず、相手の懐に入り込む。その距離感を計算しながら。佐伯は、資料に目を落としたまま缶を握っている。右手のペンは、いつの間にか止まっていた。それだけで、佐山には手応えがあった。「……」佐伯は何も言わなかった。ただ、缶コーヒーを握る手に力が入っているのが見えた。缶がわずかにへこんでいる。それは、誰にも気づかれない程度の小さな変化。だが、佐山は見逃さなかった。「……部長って」佐山は、少しだけ間を置いた。呼吸を整える。その一瞬の「ため」が、言葉を重くする。「寂しい時、ないですか」言った瞬間、佐伯の肩がぴくりと動いた。缶コーヒーを持つ手が、ほんの一瞬だけ止まった。佐山は、その動きを見逃さなかった。「何だよ、それ」佐伯は、冗談めかして笑っ

  • 姉を奪われた俺は、快楽と復讐を同時に味わった~復讐か、共依存か…堕ちた先で見つけたもの   青白い蛍光灯の下

    午後七時を過ぎると、フロアの空気は昼間とまるで違っていた。窓の外は、薄い雨が街灯の光を滲ませている。オフィスの蛍光灯は、昼間よりも青白く感じた。誰もが帰路につき、静かな空間に残されたのは、わずかな残業組だけだった。その中に、佐伯の背中があった。営業部のエース。誰もがそう呼ぶ男の背中は、しかし今、妙に小さく見えた。資料に目を落とし、黙々とページをめくる。肩は真っ直ぐだが、どこか力が抜けている。スーツの背中に浮かぶ皺が、疲れを映していた。佐山は、デスクの向こうからその背中を見ていた。手元では、会社支給のタブレットをいじるふりをしている。だが、実際はほとんど画面を見ていなかった。視線は、ずっと佐伯に向けられている。佐伯の右手が、ペンを持ったまま小刻みに回る。人差し指と中指でくるりと回し、また戻す。その動作が止まらない。考え事をしている時、佐伯はよくその癖を出す。佐山は、初日からそれを観察していた。「頼れる先輩」と呼ばれる男は、こうやって隙間を晒す。肩に滲む疲れ。目の下の薄いクマ。ペン回しの癖。そして、誰にも頼れない空気。それは、まるで無意識に貼り付けられた「孤独」のラベルのようだった。佐伯は営業のトップだ。案件の進捗管理、クライアント対応、新人教育。誰よりも頼られ、誰よりも期待される。それは当然のこととして、彼の肩に乗せられていた。だが、佐山にはわかる。その期待が、じわじわと彼を蝕んでいることを。「家庭でも、きっとそうなんだろう」佐山は心の中で呟いた。佐伯の家庭は、表向きは「理想の夫婦」だ。妻は美咲。会社の上層部とつながりがあり、美咲自身も部下を持つ管理職。そんな女と結婚している男には、「完璧な夫」でいることが求められる。仕事もできて、家庭も支えて、常に余裕を持つ男。世間が求める「理想の男」

  • 姉を奪われた俺は、快楽と復讐を同時に味わった~復讐か、共依存か…堕ちた先で見つけたもの   これは、ただのゲーム

    ロッカー室は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。業務が終わると、オフィスの空気は急速に弛緩する。誰もが疲労と余韻を抱え、私語も減る。だが、その静けさの中で、佐山はひとり、ネクタイを外していた。手首の動きは、淡々としていた。今日一日つけていたネクタイをゆるめ、首元から滑らせる。その感触は、まるで舞台の小道具を外す感覚に似ていた。鏡越しに、自分の顔を見た。笑ってもいないし、怒ってもいない。ただ、穏やかな顔。何の変哲もない、仕事帰りの若い男の顔。しかし、その内側では別の表情があった。「これは、ただのゲームだ」心の中で、佐山はゆっくりと呟いた。今日一日、美咲が与えてきた言葉や視線を、何度も思い返す。「分からないことは私に聞いて」「佐山さん、頑張って」「また一緒に案件出そうね」その一つ一つが、彼女の「所有欲」を満たしていた。自分を「選んだ側」の優越感。自分が「導く側」だと信じ込んでいる快感。佐山は、それを冷静に観察していた。だが、その快感を与えているのは、他でもない自分だ。与えているふりをしているだけ。その事実が、胸の奥でじわじわと熱を持って広がる。ネクタイを丁寧に丸め、鞄の中にしまう。その動きもまた、儀式の一部だった。舞台が終わった後の、衣装を脱ぐ時間。だが、心はまだ舞台の上にいる。本番は、これからだ。ロッカーに鍵をかける指先は、決して震えなかった。それどころか、静かな快感に満ちていた。姉を奪った女に、今、懐かれていると錯覚させている。その倒錯が、何よりも自分を満たしていた。「俺は、悲しんでなんかいない」それも、心の中で繰り返した。泣きたいわけじゃない。怒っているわけでもない。ただ、ゲームをしているだけだ。役割を与えられたふりをして、自分が主導権を握るゲーム。

  • 姉を奪われた俺は、快楽と復讐を同時に味わった~復讐か、共依存か…堕ちた先で見つけたもの   権力者の隙間

    美咲は、休憩室でコーヒーを淹れていた。昼休み明けのわずかな隙間時間。業務に戻る前の、ほんの数分の儀式だ。コンビニで買ってきたペットボトルの水をポットに注ぎ、インスタントのコーヒーをカップに入れる。ステンレスのスプーンがカップの底に触れて、かちゃりと音を立てた。部下たちは、誰もこの時間に声をかけてこない。それが普通だ。部長が一人でいる時は、そっとしておく。誰もがそういう距離感を守っている。それが、役職者という立場だった。だからこそ、美咲は一瞬だけ戸惑った。背後から、柔らかい声がかかった。「部長、ブラックなんですね」振り向くと、佐山が立っていた。距離が、近い。同じフロアで働く者同士としては、ぎりぎり不自然にならない範囲の距離。だが、他の社員なら絶対に取らない距離だった。美咲は、ほんの一瞬だけ動揺した。だが、それを表には出さなかった。軽く笑って、カップを手に持ち替える。「そうよ。朝は砂糖入れるけど、昼はブラックって決めてるの」「へえ」佐山は、ほんのわずかに目を細めた。その表情は、単なる好奇心にも見えたし、懐いている年下の顔にも見えた。美咲は、心の奥に微かな快感を覚えた。「この子、私に気を許してる」そう錯覚する感覚。いや、錯覚だとは思いたくなかった。自然な距離感のように見せかけて、確かに「特別な何か」を感じさせる。佐山はそういう雰囲気を纏っていた。「いつもブラックなんですか?」「うん、まあね。大人になるとそうなるの」「大人、ですか」佐山は、目を伏せて小さく笑った。その声のトーンが妙に耳に残った。ただの雑談のはずなのに、胸の奥をかすかに撫でられるような感覚。美咲は、それを気のせいだと自分に言い聞かせた。「砂糖とかミルクは、使わないんですね」「そう。甘いのは仕事

  • 姉を奪われた俺は、快楽と復讐を同時に味わった~復讐か、共依存か…堕ちた先で見つけたもの   懐に触れる距離感

    昼休みの時間になった。フロアの空気が一斉に緩む。それまでキーボードを叩いていた指が止まり、椅子が軋む音があちこちから聞こえる。誰かがコンビニの袋を持って戻ってきた。別の誰かは、エレベーターの方へ向かう。社内の食堂に行く者、デスクで弁当を開く者、スマホをいじる者。それぞれの昼休みが、平等に流れていく。佐山は、そんな風景の中で、あえて席を立たなかった。弁当を買いに行くふりをしてトイレに立つこともできたが、あえて美咲の近くに残った。手元の資料をゆっくりめくる。顔は穏やかに、眉間には少しだけ困ったような皺を寄せて。「部長」佐山は声をかけた。柔らかい声だった。呼ぶときだけ、少しだけトーンを落とす。それが、年下の男の「甘える時の声」に自然と聞こえるように。美咲は顔を上げた。昼食のサラダにフォークを差し込んだまま、佐山の方を見た。「どうした?」佐山は、手元の資料を見せた。営業用のプレゼン資料。新規クライアント用の提案書のテンプレートだった。「これ、フォーマットは分かるんですけど、実際に使う場面って、どういう順番で話すのがいいんでしょうか」「順番?」「はい。例えば、先に課題を聞いてから提案するのか、それともこちらから先に商品説明をするのか。今までの職場だと、決まった形しかなかったので」美咲は、ほんのわずかに唇を緩めた。その顔には「教えてあげる側の快楽」がにじんでいた。上司として、部下に頼られること。しかも、こんな美形の部下に。その構図自体が、美咲には心地よかった。「基本は、相手の状況を聞いてから提案よ。だけど、相手によっては、最初にプレゼンしちゃった方が話が早い時もある。ケースバイケースかな」「なるほど…」佐山は、わざと少し首をかしげた。眉を寄せる。唇を少しだけ噛む。その仕草は、完全に「懐いている年

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status