Mag-log in私・冨永雪乃(とみなが ゆきの)は昔からおしゃべりで、どうでもいい小さなことまで、誰かに伝えたくて仕方なかった。 でも夫の冨永厳(とみなが げん)はそれを煩わしく思い、「俺と話すのは1日10回まで」と決めた。 彼を失いたくなくて、私は黙るようになった。 この3年間、流れ星を見ても声を上げず、包丁で指を切っても、痛みに耐えて唇を噛みしめ、泣き声を押し殺した。 一度だけ、思い切って打ち明けたことがある。 「医者に、うつ傾向が強くなってるって言われたんだけど……ちょっと愚痴を聞いてくれない?」 彼はノイズキャンセリングイヤホンをつけた。 「精神疾患を理由に俺を縛るな。俺には静寂が必要なんだ」 「分かった」 そう言ってからは、ため息をつくのさえ、トイレにこもるようになった。 ある日、彼のPC内に隠しフォルダがあるのを見つけた。そこには、何千件ものボイスメッセージが保存されていた。すべて、「うつ病だ」と言い張る幼なじみ、香川美桜(かがわ みお)から送られてきたものだった。 彼女は、ラーメンを食べて舌を火傷しただけで、3分もあるボイスメッセージを送ってくる。 それなのに厳は、一つひとつ文字に起こしてじっくり読み、さらにはメモまで残していた。 「今日の美桜、320回も話してる。昨日より明るくなった。引き続き頑張ろう」 彼の親友・林直人(はやし なおと)が、グループLINEで厳に言った。 「お前、美桜にだけは本当にマメだよな。これじゃ嫁さん、家でキレそうだぞ」 私はその画面をじっと見つめ、そっとイヤホンを元の位置に戻した。 彼が望む絶対的な静寂を、私は思う存分与えてあげることに決めた。
view more「そのうつ病も、どうせ芝居なんだろ。とっくに知ってるんだよ!」厳は狂った獣のように、机の上のコーヒーカップを掴み、床に激しく叩きつけた。「直人がグループLINEで、お前のことを全部暴いてくれたんだ。俺の金で若い男に貢いでたんだろ。今さらどの面下げて金をせびりに来た!」もう隠しきれないと悟った美桜は、フッと冷たく笑い、ついにその本性を露わにした。「厳、よく言うわね。何?今さら被害者ぶるつもり?雪乃さんを追い詰めたのは、他でもないあんたでしょ?あんたがあたしを甘やかしたから、あのスープだって雪乃さんにかかっちゃったんじゃない!あんたなんてこれから破産して、一生一人ぼっちになればいいのよ!」その言葉が、張り詰めていた厳の理性を完全に吹き飛ばした。半月も経たないうちに、サイレント・テクノロジー社は資金ショートを起こしてあっけなく倒産した。厳名義の不動産や高級車は、すべて銀行に差し押さえられた。最も皮肉だったのは、破産手続きに入る前夜のことだ。美桜が厳の金庫に残されていた最後の現金を、根こそぎ持ち逃げしようとしたのだ。しかし彼女は、海外へ高飛びする直前に、怒り狂った債権者たちに捕まった。債権者たちは彼女が身につけていた宝飾品をすべて奪い、顔の形が変わるほど殴りつけたという。まさに因果応報だった。すべてを失った厳は、ホームレスに落ちぶれた。皮肉なことに、彼はついに望み続けていた「静寂」を手に入れたのだ。なぜなら、もう彼に話しかけてくれる者など、この世のどこにもいなくなったからだ。一方、はるか遠くの砂丘で、私の新しい人生は穏やかに、そして確実に前に進んでいた。腕の火傷はすっかり治り、うっすらとした傷跡が残るだけになった。「これは勲章みたいなものだ。泥沼から這い上がった勇気の証だよ」と、航は言ってくれた。その夜、ホテル近くの砂丘では盛大なキャンプファイヤーが開かれていた。宿泊客たちは燃え盛る火を囲み、歌い、踊っている。私は皆にラム肉の串焼きを配って回っていた。ふと振り返ると、航がギターを抱えて私の前に立っていた。揺れる炎に照らされた彼は、いつもは豪快なくせに、珍しく耳まで真っ赤にしていた。「雪乃。俺、口は上手くないけど、人の話を聞くのは得意なんだ」彼はまっすぐに私を見つめ、少し照れくさそう
航は瞬時に反応した。厳の手首を強く掴むと、容赦なく押し返した。厳はたじろぎ、数歩よろめいた。「何の真似だ? 俺のホテルで勝手な真似をしてタダで済むと思うなよ」航が冷酷な視線で見下ろす。私を指差し、怒りに声を震わせた。「俺は彼女の夫だ!お前は何だ!」私は静かに立ち上がり、手についたクルミの破片を払い落とした。そして、冷めた目で彼を見つめる。「訂正するわ。元夫になるよ。離婚届には署名して置いてきたわ。役所で手続きすればそれでおしまい」厳は目を真っ赤にして私を凝視した。「離婚なんて認めない!署名しないぞ!雪乃、もういい加減にして俺と帰ろう。もううるさいなんて言わないから。1日百回でも千回でも、お前の好きなだけ話せばいい。だから、お願いだ……」彼の惨めな哀願を目にして、私は心の底から、呆れたようなおかしさが込み上げてきた。ゆっくりと右手を上げ、中指を立てる。呆然とする厳に向かって、一音ずつ区切って、冷酷に吐き捨てた。「き・え・て」厳は雷に打たれたように固まり、顔から一瞬で血の気が引いて蒼白になった。かつて彼が「1日10回」という残酷な数字で私を支配し苦しめたように、今の私は彼のために言葉を使うことさえ、もう惜しかった。航は躊躇することなく警備員を呼んだ。「このスーツの男をつまみ出せ。次に来たら敷地に入れるな」厳は警備員たちによって、ゴミのように外へ追い出された。彼が長年抱いていた高慢なプライドは、砂丘の風の中で粉々に砕け散った。しかし、彼に染みついた歪んだプライドと執着が、それを許さなかった。街へ戻ると、彼はすぐさま「ホテル・サンドリップル」の素性を調べ上げさせた。たかだか田舎の砂丘リゾートだと高を括り、冷笑を浮かべた。彼のサイレント・テクノロジー社も、企業価値は十数億円ある。取引先や流通に圧力をかければ、航が素直に私を差し出すだろうと考えたのだ。彼はコネを使い、ホテルへの主要な物資の供給ルートをいくつか強引に断った。航から泣きついてくる電話がかかってくるのを心待ちにしながら、社長室で勝ち誇ったように笑っていた。だが、その時だった。オフィスのドアが壊れんばかりの勢いで開いた。副社長が真っ青な顔で飛び込んできて、手に持った書類の束を震わせながら差し出す。「社長、大変です!我
「痛かったろ。誰にこんなひどい火傷を負わされて、放り出されたんだ?」その温かい一言に、鼻の奥が急につんとして、ポロポロと涙が溢れ出した。この3年間、いろんな苦しいことがあった。けれど、誰かに「痛かったな」と優しく労ってもらったことなんて、一度もなかったのだ。航が慌ててティッシュを取り出し、差し出してくれる。「おいおい、泣くなよ。俺がいじめてるみたいじゃないか。辛いことがあるなら、何でも話してみろ。ここは砂丘だ。風も強い。どれだけ大声で叫んだって誰にも届かない」彼のまっすぐな瞳を見つめていると、とうとうこらえきれなくなり、口を開いた。3年間にわたる抑圧も、あの馬鹿げた「1日10回」という歪んだルールも、涙とともにすべて吐き出した。声が枯れるまで泣きながら話し続けた。彼にうるさいと思われるのではないか、ノイズキャンセリングイヤホンをつけられるのではないか、そんな不安が頭をよぎった。けれど航は、ただ黙って耳を傾けてくれた。話が進むにつれ、彼の眉間のシワがどんどん深く刻まれていく。私がすべてを語り終えると、彼は深く息を吐き、静かに言った。一生忘れられない言葉だった。「そのクソ元旦那、完全に頭がおかしいな。……いいか、どうでもいい小さなことまでいちいち話してくれるってのはな、それだけ心から相手を信頼してる証拠なんだよ。ここなら、お前がどれだけ喋ったって構わない。何百回でも何千回でも聞いてやる。俺は、静かなほうより人の声が聞こえるほうが好きなんだ」その瞬間、本当に、生き返ったような気がした。それから半月ほど、私は治療費の代わりに、ホテルで簡単な手伝いをした。毎日、航と一緒に厨房で新作料理の試食をしたり、砂丘の頂上で沈む夕日を眺めたりした。これまでの人生で、こんなに伸び伸びと喋ったのは初めてだった。いつしか航がふと私のことを「雪乃」と呼ぶようになり、二人の距離は少しずつ、けれど確実に縮まっていった。一方、遠く離れた街では、厳は発狂寸前だった。ありとあらゆる人脈を駆使し、私が海沿いの砂丘地帯へ向かったことまで突き止めたのだ。彼の会社「サイレント・テクノロジー社」は、新型ノイズキャンセリング機器の発表を直前に控えていた。それにもかかわらず、彼はすべての業務を副社長に丸投げし、狂ったように私を探し回って
厳の胸を深く抉ったのは、その一文だった。「厳、私は3年かけて、口を閉ざした。この心も一緒に閉ざした。あなたが望んだ静寂、今こそ与えてやる」椅子を蹴飛ばして立ち上がると、凄まじい音が響いた。スマホを掴み、狂ったように私の番号へ何度も電話をかけた。しかし返ってくるのは、無機質なアナウンスだけだった。信じられない思いで寝室へ駆け込み、クローゼットを無理やり開ける。私の服や荷物がごっそり消えていた。髪の毛1本すら残っていない。洗面所から歯ブラシが消え、玄関から私のスリッパも消えていた。この家からは私の痕跡が跡形もなく消え、あまりにも綺麗に片付けられていた。胸の奥が締めつけられるように、息苦しかった。ふらふらとリビングに戻り、署名を終えた離婚届を凝視した。そこに刻まれた私の署名は、紙を引き裂きそうなほど力強かった。そのとき、スマホが鳴った。彼は藁にもすがる思いで電話に出た。「雪乃!どこにいるんだ。もういい加減にしろ!」電話の向こうが一瞬静まり返り、すぐに美桜の甘ったるい声が聞こえてきた。「厳……あたしだよ。胸が苦しいの。病院に来てくれない?」以前の厳なら、後先も考えずに駆けつけていただろう。しかし今、美桜の甘えた声が、初めて耐え難いほど煩わしく感じられた。「医者はもう大丈夫だって言っていたろ」「でも一人だと怖いの。厳がいないと、息ができなくなりそうで……」厳は眉間を強く指で押さえ、歯を食いしばって怒鳴り散らした。「怖いなら病院の奴らに言え!俺は医者じゃない!」乱暴に電話を切り、ぐったりとソファに沈み込んだ。家の中を満たす、異様な静寂が彼を包み込んだ。だが今や、その静寂こそが彼の耳を突き刺し、頭が割れそうなほどの苦痛を与えていた。その頃、私はリゾートホテルの客室に横たわっていた。窓の外では、風がさらさらと砂を巻き上げている。部屋の中は温かく、心地よい眠気が襲ってきた。一昨日の午後、飛行機を降りてすぐ、右腕の火傷が悪化し、重い感染症を起こしていた。スーツケースを引きながら数歩歩いたところで意識が遠のき、砂の上に倒れ込んでしまったのだ。目を覚ますと、腕の傷口は綺麗に処置され、新しいガーゼが当てられ、包帯が巻かれていた。ドアが開き、黒いマウンテンパーカーを着た男が入ってきた。背
Rebyu