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百合の女が差し出したのは、合鍵と自分の身だった

مؤلف: 秋月 友希
last update تاريخ النشر: 2026-11-04 12:10:37

 俺はイザベラを部屋に入れた。

 母は死ぬ三日前、重蔵の横領を報告書にまとめ、ケスラー家に送っていた。ケスラーは、その中身をハルトマンに知らせたと白状した。だが今朝の会合のあと、この女は回廊で、知らされた家はハルトマンだけではないと囁いた。

 つまり、この女は、母の報告を知りながら黙っていた、もう一つの家の名を知っているのだ。扉の前で追い返せば、その名を聞く機会は二度と来ないかもしれない。

 イザベラは卓にワインの瓶を置くと、俺の胸ポケットに目をやった。

「今朝の録音には感心したわ。だから、今夜は端末の電源ごと切ってちょうだい」

 俺は端末を取り出し、電源の落ちた画面を見せてから卓に伏せた。記録の残らない夜でなければ、この女は何も話さない。

 イザベラは二つのグラスにワインを注ぎ、片方を俺の前に滑らせた。

「先に本当のことを話しておくわ。ハルトマンの配当を受け取っていたのは父よ。家を継いでからの私はエドモンドに逆らえなかった。山道で待ち伏せていた男たちに、『原本は奪えたか』と知らせが届いたでしょう。あの知らせに、ヴァレンシュタイン家の紋を付けさせろ。と脅されたの。断れば、父の代の配当
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  • 娘より間男を選んだ妻へ、無職の俺が一条財閥の後継者だと知っても、もう遅い   百合の女が差し出したのは、合鍵と自分の身だった

     俺はイザベラを部屋に入れた。 母は死ぬ三日前、重蔵の横領を報告書にまとめ、ケスラー家に送っていた。ケスラーは、その中身をハルトマンに知らせたと白状した。だが今朝の会合のあと、この女は回廊で、知らされた家はハルトマンだけではないと囁いた。 つまり、この女は、母の報告を知りながら黙っていた、もう一つの家の名を知っているのだ。扉の前で追い返せば、その名を聞く機会は二度と来ないかもしれない。 イザベラは卓にワインの瓶を置くと、俺の胸ポケットに目をやった。「今朝の録音には感心したわ。だから、今夜は端末の電源ごと切ってちょうだい」 俺は端末を取り出し、電源の落ちた画面を見せてから卓に伏せた。記録の残らない夜でなければ、この女は何も話さない。 イザベラは二つのグラスにワインを注ぎ、片方を俺の前に滑らせた。「先に本当のことを話しておくわ。ハルトマンの配当を受け取っていたのは父よ。家を継いでからの私はエドモンドに逆らえなかった。山道で待ち伏せていた男たちに、『原本は奪えたか』と知らせが届いたでしょう。あの知らせに、ヴァレンシュタイン家の紋を付けさせろ。と脅されたの。断れば、父の代の配当を十三家にばらすと言われて……」 今朝、この女は聴聞の間で、「原本は奪えたか」という知らせを送ったのは自分の家ではないと言った。書記室の鍵を持つケスラーなら、ヴァレンシュタイン家の紋を勝手に付けて送れたはずだ、と。今夜は、エドモンドに脅されて、自分の家の紋を使わせたと言う。話が変わっている。 俺は天井の隅の黒い箱を指差した。「それなら、あの装置を止めた鍵は、どこで手に入れた」 イザベラの指がグラスの脚の上で止まった。俺はその指から目を離さずに続けた。「脅されて従っていただけの女が、保管庫の鍵を持っているはずがない。鍵を持っているのは脅す側の人間だ」 しばらく黙ったあと、イザベラは喉の奥で笑った。さっきまでの心細げな顔は、跡形もなく消えていた。「やっぱり、あなたは面白いわ」 嘘を見抜かれた者は、たいてい言い訳を重ねる。だが、この女は言い訳をせず、手札を一枚、自分から卓に出してきた。 イザベラはドレスの胸元から、細い鎖に通した真鍮の鍵を引き出した。「この館の鍵は、三百年前からケスラー家が預かってきたわ。でも合鍵が一本だけ、我が家の金庫に眠っていたの。ケスラーは最後まで、

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     その日の午後三時、十三家は再び聴聞の間に集められた。 半円の席は二つ減っていた。ハルトマン家とケスラー家の椅子は運び出され、石の床には椅子の脚の跡だけが白く残っている。 議長が杖で床を打った。「一条隼人の当主資格について、採決を行う。承認する家は手を挙げよ」 最初に手を挙げたのは、百合の紋の席のイザベラだった。銀髪の婦人がそれに続き、残りの家も次々と手を挙げていく。赤ら顔の男は周りを見回してから、慌てて太い腕を上げた。 十の手が揃った。聴聞の初日、俺から経営権を奪おうとして上がった手も、その中に混じっている。 書記席の梶谷が立ち上がり、一条の席の前まで歩いていった。重蔵の名が刻まれた真鍮の名札を取り上げ、新しい名札に置き換える。『一条家代表 一条隼人』 母を殺させた重蔵の名が三十年ぶりにこの席から消えた。俺はしばらく、その文字から目を離せなかった。「あわせて、一条凜の副会長としての権限を元に戻す」 議長の言葉を受けて、梶谷が一枚の書類を傍聴席へ運んだ。凜が書類を受け取るとき、梶谷の口元がほんのわずかに緩む。凜は気づかないふりをして書類を手帳に挟んだが、耳の先が赤くなっていた。「もう一つ、決めておくことがある」 議長は床に残った二つの跡に目をやった。「凍結した両家の資産は、放っておけば値が落ちる。ハルトマン信託には、重蔵が三十年かけて一条から横領した四百十二億円が流れ込んでいる。元は一条の金だ。裁きが終わるまで、両家の資産の管理を一条家に預けたい。異論のない家は手を挙げよ」 今度も、真っ先に手を挙げたのはイザベラだった。 今朝まで配当を受け取っていた家が、ここで反対すれば、ハルトマンの金を庇っていると見られる。だが、二度続けて誰よりも先に手を挙げた理由は、それだけではないだろう。この女は半円の全員の前で、自分が俺の側に立ったと見せつけているのだ。 ハルトマン信託の配当で家の帳尻を合わせてきた家は、一つや二つではない。その配当を出すか止めるかを、今日からは俺が決める。十三家のうち、いくつの家が俺の顔色を窺うことになるのか、考えるまでもない。 手を下ろしたイザベラが、こちらを見て小さく首を傾けた。最終会合の朝、この部屋で初めて目が合ったときと同じ仕草だった。 散会のあと、聴聞の間の出口で赤ら顔の男が俺の前に立った。館に着いた夜、ワイ

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     ケスラーは長い間、俺の卓に置かれた母の便箋から目を離さなかった。やがて固く組んでいた指をほどき、かすれた声を絞り出した。「……報告書は受け取った。だが、評議会の記録には載せず、その夜のうちに中身をハルトマンへ知らせた」「黙れ、ケスラー」 エドモンドが低く言った。しかし、ケスラーは隣に座るエドモンドを見ようともせずに続けた。「三日後、日本から事故の知らせが届いた。私が知っているのは、それだけだ」 俺は奥歯を噛みしめた。母が評議会に宛てて書いた助けを求める報告は、そのまま母を殺す側へ流れていたのだ。 俺は胸ポケットから端末を取り出した。 結衣がさらわれた夜、俺の部屋に来たエドモンドとの会話を録ったものだ。天井の記録装置の記録が消されると見越して、誰にも明かさずに持っていた。 再生した声が、石壁に囲まれた聴聞の間に響く。『子供一人取り込めば、当主の理性など崩れる。三百年、この評議会はそうやって家々を従わせてきた』 半円の何人かが顔をしかめた。自分たちの評議会の名を誘拐の脅しに使われていたのだから当然だ。録音の最後には、部屋を出ていくエドモンドの声が残っていた。『征之を私に引き合わせ、あの別荘を使えと勧めたのは、十三の椅子の、もう一つだよ』 半円の視線が、剣に絡む白い百合の紋の席に集まった。 黒い服の女は、誰かが口を開くより先に立ち上がった。淡い金色の髪をうなじでまとめた、三十代半ばに見える女だった。「ヴァレンシュタイン家当主、イザベラ・ヴァレンシュタインと申します。書記殿の帳簿にあった、配当を受けたもう一つの家は我が家です」 先に名乗られて、問い詰めるつもりだった者たちが言葉を失った。「配当は父の代から続いておりました。二年前に父が亡くなってからも、私は財務を古い執事に任せきりで、出どころを確かめもしなかった。それは当主としての私の落ち度です」「山道で待ち伏せていた男の端末に、『原本は奪えたか』とメールが届いていた。送り主の印は、あんたの家の紋だった」 俺が言うと、イザベラは書記席の梶谷に目を向けた。「あの知らせを送ったのは、我が家ではありません。書記室の鍵を持っていたのはケスラー家です。ケスラーは書記殿の名を使って、一条凜さんの署名を偽造しました。同じやり方で、我が家の紋を付けた知らせを送ることもできたはずです」 梶谷はひびの

  • 娘より間男を選んだ妻へ、無職の俺が一条財閥の後継者だと知っても、もう遅い   四百十二億円。数字は嘘をつかない

     午前八時五十五分。俺が聴聞の間に入ると、半円の席はすでに埋まっていた。 半円の内側には、木の椅子が二脚置かれていた。昨日まで俺が座らされていた場所に、今朝はエドモンドとケスラーが座っている。それでもエドモンドは、俺の顔を見るなり口の端を上げた。「おや、お一人かね。原本とやらは、とうとう間に合わなかったようだな」 俺は答えずに、自分の席に着いた。 窓側の一角に見慣れない席が一つあった。背もたれに彫られているのは、剣に絡みつく白い百合の紋章だ。黒い服の女が一人、身じろぎもせずに座っている。山道で見たあの印の主だった。女は俺と目が合うと、わずかに首を傾けた。 議長が杖で床を打った。「最終会合を開く。一条隼人、原本は用意できたか」「できています」 俺が振り返ると、聴聞の間の扉が開いた。紺の上着を着た紗英が、革の書類鞄を胸に抱えて入ってくる。半円のあちこちで、椅子のきしむ音がした。 エドモンドの笑みが、頬に張りついたまま固まった。 紗英は半円の中央に立つと、鞄から古い帳簿の束を取り出し、卓の上に並べた。黄ばんだ紙に、細かい手書きの数字がびっしりと並んでいる。「水無瀬紗英と申します。父は京都支社で、一条隼人さんのお母様の監査を手伝っていました。帳簿の大半は、お母様が三十年分の取引を遡って書き写した、監査資料の原本です。お母様が亡くなり、父が職を追われたあとの分は、父と私が外から追い続けた記録です」 紗英は前置きをせず、一行目から読み上げ始めた。「三十年前の四月二日。白鷺ファイナンスから海外の口座へ、八千二百万円」 梶谷が書記席で、ジュネーブの帳簿の頁を開いた。「同じ年の四月九日。ハルトマン信託に同額の入金があります」 紗英が次の行を読む。梶谷が同じ日付と金額を返す。日本から送り出された金が、一週間ほど遅れて、そのままハルトマン信託に入っていく。三十年分の数字が、二人の声で一行ずつ重なっていった。 十二家の誰も口を挟まなかった。内側の木の椅子では、ケスラーが膝の上で両手を固く組み合わせていた。 最後の行を読み終えると、紗英は帳簿を閉じた。「合計で四百十二億円です。数字は嘘をつきません」 傍聴席の凜が手帳を胸に押し当てて目を閉じた。俺の母が命と引き換えに追った数字を、母の部下だった男とその娘が最後の一円まで追い詰めたのだ。 エドモンドが椅

  • 娘より間男を選んだ妻へ、無職の俺が一条財閥の後継者だと知っても、もう遅い   奪われたのは写しだった

     京都の夜は雨が降り始めていた。 水無瀬紗英は、雑居ビルの三階にある小さな会計事務所で、ひとり机に向かっていた。所長も同僚もとうに帰り、灯りがついているのは紗英の席だけだ。机の上には、角のすり切れた革の書類鞄が置かれている。 紗英の父がこの鞄を紗英に託したのは、亡くなる前の晩だった。一条の本家には決して渡すな、と父は言った。それ以来、紗英は誰にもこの鞄を開けさせなかった。 中にあったのは、横領の濡れ衣を着せられて職を追われた父が、最後まで手放さなかった数字だ。「数字は嘘をつかない」というのが父の口癖だった。今日の夕方、紗英は一条のペントハウスで、初めてその中身を他人に見せた。 あのとき、廊下の奥から小さな女の子がこちらを覗いていた。大人を怖がっているのが一目で分かった。紗英は笑いかけることもせず、ただ目が合ったまま頷いた。女の子は少し考えてから、同じように頷き返してきた。 天井の蛍光灯が、ふっと消えた。 窓の外のビルには灯りがついている。消えたのは、この階だけだ。 扉の向こうで、階段を上がってくる足音がした。一人ではない。紗英は鞄を胸に抱え、机の陰に身を沈めた。 扉の鍵が外からこじ開けられた。黒い雨合羽の男が三人、懐中電灯の光を室内に走らせる。「鞄を出せ。それだけでいい」 光が紗英の顔を捉えたとき、男たちの背後で鈍い音がした。一番後ろの男が声も上げずに床へ崩れ落ちる。 戸口に顔じゅうに古い傷の走る男が立っていた。 傷の男は振り向いた二人目の腕をねじり上げ、床に押さえつけた。その隙に、三人目の男が紗英の腕から鞄をもぎ取った。鞄を抱えた男は窓を破り、外の非常階段を駆け下りていく。「追います」 傷の男が窓へ向かいかけた。紗英は、その背中に声をかけた。「追わなくて結構です。あれは写しですから」 男が振り返った。紗英は立ち上がり、膝についた埃を払った。「原本はペントハウスを出たその足で、別の場所に預けてきました。父の遺言は『本家に渡すな』でした。父が亡くなってから、原本を仕事場に置いたことは一度もありません」「……そうでしたか」「あなたは一条の方ですか」「真柴と申します。楢崎さんの言いつけで、夕方からビルの下で見張っていました」 真柴は少しの間、紗英を見ていた。それから懐から端末を取り出し、短く告げた。「楢崎さん、水無瀬さんはご

  • 娘より間男を選んだ妻へ、無職の俺が一条財閥の後継者だと知っても、もう遅い   待ち伏せた敵を、逆に挟み撃ちにする 1

     夜明け前の森の滑走路は、深い霧に沈んでいた。 俺は滑走路の端に車を停め、着陸灯の向こうを見ていた。後ろには、議長が貸してくれた評議会の車が二台並んでいる。中には係員が五人、待機していた。 昨日の夕方、ケスラー家の車が三台、館を出ていった。滑走路から館までの山道は一本しかない。待ち伏せるなら、その途中だ。 待ち伏せを避けるだけなら、紗英を別の道で運べばいい。だが、それでは奴らは何もしないまま帰っていく。俺が欲しいのは、紗英の無事と、奴らを現行犯で押さえることの両方だった。 霧の向こうから、ジェット機のエンジン音が近づいてきた。 やがて、一条の社用機が滑走路に降り立ち、俺たちの車の前で止まった。扉が開き、タラップが下ろされる。 タラップを降りてきたのは、紺の上着を着た女だった。腕には角のすり切れた革の書類鞄を抱えている。十二時間の飛行のあとでも、女の背筋はまっすぐだった。「水無瀬紗英です」「一条隼人です。来てくれて、感謝する」 紗英は俺の顔を値踏みするように眺めた。「先に言っておきます。私は一条の人間を信用していません」「それでいい。だが、今だけは、俺の言うとおりに動いてくれ」 俺は紗英を自分の車の後部座席に乗せ、自分もその隣に座った。運転は係員の一人に任せた。それから、評議会の迎えの車の運転手に空の書類鞄を一つ渡した。「先に館へ向かえ。この鞄を助手席に見えるように置いてな」 迎えの車が霧の中へ走り出した。俺の車は前照灯を消して車幅灯だけを残し、少し間を空けてその後を追った。係員の車二台も、さらに後ろからついてくる。 隣で紗英が鞄を抱え直した。「囮ですか」「ああ。奴らが欲しいのは、あなたじゃなく、その鞄の中身だ」 紗英は窓の外の霧に目を向けたまま、低い声で言った。「別の道で私を運べば、危ない目に遭わずに済んだはずです。私を囮の後ろに置いて、敵を捕まえる手柄を取りに行くんですね」「捕まえなければ、奴らはまた京都の事務所を襲う。次は写しでは済まない」 俺は紗英の膝の上の鞄に目をやった。「手柄だけが欲しいなら、あなたと原本を前の車に乗せて、そのまま囮にしている。その方が奴らは確実に食いつくからな」 紗英が、こちらを振り向いた。「だが、前の車に置いたのは空の鞄だ。奴らを捕まえるより先に、あなたを無事に館へ届けることを決めていた。

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    「結衣、いい子にしてなかったから……ママ、結衣のこと嫌いになっちゃったの?」 その涙に、さすがの絵里香も言葉を失う。気まずげに視線を逸らし、小さく舌打ちをした後、「……そんなこと、言ってないでしょ」と呟いて寝室へ逃げるように消えていった。 胸の奥が激しく痛む。俺は結衣の小さな体を強く抱きしめた。「違うよ。結衣は世界一のいい子だ。パパがずっと一緒にいるから、安心して眠りなさい」 俺は結衣の小さな背中を優しくさすり続けた。 しゃくりあげる声はやがて規則正しい寝息へと変わり、泣き疲れた娘の身体からすっと力が抜ける。 その小さな身体を抱き上げてベッドへ運び、毛布を掛けた。 明日、あの女

  • 娘より間男を選んだ妻へ、無職の俺が一条財閥の後継者だと知っても、もう遅い   乾ききったケーキと娘の涙

     冷たい雨がアスファルトを叩く音を背に、俺は自宅マンションの重い扉を開けた。 玄関は薄暗く、静まり返っている。濡れたコートを脱ぎ捨て、リビングの照明をつけると、そこには目を背けたくなるような現実が待っていた。 テーブルの中央に置かれたバースデーケーキ。六本のロウソクは火を灯されることもなく、生クリームは完全に乾ききって、ひび割れている。傍らには、結衣が一生懸命に描いた『ママの似顔絵』が、主役の帰りを待ちわびたまま、ぽつんと残されていた。 表面上は平静を保っていたつもりだったが、内面はすでに決定的に壊れかけている。 俺はソファに深く沈み込み、両手で顔を覆った。 過去の記憶が薄暗いリビ

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     俺の言葉に絵里香は鼻で笑い、周囲の経営者たちへ聞こえるほど大きな溜息をついた。「何を見間違えたのか知らないけれど、大袈裟に騒がないで。誤解よ、誤解。海外のビジネスシーンでは、これくらい当たり前の親愛の情だわ。本当に器の小さい男ね、あなたって人は」 絵里香は血相を変えるどころか、軽蔑を隠そうともせずに言い放った。「自分の無知を棚に上げて、大事な祝賀会の席で醜態を晒すなんて。恥ずかしいから、もう口を開かないで」 そこへ、横に立っていた樹が一歩前に出た。顔に張り付いた完璧な営業スマイルは、その奥の嘲笑を隠そうともしていない。「旦那様、あまり絵里香さんを困らせないでください。彼女は今、我

  • 娘より間男を選んだ妻へ、無職の俺が一条財閥の後継者だと知っても、もう遅い   一般人ごっこの終焉 〜すれ違う思いと裏切りのステージ〜

     夜八時。リビングのテーブルには、結衣の名前が書かれたバースデーケーキと、不格好なリボンが結ばれた小さな箱が置かれていた。「パパ……ママ、まだお仕事終わらないの?」 五歳になる娘の結衣が、画用紙に描いた『ママへの似顔絵』を胸に抱きしめたまま、泣き出しそうな顔で俺を見上げている。 今日は結衣がずっと楽しみにしていた大切な誕生日だ。俺は娘の頭を優しく撫でると、スマートフォンを取り出して、妻である絵里香に電話をかけた。 数回のコールの後、苛立ちを含んだ声が耳に届く。『何? 今、ホテルで重要な祝賀パーティーをしているの。用がないなら電話してこないで』「今日は結衣の誕生日だ。ケーキを買って

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