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第450話

Auteur: つき酔
病室のドアが開いた時、承也はベッドに座って書類に目を通していた。

物音に顔を上げると、キャップを手にし、変装の痕跡がほとんど見当たらない素顔のままの悠斗が立っていた。

何があったのかは、もはや聞くまでもなかった。

やはり、莉奈は疑っていたのだ。

承也は拳を口元に当ててくぐもった咳をし、目の縁を赤くしながら尋ねた。

「彼女は、何か言っていたか?」

悠斗は莉奈に言われたことを思い返した。いくつか問いただされたものの、彼女が見せた感情は怒りではなかった。

むしろ……

悠斗はありのままを答えた。

「奥様は、友人だと思っていた『壇将』に裏切られたことに、ひどく傷ついておられました。ただ、私に出ていくようおっしゃっただけです」

黙り込んだ承也の顔には、驚きも迷いも浮かばなかった。

また、莉奈を傷つけてしまった。

それでも莉奈にとっては、壇将の正体が悠斗だったと信じているほうが、承也だったと知るよりはよほど受け入れやすいはずだ。

ただ、これでもう、壇将として莉奈に近づくことはできない。

何の気兼ねもなく彼女の前に現れ、友人としてそばにいて守る。そんな立場は、もう二度と手に
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  • 婚姻生活にさようなら、椎名さん   第450話

    病室のドアが開いた時、承也はベッドに座って書類に目を通していた。物音に顔を上げると、キャップを手にし、変装の痕跡がほとんど見当たらない素顔のままの悠斗が立っていた。何があったのかは、もはや聞くまでもなかった。やはり、莉奈は疑っていたのだ。承也は拳を口元に当ててくぐもった咳をし、目の縁を赤くしながら尋ねた。「彼女は、何か言っていたか?」悠斗は莉奈に言われたことを思い返した。いくつか問いただされたものの、彼女が見せた感情は怒りではなかった。むしろ……悠斗はありのままを答えた。「奥様は、友人だと思っていた『壇将』に裏切られたことに、ひどく傷ついておられました。ただ、私に出ていくようおっしゃっただけです」黙り込んだ承也の顔には、驚きも迷いも浮かばなかった。また、莉奈を傷つけてしまった。それでも莉奈にとっては、壇将の正体が悠斗だったと信じているほうが、承也だったと知るよりはよほど受け入れやすいはずだ。ただ、これでもう、壇将として莉奈に近づくことはできない。何の気兼ねもなく彼女の前に現れ、友人としてそばにいて守る。そんな立場は、もう二度と手に入らないのだ。悠斗が戻ってきた時、浩平はすでにスマホのゲームの手を止めていた。悠斗のその姿には見覚えがある。数秒考えて、以前、承也が夜中に病院を「脱走」した時の格好だと気づいた。あの時、承也は悠斗に扮していたのか。どうりで、承也にどうして筋肉スーツなど着ているのかと尋ねた時、悠斗が横から「私が鍛えすぎたせいです」とわけの分からないことを言っていたわけだ。確かに、悠斗のほうが承也よりも体格がいい。だが服を着れば肩幅が目立つ程度で、承也とはまた違うタイプの、服映えする体つきだった。今の様子を見るに、承也は悠斗に責任まで丸投げしたらしい。浩平は呆れて言葉もなかった。「やりすぎて、とうとうバレたってわけか」浩平は承也を一瞥した。その時、浩平のスマホにメッセージが届いた。画面を一瞥して冷ややかに鼻を鳴らすと、ジャケットを手に立ち上がった。病室を出ようとして、承也のベッドのそばで足を止める。「まあ、これでよかったんだ。重傷の身で、これ以上コスプレまがいの無茶をされずに済むからな。俺は黎に腹を立てて死ぬより先に、お前にヒヤヒヤさせられて寿命を縮めるところだった

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    「……はは」莉奈は小さく笑った。涙に濡れた瞳には、自嘲と皮肉があふれている。「よくもまあ、そこまで念入りに考えたものね」悠斗は目を上げ、青白い顔の莉奈を見た。力なくベッドに背を預けた身体は、シーツに貼りついて見えるほど痩せ細り、今にも消えてしまいそうだった。見ていられずに視線をそらし、身体の横に下ろした手を固く握り締める。「人を騙すのは、楽しかった?」莉奈は薄い冷笑を口元に浮かべ、悠斗を見つめた。「……申し訳ありません」悠斗はうつむき、手袋をはめた手の甲で目尻の黒い痣を拭い取った。そこで莉奈は初めて、悠斗の目尻からこめかみにかけて、薄い傷痕が残っていることに気づいた。――あの黒い痣で隠していたのは、この傷痕だったのだろう。莉奈は顔をそむけ、ベッドの脇に差し込む日差しをぼんやりと見つめた。けれど胸の中には、冷たいものが何度も押し寄せてくる。「壇将さんとして私のそばにいた間、私のことをずっとあの人に報告していたの?」悠斗は痩せ細った彼女の横顔を複雑な目で見つめ、やがてまぶたを伏せた。「はい。奥様に関することは、すべて社長に報告していました。いずれ私の正体を問いただされることも、想定していたんです」莉奈の目の縁が、さらに赤くなった。壇将。今にして思えば、莉奈がE国駐在記者に応募した時も、壇将を通じて悠斗が承也へ知らせていたのだ。それを知った承也は、裏から手を回して莉奈を候補から外した。海外へ行く計画を、それとなく探ってきたことさえあった。あれはどれも、友人として心から気にかけてくれた言葉ではなかったのだ。あれほど壇将を信じきっていた自分が、たまらなく愚かに思えた。目の前にいる男は、「壇将」として莉奈のそばに現れた、ただの承也の監視役だった。腹が立つのか。莉奈は目を閉じた。そうではなかった。ただ、自分が愚かだったと思うだけだ。これまで「壇将」が身を挺して助けてくれたことまで、嘘だったわけではない。何度か、壇将がいなければ本当に命を落としていたこともあった。だから今は、もう彼を責める気にはなれなかった。ただ一人、友人を失っただけだ。これから先、この世に「壇将」はもういない。「もう……行って」莉奈は低く言い、ゆっくりと膝を抱えて身体を丸めた。その背後で、悠斗は複雑

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    莉奈の手から力が抜け、黒いマスクと偽の傷痕が床に落ちた。目の前の顔を呆然と見つめたまま、ふいに歯を食いしばった。だが次の瞬間、聞き取れないほど小さく笑った。「あなただったのね……」壇将はやはり、莉奈が以前から知っている人間だったのだ。悠斗は承也の側近であり、命を預け合ってきた仲間と言っても過言ではない。当然、「共に白髪の生えるまで」という言葉に込められた、莉奈の両親の願いも知っていた。初めて壇将の後ろ姿を見た時、莉奈は誰かに似ていると思った。そこで彼が油断している隙に、試すように「悠斗」と呼びかけたことがある。だが壇将は何の反応も示さず、そんな名前は一度も聞いたことがないかのように平然としていた。今にして思えば、腕が立つだけでなく、演技まで並外れていたということだ。悠斗は黙ったまま黒いキャップを脱いだ。量が多く、やや硬そうな黒髪が露わになる。彼は重い眼差しを莉奈に向けた。「はい、私のコードネームはJです」――まさか壇将の正体は、悠斗だった!廷治は雷に打たれたように、全身を強張らせたまま動けなくなった。だが次第に、これまで腑に落ちなかった出来事の辻褄が、すべて合い始めた。なぜ悠斗が廷治の古傷をあれほど詳しく知っていたのか。なぜ暗闇で見た悠斗の姿を、どこかで見たように感じたのか。なぜ悠斗に頭をぽんと叩かれて宥められた時、妙に懐かしく思えたのか。あの図体ばかりでかい悠斗が……いや、悠斗こそがJさんだったのだ!廷治は慌てて自分の頬を何度か叩いた。痛いし、痺れもする。夢ではない!病床の莉奈は瞳を震わせながら、ゆっくりと深呼吸した。自分の前で口が利けないふりをし、知らない人間のふりをし、それどころか……莉奈は悠斗が手にしている松葉杖へ目をやると、枕をつかみ、力任せに投げつけた。枕は松葉杖に当たったが、びくともしなかった。ここまで正体を見破られた以上、もう芝居を続ける必要はない。悠斗は不自由なふりをしていた足をしっかり床につけると、松葉杖を壁に立てかけた。廷治は額に手を当てた。あれだけ長く力強い脚で、足を引きずるふりをするのは、さぞ大変だったことだろう。壇将がけがをしていると思っていた間、自宅と彼の家を往復し、食事を作ってやったことを思い出すと、莉奈は自分がひどく間抜けに思えた。友

  • 婚姻生活にさようなら、椎名さん   第447話

    莉奈は二人に支えられ、再びベッドに背を預けた。弱々しい声で礼を言う。「……ありがとう」莉奈は、壇将が身体の横にだらりと垂らした手へ目をやった。その手は、黒い伸縮素材の手袋にすっぽりと覆われている。それから廷治に向き直り、言った。「さっきの薬も、全部吐き戻しちゃったの。廷治、悪いんだけど、ナースステーションでもう一度同じ薬をもらってきてくれない?」廷治は一つうなずくと、すぐに病室を出てナースステーションへと向かった。吐き続けた莉奈の顔は、紙のように真っ白だった。目を閉じた途端、また強烈な吐き気がこみ上げ、身体をよじってベッドの端から身を乗り出した。視界の端に、壇将が松葉杖をついて近づいてくるのが映った。彼は先ほど廷治がしたのと同じように莉奈の背中をさすり、吐き気が収まるのを待ってから肩を支え、ベッドに背を預けさせた。壇将が身を起こそうとした、その瞬間――莉奈はその手首を強くつかんだ。ありったけの力を込めた彼女の冷たい指は、小刻みに震え続けている。何度もえずいて赤くなった目で、莉奈は男の深い褐色の瞳を真っ直ぐに見据えた。――共に白髪の生えるまで。両親が莉奈に託し、彼女の心に深く刻み込まれていた願いだった。「あなた……」乾ききった声は、ひどく掠れていた。「いったい、誰なの?」服越しにも、男の腕の筋肉が強張ったのが伝わってきた。キャップの下で、深い褐色の瞳がわずかに揺れる。「壇将さんという名前は、本当なの?」事故に遭う前、莉奈はフリージャーナリストになる準備を進め、自分のペンネームを考えていた。その時、壇将のこれまでの言動を思い返し、「壇将」という名も偽名ではないかと疑ったのだ。あの事故さえなければ、莉奈はとうに彼を捜し出し、この疑問をぶつけて答えを聞き出していたはずだ。壇将という名前は、本当なのか。さらに昨日、彼に言われた言葉を思い返し、莉奈は遅ればせながら気づいた。この世で、「共に白髪の生えるまで」という言葉に込められた両親の願いを知る人間は、数えるほどしかいない。うつ病のせいで気持ちは不安定になり、頭に霧がかかったように何も考えられない時もある。だが今だけは、異様なほど頭が冴え渡っていた。目の前にいるこの男は、莉奈に格闘術を教え、銃の撃ち方まで教え込んだ。それだけでなく、莉奈の

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  • 婚姻生活にさようなら、椎名さん   第445話

    莉奈はゆっくりと目を動かし、病床のそばに座る白崎執事を見た。けれど何も言わなかった。その虚ろな瞳には、もう何の光も宿っていない。「莉奈の好きな牛カツサンド、買ってきたんだけど……一口だけでも食べないの?」真央がやわらかい声で言った。莉奈は口元をわずかに動かした。だが、やはり何も言わなかった。ただ涙だけが、音もなく目尻から滑り落ちる。白崎執事の目は、莉奈が目を覚ます前から赤くなっていた。今は胸が痛み、ぽろぽろと涙をこぼしている。彼は莉奈の手を両手で強く握り、根気よく宥めた。「泣かないでください。少しだけ、ほんの少しだけでも、何か召し上がりませんか」ようやく莉奈の喉から、ひどく掠れた声が出た。「お腹……空いていないの」直哉は言葉を詰まらせ、いたたまれずに顔を横へ背けた。白崎執事は縋るように頼んだ。「一口だけでいいのです。お願いです」けれど莉奈はもう答えなかった。力なく目を閉じる。直哉のスマホに電話が入った。海外から招いた最も権威ある精神科医が、東安市へ到着したという知らせだった。直哉は足早に病室を出ていき、真央も後を追って医師を迎えに向かった。「お嬢様、どうか……どうか少しだけでも召し上がってください」白崎執事の辛抱強く宥める声が、静かな病室に響いた。だが莉奈には、もうその声すら届いていないようだった。白崎執事の視線は、ひと回り痩せてしまった彼女の顔へ落ちた。喉を詰まらせ、深くうつむく。ふいに、彼の髪をそっと撫でる手があった。白崎執事の身体が止まり、すぐに顔を上げた。顔に喜びの色が浮かぶ。「お嬢様……」だが莉奈の言葉は、冷たい水を浴びせるようだった。「白崎さん、私のことは心配しないで。お腹が空いたら……食べるから」まる一日、何も食べていない。昼に口にしたわずかなものも、すべて吐き出してしまったのだ。空腹でないはずがない。空腹でないのではない。食べられないのだ。ようやく少し食べる気になってくれたのかと思ったのに、彼女はただ、泣いている白崎執事を慰めようとしただけだった。白崎執事は莉奈の手を固く握り、骨が浮き出た細い手の甲に額を押し当て、声を殺して泣き崩れた。莉奈が眠る前、看護師が薬を持ってきた。直哉が彼女の背を支えて起こし、薬を飲ませた。夜が深まると、周囲は

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