LOGIN吹雪が止んだ北方の山嶺。 エリザベートは、自らの掌を見つめながら立ち尽くしていた。 先ほど飲んだ「差し入れの薬」の効果は絶大だった。 魔力回路はかつてないほど活性化し、全身に力が漲っている。 レティシアも、まるで疲れを知らない子供のように、雪道を軽快に歩き続けていた。 だが、エリザベートの心には、拭いきれない困惑が積もっていた。(おかしい。あまりにも……出来過ぎている) 追放されてからの日々を振り返れば、それは「奇跡」という言葉でも足りないほどの連続だった。 襲いかかってきた野犬は牙を剥きながらも力なく、最強を誇ったはずの巨人は剣を振るう前に砕け散った。 そして、毒薬の疑いすらあった飲み物は、最高級の霊薬となっていた。「お姉様、どうしたの? そんなに難しい顔をして」「……いえ。ねえ、レティシア。貴女は、誰かの視線を感じない?」 エリザベートが周囲を見渡すが、そこには凍てつく岩肌と、白銀の世界が広がっているだけだ。 だが、彼女には確かに感じられた。 自分たちを、空のどこかから、あるいは世界の裏側から見つめている、圧倒的な密度の「何か」を。 ――その「何か」は、今この瞬間も、彼女の命を救おうとしていた。 断崖絶壁の細い道。 上方の積雪が、わずかな振動で崩れ始めた。 音もなく滑り落ちる巨大な雪塊。それは回避不能な速度で、エリザベートたちの頭上へと迫る。(――っ、レティシア!) エリザベートがレティシアを抱き寄せ、衝撃に備えて目を閉じた。 だが、衝撃は来なかった。 ドォォォン、という凄まじい轟音が響いたが、彼女たちの体には雪のひとかけらも当たらない。 恐る恐る目を開けると、巨大な雪崩は、彼女たちのわずか数センチ手前で、まるで見えない壁に突き当たったかのように、不自然な角度で左右へと逸れて流れていた。『物理演算エラー:流体摩擦および慣性ベクトルの強制偏向』
北方平原の「戦場ピクニック」を無事に終えたエリザベートたちに対し、ミリアの忍耐はついに限界を迎えていた。 王宮の私室に戻った彼女は、もはや猫を被ることも忘れ、どす黒い怨念を煮詰めたような顔で魔法の水晶を睨みつけている。「……あり得ませんわ。あんなデタラメ、許されるはずがありません。魔物が避ける? 陽光が差す? 神の加護だなんて、そんな安い奇跡、私が認めません」 ミリアの背後で、俺は椅子の肘掛けを強く握りしめていた。 身体侵食率が上昇した影響で、視界の端が時折バグったように色彩を失う。だが、ここで気を抜けば、俺の意識そのものがシステムに飲み込まれる。「……ミリア。焦ることはない。運というのは、使い果たした時が一番無様な死を迎えるものだ。……ところで、君が用意した『次の余興』は何かな?」 俺は冷酷な笑みを浮かべ、彼女を煽る。 ミリアは口元を歪め、引き出しから小さな、虹色に輝く小瓶を取り出した。「ふふ、ヴィンセント様。暴力が効かないなら、慈愛で殺せばいいだけのことですわ。……これですわ。『聖なる涙』。表向きは傷を癒やす秘薬ですが、その実、魔力回路を内側から焼き尽くし、魂を泥に変える最凶の呪毒ですわ」 ミリアは、離宮付近に潜伏させていた隠密の侍女に、この毒を「王都に残った支援者からの差し入れ」として届けさせる手はずを整えていた。(……呪毒だと? 今の満身創痍のエリザベートがそんなもん飲んだら、即座にロスト確定じゃねえか!) 俺は内心で戦慄しながら、デバッグアイを起動した。 遠隔視の映像。離宮の影で休息をとるエリザベートとレティシアの元へ、一人の女が近寄っていく。 女は涙ながらに「ヴィンセント殿下からお二人を守るよう命じられました」と嘘をつき、毒入りの水筒を差し出した。「お兄様が……? あのお兄様が、私たちを……?」 レティシアが困惑しながら水筒を受け取ろうとする。 エリザベートも、疑いながらも渇きと疲労で判断力が鈍っていた。(今だ……! レベル二権限、パッチ・ア
暗殺者たちが全滅し、エリザベートが謎の光に包まれて傷を癒やしたという報告が王宮に届いた。 当然、ミリアの機嫌は最悪だ。 豪華な私室の壁には、彼女が苛立ちのあまり叩きつけた触手の跡が、どす黒い染みとなって幾筋も刻まれている。「おかしいわ。絶対におかしいですわ。あの暗殺者たちは、この国でも指折りの実力者だったはずです。それが……傷一つ負わせられずに全滅だなんて」 ミリアは長い爪を噛みながら、部屋の中を獣のように徘徊している。 その背後に座る俺は、ティーカップを持つ手が震えるのを必死に抑えていた。 レベルアップの恩恵でMPこそ回復したが、身体侵食率五パーセントという代償は重い。 指先が時折、自分の意思とは無関係にピクリと跳ねる。「……ミリア、落ち着きなさい。あの女はかつて聖女候補だった。死の間際で、失われていた魔力が一時的に暴走したに過ぎない。……だが、そんな奇跡は二度は起きないさ」 俺は声を絞り出し、冷酷な婚約者の顔を維持する。 実際には、俺がレベル二になった権限で、世界に新しい仕様を追記した結果なのだが。「……ええ。そうですわね、ヴィンセント様。奇跡なんて、そう何度も起きてたまるもんですか。……ねえ、あの方たちは今、北方平原の激戦区に向かっているのでしょう?」 北方平原。そこは現在、北の魔族と王国の辺境伯軍が衝突を繰り返している最前線だ。 血生臭い風が吹き荒れ、飢えた魔物と亡霊が跋扈する、文字通りの戦場である。「なら、そこであの方を歓迎してあげましょう。……私の特別な魔力で、戦場のすべての魔物を狂暴化させてあげますわ。……逃げ場のない戦場、四方八方から襲いかかる狂った獣。……今度こそ、あの方の悲鳴が聞こえるはずですわ」 ミリアが邪悪な笑みを浮かべ、窓の外の北の空へ向かって両手を広げた。 彼女から放たれたどす黒い魔力の波が、空を赤く染めながら北へと飛んでいく。(……マズい。広域狂暴化か。今のエリザベートとレティシアがそんな場所に突っ込んだら、いくら攻撃力を回復に変えるパッチを当
視界が、真っ赤な警告色で埋め尽くされている。 王宮の執務室、ミリアの冷たい肌の感触を背中に感じながら、俺は意識の深淵で絶叫に近い警告音を聴いていた。 これまでの遠隔デバッグは、いわば「小細工」だった。 摩擦係数を変える、重力をわずかに弄る。それらは世界の理の範疇で説明がつく「誤差」として処理されていた。 だが、今、エリザベートを狙う残りの暗殺者二人は、その誤差さえも技術でねじ伏せようとしている。(クソ、あいつら……滑る地面を逆に利用して加速しやがった。ナイフが飛ばなきゃ、直接喉を掻き切ればいいってか。流石はプロだ、対応が早すぎる!) エリザベートはバルムンクを構え、必死に猛攻を凌いでいる。 だが、多勢に無勢。暗殺者の連携は、彼女の未熟な剣筋を確実に追い詰めていた。 俺は焦り、さらに深い階層のコードへと手を伸ばす。(だったら、あいつらの存在そのものを「一時停止」させてやる! 全パラメータを強制的にゼロに――) その思考が形になるより早く、脳内に雷が落ちたような衝撃が走った。【緊急警告:システム許容限界を超えた干渉を検出】【判定:プレイヤーによる世界法則の過剰な破壊行為と見なします】【ペナルティ:これ以上の直接介入は、プレイヤーの存在消失(デリート)を招きます】 目の前の透過ウィンドウが激しく点滅し、「アクセス拒否」の文字が並ぶ。 俺の指先が、ガタガタと震え始めた。「……あ……っ、が……」 喉の奥からせり上がるのは、鉄の味だ。 胃に穴が開くどころの話じゃない。全身の血管が、内側から高圧洗浄機で洗われているような激痛が走る。「ヴィンセント様? どうかなさいましたの? そんなに震えて……まるで、誰かに首を絞められているみたいですわ」 ミリアが俺の首筋に指を添える。 その指先から流し込まれる彼女の魔力が、デバッグで疲弊した俺の精神を泥のように汚していく。 助けたい。だが、システムが俺の手を弾き飛ばす。
王宮の執務室。俺は豪華なソファに深く腰掛け、窓から見える夕焼けを眺めていた。 傍らには、俺を監視するように聖女ミリアが座り、甘ったるい香りの紅茶を啜っている。「ヴィンセント様、そんなにため息ばかりついて、どうなさいましたの? もうすぐ、あの方の首が届くというのに」「……ああ、退屈なんだよ、ミリア。あんな女一人を消すのに、プロの暗殺者なんて大げさすぎる。結果が分かりきっている勝負ほど、つまらないものはないだろう?」 俺はわざとらしくあくびをしてみせた。 ミリアは「ふふ、贅沢な悩みですわね」と微笑み、俺の肩に頭を預けてくる。 だが、俺の脳内は今、オーバーヒート寸前の計算機のように熱を持っていた。(……退屈なわけあるかよ! ミリアが放った影の爪は、レベル六十オーバーの化け物揃いだ。今のエリザベートじゃ、かすっただけで即死するぞ!) 城から動けないという制約。これはデバッガーにとって、通信遅延(ラグ)との戦いを意味していた。 俺はまぶたの裏側でデバッグアイを全開にし、北の雪原を走る三つの黒い影を捉える。【デバッグアイ:遠隔観測モード展開】【対象:暗殺ギルド・影の爪(三名)】【状態:隠密、加速、殺気抑制】【現在地:北方渓谷、エリザベートの拠点まで残り五百メートル】 暗殺者たちは、まさにプロだった。 無駄のない動きで雪を踏みしめ、風の音に紛れてエリザベートの背後へと肉薄する。 リーダー格の男が、毒が塗られた短刀を抜き放った。(させるかよ。プロの技術が通用するのは、この世界の物理法則が正常に動いている間だけだ!) 俺はミリアに悟られないよう、膝の上で組んだ手に力を込める。 システム・ディレイ、零コンマ零五秒。 その隙間に、俺は暗殺者たちの足元にある特定の数値を入力した。【デバッグアイ:物理定数ハック実行】【対象:暗殺者Aの靴底と地面の接触面】【項目:摩擦係数 0.8→0.00】【対象:暗殺者Bの投擲ナイフ】
王都へ戻る馬車の揺れは、今の俺にとっては拷問に近い。 座席に深く沈み込みながら、俺は必死に胃から逆流しようとする不快感を飲み込んでいた。 隣では、聖女ミリアが窓の外を眺めながら、退屈そうに指先で俺の腕をなぞっている。 その感触は、冬の凍土のように冷たく、毒蛇の鱗が這うような粘り気のある不快感を伴っていた。 彼女の機嫌は今、静かだが確実に「沸点」へと近づいている。「ねえ、ヴィンセント様。私、なんだかとても不思議なのですわ。騎士団は迷走し、巨人はまるで風に吹かれた紙細工のように爆散し……まるで世界そのものが、あの方に味方しているみたい。そうは思いませんこと?」 ミリアの声はどこまでも甘く、それゆえに鋭利な刃物のような殺気を孕んでいた。 俺は冷や汗をハックして強引に止めながら、精一杯の「クズ王子」らしい軽薄な笑みを顔に貼り付ける。「……ま、まさか。そんな偶然、あるわけがないよ、ミリア。きっと、北の地の魔物が想定以上に弱体化していたか、あいつが何か卑怯な魔導具でも隠し持っていたんだろう。あんな女に、加護なんてあるはずがないさ」 俺は必死に言葉を紡ぐが、ミリアは俺の顔を見ようともせず、赤い瞳をさらに細めた。「もう、言い訳は聞き飽きましたわ。兵士も魔物も、リソースの無駄遣い。ならば――もっとシンプルに、プロを送り込めばいいだけのことですわね」 ミリアがその薄い唇を釣り上げた瞬間、俺の網膜だけに展開されているデバッグアイが、凄まじい勢いで警告ログを走らせた。【警告:メインシナリオの強制書き換えを検出】【事象:聖女ミリアによる暗殺ギルドへのリソース割当】【ユニット:一級暗殺者、影の爪、三名】【ステータス:攻撃力特化、不可視化スキル保有、対魔障壁完備】【予測:対象エリザベートの生存確率、十パーセント以下に急落】(……ヒエッ!? ガチの暗殺者かよ! 今までみたいな、調整のしやすい見かけ倒しの巨人とは次元が違うぞ!) 俺は内心で絶叫した。 プロットによれば、ここから







