風が、灰を巻き上げた。
黒い空に赤い月。崩れた尖塔が、夜の地平へ爪を立てている。 私は焦げた大地に手をつき、ゆっくりと立ち上がった。喉が乾いて、肺に入る空気がざらつく。肌に刺さるのは風と……微かに混じる魔の粒。 「祈るのか?」 低い声。 黒いマントの青年が、私を見下ろしていた。赤い瞳は火ではなく、冷えた鉄の色。 「この地に、神はいないぞ」 「……それでも、誰かの痛みがあるなら」 自分でも驚くほど、声は静かだった。 青年は眉をわずかに動かしただけで、足取りも姿勢も崩さない。 彼の左手には包帯。包帯の下、石のような硬質が月光に一瞬だけ覗いた。 「名は」 「リシア・エルヴェイン」 「そうか」 青年は短く応じ、周囲に視線を走らせる。刹那、夜の裂け目から影が二つ滑り出た。角を持つ魔族の兵が、膝をつく。 「陛下、その者は人間です。間者の可能性が高い。処分を」 「間者ではありません」私は首を振る。「ここに来たのは……意図せず」 兵は舌打ちし、私の胸元のペンダントを睨む。 その時、ペンダントが微かに脈を打った。 蒼い粒が、夜気の底で塵のように揺れる。 兵ののどが鳴った。「光だ……! この空で?」 青年――彼は、ゆっくりと私へ歩を進める。 赤い瞳が、私の胸元から顔へ移る。 「この空で、まだ光を放つとはな」 「偶然です。私も、よくわかっていません」 答えた瞬間、膝が笑った。 指先が痺れる。視界の周縁が暗くなる。 「っ……」 体が前へ折れた。地面が近い――はずだったのに、硬いものに背が支えられる。 「立てるなら立て。立てないなら、休め」 短い言葉。青年の腕が、私の肩を支えていた。力は強いのに、乱暴ではない。 兵が慌てて進み出る。「陛下、危険です!」 「下がれ」 青年の一言で、夜が従う。兵は悔しさと畏れを混ぜた顔で一歩退いた。 ◇ 廃れた砦の残骸に、屋根だけが残る一角があった。 そこまで歩く間、彼は必要以上のことを言わない。ただ、私が躓けば支え、息が上がると歩を緩めた。 「水」 欠けた陶器の器が差し出される。手が震えたが、器は落ちない。 飲む前に、私は頭を下げた。 「ありがとうございます」 「人間を助けたわけじゃない」 「それでも、助かりました」 青年はほんの少しだけ目を細め、口の端だけが動いた。微笑と呼ぶには鋭い、しかし侮蔑ではない線。 「……名は、先ほど聞いた。リシアと言ったな」 「はい。リシア・エルヴェイン。……祈る者です」 彼は短く息を吐く。「祈る者、か」 包帯の下で、左手が小さく握られた。 「俺はノクス。――破壊の王だ」 言葉は冷ややかなのに、奇妙に誇り高い響きを持っていた。 祈る者と、破壊の王。 置かれた二つの名は、月の陰と陽のように、互いの輪郭を鮮やかにする。 「ノクス、陛下」外から兵の声がした。「辺境の民が――また、呪い斑が広がったと」 ノクスは顎をわずかに上げる。「見せろ」 砦の外、崩れた城壁の影に、人影が三つ。 痩せた魔族の母と、幼い子。老人が支えるように立っていた。 子の右脚には、黒い石の斑が咲いている。皮膚の下に冷えが広がるような、嫌な光の鈍さ。 母が顔を伏せる。「陛下……。痛みだけでも、止める手立ては」 私は一歩出ていた。 ノクスの視線が、横から刺す。 「触れるな。これは、癒せぬ呪いだ」 「……癒せないと、誰が決めたのですか」 言ってから、自分でも驚いた。 恐れよりも、子の震えと母の指の白さが、胸を押していた。 ノクスは短く息を止めた。兵の一人が「陛下」と制止の声を上げる。 「少しだけ。試させてください」 私は子の前で膝をつき、指先を石斑から少し離してかざす。触れない。けれど息を合わせる。 祈りは、言葉ではなく「聞く」ことから始まる。痛みの温度。皮膚下の冷え。脈の速さ。 「怖くない?」私は息を落としてささやく。 子は瞬きを一度だけして、「……少し。でも、温かいです」と答えた。 母が手を握り、「大丈夫」とだけ言う。夜の冷えが、ほんのわずか和らいだ。 「……大丈夫。深くは触らないから」 ペンダントが胸骨に当たって、微かな熱を返す。 小さく吸い、細く吐く。燐光の糸が一筋、指先と子の脚の間に伸びた。 痛みが、少しだけ退く。 子の眉間の皺がほどけ、母の喉から詰まっていた息が漏れる。 そこまでだった。光は自ら萎むように、するりと消える。 私の体から力が抜け、肩が落ちる。 「っ……」 ノクスの影が近づいた。 彼の左手――包帯の下の石が、ぴし、と微かに鳴る。 赤い瞳が一瞬だけ細くなった。 「今のは……」 「痛みを、少しだけ遠ざけただけです」私は息を整えた。「斑は、消せませんでした」 「それで十分だ」母が涙声で言う。「……今夜、眠れます」 老人が深く頭を下げる。兵たちは顔を見合わせ、戸惑いと畏れの間に立ち尽くした。 ノクスは黙ったまま、自分の左手を見た。 包帯の下、石の冷たさに、今の光の名残が――ほんの一滴だけ、染みた気がしたのかもしれない。 「歩けるか」 「はい」 「なら、戻る。ここは風が悪い」 ◇ 夜が深くなる。砦の陰で、かすかな焚き火が揺れた。 乾いた枝が弾ける音が、静けさを細かく砕く。 私は火に手をかざし、眠気と戦っていた。 魔力の粒が混じる空気は、体温を奪い続ける。 ノクスは少し離れたところに立ち、風下を見張っている。兵は輪を作り、気配を消して耳を澄ませていた。 「先ほどの子」私は火にささやくように言った。「あの冷えは、広がっていました。……この地全体に、似た気配を感じます」 「呪いだ」ノクスは火を見ない。「大地に撒かれた。国境線の向こうから」 「人間の国から?」 短い沈黙。焚き火の火花が、赤い月の下に散る。 ノクスは疑いも憎しみも、表面には出さなかった。ただ事実だけが、刃のように静かに置かれる。 「お前は、なぜ祈る」 突然の問い。 私は少しだけ考えてから、答えた。 「痛みが、私に向かってくるから」 ノクスが初めて、こちらを振り向いた。 赤い瞳に、焚き火が小さく映る。 「俺は破壊する。痛みが、俺に向かって来るからだ」 少し似た言い方で、まったく違う意味。 でも、どこかで繋がる言葉。 「……変な言い方になりますけど」私は笑ってしまった。「今、少しだけ安心しました」 「なぜだ」 「私の祈りは、あなたの破壊と、喧嘩しない気がして」 彼は目を瞬いた。わずかに肩の力が抜ける。 焚き火の音が一つ大きくはぜ、静けさがもどる。 「眠れ。ここでは、眠れる時に眠るものだ」 「はい。……おやすみなさい、ノクス」 「……ああ」 火の縁に横になる。土の冷たさと、炎のあたたかさ。 瞼が落ちかけると、ペンダントが月光を受けて、微かに揺れた。 その揺れに応えるように、ノクスの左手の石が――ほんの刹那、小さく鳴る。 彼は視線を落とし、包帯の上から固く握りしめた。 「人間の女……」 火よりも低い声が、夜に溶ける。 「この地で、光を持ち帰る気か」 答える者はいない。私はもう、浅い眠りに落ちていた。 ノクスはしばらく立ち尽くし、それから決めたように踵を返す。 兵たちが近づく。副官らしき長身の魔族が、低く抑えた声で問う。 「陛下……それは王命として、よろしいのですか」 ノクスの胸の奥で、さっきの光に似た温度が、まだ消えない。 彼は短く息を吐き、決めたように言った。 「連れて行く」 焚き火の光が、彼の横顔の硬さを一瞬だけ柔らげた。 「……処分は俺が決める」 兵たちは驚き、すぐに膝をついた。「はっ」 ノクスはマントを翻し、眠る私のそばに影を落とす。 月の道が、黒い城の方角へ薄く伸びていた。 夜の中、二人の影が重なる。 風が方向を変え、遠い尖塔が小さく鳴った。 ――拾うという決断が、静かに、世界の歯車を回し始める。黒の城の、円卓の間。黒曜の卓に、鎖の紋が円を描く。椅子は八。空気は金属の匂い。ノクスは最奥に立ち、私は出入口に近い席に座った。角の太い将軍、黒布の魔導師、顔に刻線を持つ祭司、そして副官アシュル。彼の声は、砂を噛んだような低音だった。「陛下。確認いたします。人間を城に入れ、評議へ同席させるのですか」「俺が招いた」「“聖女”を庇うことが、我らの救いになると?」祭司が割って入る。細い指が、喉元の護符を撫でた。私は立ち上がる。「庇われているつもりはありません。ただ——」アシュルが被せる。「彼女の光は、呪いを刺激する可能性があります。昨日も——」ノクスが卓を指で一度叩いた。「静まれ」音が空気を整列させる。私は口を閉じ、視線だけでノクスを見た。彼は私を見ない。全員を見ていた。「結論は急がない。事実を見る」祭司が唇を尖らせる。「事実など、神の言葉ひとつで足りる」アシュルは目を伏せた。「……確かに、昨日“痛み”は和らいだ。だが均衡が崩れる兆しも、私は見た」ノクスは短く告げた。「ならば——見に行くぞ」その瞬間、扉が開いて兵が駆け込む。息が荒い。「報告! 地下採掘層で崩落、負傷者多数! 影が燃えています!」円卓の空気が、ひと呼吸で変わった。魔導師が顔色を失う。「影炎だ……。光を持つ者しか封じられぬ」全員の視線が、私に刺さる。ノクスだけが、真っ直ぐに言った。「……行けるか」「はい」アシュルが一歩、前に出た。「私が護衛します。——陛下は城を」「俺も行く」言い切る声に誰も逆らえない。私たちは階段へ向かった。鎖の紋が、背後で静かにほどける音を立てた。◇地下層は息が重い。壁を走る赤黒い紋が、脈のように蠢き、その間を黒い炎が這い回っていた。炎なのに、明るくない。触れた石が、内側から灰に固まる。「退け! 天井が落ちる!」叫びが反響し、その声さえ、影に吸い込まれて小さくなる。私は崩れた梁のそばに膝をつき、倒れた兵の顔を覗き込む。唇が紫。肩から石化がせり上がって、胸に迫っている。「痛い?」「……冷たいです」「大丈夫。今は、“温かい”を置く」指先を石化から一寸だけ離し、息を合わせる。脈。皮膚下の冷え。影炎のざわめき。胸のペンダントが、服の上からでも熱を返す。光が、出る。細い糸。私はそれを無理に太らせない
夜明け前、薄い灰が空を染めはじめたころ、私たちを乗せた馬車は荒れ地を軋ませて進んだ。車窓の向こう、黒曜と灰の石で積まれた巨大な砦が、夜の名残を抱えたまま立っている。尖塔は雲の裾を裂き、門は眠らない獣の口のように沈黙していた。「人間がここに入るのは──百年ぶりだ」御者台の横を並走していた黒衣の男が言った。角は短く削れている。副官だろう。彼は私に視線を向けず、前だけを見て続ける。「陛下、これは危険です。人間は“呪いの触媒”だ」「俺が決めた。従え」ノクスの一言で、空気が硬くなる。副官は唇を噛み、わずかに頭を垂れた。門が開く。重い鎖の響きが、胸骨に鈍く伝わる。馬車が石畳に乗ると、音が低く変わった。城内は、音まで抑制された世界だった。◇黒の城は静寂と規律に支配されていた。廊下の壁には細い刻線で文様が編まれ、所々に黒い針が打たれている。呪い封じの陣だ。すれ違う魔族たちは私を見ると、ほんの半歩、空気だけを引く。近づきすぎない、けれど逃げもしない。訓練された距離。「ここで待て」ノクスが示したのは、窓の少ない応接の間だった。テーブルと椅子が一つずつ。寝具はない。食事の気配もない。「……わかりました」彼は頷きもしないで去った。扉の前に副官が一人、黙って立つ。夜明けの名残が壁に貼りつき、室内の影だけが長生きしている。体を丸めて椅子に座る。瞼を閉じ、呼吸を静かに整える。祈ろうとして──気づいた。「……神の声が、消えてる」ここには、本当に何も届かない。代わりに聞こえるのは、壁の文様の向こうでうずく痛みの音だった。冷え。重さ。切れない糸の軋み。私は額に手を当て、声にならない言葉で「聞く」ことに集中した。誰のものかもわからない痛みが、夜の底からかすかに揺れている。◇翌朝。城門前に民が集まった。腕に包帯を巻いた者、角に裂傷のある者、子を背負った母。低いざわめきが、胸元で燻る火のように広がっていく。「人間を庇うなど裏切りだ」「呪いがまた広がる」「聖女だと? 笑わせるな」副官が一歩前に出る。灰を含んだ声は、どこか丁寧で、どこか砂を噛んでいた。「陛下のご決断に異はありません。ただ──この女が“聖女”だという証は?」庇うように見せて、逃げ場を消す言い方。私は一度だけ呼吸を整え、群衆を見る。「証はありません」「ならば——」と
風が、灰を巻き上げた。黒い空に赤い月。崩れた尖塔が、夜の地平へ爪を立てている。私は焦げた大地に手をつき、ゆっくりと立ち上がった。喉が乾いて、肺に入る空気がざらつく。肌に刺さるのは風と……微かに混じる魔の粒。「祈るのか?」低い声。黒いマントの青年が、私を見下ろしていた。赤い瞳は火ではなく、冷えた鉄の色。「この地に、神はいないぞ」「……それでも、誰かの痛みがあるなら」自分でも驚くほど、声は静かだった。青年は眉をわずかに動かしただけで、足取りも姿勢も崩さない。彼の左手には包帯。包帯の下、石のような硬質が月光に一瞬だけ覗いた。「名は」「リシア・エルヴェイン」「そうか」青年は短く応じ、周囲に視線を走らせる。刹那、夜の裂け目から影が二つ滑り出た。角を持つ魔族の兵が、膝をつく。「陛下、その者は人間です。間者の可能性が高い。処分を」「間者ではありません」私は首を振る。「ここに来たのは……意図せず」兵は舌打ちし、私の胸元のペンダントを睨む。その時、ペンダントが微かに脈を打った。蒼い粒が、夜気の底で塵のように揺れる。兵ののどが鳴った。「光だ……! この空で?」青年――彼は、ゆっくりと私へ歩を進める。赤い瞳が、私の胸元から顔へ移る。「この空で、まだ光を放つとはな」「偶然です。私も、よくわかっていません」答えた瞬間、膝が笑った。指先が痺れる。視界の周縁が暗くなる。「っ……」体が前へ折れた。地面が近い――はずだったのに、硬いものに背が支えられる。「立てるなら立て。立てないなら、休め」短い言葉。青年の腕が、私の肩を支えていた。力は強いのに、乱暴ではない。兵が慌てて進み出る。「陛下、危険です!」「下がれ」青年の一言で、夜が従う。兵は悔しさと畏れを混ぜた顔で一歩退いた。◇廃れた砦の残骸に、屋根だけが残る一角があった。そこまで歩く間、彼は必要以上のことを言わない。ただ、私が躓けば支え、息が上がると歩を緩めた。「水」欠けた陶器の器が差し出される。手が震えたが、器は落ちない。飲む前に、私は頭を下げた。「ありがとうございます」「人間を助けたわけじゃない」「それでも、助かりました」青年はほんの少しだけ目を細め、口の端だけが動いた。微笑と呼ぶには鋭い、しかし侮蔑ではない線。「……名は、先ほど聞いた。リシアと言ったな」「
──鐘が三度、冷たく鳴った。石の円形法廷。白大理石の壇上に、王太子の椅子。半円の観客席には貴族と神官、そして見物の民。私は中央の円環に立たされ、両手を鎖で束ねられていた。手枷には封印の刻印。胸元の聖紋ペンダントだけが、かすかに体温を返す。「聖女リシア・エルヴェイン」王太子レオンは、唇だけで笑った。「お前の“祝福”は偽物だったと証明された」ざわめきが、石壁にさざめく波みたいに走る。神官が進み出て、金の香炉を振った。薄い煙。聖句。私の足元の円環が鈍く光る――はずだった。光は、出ない。「ご覧のとおりだ」レオンは肩をすくめる。「加護は消えた。無能が、聖女の名を騙っていたのだ」「……そう言い切るのですか、殿下」声が自分のものじゃないみたいに乾いていた。香の甘さが、氷みたいな空気をすべって喉を冷やす。観客席の金具が微かに軋む。衣擦れ。息を呑む音。それらが天蓋に集まって、ゆっくり渦を巻いた。目を閉じる。まぶたの裏に、別の光が立ち上がる。夏至の昼。村の広場。火傷した少年の手を、私は布で包み、光を落とした。「痛いのは、ここまで」少年の母は、声を出さずに泣いた。隣の老人が、麦の束を差し出す。風鈴。洗濯物。白い布が陽を弾く。――祈りは届く。誰のものでもない空に。今、私は鎖に繋がれている。同じ空の下で、光は封じられている。「……あの光は、もう届かないのね」それでも、胸の奥の灯は消えていない。ペンダントは、昔と同じ温度で指先に触れた。「民よ、耳を貸せ!」壇上の大司教ハインリヒが、白蛇の杖を掲げる。「異端は秩序を蝕む。裏切り者の聖女には、相応の断罪が必要だ!」「裏切り者!」「恥を知れ!」観客席の陰から、罵声が降る。「……彼女、本当に?」「神殿が言うのだ。間違いない」そんなひそひそ声も混じった。重い空気の隙間に、わずかな人の息が流れ込む。私は目を閉じる。封印が、祝福の流路を細く締め上げている。わかっている。これは、結論のために用意された儀式だ。それでも。――祈りをやめる理由にはならない。「紹介しよう」レオンが、隣の女の手を取った。「これが真の聖女、セレナ・ヴァルリスだ。お前のような無能では、国を救えぬ」セレナは完璧な微笑で私を見下ろす。「お気の毒ですわ、リシアさま。祝福は、選ばれた器にのみ宿るのだと、