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黒き魔王と祈る者

مؤلف: 吟色
last update تاريخ النشر: 2025-10-08 13:54:51

風が、灰を巻き上げた。

黒い空に赤い月。崩れた尖塔が、夜の地平へ爪を立てている。

私は焦げた大地に手をつき、ゆっくりと立ち上がった。喉が乾いて、肺に入る空気がざらつく。肌に刺さるのは風と……微かに混じる魔の粒。

「祈るのか?」

低い声。

黒いマントの青年が、私を見下ろしていた。赤い瞳は火ではなく、冷えた鉄の色。

「この地に、神はいないぞ」

「……それでも、誰かの痛みがあるなら」

自分でも驚くほど、声は静かだった。

青年は眉をわずかに動かしただけで、足取りも姿勢も崩さない。

彼の左手には包帯。包帯の下、石のような硬質が月光に一瞬だけ覗いた。

「名は」

「リシア・エルヴェイン」

「そうか」

青年は短く応じ、周囲に視線を走らせる。刹那、夜の裂け目から影が二つ滑り出た。角を持つ魔族の兵が、膝をつく。

「陛下、その者は人間です。間者の可能性が高い。処分を」

「間者ではありません」私は首を振る。「ここに来たのは……意図せず」

兵は舌打ちし、私の胸元のペンダントを睨む。

その時、ペンダントが微かに脈を打った。

蒼い粒が、夜気の底で塵のように揺れる。

兵ののどが鳴った。「光だ……! この空で?」

青年――彼は、ゆっくりと私へ歩を進める。

赤い瞳が、私の胸元から顔へ移る。

「この空で、まだ光を放つとはな」

「偶然です。私も、よくわかっていません」

答えた瞬間、膝が笑った。

指先が痺れる。視界の周縁が暗くなる。

「っ……」

体が前へ折れた。地面が近い――はずだったのに、硬いものに背が支えられる。

「立てるなら立て。立てないなら、休め」

短い言葉。青年の腕が、私の肩を支えていた。力は強いのに、乱暴ではない。

兵が慌てて進み出る。「陛下、危険です!」

「下がれ」

青年の一言で、夜が従う。兵は悔しさと畏れを混ぜた顔で一歩退いた。

廃れた砦の残骸に、屋根だけが残る一角があった。

そこまで歩く間、彼は必要以上のことを言わない。ただ、私が躓けば支え、息が上がると歩を緩めた。

「水」

欠けた陶器の器が差し出される。手が震えたが、器は落ちない。

飲む前に、私は頭を下げた。

「ありがとうございます」

「人間を助けたわけじゃない」

「それでも、助かりました」

青年はほんの少しだけ目を細め、口の端だけが動いた。微笑と呼ぶには鋭い、しかし侮蔑ではない線。

「……名は、先ほど聞いた。リシアと言ったな」

「はい。リシア・エルヴェイン。……祈る者です」

彼は短く息を吐く。「祈る者、か」

包帯の下で、左手が小さく握られた。

「俺はノクス。――破壊の王だ」

言葉は冷ややかなのに、奇妙に誇り高い響きを持っていた。

祈る者と、破壊の王。

置かれた二つの名は、月の陰と陽のように、互いの輪郭を鮮やかにする。

「ノクス、陛下」外から兵の声がした。「辺境の民が――また、呪い斑が広がったと」

ノクスは顎をわずかに上げる。「見せろ」

砦の外、崩れた城壁の影に、人影が三つ。

痩せた魔族の母と、幼い子。老人が支えるように立っていた。

子の右脚には、黒い石の斑が咲いている。皮膚の下に冷えが広がるような、嫌な光の鈍さ。

母が顔を伏せる。「陛下……。痛みだけでも、止める手立ては」

私は一歩出ていた。

ノクスの視線が、横から刺す。

「触れるな。これは、癒せぬ呪いだ」

「……癒せないと、誰が決めたのですか」

言ってから、自分でも驚いた。

恐れよりも、子の震えと母の指の白さが、胸を押していた。

ノクスは短く息を止めた。兵の一人が「陛下」と制止の声を上げる。

「少しだけ。試させてください」

私は子の前で膝をつき、指先を石斑から少し離してかざす。触れない。けれど息を合わせる。

祈りは、言葉ではなく「聞く」ことから始まる。痛みの温度。皮膚下の冷え。脈の速さ。

「怖くない?」私は息を落としてささやく。

子は瞬きを一度だけして、「……少し。でも、温かいです」と答えた。

母が手を握り、「大丈夫」とだけ言う。夜の冷えが、ほんのわずか和らいだ。

「……大丈夫。深くは触らないから」

ペンダントが胸骨に当たって、微かな熱を返す。

小さく吸い、細く吐く。燐光の糸が一筋、指先と子の脚の間に伸びた。

痛みが、少しだけ退く。

子の眉間の皺がほどけ、母の喉から詰まっていた息が漏れる。

そこまでだった。光は自ら萎むように、するりと消える。

私の体から力が抜け、肩が落ちる。

「っ……」

ノクスの影が近づいた。

彼の左手――包帯の下の石が、ぴし、と微かに鳴る。

赤い瞳が一瞬だけ細くなった。

「今のは……」

「痛みを、少しだけ遠ざけただけです」私は息を整えた。「斑は、消せませんでした」

「それで十分だ」母が涙声で言う。「……今夜、眠れます」

老人が深く頭を下げる。兵たちは顔を見合わせ、戸惑いと畏れの間に立ち尽くした。

ノクスは黙ったまま、自分の左手を見た。

包帯の下、石の冷たさに、今の光の名残が――ほんの一滴だけ、染みた気がしたのかもしれない。

「歩けるか」

「はい」

「なら、戻る。ここは風が悪い」

夜が深くなる。砦の陰で、かすかな焚き火が揺れた。

乾いた枝が弾ける音が、静けさを細かく砕く。

私は火に手をかざし、眠気と戦っていた。

魔力の粒が混じる空気は、体温を奪い続ける。

ノクスは少し離れたところに立ち、風下を見張っている。兵は輪を作り、気配を消して耳を澄ませていた。

「先ほどの子」私は火にささやくように言った。「あの冷えは、広がっていました。……この地全体に、似た気配を感じます」

「呪いだ」ノクスは火を見ない。「大地に撒かれた。国境線の向こうから」

「人間の国から?」

短い沈黙。焚き火の火花が、赤い月の下に散る。

ノクスは疑いも憎しみも、表面には出さなかった。ただ事実だけが、刃のように静かに置かれる。

「お前は、なぜ祈る」

突然の問い。

私は少しだけ考えてから、答えた。

「痛みが、私に向かってくるから」

ノクスが初めて、こちらを振り向いた。

赤い瞳に、焚き火が小さく映る。

「俺は破壊する。痛みが、俺に向かって来るからだ」

少し似た言い方で、まったく違う意味。

でも、どこかで繋がる言葉。

「……変な言い方になりますけど」私は笑ってしまった。「今、少しだけ安心しました」

「なぜだ」

「私の祈りは、あなたの破壊と、喧嘩しない気がして」

彼は目を瞬いた。わずかに肩の力が抜ける。

焚き火の音が一つ大きくはぜ、静けさがもどる。

「眠れ。ここでは、眠れる時に眠るものだ」

「はい。……おやすみなさい、ノクス」

「……ああ」

火の縁に横になる。土の冷たさと、炎のあたたかさ。

瞼が落ちかけると、ペンダントが月光を受けて、微かに揺れた。

その揺れに応えるように、ノクスの左手の石が――ほんの刹那、小さく鳴る。

彼は視線を落とし、包帯の上から固く握りしめた。

「人間の女……」

火よりも低い声が、夜に溶ける。

「この地で、光を持ち帰る気か」

答える者はいない。私はもう、浅い眠りに落ちていた。

ノクスはしばらく立ち尽くし、それから決めたように踵を返す。

兵たちが近づく。副官らしき長身の魔族が、低く抑えた声で問う。

「陛下……それは王命として、よろしいのですか」

ノクスの胸の奥で、さっきの光に似た温度が、まだ消えない。

彼は短く息を吐き、決めたように言った。

「連れて行く」

焚き火の光が、彼の横顔の硬さを一瞬だけ柔らげた。

「……処分は俺が決める」

兵たちは驚き、すぐに膝をついた。「はっ」

ノクスはマントを翻し、眠る私のそばに影を落とす。

月の道が、黒い城の方角へ薄く伸びていた。

夜の中、二人の影が重なる。

風が方向を変え、遠い尖塔が小さく鳴った。

――拾うという決断が、静かに、世界の歯車を回し始める。

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