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第二章 獣人王との邂逅

last update publish date: 2026-10-23 10:14:34

 王宮での生活は、意外なほど快適だった。

 フィオナ様は忙しい人だったが、時間があるときは私を王宮のあちこちに連れて行ってくれた。大広間、図書室庭園、調理場。どこもかしこも、人間の国とは勝手が違う。特に図書室は素晴らしかった。何百年もかけて集められたという蔵書は、私の知らない知識の宝庫だった。

 私は毎日、午前中は図書室で過ごし午後は王宮の文官たちに人間の礼儀作法や言語を教えるという日々を送っていた。教えると言っても、基本的なことばかり。でも彼らは熱心に学んでくれた。

「セレスティーヌ様、この言い回しはどういう意味でしょうか?」

「ああ、それはですね……」

 そんな穏やかな日々が、十日ほど続いたある日のこと。

 フィオナ様が、神妙な面持ちで私の部屋を訪ねてきた。

「セレスティーヌ、明日、王様があなたにお会いになりたいそうよ」

「王様、ですか?」

「ええ。人間の国から客人が来ていると聞いて、興味を持たれたの。堅苦しい謁見ではなく、非公式な面会だからそんなに緊張しなくて大丈夫よ」

 そう言われても緊張するものは緊張する。この国の王は、獣人たちの頂点に立つ存在。強靭な力と、長い歴史を持つ王家の血筋。人間の国王に会うのとは、わけが違う。

「何か、注意することはありますか?」

「そうね……王様の前では、あまり大きな声を出さないことかしら。獣人は聴覚が敏感だから。あとは、目を逸らさないこと。獣人にとって、視線を合わせないのは敵意の表れなの」

「目を、逸らさない……」

「人間の文化では、身分の高い人の目をじっと見るのは失礼なんでしょう? でも、こちらでは逆なの。王様の目を、まっすぐ見なさい。あなたに敵意がないことを示すために」

 私は頷いた。大丈夫、できる。そう自分に言い聞かせる。

 でも、このときの私はまだ知らなかったのだ。その面会が、私の運命を根本から変えてしまうことになるなんて。

 翌日、私は用意された衣装に身を包み、王宮の奥へと向かった。

 この日のために、フィオナ様が仕立ててくれたドレスは、人間の国では見ないような鮮やかな深緑色だった。獣人王国では、森の色が最高級とされるらしい。肩と背中が開いた大胆なデザインで、肌がいつもより多く露出している。少し恥ずかしいが、これがこちらの正式な装いらしい。

 王の私室は、王宮の最上階にあった。巨大な樹木の幹をくり抜いて作られた廊下を歩き、大きな扉の前で足を止める。フィオナ様が、私に目配せした。

「大丈夫、あなたならきっと気に入られるわ」

 そう言われても、心臓が早鐘を打っている。私は深呼吸をして、扉をノックした。

「入れ」

 低い声が響く。フィオナ様が扉を開け、私を部屋の中へと導いた。

 その部屋は、驚くほど簡素だった。豪華な調度品も、華やかな装飾もない。あるのは、窓辺に置かれた机と椅子壁一面の本棚、そして部屋の中央にある大きな寝台。質素ですらあるその空間に、彼はいた。

 窓から差し込む光を背に、一人の男が立っている。

 その姿を見た瞬間、私は呼吸を忘れた。

 黒い髪。闇を溶かしたような、深い黒。切れ長の瞳は黄金色で、光を受けて獣のように煌めいている。肌は浅黒く、引き締まった体躯は服の上からでもわかるほどに鍛え上げられていた。頭の上には、狼を思わせる黒い耳。背中からは、同じ色の尻尾がゆったりと揺れている。

 彼が、この国の王。

 獣人王。

「フィオナ、その者が例の客人か」

 声は、先ほど扉越しに聞いたものと同じ。だが、直接聞くと腹の底に響くような重みがあった。

「はい、陛下。ルーメリア王国より参られました、セレスティーヌ・アルヴェール様です」

「セレスティーヌ……」

 彼は私の名を口にし一歩、こちらに近づいた。私は慌ててカーテシーを取る。

「お初にお目にかかります。セレスティーヌ・アルヴェールと申します。このたびは、お招きいただき光栄に存じます」

 練習していた通りの挨拶。声が震えていないか心配だったが、どうにか言い切ることができた。

「面を上げろ」

 私は顔を上げる。そして彼の目をまっすぐに見た。フィオナ様に言われた通り、逸らさないように。

 黄金色の瞳が、私を捉える。

 その瞬間だった。

 彼の動きが、ぴたりと止まった。金色の目が、わずかに見開かれる。何かが変わった。空気が、温度が彼の表情が。

「……何だ、この香りは」

 低く、掠れた声。彼はゆっくりと私に近づいてくる。一歩、また一歩。その動きは獲物を前にした獣のようだった。

「陛下?」

 フィオナ様が戸惑ったように声をかける。だが、彼は構わず私の目の前まで来ると、手を伸ばして私の顎を持ち上げた。

「……間違いない。この香りは、俺の番(つがい)のものだ」

 番。

 その言葉の意味を私は知らなかった。だが、彼の金色の瞳に宿る熱と周囲に漂うようになった濃厚な空気に、ただならぬものを感じた。

「陛下、番というのは……」

「フィオナ、下がれ」

「しかし」

「下がれと言っている」

 冷たい声に、フィオナ様は私を一瞥してから、静かに部屋を出て行った。扉が閉まる音が、やけに大きく響く。

 残されたのは、私と獣人王だけ。

 彼の手が、私の顎から離れない。金色の瞳が、値踏みするようにいや、味わうように私の顔を眺めている。

「名は、セレスティーヌと言ったか」

「……はい」

「俺は、ライオネル・ヴァルガリア。エンペリア獣人連合王国の王だ」

「存じております」

「ならば話は早い。セレスティーヌ、お前は今日から俺の番だ」

 彼は、何を言っているのだろう。番。それが何を意味するのか、私にはわからない。でもただならぬ響きであることだけは、本能で理解できた。

「あの、番というのは……」

「運命の伴侶のことだ」

 ライオネル王は、事も無げに言った。

「獣人には、生涯に一度だけ運命の番に出会うことがある。その相手は、香りでわかる。お前の香りは俺の番のものだ」

「香り……」

「そうだ。花のような、甘い香り。今まで嗅いだどんな香りよりも、強く俺を惹きつける」

 彼は私の首元に顔を寄せ、深く息を吸い込んだ。吐息が肌にかかり、体がびくりと震える。

「……間違いない。俺の番だ」

 そう言って、彼は私の手を取った。大きな手。ごつごつとした、男の手。その温かさに心臓が跳ねる。

「戸惑っているようだな。無理もない。人間には、番の概念がないと聞く。だが俺たちにとって番は、絶対的なものだ。一度見つければ、その相手以外は考えられなくなる」

「そんな……」

「怖がることはない。俺はお前を、生涯かけて愛する。この命に代えても、お前を守る。それが番というものだ」

 黄金色の瞳が真っ直ぐに私を見つめる。その熱に、私は返す言葉を失った。運命の伴侶。初対面の、しかも獣人の王に突然そんなことを言われても、信じられるはずがない。

 でも。

 彼の目は、嘘をついているようには見えなかった。むしろ、本人も戸惑っているようにすら見える。運命の番に出会うのが、こんなに突然だとは思っていなかったのだろう。

「……少し、時間をいただけませんか」

 私はようやく、それだけを言った。

「突然すぎて、何も考えられません。番というものが何なのかも、私にはわからない。だから……」

「時間、か」

 ライオネル王はしばし私を見つめ、それから小さく息を吐いた。

「いいだろう。ただし、待つのは得意ではない。お前がここにいる間、俺は何度でもお前に会う。それで、俺のことを知ってもらう。それでいいか」

「……はい」

 私は頷くことしかできなかった。彼の手が、私の手を離れる。名残惜しむように、指先が触れ合った。

「今日は下がっていい。また呼ぶ」

「……失礼いたします」

 私は一礼し、部屋を後にした。扉を閉めた瞬間、膝から力が抜けてその場に座り込みそうになる。なんとか壁に手をついて、深呼吸を繰り返した。

 心臓が、うるさいほど鳴っている。

 首元に残る彼の吐息の感覚。手に残る彼の温もり。あの金色の瞳。

「……なんなの」

 私は呟いた。運命の番。そんな馬鹿げた話、信じられるわけがない。でもあの目の熱は、演技では出せないものだった。

 混乱しながら私は自分の部屋に戻った。窓の外では、夕暮れが迫っている。王都の街並みが、茜色に染まっていた。

 私の運命は、また動き出した。今度は私の意思とは関係なく。

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