LOGIN王宮での生活は、意外なほど快適だった。
フィオナ様は忙しい人だったが、時間があるときは私を王宮のあちこちに連れて行ってくれた。大広間、図書室庭園、調理場。どこもかしこも、人間の国とは勝手が違う。特に図書室は素晴らしかった。何百年もかけて集められたという蔵書は、私の知らない知識の宝庫だった。
私は毎日、午前中は図書室で過ごし午後は王宮の文官たちに人間の礼儀作法や言語を教えるという日々を送っていた。教えると言っても、基本的なことばかり。でも彼らは熱心に学んでくれた。
「セレスティーヌ様、この言い回しはどういう意味でしょうか?」
「ああ、それはですね……」
そんな穏やかな日々が、十日ほど続いたある日のこと。
フィオナ様が、神妙な面持ちで私の部屋を訪ねてきた。
「セレスティーヌ、明日、王様があなたにお会いになりたいそうよ」
「王様、ですか?」
「ええ。人間の国から客人が来ていると聞いて、興味を持たれたの。堅苦しい謁見ではなく、非公式な面会だからそんなに緊張しなくて大丈夫よ」
そう言われても緊張するものは緊張する。この国の王は、獣人たちの頂点に立つ存在。強靭な力と、長い歴史を持つ王家の血筋。人間の国王に会うのとは、わけが違う。
「何か、注意することはありますか?」
「そうね……王様の前では、あまり大きな声を出さないことかしら。獣人は聴覚が敏感だから。あとは、目を逸らさないこと。獣人にとって、視線を合わせないのは敵意の表れなの」
「目を、逸らさない……」
「人間の文化では、身分の高い人の目をじっと見るのは失礼なんでしょう? でも、こちらでは逆なの。王様の目を、まっすぐ見なさい。あなたに敵意がないことを示すために」
私は頷いた。大丈夫、できる。そう自分に言い聞かせる。
でも、このときの私はまだ知らなかったのだ。その面会が、私の運命を根本から変えてしまうことになるなんて。
翌日、私は用意された衣装に身を包み、王宮の奥へと向かった。
この日のために、フィオナ様が仕立ててくれたドレスは、人間の国では見ないような鮮やかな深緑色だった。獣人王国では、森の色が最高級とされるらしい。肩と背中が開いた大胆なデザインで、肌がいつもより多く露出している。少し恥ずかしいが、これがこちらの正式な装いらしい。
王の私室は、王宮の最上階にあった。巨大な樹木の幹をくり抜いて作られた廊下を歩き、大きな扉の前で足を止める。フィオナ様が、私に目配せした。
「大丈夫、あなたならきっと気に入られるわ」
そう言われても、心臓が早鐘を打っている。私は深呼吸をして、扉をノックした。
「入れ」
低い声が響く。フィオナ様が扉を開け、私を部屋の中へと導いた。
その部屋は、驚くほど簡素だった。豪華な調度品も、華やかな装飾もない。あるのは、窓辺に置かれた机と椅子壁一面の本棚、そして部屋の中央にある大きな寝台。質素ですらあるその空間に、彼はいた。
窓から差し込む光を背に、一人の男が立っている。
その姿を見た瞬間、私は呼吸を忘れた。
黒い髪。闇を溶かしたような、深い黒。切れ長の瞳は黄金色で、光を受けて獣のように煌めいている。肌は浅黒く、引き締まった体躯は服の上からでもわかるほどに鍛え上げられていた。頭の上には、狼を思わせる黒い耳。背中からは、同じ色の尻尾がゆったりと揺れている。
彼が、この国の王。
獣人王。
「フィオナ、その者が例の客人か」
声は、先ほど扉越しに聞いたものと同じ。だが、直接聞くと腹の底に響くような重みがあった。
「はい、陛下。ルーメリア王国より参られました、セレスティーヌ・アルヴェール様です」
「セレスティーヌ……」
彼は私の名を口にし一歩、こちらに近づいた。私は慌ててカーテシーを取る。
「お初にお目にかかります。セレスティーヌ・アルヴェールと申します。このたびは、お招きいただき光栄に存じます」
練習していた通りの挨拶。声が震えていないか心配だったが、どうにか言い切ることができた。
「面を上げろ」
私は顔を上げる。そして彼の目をまっすぐに見た。フィオナ様に言われた通り、逸らさないように。
黄金色の瞳が、私を捉える。
その瞬間だった。
彼の動きが、ぴたりと止まった。金色の目が、わずかに見開かれる。何かが変わった。空気が、温度が彼の表情が。
「……何だ、この香りは」
低く、掠れた声。彼はゆっくりと私に近づいてくる。一歩、また一歩。その動きは獲物を前にした獣のようだった。
「陛下?」
フィオナ様が戸惑ったように声をかける。だが、彼は構わず私の目の前まで来ると、手を伸ばして私の顎を持ち上げた。
「……間違いない。この香りは、俺の番(つがい)のものだ」
番。
その言葉の意味を私は知らなかった。だが、彼の金色の瞳に宿る熱と周囲に漂うようになった濃厚な空気に、ただならぬものを感じた。
「陛下、番というのは……」
「フィオナ、下がれ」
「しかし」
「下がれと言っている」
冷たい声に、フィオナ様は私を一瞥してから、静かに部屋を出て行った。扉が閉まる音が、やけに大きく響く。
残されたのは、私と獣人王だけ。
彼の手が、私の顎から離れない。金色の瞳が、値踏みするようにいや、味わうように私の顔を眺めている。
「名は、セレスティーヌと言ったか」
「……はい」
「俺は、ライオネル・ヴァルガリア。エンペリア獣人連合王国の王だ」
「存じております」
「ならば話は早い。セレスティーヌ、お前は今日から俺の番だ」
彼は、何を言っているのだろう。番。それが何を意味するのか、私にはわからない。でもただならぬ響きであることだけは、本能で理解できた。
「あの、番というのは……」
「運命の伴侶のことだ」
ライオネル王は、事も無げに言った。
「獣人には、生涯に一度だけ運命の番に出会うことがある。その相手は、香りでわかる。お前の香りは俺の番のものだ」
「香り……」
「そうだ。花のような、甘い香り。今まで嗅いだどんな香りよりも、強く俺を惹きつける」
彼は私の首元に顔を寄せ、深く息を吸い込んだ。吐息が肌にかかり、体がびくりと震える。
「……間違いない。俺の番だ」
そう言って、彼は私の手を取った。大きな手。ごつごつとした、男の手。その温かさに心臓が跳ねる。
「戸惑っているようだな。無理もない。人間には、番の概念がないと聞く。だが俺たちにとって番は、絶対的なものだ。一度見つければ、その相手以外は考えられなくなる」
「そんな……」
「怖がることはない。俺はお前を、生涯かけて愛する。この命に代えても、お前を守る。それが番というものだ」
黄金色の瞳が真っ直ぐに私を見つめる。その熱に、私は返す言葉を失った。運命の伴侶。初対面の、しかも獣人の王に突然そんなことを言われても、信じられるはずがない。
でも。
彼の目は、嘘をついているようには見えなかった。むしろ、本人も戸惑っているようにすら見える。運命の番に出会うのが、こんなに突然だとは思っていなかったのだろう。
「……少し、時間をいただけませんか」
私はようやく、それだけを言った。
「突然すぎて、何も考えられません。番というものが何なのかも、私にはわからない。だから……」
「時間、か」
ライオネル王はしばし私を見つめ、それから小さく息を吐いた。
「いいだろう。ただし、待つのは得意ではない。お前がここにいる間、俺は何度でもお前に会う。それで、俺のことを知ってもらう。それでいいか」
「……はい」
私は頷くことしかできなかった。彼の手が、私の手を離れる。名残惜しむように、指先が触れ合った。
「今日は下がっていい。また呼ぶ」
「……失礼いたします」
私は一礼し、部屋を後にした。扉を閉めた瞬間、膝から力が抜けてその場に座り込みそうになる。なんとか壁に手をついて、深呼吸を繰り返した。
心臓が、うるさいほど鳴っている。
首元に残る彼の吐息の感覚。手に残る彼の温もり。あの金色の瞳。
「……なんなの」
私は呟いた。運命の番。そんな馬鹿げた話、信じられるわけがない。でもあの目の熱は、演技では出せないものだった。
混乱しながら私は自分の部屋に戻った。窓の外では、夕暮れが迫っている。王都の街並みが、茜色に染まっていた。
私の運命は、また動き出した。今度は私の意思とは関係なく。
彼が「待つ」と言ったのは、本当だった。 ライオネル王はそれからも私に会いに来た。贈り物も続いた。しかし、決して急かすことはなかった。私の心が動くのを、辛抱強く待っている。 でも。 彼の金色の瞳を見るたびに、その奥に潛む熱を感じるたびに、私の中の何かが揺れる。それが何なのか、最初はわからなかった。 わかったのは、ある夜のことだった。 その日は王宮で小さな宴が開かれ、私は初めて彼の公の姿を目にした。臣下たちに囲まれ、王としての顔を持つ彼は私が知っている庭園での穏やかな姿とはまるで別人だった。鋭い眼光、低く響く声わずかな身じろぎにも周囲が緊張する。その威厳に満ちた姿を見た瞬間、私の心臓は音を立てて跳ねた。「お嬢様、顔が赤いですよ」 マリアに指摘され私は慌ててワインを煽った。自分でもわかるほど、頬が熱い。何を考えているの私。あの人は王様で、私はただの客人。そう自分に言い聞かせるのに、視線は勝手に彼を追いかける。彼が臣下の言葉に頷くたび、長い指が杯を傾けるたび黒い耳がわずかに動くたび、胸の奥がきゅうっと締め付けられた。 その夜、宴が終わった後私は眠れずにいた。寝台に横になっても、目を閉じるたびに浮かぶのは彼の姿ばかり。あの金色の瞳。あの低い声。あの大きな手。体が、熱い。ううん心が熱い。これは何の感情だろう。「……もう、やめよう」 私は寝台から起き上がり窓辺に歩いた。月が綺麗だった。月光が王宮の庭を銀色に染め上げている。その幻想的な光景に見とれていると、不意に部屋の扉がノックされた。「こんな時間に誰……?」 まさかマリアだろうか。いや彼女は先ほど休むと言っていた。私は寝間着の上から羽織るものを掴み
翌日から、ライオネル王からの贈り物が毎日のように私の部屋に届くようになった。 最初に届いたのは見たこともないほど美しい花束だった。月光を受けると淡く光る花、甘い香りを放つ花宝石のように透き通った花びらを持つ花。どれも、この国でしか咲かない希少な花ばかりだと、マリアが調べて教えてくれた。 次に届いたのは絹のような手触りの布。深い緑色で、光の加減で色が変わる。これも最高級品らしい。 その次は、銀細工の髪飾り。精巧な細工で、狼を象った意匠が施されている。「お嬢様、これ、どうしましょう」 マリアが困惑したように言う。私も同じ気持ちだった。贈り物を突き返すわけにもいかない。でも、受け取るということは彼の好意を受け入れるということになる。「……とりあえず、お礼の手紙を書きましょう」 そう言って、私は机に向かった。何度も書き損じて、結局、形だけのお礼状を仕上げるのに半日もかかってしまった。 それから数日後、本当に王から呼び出しがかかった。 場所は、王宮の中庭。昼下がりの光が降り注ぐ、美しい庭園だった。噴水のそばに立つライオネル王は、この前と同じく黒を基調とした衣装を身につけている。私の姿を見つけると、金色の瞳がわずかに和らいだ。「来たか」「お招きありがとうございます。あの、先日は贈り物をいただいてしまって、ありがとうございました」「気に入ったか」「ええ、とても。ただあのように高価なものを毎日いただくのは、さすがに恐縮してしまいます」「遠慮はいらない。番に贈り物をするのは、当然のことだ」 彼はさらり
王宮での生活は、意外なほど快適だった。 フィオナ様は忙しい人だったが、時間があるときは私を王宮のあちこちに連れて行ってくれた。大広間、図書室庭園、調理場。どこもかしこも、人間の国とは勝手が違う。特に図書室は素晴らしかった。何百年もかけて集められたという蔵書は、私の知らない知識の宝庫だった。 私は毎日、午前中は図書室で過ごし午後は王宮の文官たちに人間の礼儀作法や言語を教えるという日々を送っていた。教えると言っても、基本的なことばかり。でも彼らは熱心に学んでくれた。「セレスティーヌ様、この言い回しはどういう意味でしょうか?」「ああ、それはですね……」 そんな穏やかな日々が、十日ほど続いたある日のこと。 フィオナ様が、神妙な面持ちで私の部屋を訪ねてきた。「セレスティーヌ、明日、王様があなたにお会いになりたいそうよ」「王様、ですか?」「ええ。人間の国から客人が来ていると聞いて、興味を持たれたの。堅苦しい謁見ではなく、非公式な面会だからそんなに緊張しなくて大丈夫よ」 そう言われても緊張するものは緊張する。この国の王は、獣人たちの頂点に立つ存在。強靭な力と、長い歴史を持つ王家の血筋。人間の国王に会うのとは、わけが違う。「何か、注意することはありますか?」「そうね……王様の前では、あまり大きな声を出さないことかしら。獣人は聴覚が敏感だから。あとは、目を逸らさないこと。獣人にとって、視線を合わせないのは敵意の表れなの」「目を、逸らさない……」「人間の文化では、身分の高い人の目をじっと見るのは失礼なんでしょう? でも、こちらでは逆なの。王様の目を、まっすぐ見なさい。あなたに敵意がないことを示すために」 私は頷いた。大丈夫、できる。そう自分に言い聞かせる。 でも、このときの私はまだ知らなかったのだ。その面会が、私の運命を根本から変えてしまうことになるなんて。 翌日、私は用意された衣装に身を包み、王宮の奥へと向かった。 この日のために、フィオナ様が仕立ててくれたドレスは、人間の国では見ないような鮮やかな深緑色だった。獣人王国では、森の色が最高級とされるらしい。肩と背中が開いた大胆なデザインで、肌がいつもより多く露出している。少し恥ずかしいが、これがこちらの正式な装いらしい。 王の私室は、王宮の最上階にあった。巨大な樹木の幹をくり抜いて作られた廊下
エンペリアへの旅は思っていたよりも長く、そして快適だった。 馬車に揺られること十日。ルーメリア王国の東端にある国境の街を越え、獣人の国へと足を踏み入れた瞬間、私は息を呑んだ。 そこに広がっていたのは、鬱蒼と茂る深い森だった。木々は天を突くように高く、葉の間から差し込む陽光が路面に複雑な模様を描いている。空気が違う。澄んでいて、濃い。草と土と花の香りが混ざり合った、原始的な匂い。人間の国では感じたことのない、生命力に溢れた土地だった。「すごい……」 思わず声が漏れる。馬車の窓から身を乗り出すようにして、私は外の景色に見入っていた。同行している侍女のマリアが、呆れたように言う。「お嬢様、お行儀が」「だって、こんな景色、初めてなのよ。あれなに? あの木、光ってない?」「光苔ですよ。この国では、夜になるとあちこちで光るんです。まるで星が降りてきたみたいに綺麗なんですって」 マリアはこの旅のために、獣人王国のことを色々と調べてくれたらしい。頼りになる侍女だ。彼女は私より五つ年上で、物心ついた頃からずっと側にいてくれた。婚約破棄のときも、何も言わずに側にいてくれた。私にとっては、姉のような存在だ。「夜になったら、見られるかしら」「ええ、きっと。宿に着くまでに暗くなったら、見えるかもしれませんね」 私は胸を弾ませながら、窓の外に視線を戻した。こんなに心が浮き立つのは、久しぶりだった。 エンペリアの王都、ヴァルガリアに着いたのはその日の夕方だった。 獣人の王都は人間の王都とはまったく異なる姿をしていた。白い石造りの建物が整然と並ぶルーメリアの王都に対し、ヴァ
目を覚ましたとき、私は前世の記憶を持っていた。 いや、正確に言えば五歳の誕生日を迎えた朝、突然に「思い出した」のだ。自分が一度、別の世界で生きたことを。現代日本という国で、どこにでもいる会社員として働き、疲れ果てて帰宅した夜気がついたらこの世界の貴族令嬢として産声を上げていた。 だからといって何か特別な力が目覚めたわけでも、世界を変える知識があったわけでもない。ただ、幼い体に大人の意識が宿ったそれだけのこと。むしろ面倒だった。貴族社会のしきたりも、令嬢教育もすべてが窮屈で仕方なかった。 私が転生したのはこの大陸の西側に位置する人間の王国、ルーメリア王国。由緒ある伯爵家の長女、セレスティーヌ・アルヴェールとして生を受けた。 幸いだったのは家族が善良だったことだ。父も母も、弟も、温かい人たちだった。だから私は、この世界で平穏に生きていこうと決めた。特別なことは望まない。派手な社交界デビューも、権力闘争も英雄譚も、私には必要ない。ただ静かに穏やかに、日々を積み重ねていければそれでいい。 そう思っていたのに。 十八歳の春、私の平穏は音を立てて崩れ去った。 王都の社交界で、私には婚約者がいた。相手は侯爵家の嫡男、アレクシス・フォン・ラングハイム。金の髪に青い瞳、貴族の鑑のような優雅な物腰。何度か顔を合わせ、互いの家の都合で結ばれた縁だったが、私は彼を嫌いではなかった。 彼は私に、いつも優しかった。婚約者としての義務を、きちんと果たしてくれる人。それ以上を求める気持ちは、お互いにない。そういう関係だった。 だから、あの日のことは今でも鮮明に覚えている。 王宮の夜会。シャンデリアの灯りが煌めく大広間で、私は一人、壁際に立っていた。アレクシスは友人たちと談笑していて、私は手持ち無沙汰にワイングラスを傾けていた。ドレスの裾が重く、コルセットが息







