LOGIN厄介払いに、売られるのだと。
そう理解した途端、かえって頭の中は静かになった。 伯父ギルバートの執務室には、紙をめくる音ひとつない。窓の外では、聖女認定を祝う鐘が鳴っているはずだった。だが、この部屋だけは音が遠い。 ルシアは、自分の指先を見た。 朝から薬草を刻んでいたせいで、爪の端にかすかな緑が残っている。 聖女の証ではない。 貴族令嬢らしい宝石でもない。 自分に残っているのは、こういう匂いばかりだった。 「……私の薬餌が、フランキスに?」 ようやく出た声は、自分のものではないように聞こえた。 ギルバートは短く頷いた。 「正確には、お前が魔獣用に調整していた補助薬と薬餌だ。向こうは以前から継続的な輸入を求めていた。今回の取り決めには、薬餌の安定供給と技術協力の名目がつけられている」 ルシアには、すぐには呑み込めなかった。 薬餌。 そう呼ばれてはいても、彼女にとっては胸を張れるものではなかった。誰もやりたがらない仕事が、いつの間にか自分の机に積まれていただけだ。 腹の弱い一頭のために、煎じの濃さを変えた夜があった。 肉ばかりで胃を重くした個体に、消化を助ける草を選んだ朝があった。 気が立って眠れずにいた子の傍らで、匂いの強い薬をそっと遠ざけた時間もあった。 どれも、記録の隅にしか残らない仕事だった。 宮廷では、そういう扱いだった。 人に使う薬こそが本物で、魔獣の餌に混ぜるようなものは気休めにもならない。 他の薬剤師たちは、半ば本気でそう考えていた。だからこそ、その仕事はいつもルシアのもとへ回された。 「……あれは、そんなに価値のあるものではありません」 思わずそう言うと、オスカーが薄く目を細めた。 「既に薬餌の調合法は発表されているでしょう。調合法と担当者の移籍まで求めるのは、フランキス側の都合です。それでもなお、貴方自身に特別な価値があるとは思えませんけど」 その声音に、労わりはない。 「フランキスは魔獣の運用規模が大きい。些細な不調でも損失になる。だからこそ、貴方の作る薬餌のような地味なものにまで重要性を見いだしているのでしょう」 ルシアは黙った。 分からなかった。 本当に、分からなかった。 腹を壊しやすい個体には、冷やしすぎない。 肉ばかり食べて胃がもたれる個体には、消化を助ける草を混ぜる。 眠れていない時は、匂いの強すぎるものを避ける。 その程度のことだ。 しかも調合法の一部は、王宮の薬務記録にも、簡単な文献にも残してある。 ならばそれで十分ではないのか。わざわざ自分まで欲しがる意味が、どうしても分からない。 「私は……迎えられるのではなく、売られるのですね」 確認するように呟いた声に、誰もすぐには答えなかった。 沈黙が、答えだった。 ルシアは視線を落とさなかった。 ここで目を伏せたら、自分まで値札の付いた荷物のように思えてしまいそうだった。 ギルバートが告げる。 「私物はもうまとめさせてある。明日の朝、迎えが到着する。向こうでの住まいと職は用意され、お前の雇用契約は本日付で終了だ」 もうまとめさせてある。 その言葉に、ルシアはほんの一瞬だけ息を忘れた。 知らされる前から、片づけは始まっていたのだ。 「……そう、ですか」 かすれそうになる声を、なんとか整える。 婚約も。 職も。 居場所も。 すべて、彼女の知らないところで、静かに畳まれていた。 「承知しました」 それしか、言えなかった。 ◇ 執務室を出ると、廊下の空気は妙に明るかった。 遠くから、使用人たちの弾んだ声が聞こえる。 セシリアの聖女認定を祝う準備だろう。花を運ぶ者。銀器を磨く者。祝いの客を迎えるために走る者。 その華やかさの中で、ルシアだけが別の場所へ歩いているようだった。 部屋へ戻ると、私室はすでに半分ほど片づいていた。 衣装箪笥の扉が開け放たれ、棚の上の箱も下ろされている。使用人たちは必要なことだけを済ませたのか、今は誰もいない。 静かすぎる部屋だった。 まだ陽は高いのに、ここだけ日暮れのように見える。 自分の部屋だったはずなのに、もう誰かの手で“次に明け渡すための部屋”へ変えられ始めている。 ルシアはゆっくりと荷を確かめた。 記録帳。 配合を書き留めた手帳。 使い慣れた筆記具。 乾燥薬草を小分けにした包み。 着替えは最低限でいい。向こうへ行けば、今までと同じ暮らしではなくなるのだから。 棚の奥から古い木箱を下ろすと、中には試作に使った小瓶が並んでいた。 整腸用。 滋養補助。 鎮静補助。 どれも、たいしたものではない。 少なくともルシアは、そう思ってきた。 人を癒やす薬のように劇的な効果はない。セシリアの聖眼のように、誰の目にも奇跡だと分かるわけでもない。 それでも、魔獣が数日腹を壊さずにいられること。 長距離移動のあとで食を落とさないこと。 任務のあと、きちんと眠れること。 そういう小さなことの積み重ねが、明日の不調を遠ざけるのだと、ルシアは知っていた。 「……本当に、そんなものが欲しかったのかしら」 誰に向けたのでもない呟きは、静かな部屋に吸い込まれていった。 役に立ったのなら、嬉しいはずだった。 けれど、胸は少しも軽くならない。 その仕事が評価されたのは、彼女を手放す理由になった時が初めてだったからだ。 机の端には、朝のままの配合表が置かれていた。 肉食の戦闘魔獣用に油分を落とし、代わりに胃を荒らしにくい粉末薬草を少量加える。 長距離護衛に出る馬型魔獣には、移動前に腹を重くしすぎない補食を使う。 辺境巡回から戻った個体には、塩分と水分を戻しやすい煎じを薄く混ぜる。 細かい文字で、びっしりと書かれている。 こんなものを、そこまで。 そう思う一方で、胸のどこかがわずかに熱を持つ。 自分では価値がないと思っていたものを、遠い国は求めた。 その事実だけが、冷え切った心の底で小さな火種のように残った。 ◇ 日が傾く頃、ルシアは便箋を一枚取り出した。 セシリアには、会わないことに決めていた。 顔を見れば、きっと声が揺れる。 泣かせたくも、困らせたくもなかった。 書くことは多くない。 おめでとう。 体を大切に。 頑張りすぎないで。 それから――見ていてくれて、ありがとう。 何度も書き直し、最後には短い文だけが残った。 便箋を封じ、妹の名を書く。 それだけで、胸の奥が少し痛んだ。 夜が更けるまでに、荷はまとまった。 すべてを失った、とは思わないようにした。 そう思ってしまえば、たぶん足が止まる。 売られたのだとしても、うつむいて行っても仕方がない。 向こうでどんな環境が待っているのかは分からない。 お金を払ってまで自分を買い取ったのだ。きっと、並大抵の仕事ではないはずだった。 危険な場所かもしれない。 今よりずっと厳しい職場かもしれない。 それでも、自分にできることを探して進むしかない。 ルシアは昔から、そうやってここまで来たのだから。 その思いだけを胸の中で整えてから、ルシアは灯りを落とした。 ◇ 翌朝、迎えはまだ早い時間に来た。 灰色の外套を羽織った一団は、余計な挨拶をせず、必要なことだけを確かめた。フランキス王国の使者だと名乗ったが、礼儀はあっても愛想はない。 けれどその無骨さは、むしろ仕事として彼女を迎えに来たのだと分かりやすかった。 ルシアは誰にも見送られず、屋敷を出た。 振り返ったのは、門をくぐる前の一度だけだった。 朝霧の向こうにぼんやり浮かぶ屋敷は、幼い頃から知っているはずなのに、もうどこか他人の家のように見えた。 馬車は静かに揺れた。 窓の外を流れていく景色は、テレジア王国の見慣れた道のはずなのに、今日は妙によそよそしい。小さな村を抜け、街道沿いの森を過ぎ、遠くの塔が見えなくなるまで、ルシアは一度も口を開かなかった。 迎えの男たちも、必要以上の言葉をかけてこない。 それがありがたかった。 最初の休憩で馬車が止まった時、随行の男の一人が小さく頭を下げた。 「喉は渇いておりませんか。温かい湯も冷たい水も用意できます」 ルシアは少しだけ目を瞬いた。 「……大丈夫です」 「でしたら結構です。気分が悪くなった場合は、すぐにお申し付けください。休憩を延ばすことも可能です」 事務的で、丁寧だった。 それだけのことなのに、妙に戸惑った。 再び馬車が動き出してからしばらくして、今度は別の者が低い声で尋ねた。 「昼を少し過ぎます。食事をお持ちしますが、胃に負担の少ないものにいたしましょうか」 「……そこまでしていただかなくても」 「長旅で体調を崩されては困りますので」 きっぱりした返答だった。 ルシアはそれ以上何も言えず、用意された薄い粥と温かな茶を受け取った。 優しい、というより、壊れ物を扱うような丁寧さだった。 その夜、宿場町に差しかかったところで、先頭の騎手が馬車の脇へ寄った。 「このまま国境近くまで進むこともできますが、一泊なさいますか。部屋は既に押さえてあります」 「……私のために、ですか」 「はい。必要であれば、今夜は移動を切り上げます」 必要であれば。 まるで、ルシアの意思が優先されるかのような言い方だった。 そんなはずはないのに、とルシアは思う。 少なくない金を払って、自分を買い取ったのだ。 着く前に弱らせては困るのだろう。 そう考えれば、この丁寧さにも説明はついた。 「……では、お言葉に甘えます」 「承知しました」 短いやり取りだけで、また男は引き下がった。 宿では部屋も湯も整えられていた。夕食まで温かいものが出た。 それでも、ルシアの胸に残ったのは感謝より戸惑いだった。 売られた身に、どうしてここまで気を回すのだろう。 けれど考えてみれば、不思議でもない。 高く買った荷物を、道半ばで壊すわけにはいかないだけだ。 そう思えば、少しだけ息がつきやすかった。 翌朝、再び馬車が出る前にも、同じように体調を気づかう声がかかった。 そのたびに、ルシアは「大丈夫です」とだけ答えた。 その丁寧さを、信じることはまだできなかった。 ただ、それでも不快ではなかった。 昼近く、休憩のために止まった宿場で、ルシアはようやく小さく息を吐いた。 自分は本当に、国を出るのだ。 婚約を失った先に、家を失い、ついには故郷そのものまで遠ざかっていく。 胸が痛まないわけではなかった。 けれど、戻りたいと強く思えないことの方が、もっと痛かった。 ◇ 翌日の夕方、ようやく本邸へ戻ったセシリアは、真っ先にルシアの部屋へ向かった。 聖女認定の翌日も、挨拶や祈祷や顔見せが途切れることはなかった。祝いの言葉を受けるたび、胸のどこかに小さな引っかかりが残っていた。 まだ姉に何も言えていない。 せめて今日こそ、自分の口で伝えたかった。 認定されたこと。 怖かったこと。 それでも頑張れたのは、姉がいてくれたからだということ。 扉の前で、セシリアは一度だけ深呼吸した。 「お姉様?」 返事はない。 もう休んでいるのかと思い、そっと扉を押す。 軽い音を立てて開いた部屋の中は、きれいすぎるほど整っていた。 空気が、違う。 人が生活している部屋の匂いではなくなっている。 机の上に置かれた封書だけが、夕暮れの光の中で白く浮いていた。 セシリアは、その瞬間に悟った。 遅かったのだと。 震える指で封を取り上げる。 表には、見慣れた筆跡で、ただ一言。 ――セシリアへ。――テレジア王国、王城。 セシリアは、薬務室の机に広げられた記録を見つめていた。 ルシアが残していった調合記録。 新しく薬剤師たちが作った補食の配合表。 そして、ここ数日の移動用魔獣の体調記録。 並べれば、違いははっきりしていた。 同じ材料。 同じ分量。 同じ形。 けれど、結果が違う。 ルシアの補食を食べていた時、長距離移動後の魔獣たちは翌朝には食欲を戻していた。 水も飲み、腹を壊す個体も少なかった。 だが、今は違う。 食べる。歩く。けれど、戻りが遅い。 目に見える傷はない。 呪いもない。瘴気もない。 それでも、確かに弱っている。 セシリアは懐の手紙に触れかけて、指を止めた。 読み返せば、また姉の優しさに甘えてしまう気がした。今見るべきものは、机の上の記録だ。 「……お姉様は、ここで何を見つけたの」 小さく呟く。 机の端には、古い記録帳が置かれている。 ルシアの筆跡だった。 ――湿気の多い日は、乾燥薬草を半量に。 ――胃の弱い個体には蜂蜜を足さない。 ――長距離移動後、すぐに濃い補食を与えないこと。まず水。 ――よく食べる個体ほど、食後の様子を見る。食欲は健康の証とは限らない。 細かい。 あまりに細かい。 けれど、その細かさのひとつひとつが、今のセシリアには痛いほど分かった。 調合法だけではない。 姉は、【魔獣】を見ていた。 食べ方を見て、水の飲み方を見て、眠る前の姿勢まで見ていた。 だから効いていたのだ。 薬が特別だったからではない。 その子に合わせて、薬を変えていたから。 部屋の扉が開き、教会騎士が入ってきた。 セシリアの護衛を務める青年騎士だった。名はレオン。あの日、ルシアを欠陥聖女と呼んでしまった騎士でもある。 今の彼は、以前よりずっと慎重な顔をしていた。 「セシリア様。厩舎の子ですが、先ほどまた食べ残しました」 「水は?」 「飲みます。ですが、飲んだあとに首を下げます」 「補食は」 「半分ほどです」 セシリアは目を伏せた。 ルシアなら、きっとその動作を見逃さなかった。 食べ残した量だけでなく、なぜ食べ残したのかを考えただろう。 「聖眼で診ます」 「はい」 ◇ 厩舎
ヴァルミア王国へ向かう馬車は、フランキスの街道を南西へ進んでいた。 窓の外に広がる景色は、少しずつ変わっていく。 王都近郊の整えられた道を抜けると、緩やかな丘陵が続き、やがて遠くに青灰色の山並みが見え始めた。 あの山の向こうが、ヴァルミア。 ワイバーンの国。 ルシアは膝の上に開いた資料へ目を落とした。 昨夜から何度も読み返した記録だ。 ――山岳待機、七時間。 ――夜間気温、著しく低下。 ――翌朝、緊急出撃。 ――帰還後、右翼を下げ、飛行不能。 ――翼膜裂傷、治癒術にて閉鎖。 ――三日後、再発。 文字だけなら、ただの報告書だ。 けれど今のルシアには、その裏にあるものが気になって仕方がなかった。 冷えた岩場。 湿った風。 動けないまま待たされる体。 重い肉餌。 温まらない翼。 それでも命令で空へ上がるワイバーン。 まだ見てもいないのに、苦しみの輪郭だけが紙面の向こうで揺れている気がした。 「酔った?」 向かい側からマグダレナが声をかける。 白衣ではなく、今日は移動用の濃紺の外套を羽織っている。いつもの軍服めいた服装と相まって、医療施設長というより前線指揮官のようだった。 「いえ、大丈夫です」 「ならいいわ。顔が険しいから、資料に噛まれたのかと思った」 隣に座っていたノーマンが、記録板を抱えたまま真顔で頷いた。 「資料は噛みます。特に急ぎで集められた資料は、誤字と抜けで精神をガブリと……あ、施設長の視線が痛いのでここまでにしておきます」 「賢明ね」 「生存判断です」 ルシアは思わず目を瞬いた。 そのやり取りを見ていたアルベルトが、低く笑う。 今回はアルベルトも同行している。 フランキス第一王子として、同盟国ヴァルミアとの調整役を担うためだという。 「緊張しすぎなくていい。ヴァルミア側も、こちらを責めるために呼んだわけではない」 「はい」 「ただし、かなり焦ってはいるだろうね。山岳国にとって、ワイバーンは空の足だ。飛べない個体が増えれば、砦も村も孤立する」 ルシアは資料を閉じた。 「……ペガサスより、生活への影響が大きいのですか」 「地形によるわ」 マグダレナが答える。 「フランキスではペガサスもヒッポグリフもドレイクも使う。で
――フランキス王国、王立魔獣医療・保護施設。 その日の午後、ルシアは飼料庫にいた。 机の上には、乾燥薬草、砕いた穀類、甘樹脂、塩分を含む鉱石粉、水に溶けやすい整腸薬が並んでいる。 白い迎撃ペガサス用。 灰色の伝令ペガサス、リューネ用。 輸送用ヒッポグリフ用。 同じ飛行魔獣でも、必要なものは違う。 ルシアは小さな匙で薬草を量りながら、記録板に数字を書き込んでいた。 「白灯草、二匙。月露草、半匙。甘樹脂は……少しだけ」 「少しだけ、という単位は正式記録に向きません」 隣でノーマンが即座に言った。 ルシアは手を止める。 「では、四分の一匙で」 「よろしいです。記録係が泣かずに済みます」 「ノーマン様は、記録係なのですか?」 「研究員です。ですが最近、紙に埋もれる係になりました」 ノーマンは真顔で言った。 「魔獣の命と引き換えなら、紙の山くらい受け入れます。ただし、誤字は許しません」 ルシアは思わず笑いそうになった。 その時、飼料庫の扉が勢いよく開いた。 「ルシア」 入ってきたのはマグダレナだった。 いつもの白衣。肩で切り揃えた金髪。 表情は落ち着いている。けれど、目の奥が少し鋭い。 何かあったのだと、ルシアはすぐに察した。 「はい」 マグダレナは扉を押さえたまま、まっすぐにルシアを見た。 「会議室へ。ヴァルミアから報告が届いたわ」 「ヴァルミア……」 聞き慣れない国名に、ルシアは瞬きをする。 ノーマンが記録板を抱え直した。 「同盟国ですね。南西の山岳国家。ワイバーン運用が多い」 「ノーマン、説明は歩きながら」 「はい。歩く資料係になります」 マグダレナはすでに廊下へ出ていた。 ルシアは慌てて手を拭き、記録板と筆を持って後を追った。 ◇ 会議室には、アルベルトがいた。 机の上には数通の封書と、広げられた地図。 フランキスの南西に、険しい山脈を抱く国が描かれている。 ヴァルミア王国。 ルシアは地図の上に並ぶ山の記号を見つめた。 フランキスとは違う。 平原より山が多い。 街道は谷間を縫うように伸び、国境付近には砦の印がいくつもある。 「来たね」 アルベルトが顔を上げた。 いつもの穏やかな声だったが、机の上の書類
――テレジア王国、王都。 ルシアが屋敷を去ってから、七日が過ぎていた。 セシリアの毎日は、相変わらず忙しかった。 朝は神殿で祈りを捧げ、昼には貴族家の訪問を受け、午後には王城へ呼ばれる。夕刻には教会関係者との面会が入り、夜には聖女として覚えるべき儀礼や記録に目を通す。 誰もが、セシリアを丁寧に扱った。 銀の聖眼を持つ、正統な聖女。 傷を癒やし、呪いを祓う、アージェント家の誇り。 そう呼ばれるたび、胸がかすかに冷えた。 誇り。 その言葉の隣に、本当ならもう一人いるはずだった人の名前を、誰も口にしない。 ルシアの部屋に残されていた手紙は、今もセシリアの懐に入っている。 何度も読み返したせいで、封の折り目は少し柔らかくなっていた。 紙の端には、セシリアの指が無意識に触れた跡が残っている。 短い手紙だった。 けれど、その短さが余計に苦しかった。 姉は、何も責めなかった。 何も求めなかった。 ただ、セシリアを祝福して、去っていった。 それが、ずっと胸に引っかかっている。 「セシリア様」 呼びかけられて、セシリアは顔を上げた。 王城の裏手にある魔獣厩舎。 そこには、貴族や教会関係者の移動に使われる馬型魔獣たちが並んでいる。 今日は、神殿騎士団の移動用魔獣の一頭が体調を崩したと聞き、セシリアが呼ばれていた。 銀の聖眼を持つ者なら、傷や呪いの有無をすぐに見分けられる。 そう言われて。 「この子です」 教会騎士が手綱を引き、栗色の馬型魔獣を示した。 以前、セシリアが乗ったことのある子だった。 ルシアの補食を食べて、朝から走っても元気だった、あの子だ。 けれど今は、耳が伏せ気味で、首も低い。脚に大きな傷はない。だが、どこか覇気がなかった。 「昨日から食が細く、今朝もあまり食べませんでした。歩けはしますが、長く走らせると息が乱れます」 「怪我は?」 「ありません。少なくとも見える範囲では」 セシリアはそっと魔獣の額に触れた。 銀の聖眼が、静かに光を帯びる。 見えるのは、表面の傷。 流れ込む瘴気。 呪いの痕跡。 骨や筋を裂くような損傷。 けれど、どこにもそれはなかった。 傷はない。 呪いもない。 瘴気もない。 なら、聖眼で
五日後。 劇的に治った魔獣は、まだ一頭もいなかった。 迎撃部隊の白いペガサスは、まだ長く飛べない。 伝令部隊のリューネも、まだ任務復帰には遠い。 輸送用のヒッポグリフたちも、脚や翼の疲労を完全に抜けたわけではない。 それでも、王立魔獣医療・保護施設の朝は、五日前とは確かに違っていた。 檻を叩く音が減った。 水桶の前で迷う時間が短くなった。 夜間の記録に、「浅い眠り」ではなく「短時間だが深く眠った」という文字が増えた。 奇跡ではない。 快癒でもない。 けれど、悪化の速度は確かに落ち始めていた。「今の状態を言うわ」 記録室の中央で、マグダレナが紙束を机に置いた。「治ってはいない。でも、崩れ続ける流れは止まりかけている」 ノーマンが横から記録板を掲げる。「水分摂取量、重症三頭のうち二頭で微増。睡眠記録、伝令部隊の軽症個体五頭中三頭で改善傾向。食欲は…… まあ、まだ渋いです。魔獣も人間も胃が痛い時は機嫌が悪い」「余計な一言は?」「反省中です」「よろしい」 淡々としたやり取りに、会議室の空気が少しだけ緩んだ。 ルシアは記録を一枚ずつ見比べていた。 水を飲んだ量。 餌に口をつけた回数。 翼の震えが出た時間。 装具を見た時の反応。 夜に体を横たえられたかどうか。 どれも小さな数字だ。 テレジアの宮廷なら、たぶん笑われていた。 そんなものを数えて何になる、と。 けれど今、この小さな数字の積み重ねが、命を処分から一歩遠ざけている。「白いペガサスは?」 マグダレナが尋ねる。 ルシアは該当する記録を引き寄せた。「まだ胃の痛みは残っています。ですが、水を飲んだあとに首を振る回数が減りました。餌も、昨日はようやく口をつけました。一口だけですが」「一口」 ノーマンが小さく拳を握る。「地味に嬉しいですね」「地味ですが、大きいです」 ルシアは真面目に頷いた。「この子にとっては、食べてもすぐ痛くならないという経験を積み直している段階です。急に量を増やすと、また食べることが痛みと結びついてしまいます」「なら、一口で勝ちか」「昨日のところは。今朝はこれから診ます」「記録します。一口、勝ち」「ノーマン」「正式記録には書きません」 マグダレナに睨まれ、ノーマンは素早く言い直した。 その時、マグダレナが紙束をめ
「この国のやり方そのものが、魔獣たちを少しずつ追い詰めています」 ルシアの言葉が落ちたあと、記録室にはしばらく誰の声もなかった。 責めるつもりで言ったわけではない。 けれど、言葉にした瞬間、その重さが部屋の中へ広がっていくのが分かった。 ベルンは固い顔で配合表を見つめていた。 ノーマンは記録板を抱えたまま、珍しく何も言わない。 マグダレナは腕を組み、地図と報告書を交互に見下ろしている。 最初に口を開いたのは、アルベルトだった。「ルシア殿。確認したい」 その声は穏やかだった。 けれど、王族として何かを決めようとしている声でもあった。「飛翔用標準配合を止めれば、すぐに魔獣たちは回復するのか」「いいえ」 ルシアは首を振った。「すぐには難しいと思います。胃を痛めている子には、まず負担を減らす必要があります。眠れていない子には、休ませ方を変える必要があります。食べ物を変えるだけでは足りません」「なら、何から変えるべきだ」 問われて、ルシアは一度だけ目を閉じた。 昨日見たペガサスの苦しみが、胸の奥によみがえる。 焼けつく胃の痛み。 空腹のまま張りつめていた待機時間。 装具の音と結びついた恐怖。 水を飲むことすらためらうほどの不快感。「まず、重症の子には飛翔用標準配合を止めてください。少なくとも、今のまま与え続けるのは危険です」 ルシアは配合表の横に、白紙を引き寄せた。「胃を守る薬草を混ぜた柔らかい餌に切り替えます。量は少しずつ。水には薄い整腸薬を。香りが強いものは避けてください。興奮を高める香草も、今は抜いた方がいいです」「飛行任務は?」 アルベルトが問う。「飛行前の長い絶食は見直すべきです。空腹のまま待機させる時間を減らしてください。任務後はすぐに装具を外し、水分と補助薬を入れて、静かな場所で休ませる必要があります」 ベルンが低く唸った。「だが、飛行前に腹を満たせば、体が重くなる。事故につながる。昔からそう教えられてきた」「満たす必要はありません」 ルシアは静かに答えた。「腹を空にしすぎないだけです。飛ぶために軽くすることと、痛むほど空腹にすることは違います」 ベルンは、返す言葉を探すように唇を結んだ。 マグダレナが机を指で軽く叩いた。その手が、報告書の束の上で止まる。「施設内の重症個体で試験する」「施







