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婚約破棄され売られた欠陥聖女は、隣の大国で『魔獣の聖女』と呼ばれることになった
婚約破棄され売られた欠陥聖女は、隣の大国で『魔獣の聖女』と呼ばれることになった
Author: 一十一

第1話 売られた欠陥聖女①

Author: 一十一
last update Petsa ng paglalathala: 2026-07-08 11:18:16

「本日をもって、オスカー・ヴァーダンド殿との婚約は解消される」

 伯父ギルバートの声は、驚くほど平坦だった。

 叱責でもない。

 慰めでもない。

 ただ、決定済みの書類を読み上げるような声。

 ルシア・アージェントは、執務室の中央で静かに立っていた。

 窓の外では、春の光が庭木を明るく照らしている。けれど室内の空気だけは、別の季節に取り残されたように冷えていた。重厚な机の向こうにギルバートが座り、その斜め後ろにはオスカーが立っている。

 婚約者だった人。

 いいえ、今まさに、元婚約者になった人。

 オスカーは少しも動揺していなかった。公爵家の子息らしい整った身なり。乱れのない姿勢。感情を読み取らせない瞳。

 その態度を見て、ルシアは理解した。

 これは今、思いつきで告げられたことではない。

 ずっと前から決まっていたのだ。

「……はい」

 返事をした声は、自分でも意外なほど静かだった。

 今日がセシリアの聖女認定の日であること。

 こんな日に限って、宮廷の仕事を終えた直後に本邸へ呼び戻されたこと。

 廊下で使用人たちが目を合わせようとしなかったこと。

 すべて、今の言葉につながっていた。

 だから、驚きは遅れてこなかった。

 胸の奥に、ただ冷たいものが沈んでいくだけだった。

「本日の認定によって、セシリアは正式な聖女となる」

 ギルバートは続けた。

「アージェント家は、代々聖女を輩出してきた家だ。公爵家との縁は今後も必要となる。だが、聖女となったのがセシリアである以上、婚約相手としてふさわしいのは、もはやお前ではない」

 もはや。

 その一言が、妙にはっきり耳に残った。

 ルシアは、聖眼を持たなかった。

 聖女の家に生まれながら、傷を癒やし、呪いを祓う銀の聖眼を持たなかった。だから幼い頃から、欠陥聖女と呼ばれてきた。

 事故で両親を失い、伯父の家に引き取られてからは、迷惑をかけないよう必死に学んだ。聖女になれないなら、せめて役に立つ人間になろうと思った。

 薬草の性質を覚え、調合を学び、狭き門をくぐって王室付薬剤師になった。

 その時、王妃エレオノーラが書いてくれた推薦状だけは、宮廷でのルシアにとって小さな支えだった。以前、王家の馬型魔獣の不調を診た時、誰も見なかった食べ方と水の飲み方を拾ったことを、王妃だけは覚えていてくれたのだ。

 けれど、宮廷で与えられた仕事の多くは、人のための薬ではなかった。

 魔獣の餌。

 魔獣の腹具合。

 魔獣舎の薬草。

 騎士たちが乗る戦闘魔獣や移動用魔獣の、地味な補食と体調管理。

 誰もやりたがらない仕事だった。

 徹夜で調合した薬餌によって魔獣の体調が戻っても、記録にルシアの名が残ることはほとんどなかった。

「誰でもできる雑務」と呼ばれた仕事だけが、いつの間にか彼女の机に積まれていった。

 それでも、ルシアは続けた。

 このところ、テレジア王国では辺境の開拓政策が急がれていた。森を切り開き、街道を広げ、鉱山を増やす。その影響で棲み処を追われた野生魔獣が街道近くへ現れ、宮廷の魔獣たちは護衛や巡回に駆り出される回数が増えていた。

 疲れやすくなった個体。

 腹を壊す個体。

 眠れず、気が立つ個体。

 ルシアはそういう変化を、ひとつずつ記録してきた。

 誰かが気づく前に、少しでも崩れを止めたかった。

 それでも、聖女の価値には届かない。

 その事実だけは、ルシア自身が誰よりよく知っていた。

「ルシア」

 オスカーが口を開いた。

「これは家と国のための判断だ。君も理解してくれるだろう」

 理解。

 その言葉に、ルシアは心の中だけで小さく息を吐いた。

 理解はできる。

 セシリアが選ばれることも。

 セシリアがこの国に必要な聖女であることも。

 たぶん、誰よりルシア自身が知っている。

 妹は、姉を踏みつけて聖女になったのではない。

 セシリアは昔から、不器用なくらい真っ直ぐだった。薬草園で泥だらけになっているルシアを見つけては、こっそり手伝ってくれた。魔獣用の補食がうまくいった時には、自分のことのように喜んでくれた。

 ――お姉様は、ちゃんとすごいのよ。

 幼いセシリアが、誰もいない廊下でそう言ってくれた日のことを、ルシアは今でも覚えている。

 だから、責められない。

 セシリアは奪ったのではない。

 ただ、選ばれただけだ。

「……セシリアに」

 ルシアは、喉の奥に引っかかるものを飲み込んだ。

「おめでとうございます、と。そう、お伝えください」

 一瞬だけ、ギルバートの眉が動いた。

 オスカーは何も言わなかった。

 執務室に、短い沈黙が落ちる。

 その沈黙を破ったのは、ギルバートだった。

「それから、もうひとつある」

 もうひとつ。

 婚約破棄だけでは終わらないのだと、その言葉で分かった。

 ルシアは知らず、重ねた指先に力を込めていた。

「お前は、フランキス王国へ行くことが決まった」

 意味を理解するまで、一拍かかった。

 フランキス王国。

 大陸中央に広がる大国。

 魔獣と共に生き、魔獣によって国境を守る国。

 他国からは、魔獣番の国とも呼ばれている。

 どうして、その国の名が今ここで出るのか。

「……フランキスへ、ですか」

「そうだ」

 ギルバートは書類へ視線を落とす。

「向こうは以前から、お前が調製していた魔獣用の薬餌と補助薬に関心を示していた。継続的な輸入の打診もあった」

 ルシアは黙って聞いていた。

 薬餌。

 そう呼ぶほど、大げさなものではない。

 胃腸の弱い個体に、少しだけ薬草を混ぜる。

 肉食魔獣の回復食に、滋養の強い粉末を足す。

 長距離移動の前後に、腹を壊しにくい補食を与える。

 食べているものに、ほんの少し調味料を足すような感覚だった。

 傷を塞ぐわけでもない。

 呪いを祓うわけでもない。

 誰の目にも奇跡だと分かるものではない。

「先方は、お前ごと引き取ることを望んでいる」

 ギルバートの声は変わらない。

「すでに話はまとまっている。向こうでの住まいと職も用意される」

「私の意思は」

 聞き返してから、ルシアはその問いが無意味だと悟った。

 ギルバートは答えなかった。

 オスカーが代わりに口を開く。

「悪い話ではないだろう。君の薬餌の調合法はすでに文献にも記録にも残っている。それでもなお欲しがるほど、フランキスは魔獣運用に困っているということだ」

 その声音に、労わりはない。

 ただ、損得を説明する冷たさだけがあった。

「君にとっても、役に立てる場所へ行けるのなら悪くないはずだ」

 役に立てる場所。

 その言葉が、不思議なほど遠く聞こえた。

 もし本当にそうなら、少しは喜べたのかもしれない。

 けれど、この場で交わされているのは雇用の相談ではない。

 婚約を破棄したあと、不要になった娘を他国へ渡すための取り決めだ。

 ルシアは、その時ようやく理解した。

 自分は隣国へ迎えられるのではない。

 家にも、婚約にも、宮廷にも残す価値のないものとして。

 厄介払いに、売られるのだと。

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