LOGIN植物園へ行った翌日、綾香は母の遺品を整理していた。
最近は久世や理央との繋がりばかりを探していたせいで、手帳を開いても、つい怪しい名前や数字に目が向いてしまう。
けれど、その日はページの間から一枚の押し花が落ちた。
「あ……」
小さな青い花だった。
長い年月が経って色は褪せている。それでも、綾香には見覚えがあった。
幼い頃、庭に咲いていた花だ。
その瞬間、遠い記憶が蘇った。
まだ母が元気だった頃。
庭で遊んでいた綾香は、綺麗に咲いていた花を見つけ、母のところまで走っていった。
『お母様、見て!』
『まあ、綺麗ね』
『お母様にあげる』
小さな手で差し出した花を、母は嬉しそうに受け取ってくれた。
『せっかくだから、残しておきましょうか』
『残せるの?』
『押し花にすればね』
そう言って笑った母の顔を、
土曜日の昼。 待ち合わせ場所に現れた遥臣は、綾香を見るなり言った。「行くか」「ちょっと待って」「何だ」「結局、今日はどこへ行くの?」 遥臣は数日前から行き先を教えてくれなかった。「特に決めてない」「……決めるって言ってなかった?」「考えた」「それで?」「たまには何も決めなくてもいいかと思った」 予想外の答えに、綾香は目を瞬いた。「遥臣らしくないわね」「そうか?」「もっと予定をきっちり決める人だと思ってた」「仕事じゃないんだから、別にいいだろ」 そう言われれば、その通りだった。「じゃあ、どうする?」「とりあえず飯」「それは決まってるのね」「昼だからな」 二人で歩き始める。 遥臣が選んだのは、駅から少し離れた洋食店だった。 昼食を取りながら、このあとどうするかを相談する。「買い物でもする?」「欲しいものあるのか」「特にはないけど」「じゃあ何買うんだ」「見るだけでも楽しいでしょう?」「そういうもんか」「そういうものよ」 食事を終え、近くの商業施設を歩くことになった。 服を見たり、雑貨店を覗いたり。 何か目的があるわけではない。 遥臣は自分から店へ入ろうとはしなかったが、綾香が足を止めれば黙って付き合った。「これ、可愛くない?」 雑貨店で小さな猫の置物を手に取る。「猫だな」「見れば分かるわよ」「可愛いかどうか聞かれても困る」「遥臣って本当にこういうところ駄目ね」「何が正解なんだ」「可愛いって言えばいいの」「じゃあ可愛い」「適当すぎる
父が戻ってきてから、御影家には以前の日常が戻りつつあった。 ただし、以前とまったく同じというわけではない。「お父様、それ何杯目?」「二杯目だよ」「本当に?」「橘に聞いてみればいい」 朝食の席でコーヒーを飲もうとする父を、綾香は疑いの目で見る。「綾香、お前は私を何だと思ってるんだ」「放っておくと無理する人」「否定できないな」 父が苦笑した。 薬については、退院後に改めて医師から説明を受けている。食事との組み合わせにも注意し、橘にも確認してもらうようにしていた。 それでも綾香は、つい気になってしまう。「今日は会社へ行くの?」「ああ。ただし午前中だけだ」「本当に午前中だけ?」「今日は信用がないな」「今日も、でしょう?」 父が声を上げて笑った。 その笑い声を聞きながら、綾香は少しだけ安心する。 こういう朝が、ずっと続けばいい。 以前なら、それを当然だと思っていた。 今は違う。 失ってしまった時間を知っているからこそ、何でもない朝が大切だった。◇◆◇ 父を送り出したあと、綾香は自室へ戻った。 机の上には、宮原からもらった写真が置いてある。 その中から、父と母が一緒に写っている一枚を手に取った。 若い二人は、今の自分とそれほど年齢が変わらない。 母は父の腕を掴み、父は少し困ったように笑っている。「お父様、昔からこういう顔してたのね」 思わず笑ってしまった。 写真を戻したところで、スマートフォンが震える。 遥臣からだった。『親父さん戻ったか』『戻ったわ。元気そうよ』『そうか』『今朝から仕事に行ったけど』 しばらくして返信が来る。『早いな』『でし
父が北海道から戻ってきたのは、それから数日後だった。「お帰りなさい、お父様」「ただいま」 玄関で迎えた綾香は、まず父の顔色を確認した。 以前よりずっといい。少し痩せたようにも見えるが、足取りもしっかりしている。「そんなに見なくても元気だよ」「本当に?」「ああ。向こうではよく食べて、よく寝た」「それならいいけど」 父は苦笑しながら荷物を橘に任せた。「今日は仕事しないでね」「帰ってきたばかりなんだから、さすがにしないよ」「明日もほどほどにして」「はいはい」「返事が軽いわ」 そんなやり取りさえ、久しぶりだった。◇◆◇ 夕食後、綾香は父の部屋を訪ねた。「お父様、ちょっといい?」「ああ」 綾香は持ってきた封筒から、宮原にもらった写真を取り出した。「これ、見て」 父は一枚目を見た途端、目を見開いた。「懐かしいな」「宮原佳代さんからいただいたの」「宮原さん?」「知ってる?」「もちろん。お母さんの昔からの友人だろう」 父は写真を一枚ずつ眺めていく。 若い母の写真を見るたび、懐かしそうに目を細めた。「お母様、昔はよく喋って、よく笑う人だったんですって」「昔は、じゃないよ」「え?」「家でもそうだっただろう」「私の記憶だと、もう少し穏やかだった気がするけど」「綾香の前では母親だったからな」 父が笑う。「二人きりになると、結構よく喋ってたよ」「そうなの?」「ああ。私が聞いてなくても喋ってた」「それ、怒られない?」「本人がいないから大丈夫だ」 父の口調がおかしくて、綾香も笑った。 こんなふうに母の話をするのは
家に着くと、綾香は遥臣へ短いメッセージを送った。『着いたわ』 すぐに既読がつく。『分かった』 それだけだった。 いつもと変わらないやり取りなのに、今夜は少し違って感じる。 綾香はベッドへ腰を下ろし、自分の右手を見た。 遥臣と手を繋いだ手。 もう温もりなど残っているはずもないのに、思い出すだけで胸が騒がしくなる。 人混みではぐれないため。 最初は、そうだった。 けれど遥臣は途中で気づいていた。それでも駅まで手を離さなかった。(あれって……どういう意味なの?) 考えても答えは出ない。 ただ一つだけ分かっている。 自分たちの関係は、少しずつ変わっている。 以前のように、昔からの知り合いというだけでは説明できなくなっていた。 スマートフォンが震えた。『来週、土曜と日曜どっち空いてる』 綾香は思わず笑う。 ついさっき別れたばかりなのに、もう次の予定を決めようとしている。『どっちも空いてるわ』『じゃあ土曜』『どこに行くの?』『まだ決めてない』『決めてから誘ってよ』『会う日だけ決めればいいだろ』 その言葉に、指が止まった。 どこへ行くかではなく、自分と会うことが先に決まっている。『そうね』 それだけ返した。 これ以上何か書いたら、嬉しいという気持ちがそのまま伝わってしまいそうだった。◇◆◇ 翌朝。 朝食を終えた綾香は、父へ電話をかけた。『もうそろそろ戻ろうと思ってる』 父の言葉に、綾香は表情を引き締めた。「体調は?」『もう問題ないよ。こっちに来てから一度も具合は悪くなってない』「だからって、無理はしないでね」『分かってる』「お仕事も、いきなり元通りにしないで」『それは難しいな』「お父様」『冗談だよ』 父が笑う。 声を聞く限り、本当に体調は良さそうだった。「いつ戻るの?」『今のところ、来週の半ばを考えてる』「分かったわ」 通話を終えたあと、綾香はしばらく考えた。 父が戻ってくる。 嬉しい。 けれど同時に、今まで以上に注意しなければならない。 前回倒れた原因については、薬の相互作用だった可能性が高い。それでも、なぜあのタイミングで起きたのかまで、すべて分かったわけではない。 だからといって、父をいつまでも遠ざけておくこともできない。「焦らないことね」 自分に言い聞かせ
食事を終えて店を出ると、辺りはすっかり暗くなっていた。「今日は電車?」 遥臣に聞かれ、綾香は頷いた。「ええ。ここなら乗り換えも少ないから」「じゃあ駅まで送る」「すぐそこよ?」「知ってる」 二人で並んで歩き始める。 休日の夜ということもあり、駅へ向かう道は人が多かった。「次はどこにしようかしら」「さっきもその話してただろ」「まだ決まってないじゃない」「そんなに早く決めたいのか」「楽しみは早く決まってた方がいいでしょう?」「そういうもんか」「そういうものよ」 話しているうちに、向こうから大勢の人が歩いてきた。 綾香は避けようと端へ寄る。 その時、後ろから急いで歩いてきた男性が、綾香の肩へぶつかった。「きゃっ」 身体がよろける。 倒れるほどではなかった。 けれど次の瞬間、遥臣に手を掴まれていた。「大丈夫か」「え、ええ」 遥臣はぶつかった男を睨むように見たが、相手は気づかず人混みへ消えていった。「危ないな」「ちょっとぶつかっただけよ」「転んだらどうする」「転んでないでしょう?」「結果論だろ」 相変わらず心配性だ。 そう思ったところで、綾香は気づいた。 遥臣がまだ手を離していない。 腕ではない。 手のひら同士が重なっている。 綾香の心臓が一気に速くなった。「……遥臣」「何だ」「手」 遥臣が視線を落とした。 ようやく気づいたらしい。「ああ」 けれど、すぐには離さなかった。 綾香は遥臣を見る。 遥臣もこちらを見た。 ほんの
日曜日。 待ち合わせ場所へ着くと、遥臣はすでにそこにいた。「早いわね」「お前もな」「今日は迎えに来ないのね」「映画館で待ち合わせた方が早いだろ」「そうだけど」 少しだけ残念に思ってしまった自分に、綾香は苦笑する。「何だ」「何でもないわ。行きましょう」 今日見るのは、遥臣が選んだ海外のサスペンス映画だった。「こういうのが好きなの?」「割と」「怖くない?」「ホラーじゃない」「人がたくさん死ぬみたいだけど」「大丈夫だろ」「私の心配?」「苦手なら別のにする」「大丈夫よ。遥臣が見たいものにするって約束したでしょう?」 そう言うと、遥臣は少しだけ口元を緩めた。「じゃあ行くか」◇◆◇ 上映が始まると、綾香はすぐに物語へ引き込まれた。 予想していたより面白い。 ただ、一つだけ困ったことがあった。 遥臣が隣にいる。 それ自体は今までと変わらない。 けれど映画館の座席は、二人で歩いている時よりずっと近かった。 肘掛けに手を置こうとして、遥臣の手が視界に入る。 綾香はそっと自分の手を膝へ戻した。(何を意識してるのよ) 映画を見に来たのだ。 遥臣の手を見るためではない。 スクリーンへ集中する。 しばらくすると、物語の中で大きな音が響いた。「……っ」 予想していなかった綾香は、わずかに肩を跳ねさせた。 その瞬間。 隣から伸びてきた遥臣の手が、綾香の腕へ軽く触れた。「大丈夫か」 小さな声だった。「大丈夫よ」「そうか」 遥臣はすぐに手を離した。 たったそ







