Masuk帰宅してからも、遥臣の言葉が頭に残っていた。『嫌なら嫌でいいだろ』『理由がいるのか』 綾香は自室の椅子に腰を下ろし、小さく息を吐いた。(理由……) これまで、そんなふうに考えたことがなかった。 理央が心配してくれる。 理央が自分のためにしてくれる。 だから、それを嫌がってはいけないと思っていた。 前世でも。 きっと、ずっと。 綾香は机の引き出しを開ける。 中には、母の机から見つけた古い鍵。 そして『もしもの時は、九条先生に』と書かれた紙。 今日は結局、九条先生に会わなかった。 けれど、それでよかったと思う。 理央に病院まで送られた直後に会うのは、どうしても気になった。(次は、一人で行こう) 綾香は紙を封筒へ戻し、引き出しにしまった。◇◆◇ 夕食を終え、部屋へ戻ろうとした時だった。「綾香」 後ろから呼ばれ、足を止める。 理央だった。「何?」「今日、九条先生と何してたの?」 綾香は眉を寄せた。「どうして?」「いや、ちょっと気になって」「食事しただけよ」「食事?」「ええ」 嘘ではない。「二人で?」「そうだけど」 理央の表情がわずかに曇った。「ずいぶん仲いいんだね」「昔から知ってるもの」「それは知ってるけど」 理央は少し黙った。「最近、よく会ってない?」 まただ。 どこへ行ったのか。 何をしたのか。 誰と会ったのか。 綾香は昼間の遥臣の言葉を思い出す。「理央」「何?」「私が誰と会って、
遥臣のあとを追いながら、綾香は首を傾げた。「付き合うって、どこに?」「腹減ってないか」「え?」「昼、まだだろ」 言われて時計を見る。 理央のことばかり気にしていて、昼食のことなどすっかり忘れていた。「……食べてない」「じゃあ行くぞ」「九条先生、仕事は?」「休憩中だ」 遥臣はそれだけ言って歩いていく。 病院を出ると、向かったのはすぐ近くにある小さなカフェだった。 店内は昼の混雑が落ち着いた頃で、空席も多い。 二人は窓際の席へ案内された。「何にする」「ちょっと待って。まだ見てない」「遅い」「入ったばっかりでしょう?」 綾香が睨むと、遥臣は何も言わずメニューへ視線を戻した。(ほんと、昔からこうだった気がする) 少しだけ懐かしくなる。 料理を注文すると、綾香は水のグラスへ手を伸ばした。「でも、本当にごめんね」「何が」「今日のことよ。急に話を合わせてなんて頼んで」「ああ」「迷惑だったでしょう?」「別に」 遥臣は水を一口飲む。「困ってたんだろ」 綾香は指を止めた。「……どうして分かったの?」「普通は、約束してない相手に約束してたことにしてくれなんて言わない」「それはそうだけど」 思わず苦笑する。 遥臣はそれ以上、理由を尋ねなかった。 やがて料理が運ばれてくる。 綾香がフォークを手に取ったところで、遥臣がふと口を開いた。「送ってきたの、橘理央だろ」「ええ」「最近よく会うな」「同じ家にいるんだから、仕方ないでしょう」「まだいるのか」
翌日の午後。 綾香は出かける支度を整え、玄関へ向かった。 遥臣から、父親の都合がついたと連絡があったのだ。 今日なら少し時間を取れるらしい。(ようやく、聞ける) 母が残した『もしもの時は、九条先生に』という言葉。 その意味が分かるかもしれない。 バッグを手に玄関へ向かった、その時だった。「綾香?」 聞き慣れた声に、足が止まる。 振り返ると、理央が立っていた。「出かけるの?」「ええ」「どこへ?」「ちょっと用事があるの」「そうなんだ」 理央は何気ない様子で答えた。「俺もちょうど出るところだから、送るよ」「いいわ。一人で行けるから」「遠慮しなくていいよ」「遠慮じゃないの」 綾香が断っても、理央は引かなかった。「電車で行くんだろ? 車の方が楽だよ」「でも――」「どこまで?」 綾香は答えに詰まった。 九条先生に会いに行く。 それだけは知られたくない。「……遥臣と約束してるの」 とっさに口から出た。 理央がわずかに目を見開く。「九条先生と?」「ええ」「二人で?」「そうよ」「何の約束?」 まただ。 ただの会話にも聞こえる。 けれど、以前ならこんなに細かく聞かれていただろうか。「ちょっとした用事よ」「じゃあ、待ち合わせ場所まで送るよ」「……」「いいだろ?」 ここで強く拒めば、かえって怪しまれるかもしれない。「分かったわ」 綾香は頷いた。「お願い」◇◆◇ 理央の車が走
『もしもの時は、九条先生に』 綾香は何度もその文字を読み返した。 間違いなく母の字だ。(九条先生って……誰のこと?) 九条家と御影家の付き合いは長い。 今は遥臣が父の主治医を務めているけれど、その前は遥臣の父が御影家を診ていたはずだ。 三年前なら、母が「九条先生」と呼んでいたのは遥臣の父かもしれない。 けれど、これだけでは分からない。 何より気になるのは、その前の言葉だった。『もしもの時』 母は、何を想定してこんな言葉を残したのだろう。 病気のこと? それとも――。 綾香は紙を裏返した。 何も書かれていない。「これだけ……?」 誰に何を頼めばいいのかすら分からない。 けれど、母がわざわざ隠していた以上、意味のない言葉とも思えなかった。(遥臣なら、何か知ってるかしら) 九条家に関することなら、尋ねる相手としては一番自然だ。 けれど。 綾香は昨夜の理央を思い出した。 誰かが木箱を探している。 もし、この紙の存在まで知られたら。(……持ち出そう) ここへ置いたままにはできない。 綾香は紙を丁寧に折り畳み、ポケットへしまった。 外した背板を元に戻し、箱もできるだけ以前と同じ位置へ戻す。 そして、何も見つけていないように屋根裏部屋をあとにした。◇◆◇ 自室へ戻った綾香は、スマートフォンを手に取った。 遥臣の名前を表示する。 電話をかけようとして、指が止まる。(何て聞けばいいの?) しばらく迷ってから、綾香は短いメッセージを送った。『少し聞きたいことがあるの。時間ある?』 送信。 数分もしないうちに返事が来た
翌朝。 綾香は朝食をとりながら、何度も理央のことを考えていた。 昨夜、理央は屋根裏部屋で何を探していたのだろう。 母の木箱。 隠されていた鍵。 中身だけなくなっていた封筒。 すべてが関係しているようにも思える。 けれど、今はまだ想像でしかない。「綾香?」 父に呼ばれ、綾香は顔を上げた。「どうした? ぼんやりして」「ごめんなさい。少し寝不足なの」「夜更かしでもしたのか?」「ちょっと考え事をしてたら眠れなくなっちゃって」 嘘ではない。 父は心配そうに綾香を見る。「今日は家でゆっくりしていなさい」「ええ、そうするわ」 ちょうどいい。 今日は会社へ行くつもりもなかった。 理央がいないうちに、もう一度屋根裏部屋を調べたかった。◇◆◇ 父を見送ってからしばらく待ち、綾香は屋根裏部屋へ向かった。 念のため、廊下に誰もいないことを確認する。 扉を開け、明かりをつけた。 昨夜と変わらない光景。 けれど今日は、目的がある。(理央が触っていたところから見てみよう) 棚の前へ向かう。 昨夜動かされていた箱を床へ下ろした。 中には母の小物や古い手帳が入っている。 一つずつ取り出していく。 けれど、木箱はない。 次の箱。 その隣。 棚の奥。 時間をかけて確認していく。「やっぱり、ない……」 家政婦の記憶違いなのだろうか。 それとも、母が生前に別の場所へ移したのか。 綾香は立ち上がろうとして、ふと棚の奥に目を留めた。「……何かしら」 箱をどけたことで、棚の背板が見えている。
足音が、一段ずつ近づいてくる。 綾香は息を呑んだ。(どうしよう……) 理央が戻ってきたのだろうか。 こんなところで見つかったら、何をしていたのか聞かれる。 屋根裏部屋に来ること自体はおかしくない。 ここにあるのは母の遺品なのだから。 けれど、今は夜中だ。 しかも理央が出ていった直後に、自分までここにいる。 綾香は慌てて開いていた箱を閉じた。 その時、扉が開く。「……お嬢様?」 現れたのは橘だった。「橘……」 思わず安堵しかけて、綾香はすぐに表情を引き締めた。 橘は屋根裏部屋を見回し、それから綾香を見る。「こんな時間に、どうされたのですか?」「眠れなくて。お母様のものを少し見たくなったの」「そうでしたか」 橘はそれ以上追及しなかった。 けれど綾香には、別のことが気になった。「橘こそ、どうしてここに?」「先ほど、この辺りで物音がしましたので、念のため確認に参りました」「物音?」「ええ」 橘は辺りを見回す。「物音を立てていらしたのは、お嬢様ですか?」 綾香は一瞬、答えに迷った。「……そうかもしれないわ。さっき箱を動かしたから」「そうでしたか」 橘は静かに頷く。 それだけだった。 けれど綾香の胸はざわついていた。(橘が聞いたのは、本当に私の音?) 自分がここへ来る前。 理央も箱を動かしていた。 橘が聞いたのが、その時の音だった可能性もある。 それなら橘は、理央がここにいたことを知らないのだろうか。 それとも――。 知っていて、自分に確認している







