LOGIN翌朝。
綾香は父と共に朝食を取っていた。
昨夜から、薬のことが頭から離れない。
本当に医師の処方なのか。
それとも――。
「どうした?」
父が不思議そうに尋ねる。
「何でもないわ」
綾香は微笑んだ。
食事を終えた父が薬を飲もうとした瞬間、綾香はわざとグラスへ手をぶつけた。
「あっ」
水がこぼれる。
薬も一緒に床へ散らばった。
「申し訳ありません!」
橘恒一郎が慌てて駆け寄ってくる。
「綾香お嬢様、お怪我は」
「大丈夫よ」
綾香も急いでしゃがみ込んだ。
散らばった薬を拾い集める。
その中から一粒だけ、誰にも気づかれないようハンカチへ包み込んだ。
橘は回収した薬を確認すると、
「新しいものをご用意いたします」
と言って薬箱を持ち去っていく。
綾香は密かに安堵した。
これで調べられる。
◇◆◇
昼過ぎ。
綾香は九条総合病院を訪れていた。
御影家と長年付き合いのある総合病院。
幼い頃から何度も来ている場所だ。
それなのに今日は妙に落ち着かなかった。
誰かに見られている気がする。
昨夜からずっと。
振り返っても誰もいない。
けれど視線だけがまとわりついてくる。
(気のせいじゃない)
綾香はバッグを握り締めた。
病院の受付を通り過ぎようとした時だった。
「綾香?」
低い声がした。
綾香は振り返る。
そこには白衣姿の男が立っていた。
整った顔立ち。
切れ長の目。
感情を簡単には読ませない冷静な視線。
九条遥臣。
九条総合病院の院長の息子であり、自身も医師として働いている男だ。
海外で研修を積んだエリートとして有名だが、愛想がなく近寄りがたいとも言われている。
前世でも名前くらいは知っていた。
だが、まともに話した記憶はない。
「……遥臣?」
「珍しいな」
遥臣はカルテを抱えたまま近づいてくる。
「お前が病院へ来るなんて」
「少し相談があるの」
「相談?」
綾香は周囲を確認してから声を潜めた。
「検査をお願いしたいものがあるの」
遥臣の眉が僅かに動く。
「検査?」
「知人の猫が、誤って薬を飲んでしまったみたいなの」
沈黙。
遥臣は何も言わない。
ただ綾香を見ている。
その視線が痛かった。
「猫?」
「そうよ」
「……その猫のために、お前が病院まで来たのか?」
綾香は一瞬言葉に詰まった。
自分でも苦しい言い訳だと思う。
だが父の話はできない。
誰を信用していいのかわからないからだ。
「とにかく調べてほしいの」
綾香はバッグから薬を取り出した。
遥臣は薬を受け取る。
そして数秒、それを見つめた。
遥臣は、彼女がまるで別人になったかのように感じ、探るような視線を向けた。
「時間はかかる」
「どのくらい?」
「数日」
綾香は即座に首を振った。
「もっと早くならない?」
遥臣が眉を上げる。
「追加料金なら払うわ」
「……知人の猫のために?」
綾香は黙り込んだ。
完全に疑われている。
それでも引くわけにはいかなかった。
「お願い」
遥臣はしばらく綾香を見つめていた。
やがて小さく息を吐く。
「変わったな」
「え?」
「昔のお前なら、そんな顔はしなかった」
綾香の心臓が跳ねる。
まるで別人だと言われた気がした。
「何のこと?」
「いや」
遥臣はそれ以上追及しなかった。
その代わり、不意に周囲へ視線を向ける。
何かを警戒しているように見えた。
「一人で来たのか?」
突然の質問だった。
「え?」
「送迎とか」
「ないわ」
遥臣は黙る。
何かを考えているようだった。
「ついて来い」
「どこへ?」
「検査室だ」
そう言って歩き出す。
綾香も後を追った。
途中、すれ違う人々の視線が妙に気になった。
そのたびに遥臣が半歩前へ出る。
自然な動作だった。
だが結果的に、綾香は周囲の視線から隠される形になる。
(もしかして……)
この人も気づいているのだろうか。
誰かに見られていることを。
検査室の前で、遥臣が足を止める。
「最後に一つだけ聞く」
真剣な声だった。
「この薬、どこで手に入れた?」
綾香は息を呑んだ。
もう誤魔化せない気がした。
「それは……」
父のことを話すべきか。
迷う。
だが。
「父が――」
「綾香」
聞き慣れた声だった。
全身が凍りつく。
ゆっくり振り返る。
そこには理央が立っていた。
穏やかな笑みを浮かべながら。
「ここにいたんだな」
その瞬間、綾香の背中を冷たい汗が流れ落ちた。
ホテルを出てからも、女性の言葉が頭から離れなかった。『持ち帰ったあと、御影の家には置かない方がいいと思う』 母も、家に置けないと思ったから彼女に預けた。 なら、自分も同じようにした方がいい。(でも、どこに……) 銀行の貸金庫に入れることも考えた。 けれど、母の貸金庫はまだ相続手続きの途中だ。 すぐには使えない。 新しく自分で契約するにしても、今日明日で用意できるとは限らない。 綾香は駅へ向かいながら考え続けた。 そして、ふと一人の顔が浮かぶ。「……遥臣」 母の手紙を預かっていた九条先生の息子。 御影家の外にいる。 それに、少なくとも今の綾香が信頼できると思える相手だった。 けれど。(誰にも言わないでって言われたのよね) 女性との約束を破ることになる。 綾香はスマートフォンを取り出しかけて、やめた。 明日、書類を受け取ってから考えよう。◇◆◇ 屋敷へ戻ると、玄関に理央の靴があった。(もう帰ってる……) できれば今日は顔を合わせたくなかった。 綾香はそのまま自室へ向かおうとした。「綾香」 やはり、呼び止められた。 廊下の奥から理央が歩いてくる。「おかえり」「ただいま」「出かけてたんだ」「ええ」 綾香はそれだけ答え、歩き出そうとする。「どこ行ってたの?」 まただ。 綾香は足を止めた。「理央」「何?」「この前、話したでしょう」「……聞いただけだよ」「答えたくないって言ったの」「でも、最近ずっとそうじゃないか」
「自分の部屋に置いていたものが、少しずつ動いている気がするって」 綾香は息を呑んだ。 自分も同じことを感じている。 屋根裏部屋に残された母の遺品。 なくなった木箱。 そして、夜中に屋根裏部屋へ入っていた理央。「お母様は……誰かが部屋に入ってると思ってたんですか?」「そうみたい。でも、最初は自分の勘違いかもしれないって言ってたわ」「誰かを疑ってたんですか?」「その頃は、名前までは聞かなかった」 女性は首を振った。「私も、あまり深刻に考えてなかったの。家政婦さんが掃除の時に動かしたんじゃないかとか、そんな話をして」「……そうですよね」 それだけなら、綾香だってそう考える。「でも、そのうち相談の内容が変わってきた」「どういうふうに?」「体調のことを話すようになったの」 綾香の表情が変わる。「体調……」「眠気がひどいとか、急に気分が悪くなるとか。日によって違ったみたいだけど」 九条先生から聞いた話が頭をよぎる。 母は薬について調べていた。「病院には?」「行ってたわ。でも、原因は分からなかったみたい」 女性はカップに手を伸ばした。「それで、ある時から食べたものや飲んだものを記録するようになったの」「どうして?」「何か共通するものがないか調べるためだって」「記録……」「ええ。体調が悪くなった日だけじゃなくて、何を食べたか、何を飲んだか、薬を飲んだ時間まで」 綾香は眉を寄せた。「その記録は?」「私も見たことはないわ」「じゃあ……」「たぶん、木箱の中じゃないかしら」 綾香の胸が大きく鳴った
翌日。 綾香は約束の時間より少し早く、ホテルのラウンジへ着いた。 理央には会わなかった。 橘には「少し出てくる」とだけ伝えたが、やはり行き先は聞かれなかった。(大丈夫……誰にも知られてない) そう思いながらも、落ち着かない。 案内された席に座り、周囲を見回す。 人は多い。 宿泊客らしい家族連れや、仕事の話をしている人たち。 ここなら、何かあっても人目がある。 母の友人がこの場所を選んだ理由が、少し分かった気がした。「……綾香ちゃん?」 声に振り返る。 昨日、写真で見た女性が立っていた。 写真より当然年齢は重ねている。 けれど、面影は残っていた。「はい」「やっぱり。お母さんに似てるわね」 女性は綾香の向かいへ座った。「昨日は突然電話して、すみませんでした」「いいの。驚いたけど……いつか連絡が来るかもしれないとは思ってたから」「私から?」「ええ」 綾香は眉を寄せた。「どうしてですか?」 女性はすぐには答えず、注文を済ませた。 飲み物が運ばれ、店員が離れてから、ようやく口を開く。「まず、聞いてもいい?」「はい」「私の電話番号を、どうやって知ったの?」「お母様の貸金庫です」 女性の表情が変わった。「貸金庫?」「緊急連絡先に、あなたの名前と電話番号がありました」「……そう」 女性はしばらく黙り込んだ。「やっぱり、あの貸金庫は残ってたのね」「知ってるんですか?」「ええ」 綾香は身を乗り出した。「中に何があるかも?」「それは知らない」「……そうですか」「でも、あなたのお母さんが何かを保管していたことは知ってる」 綾香の胸が大きく鳴った。「木箱ですか?」 女性の手が止まった。 その反応だけで分かった。「知ってるんですね」「……綾香ちゃん。その箱のこと、どこで知ったの?」「お母様が残した手紙に書いてありました」「手紙?」「九条先生に預けていたんです」 女性が目を見開く。「九条先生に……」「それと、箱の鍵も見つけました」「鍵まで?」「はい。でも箱がないんです」 女性はしばらく何も言わなかった。 やがて、小さく息を吐く。「そういうことだったのね」「何がですか?」「昔、あなたのお母さんから預かったものがあるの」 綾香は息を呑んだ。「預かったもの?」「三年前。
『もし御影の家にいるなら、今は何も話さないで』 綾香はスマートフォンを握りしめた。「……どうしてですか?」『今は答えられないわ』 女性の声は低い。 さっきまでとは明らかに違っていた。『綾香ちゃん、今、一人?』 綾香は反射的に屋根裏部屋の扉を見る。「一人です」『そう』 女性が小さく息を吐く。『でも、そこで話すのはやめましょう』「待ってください。お母様のこと、何か知ってるんですよね?」『知ってるわ』 即答だった。 綾香の胸が大きく鳴る。「だったら――」『会って話しましょう』「会って?」『ええ。電話では話したくないの』 綾香は黙った。 相手が母の古い友人であることは確認できた。 自分のことも知っていた。 けれど、それだけで信用していいのだろうか。 母の手紙が頭をよぎる。『あなた自身で確かめてから、誰を信じるか決めてください』「……どこで会いますか?」 女性は少し考えてから答えた。『人の多いところがいいわね』 指定されたのは、都内のホテルのラウンジだった。 綾香も名前を知っている場所だ。『明日の二時でどう?』「大丈夫です」『分かった。私はあなたの顔が分かるから』「私も写真を見つけました」『写真?』「お母様のアルバムに、あなたと一緒に写ってる写真がありました」 電話の向こうが静かになる。『……そう』 その声が少しだけ柔らかくなった。『まだ残してくれてたのね』 綾香はアルバムの写真へ目を落とした。 若い母と、隣で笑う女性。
銀行を出た綾香は、近くのカフェに入った。 窓際の席に座り、スマートフォンを取り出す。 画面には、先ほど控えた女性の名前と電話番号。 何度見ても、名前に覚えはない。(お母様の友達……?) けれど、それなら一度くらい会ったことがあってもよさそうなものだ。 母が亡くなった時にも、この名前を聞いた記憶はない。 綾香は名前を検索してみた。 同姓同名の人物がいくつか表示される。 けれど、どれが母の知人なのか判断できるような情報はなかった。「やっぱり、これだけじゃ分からないわね……」 スマートフォンを置く。 電話をかけるのが一番早い。 けれど、相手が何者なのか分からないまま、自分の名前を名乗ることには抵抗があった。 母は『誰を信じるか自分で決めて』と残している。 だからこそ、慎重にならなければならない。(でも、どうやって調べればいいの?) 考えているうちに、一つだけ思いついた。 母の昔の知人なら、父が名前を知っているかもしれない。 ただし、直接聞けば理由を尋ねられるだろう。 それなら――。◇◆◇ 帰宅した綾香は、屋根裏部屋へ向かった。 母の遺品の中には、アルバムがいくつも残されている。 昔の友人と写った写真があるかもしれない。 棚からアルバムを取り出し、一冊ずつ確認していく。 家族旅行。 綾香が幼かった頃の写真。 父と母がまだ若い頃の写真。 知らない人たちと並んでいるものもある。「この人たちの誰か……?」 けれど、写真だけでは名前が分からない。 何冊目かのアルバムを開いた時だった。「あ……」 写真の下に、母の字で短い書き込みがあ
橘と理央の話し声が遠ざかってからも、綾香はしばらく扉の前に立っていた。『気にかけることと、詮索することは違うよ』 橘は理央を庇わなかった。 むしろ、はっきりと止めていた。(分からない……) 母の木箱。 屋根裏部屋。 理央。 橘。 何かが繋がっているように思えるのに、肝心なところだけが見えない。 母の手紙には、こう書かれていた。『あなた自身で確かめてから、誰を信じるか決めてください』 綾香は引き出しを開け、古い鍵を取り出した。「自分で確かめるしかないのよね」 まずは貸金庫だ。◇◆◇ 翌日。 綾香は必要な書類を揃えるため、父に声をかけた。「お父様、ちょっとお願いがあるんだけど」「何だ?」「お母様の銀行のことで、確認したいことがあるの。必要な書類を用意するの、手伝ってもらえる?」 父は少し驚いたようだった。「この前の貸金庫か?」「ええ」「気になっているのか」「うん。お母様が使ってたものなら、何が入ってたのかなって」 木箱のことは言わない。 九条先生から受け取った手紙のことも。 父は少し考えたあと、頷いた。「分かった。必要なものを教えてくれ」「ありがとう」「私も一緒に行こうか?」「大丈夫。自分で行ってみたいの」「そうか」 父はそれ以上言わなかった。 綾香は少しだけ胸が痛んだ。 父を疑っているわけではない。 けれど、母がわざわざ自分だけに残したものなら、まず自分で確かめたかった。◇◆◇ 数日後。 綾香は銀行の窓口にいた。 用意した書類を提出し、担当者が確認するのを待つ。「お待たせい







