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第2話 いいですよ

Author: 6jay
last update publish date: 2026-09-17 22:06:37

ホテルの廊下が静まり返った。

怜司の手を握ったまま、紗奈はようやく、自分の心臓が激しく打っていることに気づいた。

衝動だった。

復讐心も、混じっていた。

それでも、撤回したいとは思わなかった。

先に我に返ったのは、後ろにいた隼人だ。

「紗奈、何を馬鹿なこと言ってるんだ。兄さん、気にしないで。たった今、俺と婚約を破棄したばかりで、まともじゃ――」

「いいですよ」

怜司の返事が、隼人の言葉を遮った。

ためらいも、問い返す言葉もなかった。

むしろ、息を止めたのは紗奈のほうだ。

隼人が信じられない顔で、2人を交互に見た。

「兄さん、どうかしてる! 紗奈は俺の婚約者だったんだぞ。6年も、俺の女だったんだ!」

怜司がそこで初めて弟を見た。

「婚約者だった?」

低い声に、隼人が口をつぐむ。

「自分で過去形にしたな」

「それは……」

「ほかの女をベッドに入れた時点で、終わった関係だ」

紗奈の手を離さず、怜司が半歩前へ出た。その広い肩が、2人の間を完全に隔てる。

「それに、一ノ瀬さんは誰の所有物でもない。二度とそんな呼び方をするな」

隼人は歯を食いしばったが、言い返せなかった。

怜司が紗奈を振り返る。

「行きましょう」

手を引かれ、紗奈はエレベーターへ向かった。

ドアが閉まる直前、隼人がまた叫んだ。

「紗奈! 兄さんの何を知ってるっていうんだ!」

紗奈は答えなかった。

閉じていくドアの隙間から見えた顔は、怒りよりも恐怖に近かった。

その表情だけで、急所を突けたとわかった。

* * *

怜司の専用車が、ホテルの地下駐車場を出た。

濃いスモークガラスの向こうに、東京の光が長く流れていく。車内にあるのは、シダーウッドの香りと、低いエンジンの振動だけだった。

紗奈はシートベルトを締めたまま、自分の指先を見下ろした。

さっきまで怜司の手を握っていた感覚が、まだ鮮明に残っている。

隣でタブレットを確認していた怜司が画面を消した。

「今からでも、降りられますよ」

紗奈は顔を上げた。

「どういう意味ですか?」

「廊下での言葉が衝動だったのなら、ここで終わりにして構いません。隼人には、私から改めて釘を刺しておきます」

選ぶ権利を、返してくれている。

紗奈は少し考えてから、首を振った。

「半分は衝動でした」

「残りの半分は?」

「計算です」

隠すつもりはなかった。

「隼人は両家の共同事業がある限り、私が必ず戻ると信じています。婚約破棄も、一時の気まぐれくらいにしか思っていないでしょうね」

「だから、私を利用する」

「はい」

「なぜ、私なんです?」

紗奈は迷わず答えた。

「隼人が一番恐れている人だからです。それに、黒瀬との共同事業を盾に、私を引き戻そうとするのを止められるのも、副会長しかいません」

「復讐と、盾。その両方が必要だと?」

「そのとおりです」

怜司はしばらく、紗奈を見つめていた。

「正直ですね」

「ご不快なら、ここで終わりにしてくださって構いません」

「いえ」

その口元に、ごく薄い笑みが浮かぶ。

「気に入りました」

怜司が少しだけ紗奈のほうへ体を向けた。

「ただ、こちらの条件も聞いていただきます」

「どうぞ」

「婚約のふりで終わらせるつもりはありません。明日、両家に正式に知らせます。3週間以内に婚姻届を出して、式も挙げましょう」

紗奈の眉が、わずかに動いた。

「婚姻届まで?」

「法的な効力もない芝居に、興味はありません」

怜司はそこで、一度言葉を切った。

「公表すれば、両家の利害も変わります。隼人とやり直す道は、事実上閉ざされる。それでも、結婚しますか?」

紗奈は窓の外を見た。

黒瀬ホテルの灯りは、もう遠かった。

「はい。あの部屋を出たときに、帰り道はなくなりましたから」

「結婚後の生活は、どうなるんでしょう」

「契約で決めましょう。財産も経営権も、それぞれの仕事も。お互い、踏み込まない」

言葉は冷静なのに、怜司の視線は紗奈の手元に残っていた。

「ただ、ひとつだけ、はっきりさせておきたい」

運転席と後部座席の間のパーティションが、静かに上がっていく。

閉ざされた空間は、いっそう静かになった。

怜司が手を差し出した。

紗奈はしばらくその手を見つめてから、自分の手を重ねた。

長い指が、ゆっくりと紗奈の手を包み込む。

「私の妻になったら、隼人のところへは戻れません」

「戻るつもりはありません」

「彼が謝っても?」

「戻りません」

「膝をついて、すがってきても?」

「もう、終わったんです」

その返事を確かめるように、怜司の親指が紗奈の手の甲を一度なぞった。

ほんの短い接触なのに、手首の内側まで熱くなる。

「わかりました」

契約を確定させるように、怜司は手を離さなかった。

そこでようやく、紗奈はひとつの奇妙なことに気づいた。

彼はまだ一度も、なぜこの結婚を受け入れたのか、説明していない。

聞くべきだと思った。

けれど、深く沈んだ瞳と向き合った途端、問いかけは喉で止まった。

怜司のまなざしに、濃い熱が宿る。

「復讐するなら、徹底的にしましょう」

「どうやって?」

怜司が低く答えた。

「弟に、一生あなたを『義姉さん』と呼ばせるんです」

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