Share

婚約者に裏切られた夜、私は彼の兄に結婚を申し込みました
婚約者に裏切られた夜、私は彼の兄に結婚を申し込みました
Author: 6jay

第1話 ベッドの上の婚約者

Author: 6jay
last update publish date: 2026-09-17 22:06:33

結婚式まで、きっかり3か月。

金曜日の夕方、一ノ瀬ホテルズの戦略企画室で決裁書類に目を通していた一ノ瀬紗奈のスマートフォンに、差出人不明のメッセージが届いた。

【婚約者が今、誰といるか知りたければ、黒瀬ホテルの3201号室へ。】

たった1行。

それなのに、紗奈はしばらく画面から目を離せなかった。

3201号室は、黒瀬ホテルの最上階にあるロイヤルスイートだ。

黒瀬隼人。

黒瀬グループの次男であり、6年間、紗奈の婚約者だった男。

恋愛から始まった関係ではない。両家のホテル・リゾート事業を結びつけるための婚約だった。紗奈もそれは承知していた。

それでも、守るべき一線はあると思っていた。

愛し合えなくても、人前で相手を侮辱しない。婚約している間は、ほかの誰かと関係を持たない。

その程度の礼儀は、隼人にもあると信じていたのに。

紗奈はコートをつかむと、まっすぐ黒瀬ホテルへ向かった。

車の中で、一度は隼人に電話しようかとも思った。けれど、画面に表示された名前を見つめた末、そのままスマートフォンを伏せた。

嘘なら、確かめてから謝ればいい。

本当なら、電話一本で逃げる時間を与えてやる理由などなかった。

32階の廊下は、ひどく静かだった。分厚い絨毯が、ヒールの音まで吸い込んでいく。

3201号室の前に着くと、ドアは内側のドアガードに引っかかり、指が1本入るほど開いていた。その隙間から、濃いマグノリアの香りと、聞き覚えのある笑い声が漏れている。

「隼人さん、本当に3か月後、あのつまんない女と結婚するんですか?」

甘える声に続いて、隼人が気だるげに答えた。

「紗奈との結婚はビジネスだよ。あいつは体裁が一番大事だから、絶対に婚約を破棄できない。俺が外で誰と会ってたって、結局は見て見ぬふりさ」

「私を捨てたりしないでくださいね」

「しないって」

シーツの擦れる音と、低い笑い声。

紗奈はスマートフォンの録音ボタンを押した。

不思議なほど、指先は落ち着いていた。

胸が張り裂けるような悲しみよりも先に込み上げたのは、6年という時間を丸ごと踏みにじられた屈辱だった。

ためらわず、ドアを押し開ける。

バンッ。

ベッドの上の2人が、同時に振り向いた。

シャツを脱いだ隼人と、薄いスリップ姿の三枝莉央。莉央は短く声を上げ、慌ててシーツを引き寄せた。隼人の顔が、一瞬だけこわばる。

「……紗奈?」

紗奈はベッドの足元まで歩み寄った。

涙は出なかった。

「続けたら? 廊下まで丸聞こえだったけど。邪魔しちゃったわね」

隼人は床のズボンを拾い上げ、急いで脚を通した。

動揺は、それで終わりだった。シャツのボタンを留める顔には、いつもの傲慢さが戻っている。

「ここまで来るとは思わなかったな。だからって、わざわざ騒ぎにすることないだろ」

「騒ぎ?」

「俺たち、愛し合って結婚するわけじゃないだろ。結婚前にちょっと遊んだくらいで、婚約破棄でもする気か?」

「その『ちょっと遊んだ相手』が、ベッドにいるんだけど」

「言い方に気をつけろよ」

隼人が顎を上げた。

「一ノ瀬の新しいリゾート、融資の保証を誰が引き受けるか忘れたのか? 黒瀬だぞ。おまえの父親が、この結婚を潰させると思うか?」

疑っていないのだ。

紗奈はいつものように、家と体裁のために我慢する。

そう、決めつけている。

その瞬間、かすかに残っていた未練まで、すっと冷えた。

紗奈は左手の薬指からダイヤモンドの指輪を抜き取り、隼人の足元へ投げた。プラチナのリングが大理石の床を跳ね、鋭い音を立てる。

「何を頼りにそんな態度を取ってたのか、ようやくわかった」

「紗奈」

「でも、見当違いよ。婚約は破棄します」

「おまえ、正気か?」

「少なくとも、あなたと結婚する気はないわ」

紗奈は背を向け、そのまま客室を出た。

後ろから名前を呼ばれても、足を止めなかった。

エレベーターホールには、隣のビジネスラウンジから出てきたばかりのような男が立っていた。

深いチャコールグレーのスーツ。少しの乱れもない立ち姿。静かなのに、人を圧倒するまなざし。

黒瀬怜司。

黒瀬ホールディングス副会長であり、隼人の異母兄。

隼人が生涯をかけても越えられない、黒瀬グループの実権を握る男だった。

遅れて廊下に飛び出してきた隼人が兄の姿を見て固まる。

「あ、兄さん。どうしてここに……」

怜司は弟に目もくれなかった。

見ているのは、紗奈だけだ。

驚きもせず、理由も聞かない。紗奈が次に何を言うのか、待っているように黙っている。

その落ち着きが、かえって危うく感じられた。

そのとき、紗奈の頭にひとつの方法が浮かんだ。

この上なく危険で、けれど確実な方法。

隼人には、絶対に受け止めきれない選択。

彼がずっと恐れてきた男の側に立つこと。

紗奈は怜司に歩み寄り、その右手を取った。

冷たい廊下で、触れ合った手のひらだけが熱かった。

隼人の顔から、血の気が引いていく。

「おまえ、何してるんだ?」

背後で怒鳴られても、紗奈は手を離さなかった。

ついさっきまで自分を縛っていた両家の利害も、6年という年月も、このたった一度の選択で崩れていく。

怜司の視線が、つながれた手へ落ちた。ゆっくりと、紗奈の顔へ戻ってくる。

「副会長」

「何でしょう」

紗奈は一度も目をそらさなかった。

「私と、結婚していただけませんか?」

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 婚約者に裏切られた夜、私は彼の兄に結婚を申し込みました   第20話 婚約者の兄と結婚しました

    紗奈はいったん怜司の手を離し、離婚協議書を両手で持った。怜司の視線が、紙の動きを追う。彼は、止めなかった。紗奈は書類を半分に折り、ゆっくりと破った。紙の裂ける音が、静かな書斎に響いた。怜司の瞳が、大きく揺れた。「出ていくつもりは、ありません」紗奈は破いた紙をテーブルに置いた。「ただ、契約を結び直したかったんです」隣に用意していた、新しい書類を渡した。書かれている条項は、3つだけだった。【互いにとって重要な事実を、隠さない。】【相手の選択を、代わりに決めない。】【婚姻期間に、期限を設けない。】怜司は最後の1行を長く見ていた。「期限なし」「気に入りませんか?」「いえ」いつもは口元だけでかすかに笑う男が、初めて、はっきりと顔をほころばせた。「俺が、望んでいた条件です」「追加したいことは?」怜司は少し考えた。「ひとつだけ」空欄に、自分で1行書き足す。【喧嘩をした日も、同じ家で眠る。】紗奈は目を細めた。「これは、どちらに有利な条項ですか?」「2人ともに」「別々の部屋は、いいんですか?」「ドアは、開けておいてください」紗奈はとうとう笑った。「検討します」ペンを差し出す。「それでは、署名を。旦那様」怜司は迷わず、名前を書いた。紗奈もその隣に署名した。公証人も法務部もいない。2人だけの、約束だった。書類を置いた怜司が紗奈の頬を包んだ。「本当に、後悔しませんか?」「一度は、後悔しました」彼の表情がこわばったので、紗奈は笑った。「どうして、もっと早くあなたを選ばなかったんだろうって」怜司はそれ以上聞かなかった。紗奈を引き寄せ、ゆっくりと唇を重ねる。急がないキスだった。けれど、安堵と喜びは、隠しようもなく伝わってきた。紗奈はその首に腕を回した。「愛しています」怜司の動きが止まった。「もう一度、言ってください」「愛してるって、言ったんです」「あと、一度だけ」「怜司さん」紗奈は笑い、唇に短く口づけた。「愛してるわ、あなた」その夜、2人は契約結婚を終えた。離婚したからではない。契約がなくても、一緒にいると選んだからだ。数日後、2人は両家の家族を招かず、ささやかな夕食の席を設けた。最初の結婚式では言えなかった言葉を、今度は直接、互いに伝えた。怜司は同じ指輪をもう一度、紗奈の

  • 婚約者に裏切られた夜、私は彼の兄に結婚を申し込みました   第19話 望むなら、離婚します

    日付が変わろうとしていた。ジャケットを脱ぎながら書斎に入った怜司はテーブルの婚前契約書と離婚協議書を見つけた瞬間、足を止めた。「これは、何ですか」声は落ち着いていたが、顔からは血の気が引いていた。紗奈は向かいに立った。「契約の最後の条項を、整理しようと思って」怜司が離婚協議書を手に取る。「本当に、出ていきたいんですか?」「いいえ」すぐに返した答えに、彼の目が揺れた。「では、なぜこれを?」「復讐は終わりました。両家の問題も、ほとんど片づきました。もう、契約のために夫婦でいる理由は、ありませんよね」「理由は、契約だけだと思っているんですか?」「だから、聞きたいんです」紗奈はまっすぐ彼を見た。「隼人を倒す必要がなくなっても、私と結婚したいですか?」怜司が書類を置いた。「その問いに、まだ答えていませんでしたね」「怜司さんが私を求めてくれているのは、わかっています。でも、いつからだったのか、なぜ私だったのか、きちんと聞いたことはありません」「話せば、重荷になるかと怖かった」「今度は、私が聞いて、判断します」怜司がゆっくり紗奈へ近づいた。「6年前、一ノ瀬ホテルの新規事業説明会で、あなたを初めて見ました」紗奈は黙って聞いた。「入社して間もない社員だったのに、役員たちが反対する企画の発表を、最後までやり遂げた。数字はひとつも間違えず、責任を人に押しつけることもなかった」「会議が終わると、上司はまず、あなたに失敗の責任を問い始めた。あなたは言い訳をせず、修正の日程を示した。そのくせ、チームのミスは自分の責任だと言った」紗奈の記憶にも、うっすらと残っている。新人に近かった自分が、徹夜で仕上げた、地方ホテルの再生計画だ。「そのときから、見ていたんですか?」「意識しないようにしていました。うまくはいきませんでしたが」怜司の口元に、ごく薄い笑みが浮かんだ。「あの日から、忘れられなかった」「それが、愛だったんですか?」「最初は、ただの関心だと思っていました」怜司が一度息を整えた。「その後、両家の間で縁談が出たとき、一ノ瀬側が最初に検討した相手は、俺でした。でも当時、父と経営権の問題で対立していて、海外法人を任されていた。父は、自分が推していた隼人を選んだんです」「うちの家族も、そのことを知っていたんですか?」「知ってい

  • 婚約者に裏切られた夜、私は彼の兄に結婚を申し込みました   第18話 義姉さん、最後のお願い

    取締役会が終わって、わずか3日。隼人の日常は崩れた。黒瀬は彼をすべての職務から外し、損害賠償請求の準備を進めた。検察の捜査チームは、黒瀬流通と文化財団を捜索し、関係資料を押収した。隼人は海外渡航にも制限を受けることになった。征臣ももう息子をかばわなかった。虚偽の記事は訂正記事に変わり、融資幹事行は中断していた共同リゾート事業の審査を再開した。一ノ瀬の取締役会も、紗奈が損失を未然に防いだ功績を、正式な議事録に残した。数日前まで別居を勧めていた古参たちは、態度を変え、紗奈の決断を褒めた。紗奈は喜びも、腹を立てもしなかった。必要なとき、本当に守ってくれた人が誰なのか、もう知っていたからだ。麗華からは、告発だけは取り下げてくれと電話がかかってきた。紗奈は短く答えた。「会社の損害も、犯罪の捜査も、私が取引に使っていいものではありません」* * *木曜日の夜。元麻布のペントハウスの地下駐車場。車を降りた紗奈の前に、隼人が現れた。以前、家族の車として登録されていた車両で、地下まで入ったらしかった。つい先日まで、仕立てたスーツに身を包み、随行員を連れていた男だとは思えないほど、やつれていた。シャツは皺だらけで、目の下には濃い隈がある。警護員が即座に間に入ったが、紗奈は離れた場所から言った。「話があるなら、そこで言って」隼人がよろめくように、一歩近づいた。「告発を、取り下げてくれ」「嫌よ」「兄さんに、ひと言頼めばいいだろ。おまえの言うことなら、聞くじゃないか」「だからこそ、頼まない」「紗奈。俺たち、6年も一緒だっただろ」「その6年間で、私の好きな食べ物、ひとつでも覚えた?」隼人が黙った。「私がどんな仕事をしていたか、知ってる? 家の行事のあと、何度1人で泣いたか、知ってるの?」「今、それが何の関係あるんだよ」「だから、終わったのよ」その答えを聞いても、もう何も感じなかった。「その6年を、先に捨てたのはあなた」「俺がどうかしてた。莉央に騙されたんだ」「莉央を選んだのは、あなたよ。会社のお金を送ったのも、あなた」隼人の顔が歪んだ。「おまえだって、復讐のために兄さんと結婚しただろ。俺と何が違う?」「私は誰のお金も盗んでいないし、あなたを騙したまま結婚しようともしなかった」紗奈の声は、落ち着いていた。「何より、

  • 婚約者に裏切られた夜、私は彼の兄に結婚を申し込みました   第17話 後継者の座から

    プレスセンターのスクリーンに、黒瀬ホテル32階の防犯カメラ映像が流れた。先に客室へ入っていく、隼人と莉央。その1時間後、1人でエレベーターを降りる紗奈。時刻表示とともに、順に映し出される。「私が黒瀬怜司副会長と客室を利用したという報道は、事実ではありません」紗奈がリモコンを押した。次の画面には、録音データに関する公証書類と、書き起こしの一部が映った。政略結婚なのだから、紗奈には婚約破棄などできない。そう、隼人が言っている箇所だった。記者席がざわついた。「私生活のすべてを公開するつもりはありません。ただ、婚約破棄の責任を確認するために必要な資料は、捜査機関および裁判所へ提出する予定です」記者の1人が手を挙げた。「黒瀬怜司副会長との結婚が、復讐目的だったことは認めるのですか?」紗奈は逃げなかった。「当時の選択に復讐心がなかったと言えば、嘘になります」「ですが、感情と事実は別です。私が誰と結婚したかによって、黒瀬隼人氏が会社資金を流用したかどうかが、変わるわけではありません」画面が切り替わった。エムアール・アートアドバイザリーへ流れた委託料と決裁記録。名義上の代表者を通じた会社の関係図。決裁上限を避けるように、と隼人が指示したメール。資料が、次々に示された。「黒瀬の監査チームは、現時点で5億2000万円相当の不当な支出を確認しています。その一部が、三枝莉央氏の住居の保証金や、私物の購入に使われた形跡があります」今度は、次々と質問が飛んだ。「黒瀬隼人常務が、直接指示した証拠はあるんですか?」「合弁会社の資金も、流用されたのでしょうか?」「三枝莉央氏には、確認を取っていますか?」紗奈は確認できたことだけを答えた。「合弁会社の実際の損失は、防いでいます。私が財務調査の過程で、契約を止めたためです」別の記者が、尋ねた。「怜司副会長が監査資料を利用して、弟を排除しようとしたのでは、という疑惑にはどう答えますか?」「監査は、私の結婚前から行われていました。外部会計事務所の着手日と、調査の記録も併せて配布しています。まずは資料をご確認のうえ、ご判断ください」紗奈は怜司の代わりに弁解せず、事実だけを示した。ネットの生中継でも、『互いの浮気』より、『グループ会社の資金流用』が、大きな争点になっていた。最後に、今回の虚偽記事

  • 婚約者に裏切られた夜、私は彼の兄に結婚を申し込みました   第16話 復讐の幕引き

    「どう、終わらせるつもりですか?」怜司に尋ねられ、紗奈はノートパソコンを開いた。「隼人は私生活の問題だけに話を持ち込みたいんです。どちらが先に浮気したかだけを争えば、結局は泥仕合になりますから」画面に、資料の一覧を出した。「だから、私生活と犯罪は分けて説明します。婚約破棄の責任は客観的な資料で整理し、会社資金の問題は、監査結果として示すんです」最初のフォルダーには、黒瀬ホテル3201号室の件に関する資料が入っていた。紗奈のスマートフォンに残る録音の原本と作成時刻。隼人と莉央の入退室記録。紗奈が2人より遅く32階へ到着したことを示す、廊下の防犯カメラ映像。2人が以前にも同じ客室を繰り返し利用していた、予約と決済の記録も確保していた。紗奈は録音全体を公表しないと決めた。過度に私生活へ踏み込む部分は出さず、法務部が選んだ必要箇所だけにする。原本については、公証人による確認を受けたうえで、捜査機関へ提出する予定だった。2つ目のフォルダーは、資金の資料だった。エムアール・アートアドバイザリーへ支払われた業務委託料、隼人の電子決裁記録、莉央側とのつながりを示す法人登記、法人カードの利用明細、そして合弁会社にも同じ業者を入れようとした契約書案。怜司の指示で範囲を広げた黒瀬の監査チームの調査により、莉央の元麻布の高級賃貸住宅の保証金の一部が、ペーパーカンパニーの口座を経由して支払われたことも確認された。監査チームは、隼人が決裁上限を避けるため、契約を何件にも分割していたことも突き止めた。メールには、『取締役会への報告基準を下回るようにしろ』という指示が残っていた。3つ目のフォルダーには、今回の虚偽記事と、隼人側のPR会社の契約に関する資料があった。隼人側の顧問会社とPR会社の間では、記事が出る3日前に、『危機管理およびレピュテーション対応』の業務委託契約が結ばれていた。匿名の情報提供が偶然現れたのではなく、計画された攻撃だったことをうかがわせるものだ。「これなら、反論は難しいでしょうね」怜司が言った。「感情的な言葉は、できるだけ使いません。確認できたことだけを話します」「いいと思います」怜司は資料を自分の手に引き取ろうとはしなかった。「発表者は、あなたの名前にします。監査チームの資料には、正式な確認書をつけましょう」「副会長が

  • 婚約者に裏切られた夜、私は彼の兄に結婚を申し込みました   第15話 二重の裏切りという嘘

    火曜日、午前9時。大手ニュースサイトと経済紙のトップに、同じ内容の記事が並んだ。【独自】黒瀬怜司副会長と一ノ瀬紗奈氏、弟との婚約中から不適切な関係か6年前、一ノ瀬ホテルの事業説明会で言葉を交わす怜司と紗奈。結婚発表前、黒瀬ホテルの32階で、一緒にエレベーターへ乗り込む2人。記事には、それらの写真が並べて掲載されていた。時期の違う写真を巧妙につなぎ、2人は以前から秘密の関係にあったという、匿名の証言まで添えてある。写真の説明から、日付は抜け落ちていた。ホテルの廊下の写真も、紗奈が浮気の現場を目撃したあと、怜司と下りていく場面だった。それが、『密会を終えた2人』と書き換えられている。事情を知る者には、雑な捏造だった。けれど、見出ししか読まない人間を煽るには、十分だった。隼人側のPR会社は、彼が兄と婚約者に同時に裏切られた被害者だという資料を、各メディアへばらまいた。莉央は複数のアカウントを使い、『一ノ瀬紗奈のほうから黒瀬怜司に近づいた』という書き込みを、ネット掲示板に広めた。事実よりも、刺激的な物語が速く広がっていった。黒瀬ホールディングスと一ノ瀬ホテルズの株価は、取引時間中、一時5%近く下落した。共同リゾート事業の融資幹事行は、事実関係が明らかになるまで、審査を保留すると通告してきた。両家の反応も激しかった。征臣は怜司に、海外出張を口実に、しばらく姿を隠せと求めた。麗華は報道の前で隼人をかばうべきだと主張した。一ノ瀬の古参たちは、紗奈に電話をかけてきた。「真実がどうあれ、市場は待ってくれない。ひとまず別居だけでも発表しなさい」「共同事業ひとつのために、グループ全体が揺らぐぞ」父は、直接離婚しろとは言わなかった。ただ、沈黙の末に尋ねた。「怜司副会長との結婚を、続けるつもりか?」「お父さんも、記事を信じているんですか?」「信じるかどうかと、市場の反応は別だ」間違っているとは言えなかった。経営者は数字を見なければならない。それでも、娘に向ける言葉さえ数字が先なのは、つらかった。紗奈は一度息を整えた。「続けます」電話を切ると、手が震えた。6年間、家の体裁のために耐えてきたのは自分だ。それなのに、隼人の裏切りの責任まで、自分に回ってくる。記事の下には、顔も知らない人間の罵声が積もっていた。浮気女。兄弟を弄

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status