Mag-log in夕方。
病院から帰ってくると、玄関に瞬の靴がある事に気づき、私は急いでリビングに向かった。
バッグの中には、母子手帳とエコー写真が入っている。
大事なそれらが入ったバッグを胸に抱え、リビングの扉を開けたところで、中にいた瞬が肩越しに振り返った。
「…帰ってきたのか。どこに行っていた」
「瞬、おかえりなさい」
あのね、と言葉を続けようとした所で、瞬が酷く冷たい目をしている事に気づき、私は思わず言葉を飲み込んだ。
「麗奈が長旅で疲れ、体調を崩しているって言うのに、お前は呑気に遊びに行っていたのか。いいご身分だな」
まるで吐き捨てるように、瞬の口元は歪んでいる。
遊びに出かけていたと思われていたなんて。
病院に行っていたんだ、と。
瞬との間に子供ができたのだ、と。
その事を説明しようと、私は母子手帳とエコー写真を取り出そうとバッグを開けて、中からその2つを取り出した。
「瞬、違うの。遊びに出かけていたんじゃなくて、病院に行っていたの」
「──病院?」
「ええ、そうよ」
病院の単語に、瞬の目元が幾分か和らぐ。
瞬の瞳に、一瞬だけ私の事を心配するような感情が浮かんだが、それもすぐに消え去ってしまい、ここ最近で見慣れた冷徹な色が浮かぶ。
「これを見て、瞬」
瞬の冷たい態度にも、もう慣れた。
今までは冷たい態度や視線に傷付いたけれど、今ではもう慣れてしまい、過去のように傷付く毎日を送ってはいない。
私は冷たい視線を向け続ける瞬に、バッグから取り出した母子手帳と、エコー写真を目の前に差し出した。
背の高い瞬に、まるで掲げるようにして差し出した。それを見た瞬は、目を見開いて驚いた表情を浮かべる。
「これは……」
「瞬、私のお腹に赤ちゃんがいるの。私たちの子供よ」
嬉しくて、お腹に手を当てたまま笑顔で瞬を見上げる。
瞬は子供が好きだ。
まだ、私たちの仲が良かった頃。
出かけ先で家族連れや、小さな子供を見た瞬は眩しそうに目を細め、優しげな表情を浮かべていた。
そして、私に顔を向けると、いつか自分たちにも天使のように可愛らしい子供ができるだろう、と言っていた。
結婚する前に授かってしまったのは少し意外だったが、いずれは瞬との間に子供を設ける予定だったのだ。
多少順番が前後してしまっただけで、きっと瞬も喜んでくれるはず。
私が見つめる先で、食い入るようにエコー写真を見つめていた瞬が、表情を緩めたのが分かる。
ああ、瞬も喜んでくれた。
そう感じて、私が瞬の名前を口にすると、途端に瞬の表情が強ばった。
「…本当に俺たちの子供か?」
「──ぇ」
「鑑定をして、俺の子供だと分かるまでは、俺の子供だと認めない」
「な、なんでそんなに酷い事を言うの⁉このお腹の子は、間違いなく瞬の子供なのに!」
「口ではどうとでも言えるだろ」
私が声を荒らげると、瞬はバツが悪そうに私から顔を逸らし、手の中にあった母子手帳とエコー写真を私に押し付けてくる。
どん、と押された私は、思わずその場から一歩、二歩と後退してしまう。
よろめいた私に、一瞬焦ったような表情を見せた瞬。
瞬のスマホが鳴った。
瞬はスマホに映し出された名前を見て、途端にとろり、と瞳を蕩けさせる。
そして甘い声で電話に出た。
「もしもし、麗奈か……?ああ、今から向かうよ。うん、うん……そんな可愛い事を言わないでくれよ」
甘い声で囁く瞬に、私は彼を呼び止めるように声を上げる。
「瞬⁉どこに行くの⁉」
だけど、瞬は私に一瞥もくれずそのままリビングの扉に向かって歩いて行ってしまう。
バタン!と扉の閉まる大きな音が広いリビングに響き、私は瞬に突き返されてしまった母子手帳とエコー写真を手に、だらりと腕を垂らしたまま呆然と立ち尽くした。
◇ 「瞬っ、瞬!酷いわ!どうして心なんかに構い続けるの!?」 心と涼真が立ち去ってから、暫し。 その場を動く様子のない清水に、焦れた麗奈はとうとう声を荒らげた。 ようやくそこで麗奈の存在を思い出したのだろう。 清水ははっとすると、麗奈に鋭い視線を向けた。 「心が大変な目に遭っているんだ……!その、知り合いとして助けようと思うのは普通だろう。それなのに、どうして麗奈はそんなに冷たい事を言って心を拒む!?」 「冷たい事って何よ!?心はもう瞬とは関係の無い人なのに!それなのに、どうして瞬は心を助けようとするの!?心にはもう滝川社長って言う婚約者がいるのよ!」 「黙れ、麗奈──」 清水の低い声に一瞬怯んだ麗奈だったが、ふんっと鼻を鳴らすと、腕を組んで清水を睨み付ける。 「それに瞬。あなた滝川社長と心が泊まったホテルに行くなんて、何を考えているの?あの2人が抱き合っていたホテルに行くなんて、凄く惨めだし、みっともないわ──」 「黙れ麗奈!心は滝川なんかと寝ていない!」 ばしん!と清水が麗奈の頬を打つ音が響く。 まさか麗奈は自分が叩かれるとは思わなかったのだろう。 叩かれた頬がじんじんと痛み、次第に赤みを帯びていく。 清水も手を上げる気はなかったのだろう。 麗奈を叩いてしまった自分の手を、信じられないと言うように唖然と見つめていた。 「す、すまない麗奈……叩くつもりは……」 どもりつつ、清水は麗奈に腕を伸ばす。 麗奈は自分に伸ばされる清水の手を見て、涙目でその手を払った。 「──信じられないっ!女性に手を上げるなんて……っ!」 「す、すまない麗奈!つい、カッとしてっ」 「もう知らないわ!そんなに心が好きなら彼女と結婚すればいいじゃない!ああ、でもそれは無理ね!心はもう滝川社長と婚約してるから!瞬、あなたなんて心に振られてしまえばいいのよ!」 「──麗奈っ!」 涙目で、涙が零れぬよう必死に耐えていた麗奈は、呼び止める清水を無視してそのまま踵を返し、パーティー会場の出口に向かって歩いて行ってしまう。 唖然とその姿を見つめる事しか出来ない清水を、パーティーに参加していた参加者達はヒソヒソと話し、時には笑われつつ、見ていた。 ◇ 「……パーティー会場で、よくあんな大喧嘩ができますね」 私は、ちょうど清水瞬と麗奈の大喧嘩が良く見
「よくも、図々しくそんな事が言えたものだ……。あの日、心とホテルから出てきたくせに……っ」 清水瞬の拳が、強く握り込まれる。 そもそも、私が涼真さんとホテルから出て来たとしても、それこそ清水瞬には関係の無い事だ。 その証拠に、清水瞬の隣にいる麗奈は、不愉快そうに顔を顰め信じられないような表情で彼を見つめている。 だけど、麗奈の視線には気づいていないのか。 清水瞬は尚も言葉を続けようとしたけれど、その前に涼真さんがぴしゃりと跳ね除ける。 「俺や心が、誰とどこで何をしていても、君には関係の無い事だ。これ以上干渉しないでくれないか?不愉快だ」 「──なっ、お前っ」 涼真さんの言葉に、清水瞬の顔がかぁっと怒りで赤く染まった。 「それに、人のそういった事情に踏み込むのは不躾だ。清水社長が逆の立場だったら不快だと思わないか?」 そう話しつつ、涼真さんはくすりと色の含んだ笑みを浮かべると、私の腰をぐっと引き寄せた。 「心もそう思うだろ?」 壮絶な色香を放つ涼真さんに、流し目を向けられて。 私はぼっと顔を真っ赤に染めると、こくこくと何度も頷いた。 ど、どうして涼真さんはこんな態度を!? もしかして清水瞬に見せつけているのだろうか。 もう、彼が私たちに変に絡んだりしないように。 それなら、私も涼真さんの考えに乗った方がいい? ぐるぐる、と考えた私は、引き寄せられた勢いのまま、涼真さんにそっと自分の体を寄せた。 「は、恥ずかしいからそんな事言わないでください涼真さん。……もう、場所を変えましょう?」 「──心、嘘だろう?」 清水瞬が、唖然と呟く。 だけど私は彼に目を向ける事なく、そのまま涼真さんに促されてその場を後にした。 清水瞬は、それ以上私と涼真さんに絡んでくる事はなく、呆然としたままその場に立ち尽くしていた。 「──良かった、追いかけてくる気配は無さそうですね、涼真さん」 「ああ。あれだけ匂わせれば十分だろう。一般常識のある人間なら、これ以上は突っかかってこないはず。……まあ、彼に一般常識があるのかどうかは分からないが」 ひょい、と肩を竦める涼真さんに苦笑いが零れる。 確かに。涼真さんの言う通りだ。 清水瞬は意固地になっているような気がする。 「本当にもう、彼が関わってこないといいんですが……」 「俺たちの仕事も忙し
あれから。 別室での話を終えた私たちは、会場に戻ってきた。 涼真さんと、氷室社長の提携は無事組めるだろう。 後日改めて契約を交わす予定だけど、2人はあの後固い握手を交わしたから。 「無事、話が纏まって良かったですね涼真さん」 私が話しかけると、涼真さんは私の腰に回していた腕に力を込めてぐっと引き寄せた。 「心のお陰だ。いつの間に開発していたんだ?」 「ふふふ。実は、時間がある時にちょこちょこと生地の勉強はしていたんです。昔、お世話になった工場に連絡をして、途中までは作っていたんです」 「途中まで?」 「はい。清水 瞬と婚約して……彼が麗奈と浮気をしている間、沢山時間はありましたから……。気を紛らわせたくて生地の研究を」 「そうだったのか……」 涼真さんは私の言葉に辛そうな顔をする。 だけど、それも一瞬で。 周囲には私たちに話しかけたそうにしている人々が集まっていて。 涼真さんは見せつけるように私の額に唇を1つ落とすと、ドリンクを取ってくれた。 「そろそろ、話したそうにしている彼らの相手をしてやるか……」 「ふふっ、そうですね涼真さん」 こんな触れ合いも、もう慣れたものだ。 日々の練習の成果だろうか。 私は涼真さんの行動にも真っ赤になる事もなくなったし、こうして涼真さんの胸に体を寄せる事だって自然に振る舞えるようになった。 私たちが笑いあっていると、背後から近付く足音が聞こえた。 「随分と仲が良くなったみたいだな……」 どの企業の人だろうか──。 そう思ったのも束の間。 聞こえてきた声に、私も涼真さんも眉を顰めた。 けど、振り返る時にはそんな表情を微塵も見せず、笑みを浮かべたまま彼の名前を口にした。 「ああ、こんばんは清水社長。あなたもこのパーティーに参加していたんですね」 「──はっ、白々しい。俺たちの姿が見えていたくせにな」 涼真さんの言葉に、清水 瞬が苦虫を噛み潰したような表情で答える。 彼の腕に手を回している麗奈は、私に向かって勝ち誇ったような表情を浮かべていて。 どうやら、先日私たちが麗奈が黒瀬さんと寝た事を知っているとは気づいていない様子だった。 だったら、やっぱりあのネットへの流出も、清水瞬があのホテルに居た事も、全て黒瀬さんが手を回したのだろう。 その事が分かっただけでも収穫だ。 「
◇ あれは、遡る事数日前。 涼真さんと、今回のパーティーに向けて「練習」をしている時。 ソファに2人並んで座りながら、まったりとしつつお話をしていた。 私は、ずっと考えていた事を涼真さんに報告した。 「──希少性を下げる、だって!?」 「はい、涼真さん」 私の話を聞いた涼真さんは、驚いたように声を上げた。 けど、それもそうだろう。 私が昔、子供の頃に清水 瞬を助けるために売ってしまった生地開発の権利。 それは、今や清水グループが独占していて、他社も開発が出来ていない。 清水グループの持つ生地を越える生地の開発は出来ていないのだ。 だったら、作ってしまえば良い。 そして、それが低価格帯で手に入るようになったら? 誰もが手に取りやすい金額で、質のいい商品に手が伸びるようになったら? 清水グループの強みであった高価格帯の希少性はガクッと落ちる。 そうすれば、私が子供の頃に売ったあの権利。 それを買った役員が、表に出てくるかもしれない。 その役員がすでに居なくなっていたとしても、彼の後を継ぐ人は必ずいるはずだから。 その人物を特定すれば──。 「だ、だが心。その生地は清水の会社の強みだ。あの生地を越える生地の開発は、未だどこの会社も──」 「ふふ、涼真さん。その生地を開発したのは誰か忘れちゃいましたか?」 私の言葉に、涼真さんは焦っていた顔から段々と自信を得たような、強者の笑みを浮かべる。 「忘れるものか。開発者は心、君だ」 にや、と格好良い笑みを浮かべた涼真さんに、私も笑みを深めた。 ◇ 時は、戻り。 パーティー会場、別室。 「そ、そんな事が可能なのですか!?」 「ええ、もちろんです」 氷室社長と話を進めていた涼真さん。 涼真さんの計画と、提案を聞いた氷室社長はにわかには信じ難い、と言うように目を剥いた。 「そ、それが実現すれば……確かに利益は計り知れません……国内のシェア率もトップとなるでしょう……だけど……」 氷室社長が悩むのも当然。 本当にそんな夢のような生地が開発できるのか──。 その迷いが、中々決断を鈍らせているようだった。 「……心」 「ええ、涼真さん」 涼真さんから話しかけられ、私は手持ちのバッグから1枚の生地を取り出した。 「──それは、まさか」 私の行動を見ていた氷室社長
「滝川社長!ようこそおいでくださいました!」 「氷室社長。本日はお招きいただき、ありがとうございます」 にこり、とお互い笑顔を浮かべ、握手を交わす。 氷室社長の横には、彼の奥様──桜さんが立っていて、彼女は私に笑みを向けてくれたので、私も微笑み返す。 「ははっ、実は駄目元で招待状を……。まさかご参加頂けるなんて……」 「うちは今、衣料関係の新事業を始めようとしていますからね。……長い事この業界で実績を出し続けている御社に学ばせて頂く事は多いです」 「そんなそんな!ご冗談を!」 涼真さんの言葉に、嬉しそうに氷室社長が破顔した。 そして、涼真さんは私に視線を向けると、私の紹介をしてくれる。 「私のパートナーの、加納 心さんです。大切な婚約者です」 「初めまして。加納です。本日はお会いできて光栄です」 「とてもお美しい女性ですね!まあ、私の妻には負けるかもしれませんが!」 「──あなた!」 氷室さんの言葉に、奥様の桜さんがすぐさま鋭い声を上げる。 私と涼真さんは、顔を見合せて笑いあった。 氷室社長は、とても愛妻家で有名だ。 どこかの経営者のように、沢山の女性と関係を持ったり、不倫をしたりする方ではない。 奥様に一途で、とても家庭を大事にしている方。 涼真さんが調べても、氷室社長に黒い噂は見当たらず私たちは決めたのだ。 「涼真さん」 「ああ、心」 私たちの会話に、氷室社長とさくらさんが不思議そうに首を傾げた。 涼真さんはにっこりと笑みを浮かべ、氷室さんに向かって提案を口にした。 「氷室社長、ぜひ場所を変えて……ビジネスの話をしませんか?」 「──っ!!」 笑みを深めた涼真さんの言葉に、氷室社長の目が見開かれ、みるみるうちに歓喜の色が濃くなっていく。 「ぜっ、ぜひ!もちろんです!さ、さくら!お二方を別室にご案内を……っ!あっ、ああっ何か飲み物と軽く摘める物もご用意いたしますね!」 「ええ、ぜひよろしくお願いします。……多分、お話は長くなると思いますので」 涼真さんの言葉に、氷室社長の目が益々輝く。 奥様の桜さんも大慌てで人に指示を出しているのが見えた。 「こちらです、滝川社長、加納さん!」 「行こうか、心」 「はい、涼真さん」 私たちが氷室社長と別室に移動したのは、パーティーに参加している人達、大勢の目の前
パーティー当日。 その日、私は涼真さんのエスコートの元、パーティー会場に入った。 会場に入るやいなや、涼真さんの姿を見つけた企業の重役達が真っ先に涼真さんへ集まってくる。 「滝川社長!まさか、このパーティーでお目にかかれるとは!」 「ご挨拶させてください、私は──」 「今後、ぜひ我が社の工場と提携を──!」 みんな、目の色を変えて涼真さんとどうにか取引をと声をかけてくる。 そう言ったお誘いに、涼真さんは全て笑顔を浮かべるだけで何も言葉を返さず、沈黙を守る。 何か会話の糸口を──、と冷や汗をかいた人達が、涼真さんの横にいる私に視線を向けた。 「もしや、こちらの女性は先日発表された──」 誰かが、そう言葉にすると、他の人達の視線が一斉に私に集まる。 みんなの視線が私に集まった事を確認した涼真さんは、私の腰に回していた手の力を強め、ぐっと抱き寄せた。 「ええ、婚約者の加納 心さん。今、我が社では私の秘書と、デザイナーを兼任してくれています」 「なんと!こんな素敵な女性が婚約者とは!滝川社長も隅に置けませんなぁ!」 「ご結婚されたら、家に帰るのが楽しみでは?」 「秘書とデザイナーを兼任なんて!とても優れた女性なんですね」 みな、口々に私を誉めそやす言葉を口にする。 私は全て愛想笑いを浮かべて流し、涼真さんは満足そうに頷いていた。 「ええ、本当に。私にはもったいないくらいの素晴らしい女性ですよ。ただ、実はもう一緒に暮らしていて……毎日が幸せですよ」 「なんと……!既にご一緒とは!」 「これはご結婚の報告もすぐにされそうですね!」 ははは、と笑い声が起きる。 私たちの回りには、いつの間にか沢山の人が集まっていて。 少しでも涼真さんに近づきたい人。 それと、涼真さんの婚約者である私とどうにか言葉を交わしたい人が溢れていた。 その人垣の奥に──。 見知った顔を見つけた。 清水 瞬、彼だ──。 予想していた通り、彼の隣には麗奈が立っている。 清水 瞬の視線は、真っ直ぐ私に向けられていて、隣にいる麗奈なんか視界にも入っていない。 それはそれで、どうなの……。 昔はあれだけ「麗奈、麗奈」と言っていたのに。 いざ、麗奈が手に入ったらぞんざいに扱っている。 それとも、加納家の血筋である事が分かり、私を手放した事を後悔してい