تسجيل الدخول登録者八十万人を誇った人気ゲーム実況者「クロユウ」こと黒瀬悠斗は、悪意ある切り抜き炎上ですべてを失い、田舎の喫茶店で身を隠して暮らしていた。そこで出会ったのは、喉を傷めて声を失いかけた人気VTuber「月乃こはね」の中の人・白瀬こはる。彼女を守り、商店街を立て直すうち、悠斗はもう一度人を信じ始める。だが過去の炎上を仕組んだ影が現在まで伸び、偽の動画、盗まれた声、消えたはずのアカウントが動き出す。疑いと恐怖の中で寄り添う二人は、互いを守るだけの関係から少しずつ惹かれ合っていく。傷を抱えた二人が、居場所と真実、そして不器用な恋を取り戻す再生×サスペンス恋愛物語。
عرض المزيد俺の名前がネットで燃えた日、世界は思ったより普通に回っていた。
電車は時間通りに来た。駅前の牛丼屋はいつも通り湯気を立てていたし、コンビニの棚には新作スイーツが並んでいた。隣の部屋の大学生は、夜中の二時に友達を呼んで馬鹿みたいに笑っていた。 俺だけが終わっていた。 スマホの通知欄は、血が出るほど殴られたみたいに赤くなっていた。 死ね。 消えろ。 謝れ。 二度と喋るな。 声が不快。 お前の動画で笑ってた昔の自分を殴りたい。 登録してたのが恥ずかしい。 人間として終わってる。 こいつを許すな。 スポンサーに通報しました。 学校にいるこういう奴が一番嫌いだった。 家族も同類なんだろうな。 最後の一文で、俺はスマホをベッドに投げた。 家族は関係ないだろ、と言いたかった。 けれど、言えなかった。 言えばまた燃える。 黙っていても燃える。 謝っても燃える。 反論すれば油。 説明すれば言い訳。 無言なら逃亡。 その時点で、俺はもう詰んでいた。 黒瀬悠斗。二十八歳。 かつては「クロユウ」という名前でゲーム実況をやっていた。登録者は八十万人ちょっと。大手と呼ばれるにはまだ足りないが、街を歩いていて声をかけられることもあったし、案件も来た。ゲーム会社の人間と名刺交換をして、妙に高い弁当が出る収録にも呼ばれた。 自分では、わりとうまくやっているつもりだった。 ゲームが好きで、喋るのが好きで、リスナーが笑ってくれるのが好きだった。 コメント欄に「今日も笑った」「嫌なことあったけど元気出た」と流れるたび、俺は画面の向こうに居場所を見つけた気になっていた。 その居場所が、ある日、燃えた。 きっかけは一本の切り抜きだった。 企業案件の収録後、スタッフと雑談していた時の音声。 俺の発言は前後を切られ、字幕を盛られ、いかにも視聴者を馬鹿にしているように編集されていた。 もちろん、全部が嘘だったとは言わない。 俺は聖人じゃない。 忙しさにかまけて態度が雑になった日もある。 数字を見て焦ったこともある。 同接が落ちた夜に、配信後の部屋で一人、机を殴ったこともある。 それでも、あの切り抜きに出ていた俺は、俺ではなかった。 そう言いたかった。 でも、言えなかった。 炎上というのは、事実確認が終わる前に判決が出る。 判決が出た後に証拠を出しても、誰も読まない。 読んだところで、面白くないからだ。 俺を殴る方が、ずっと分かりやすくて、気持ちいい。 謝罪配信をした。 スーツを着て、カメラの前に座って、頭を下げた。 何に対して謝っているのか途中から分からなくなりながら、それでも謝った。 コメント欄は地獄だった。 謝り方が軽い。 目が笑ってる。 反省してない。 泣けば許されると思ってる。 こいつまだ収益化してんの? スポンサー剥がせ。 所属先に問い合わせる。 実家特定した。 俺は、配信を切った後、トイレで吐いた。 次の日、スポンサーが一社消えた。 その次の日、コラボ予定がなくなった。 その次の日、昔から一緒にやっていた配信仲間の神谷レンが、短い動画を出した。 『僕は彼のことを友人だと思っていました。だからこそ、今回の件は本当に残念です』 あいつは泣きそうな顔をしていた。 再生数は一日で三百万を超えた。 その動画のコメント欄には、俺の名前と一緒に、裏切り者、人間のクズ、レンくん可哀想、という言葉が並んでいた。 そこで俺は、ようやく理解した。 俺はもう、誰かの物語の悪役になったのだ。 悪役は、何を言っても悪役だ。 台本がそう決まったら、観客はそれを変えたがらない。 それから一年。 俺は、田舎のシャッター商店街でコーヒーカップを洗っている。 「黒瀬くん、今日のナポリタン、ちょっと薄かったわ」 昼過ぎの喫茶こもれびに、中年女性の声がのんびり響いた。 店内には古いジャズが流れている。音質の悪いスピーカーから、サックスの音が少し割れて聞こえる。壁には日焼けしたメニュー表。カウンターには砂糖の瓶と、誰も読まない地域新聞。窓際の席には、毎日同じ時間にやってくる常連客が座っていた。 その常連客――ナポリタンを毎回半分残す佐伯さんは、今日もきっちり半分残していた。 皿の上には、赤い麺の小山が、まるで何かの儀式みたいに左右対称で残っている。 「佐伯さん」 「なあに」 「毎回思うんですけど」 「ええ」 「半分残すなら、最初からハーフサイズ頼みません?」 佐伯さんは、フォークを置き、俺を見た。 少しだけ傷ついた顔をした。 「黒瀬くん、女心が分かってないわね」 「ナポリタン半分から女心に行くんですか」 「全部食べるつもりではいるのよ」 「毎回?」 「毎回」 「一度も完食してないですよ」 「だから人生なのよ」 「ナポリタンが?」 「そう。人生はいつも、食べきれないナポリタンなの」 俺は一瞬、真面目に受け止めそうになった。 疲れているのかもしれない。 「名言っぽく言えば何でも通ると思わないでください」 「あら、冷たい」 「薄いナポリタンを出した俺も悪いですけど」 「そこは認めるのね」 「薄かったですか?」 「ううん、今日は濃かった」 「どっちなんですか」 「会話がしたかったの」 佐伯さんはそう言って、ふふっと笑った。 こういう人間が、この商店街にはまだ残っている。 用がなくても店に来る人。 買わないのに八百屋の親父と口喧嘩する人。 ゲームをしないのに古いゲーセンの椅子に座って新聞を読む人。 味に文句をつけるわりに、次の日も同じものを頼む人。 面倒で、うるさくて、効率が悪い。 けれど、画面の向こうから飛んでくる短文の悪意よりは、ずっと人間らしかった。 「黒瀬」 カウンター席から、低い声がした。 商店街会長の大槻源三さんだ。六十八歳。眉間の皺だけで固定資産税が取れそうな顔をしている。白髪交じりの頭をオールバックにし、いつも作業着の上にベストを着ている。 源三さんは、うちのブレンドコーヒーを一口飲んで、渋い顔をした。 「まずい」 「毎日それ言いますね」 「毎日まずいからな」 「じゃあ来ないでくださいよ」 「ここがなくなったら、わしが文句を言う場所がなくなる」 「文句のために喫茶店を維持しないでください」 「若造が。商店街っちゅうのはな、文句を言う老人で持っとるんだ」 「嫌なインフラですね」 源三さんは鼻を鳴らした。 「昨日、駅前にまたチェーン店ができたらしいぞ」 「知ってます。チラシ入ってました。コーヒー二百円です」 「ここの半額だな」 「だからって、うちを見ながら言わないでください」 「向こうは Wi-Fi もある」 「うちは人情があります」 「一番タダで済ませようとするやつだな」 「商店街会長がそれ言います?」 佐伯さんが横から笑った。 「でも黒瀬くん、Wi-Fiくらいつけたら? 若い子、来るかもしれないじゃない」 「若い子はまずこの商店街に来ません」 「まあねえ」 あっさり認められた。 つらい。 喫茶こもれびがある「こもれび商店街」は、駅から徒歩二十分。徒歩二十分というのは、地方ではほぼ異国だ。昔は人通りもあったらしいが、今は昼間でもシャッターの方が多い。 八百屋。弁当屋。模型店。古いゲームセンター。金物屋。和菓子屋。うちの喫茶店。 残っている店を指で数えられる時点で、だいぶ末期である。 俺がこの店に来たのは、一年前。 炎上して、何もかも嫌になって、東京の部屋から逃げた。 実家には帰れなかった。家族に迷惑をかけたくなかったし、何より、自分の顔をまともに見せられる気がしなかった。 そんな時に、叔父の訃報が届いた。 母方の叔父。 子供の頃、夏休みに何度か世話になった人だった。 あまり喋らない人だったが、やたら濃いコーヒーを淹れ、客の愚痴を黙って聞くのが上手かった。 葬儀の後、叔父が残した喫茶店の整理を手伝うためにここへ来た。 本当は、一週間で帰るつもりだった。 けれど、帰る場所がなかった。 店の鍵を握ったまま、俺はそのまま居座った。 源三さんには「根無し草みたいな顔をしとる」と言われ、弁当屋の芽衣には「悠斗兄、目が死んでる」と言われた。 否定できなかった。 「黒瀬」 源三さんがまた呼んだ。 「はい」 「お前、スマホ鳴っとるぞ」 俺は反射的に手を止めた。 カウンターの端に置いていたスマホが、短く震えている。 通知音は切ってある。 それでも、振動だけで背中の奥が冷えた。 画面を見る。 ただの天気アプリだった。 明日は雨。 降水確率八十パーセント。 「……天気です」 「天気に負けた顔をするな」 「してません」 「しとる。野良猫が保健所の車を見た時みたいな顔だ」 「例えが悪すぎる」 源三さんはコーヒーを飲み干し、五百円玉をカウンターに置いた。 「お前、まだネット見れんのか」 佐伯さんのフォークが止まった。 店内の空気が、少しだけ重くなる。 俺はカップを拭きながら、平気なふりをした。 「見れますよ」 「嘘つけ」 「見ようと思えば」 「思えんのだろ」 「……まあ、別に、見る必要もないですから」 源三さんは俺をじっと見た。 老人の目というのは、たまに妙に逃げ場がない。 「若いもんは、画面の中で生きとると思っとった」 「急に何ですか」 「でも、画面から追い出されたら、今度はこっちにも戻れん顔をする。面倒な時代だな」 「源さん、たまにまともなこと言うのやめてください」 「たまにとは何だ、たまにとは」 「いつもはコーヒーまずいしか言わないので」 「実際まずい」 「帰ってください」 源三さんは鼻で笑い、立ち上がった。 「戸締まり、ちゃんとしろよ。最近、駅の方で酔っ払いが増えとる」 「はいはい」 「はいは一回」 「昭和の先生ですか」 「昭和は良かったぞ。悪口は本人の前で言った」 「それはそれで嫌ですね」 源三さんが出ていくと、扉の上のベルがからん、と鳴った。 佐伯さんも、残したナポリタンを見つめてから、少し困った顔をした。 「持って帰る?」 「半分だけ?」 「明日の朝、食べるかもしれないし」 「絶対食べないでしょ」 「分かってるけど、捨てるの嫌なのよ」 「じゃあ包みます」 「ありがとう。黒瀬くん、そういうところは優しいのにね」 「そういうところ以外が終わってるみたいに言わないでください」 「あら、そう聞こえた?」 「聞こえました」 「じゃあ正解ね」 「ひどいな」 佐伯さんは笑いながら帰っていった。 夕方になると、客は完全に途切れた。 俺はカウンターの中で洗い物を片付け、床を掃き、古いレジを締める。売上は見ない方が精神にいい金額だった。 外では、雨が降り始めていた。 最初はぽつぽつだったが、すぐに本降りになった。 商店街のアーケードは途中で途切れているから、雨音が場所によって変わる。トタン屋根に当たる軽い音。アスファルトを叩く湿った音。遠くで車が水を跳ねる音。 雨の日の商店街は、いつもよりさらに寂しい。 閉まったシャッターが濡れて黒く光り、古い看板の文字が街灯にぼんやり浮かぶ。 うちの店の窓にも、雨粒が何本も筋を作っていた。 俺は店の照明を半分落とし、カウンターに肘をついた。 スマホを開く。 癖で動画アプリに指が伸びる。 すぐに止まる。 俺は、まだ自分のアカウントにログインできない。 ログイン画面を見るだけで、胸の奥がざわつく。 代わりに、別のアプリを開いた。 配信サイト。 フォロー欄の一番上に、月乃こはねのアイコンがあった。 白い月を背景に、淡い水色の髪をした女の子が笑っている。 うさぎのような耳飾りをつけた、明るくて、少しぽんこつで、やたらリスナーを甘やかすVTuber。 月乃こはね。 俺が炎上後も、唯一まともに聞けた声だった。 最初に見たのは、たぶん深夜三時くらいだったと思う。 眠れなくて、酒も飲めなくて、部屋の電気も消せなくて、何もかも嫌になっていた夜。 おすすめ欄に流れてきた切り抜きで、彼女はゲームの雑魚敵に負けて泣き真似をしていた。 『待って待って待って! 今のは違うの! こはねが弱いんじゃなくて、床が滑ったの! 床が!』 意味が分からなかった。 ゲーム画面に床なんか関係なかった。 なのに、コメント欄は笑っていた。 彼女も笑っていた。 その笑い声が、妙に柔らかかった。 人を責めない声だった。 失敗を、失敗のまま笑ってくれる声だった。 それから俺は、彼女の配信をよく流すようになった。 コメントはしなかった。 投げ銭もしなかった。 ただ、聞いていた。 『今日も来てくれてありがとう。来れなかった人も、生きてたらえらいです。寝落ちした人も、寝られたなら勝ちです。何もできなかった人も、こはねと一緒ですね。今日は一緒に、できなかった側として胸を張りましょう』 馬鹿みたいな言葉だと思った。 でも、その馬鹿みたいな言葉で、俺は何度か朝まで生き残った。 今日、月乃こはねの配信予定はなかった。 公式アカウントには、数日前から「体調不良のため一部活動をお休みします」と出ている。 コメント欄には心配の声が並んでいた。 ゆっくり休んで。 無理しないで。 待ってます。 こはねちゃんの健康が一番。 でも案件どうなるの? 休みすぎじゃない? プロ意識なくない? 中の人メンタル弱い? 他の子はもっと頑張ってるのに。 俺は画面を閉じた。 「……人に無理するなって言うの、簡単だよな」 自分の声が、店内に小さく落ちた。 言う側は気持ちいい。 優しい人間になった気がする。 でも、言われた方が本当に休めるかどうかは、別の話だ。 俺はレジ横の古い時計を見た。 午後八時四十六分。 閉店時間はとっくに過ぎている。 「ゴミ、出すか」 厨房のゴミ袋を縛り、裏口へ向かった。 裏口は、商店街の通りとは反対側にある。 狭い路地に面していて、古い室外機とビールケースと、誰が置いたのか分からない割れた植木鉢が並んでいる。 扉を開けた瞬間、雨の匂いが一気に入ってきた。 冷たい空気。 濡れたコンクリートの匂い。 排水溝から上がる少し生臭い匂い。 「うわ、思ったより降ってるな」 俺はゴミ袋を抱えたまま、軒下から外を覗いた。 その時だった。 路地の端に、白いものが見えた。 最初は、ゴミ袋かと思った。 けれど、それにしては形がおかしい。 人の腕のようなものが、雨に濡れた地面に投げ出されている。 「……は?」 俺はゴミ袋をその場に置き、雨の中へ出た。 傘はない。 数歩で髪も肩も濡れた。 路地の奥。 店の裏口から少し離れた、古い自販機の横。 そこに、女の子が倒れていた。 白いパーカー。 細い身体。 濡れて頬に張りついた長い髪。 年は、二十歳前後だろうか。いや、もっと幼く見える。高校生と言われても通りそうだった。 俺は一瞬、足が止まった。 人が倒れている。 その事実を、頭がうまく処理できなかった。 「おい」 声をかける。 返事はない。 「おい、大丈夫か。聞こえるか」 しゃがみ込む。 彼女の顔はひどく青白かった。唇に血の気がない。呼吸はある。浅いが、確かにしている。 手にはスマホを握りしめていた。 俺はまず救急車、と思ってポケットからスマホを出そうとした。 その時、少女の指がぴくりと動いた。 「……」 「聞こえるか? 救急車呼ぶぞ。名前言えるか?」 少女のまつげが震えた。 目が少しだけ開く。 大きな目だった。 雨のせいか、涙のせいか、瞳が妙に潤んで見えた。 少女は俺を見ているようで、見ていなかった。 もっと遠く、画面の向こう側みたいな場所を見ている。 「……しなきゃ」 「何?」 少女の唇が、ほとんど音にならない声を作った。 「配信……しなきゃ……」 俺は、息を止めた。 雨音だけが路地を埋める。 配信。 その言葉は、俺の中の古傷を、爪で軽く引っかいた。 「……今は配信とか言ってる場合じゃないだろ」 自分でも驚くくらい、低い声が出た。 少女は、それでもスマホを握りしめていた。 まるで、それを離したら自分の存在まで消えるとでも思っているみたいに。 「お前、家は? 誰か呼べる人いるか?」 「……だめ」 「だめ?」 「連絡……しないで……」 「いや、でもな」 「お願い……します」 その声は、弱かった。 弱すぎて、逆に無視できなかった。 俺は舌打ちしかけて、やめた。 倒れている女の子に舌打ちするほど、俺はまだ終わっていない。 たぶん。 終わっていないと思いたい。 「分かった。とりあえず店に入れる。動けるか?」 少女は答えない。 「無理だな。よし、悪い。触るぞ。嫌だったら後で警察に言え。俺も事情説明くらいはする」 少女を抱き起こす。 軽かった。 軽すぎた。 白いパーカーは雨を吸って重いのに、身体そのものは妙に頼りない。ちゃんと食べているのか疑いたくなるくらいだった。 彼女の髪から、水滴が俺の腕に落ちる。 冷たい。 体温も低い。 「本当に何やってんだよ……」 誰に言ったのか、自分でも分からなかった。 少女を抱えて、店の裏口へ戻る。 厨房の床が濡れた。 叔父がいたら怒っただろうな、と思ったが、人命より床を優先する叔父でもなかった。 俺は店の奥、普段は休憩用に使っている古いソファに少女を寝かせた。 タオル。 毛布。 ストーブ。 身体が勝手に動いた。 人を助けるのに慣れているわけじゃない。 ただ、何かしていないと、自分が固まってしまいそうだった。 少女は目を閉じている。 呼吸はさっきより少し落ち着いたように見えた。 俺はキッチンへ戻り、湯を沸かした。 コーヒーはまずいと言われるが、ココアなら失敗しない。たぶん。粉を入れて牛乳を温めるだけだ。人類の優しさが詰まった飲み物である。 マグカップを用意していると、休憩室から小さな音がした。 スマホの通知音。 俺のものではない。 少女が握っていたスマホだ。 俺は見ないようにしようとした。 他人のスマホなんか、見るものじゃない。 まして倒れていた女の子のスマホだ。 完全にアウト。 現代社会における地雷原。 触れた瞬間、人生二度目の炎上が始まる可能性すらある。 けれど、通知音はもう一度鳴った。 そして、画面がこちらを向いていた。 見るつもりはなかった。 本当に、なかった。 ただ、視界に入った。 ロック画面に表示された通知。 そこに書かれていた文字を読んだ瞬間、俺は手に持っていたスプーンを落とした。 金属が床に当たり、やけに大きな音を立てる。 画面には、こう表示されていた。 【月乃こはね公式アカウントにログインしました】 俺は動けなくなった。 月乃こはね。 炎上してから、俺が唯一聞き続けていた声。 俺が誰にも助けてと言えなかった夜、勝手に救われていた相手。 画面の中で笑って、転んで、泣き真似をして、リスナーを甘やかして、今日も生きててえらいと言っていた、あの声。 その名前が、目の前の少女のスマホに出ている。 「……いや」 俺は小さく呟いた。 「偶然だろ」 偶然、月乃こはねの公式アカウントにログインできるスマホを持った少女が、田舎の喫茶店の裏口で倒れている。 そんな偶然があるか。 あるわけがない。 少女が、うっすら目を開けた。 俺は慌てて視線を逸らした。 見てない。 見てないことにする。 俺は何も見てない。 社会人として、元配信者として、炎上経験者として、ここは絶対に見てない顔をするべきだ。 少女は、かすれた声で言った。 「……ここ、どこですか」 俺はマグカップを握りしめたまま、返事をした。 「喫茶店。こもれびって店」 「……喫茶店」 「そう。潰れかけの」 「……潰れかけ」 「そこだけ復唱するな」 少女はぼんやり俺を見た。 焦点の合わない目。 けれど、その声。 今の一言だけでは分からない。 でも、耳の奥が覚えていた。 配信で何度も聞いた声とは違う。 もっと小さくて、乾いていて、感情が薄い。 けれど、どこかに同じ響きがある。 俺は喉の奥が詰まるのを感じた。 「飲めるか。ココア」 少女は少しだけ頷いた。 俺はマグカップを渡す。 少女は両手で持った。 だが、指が震えている。少し中身がこぼれた。 「あ、熱いか?」 少女は首を横に振った。 「……すみません」 「謝るほどの被害じゃない。テーブルはココアくらいで怒らない」 「……すみません」 「だから謝らなくていいって」 少女は、マグカップに口をつけた。 ほんの少し飲んで、黙る。 「甘すぎたか?」 少女はゆっくり首を振った。 「……甘いです」 「まあ、ココアだからな」 「……甘い」 二回言った。 何かを確かめるように。 俺は、その様子を見て、変な胸騒ぎがした。 「名前、聞いてもいいか」 少女の肩が、小さく跳ねた。 警戒された。 当然だ。 雨の中で倒れて、知らない男の喫茶店に運び込まれて、ココアを出されている。 状況だけ見れば、俺の方がだいぶ怪しい。 「言いたくなければいい」 俺がそう言うと、少女は少しだけ迷ってから答えた。 「……白瀬」 「白瀬さん」 「……はい」 「俺は黒瀬。白と黒で、なんか縁起悪いな」 少女はマグカップを見つめたまま、少しだけ瞬きをした。 笑った、のかもしれない。 分からないくらい小さな反応だった。 「下の名前は?」 「……」 「言いたくなければいい」 「……こはる」 声が、ほとんど雨音に溶けた。 白瀬こはる。 俺はその名前を、頭の中で繰り返した。 月乃こはね。 白瀬こはる。 こはね。 こはる。 似ているようで、違う。 画面の中の名前と、目の前の名前。 どちらが本当なのか。 どちらも本当なのか。 俺には、まだ分からない。 「白瀬さん」 「……はい」 「救急車、呼んだ方がいいと思う」 白瀬こはるは、はっきりと首を振った。 今までで一番強い反応だった。 「だめです」 「でも、倒れてたんだぞ」 「だめ、です」 「誰かに連絡は?」 「しないでください」 「家族とか」 その言葉を出した瞬間、彼女の顔がこわばった。 俺は、ああ、と思った。 地雷を踏んだ。 「悪い」 「……」 「じゃあ、事務所とか」 こはるの指が、マグカップを強く握った。 また踏んだ。 俺は自分の学習能力のなさに嫌気が差した。 「分かった。今は聞かない」 こはるは何も言わない。 「ただ、ここで死なれると俺が困る。喫茶店としても評判が悪い。もともと評判なんかないけど、死体が出た店になるとさすがに厳しい」 こはるが、ほんの少しだけ眉を動かした。 「……死なないです」 「それは助かる」 「……迷惑、かけません」 「今かけてる」 言ってから、しまったと思った。 こはるの顔が、すっと無表情になった。 俺は慌てて続けた。 「いや、違う。責めてるんじゃなくて。人間は迷惑かけるもんだろ。俺もこの店に迷惑かけてるし、源さんは毎日まずいって言いに来るし、佐伯さんはナポリタンを半分残す。全員そこそこ迷惑だ」 「……ナポリタン」 「そこに食いつくのか」 「半分、残すんですか」 「毎回な。もはや芸術だぞ。綺麗に半分残す」 こはるはマグカップを見つめたまま、小さく息を吐いた。 笑ったかもしれない。 俺は、その小さな反応に妙に安心してしまった。 何をやっているんだ、と思う。 目の前にいるのは、倒れていた知らない少女だ。 しかも、たぶん、俺の推しの中の人だ。 落ち着け。 落ち着け、黒瀬悠斗。 ここでオタクの自我を出すな。 絶対に出すな。 「いつも配信見てます」なんて言った瞬間、この子は二度と安心できない。 自分が弱っている時に、知らない男が古参リスナー面してきたら、普通に恐怖だ。 俺は、推しとしてではなく、倒れていた一人の人間として接するべきだ。 そう頭では分かっている。 でも、心臓はうるさかった。 こはるはココアを少しずつ飲んでいる。 その手元に、スマホがある。 また通知が来た。 今度は、彼女自身が画面を見た。 見た瞬間、顔色が変わる。 俺は反射的に尋ねた。 「大丈夫か」 こはるは答えない。 スマホを伏せようとする。 だが指が震えて、うまくできない。 画面の文字が、また少し見えてしまった。 【マネージャー:こはねさん、今どこですか。今日の案件配信、飛ばす気ですか?】 俺は、今度こそ完全に固まった。 こはねさん。 案件配信。 飛ばす気ですか。 もう偶然では片付かない。 こはるは、スマホを胸に抱え込んだ。 怯えた目で、俺を見る。 見られた。 知られた。 そういう顔だった。 俺は、ゆっくり息を吐いた。 ここで一番やってはいけないのは、問い詰めることだ。 月乃こはねなんですか。 本物ですか。 いつも見てます。 サインください。 どうしてここにいるんですか。 案件飛ばしたんですか。 事務所と何があったんですか。 全部、言ってはいけない。 俺は、マグカップを指差した。 「冷めるぞ」 こはるは瞬きをした。 「……え」 「ココア。冷めると膜張る。あれ、うまいって言う奴もいるけど、俺は苦手だ」 「……」 「飲めるなら飲め。無理なら残せ。佐伯さんも毎回残すし、この店は残飯に寛容だ」 こはるは、何か言いたそうに唇を動かした。 だが、声にならない。 俺は椅子に座り、彼女から少し距離を取った。 「今日はここにいろ。外は雨だし、その状態で歩いたらまた倒れる」 「……でも」 「金は取らない。警察にも今は連絡しない。救急車も、お前が本当にやばそうになったら呼ぶ。そこは譲らない」 「……」 「あと、俺は何も見てない」 こはるの目が揺れた。 「スマホの通知とか、アカウント名とか、そういうのは何も見てない。だから、お前も今は何も説明しなくていい」 嘘だった。 見た。 完全に見た。 脳に焼き付いている。 でも、見たことにしない。 それくらいの嘘は、許されてもいいと思った。 こはるは、両手でマグカップを包んだまま、長い沈黙の後に言った。 「……黒瀬さん」 「ん?」 「どうして、聞かないんですか」 俺は少し考えた。 格好いい理由を言おうと思えば言えた。 誰にでも事情はある、とか。 無理に話さなくていい、とか。 君を一人の人間として見ている、とか。 でも、そういう言葉は、今の彼女にはたぶん軽すぎる。 だから、俺は正直に言った。 「聞かれたくないことを聞かれるのが、どれだけ嫌か知ってるから」 こはるは黙った。 雨音が続く。 店の表にある看板が、風で少し揺れる音がした。 こはるは、ココアをもう一口飲んだ。 「……甘いです」 「三回目だな」 「……はい」 「嫌いか?」 「分かりません」 「分からない?」 「最近、味があまり……分からなかったので」 俺は、何も返せなかった。 喫茶店の奥で、白いパーカーの少女がココアを飲んでいる。 たったそれだけの光景なのに、なぜかひどく痛々しかった。 画面の中の月乃こはねは、いつも笑っていた。 転んでも、負けても、コメントにからかわれても、ふにゃっと笑っていた。 その声に、俺は勝手に救われていた。 でも、目の前の白瀬こはるは、笑わない。 笑えないのかもしれない。 それでも、さっき彼女は言った。 配信しなきゃ。 倒れて、雨に濡れて、身体が冷え切って、それでも最初に出た言葉がそれだった。 俺は、自分の昔の姿を見ている気がした。 熱があっても配信した。 眠れなくても配信した。 炎上中でも配信しようとした。 休んだら終わると思っていた。 止まったら置いていかれると思っていた。 笑えなくても、笑わなければいけないと思っていた。 その結果、俺は壊れた。 そして今、壊れかけた誰かが、俺の店にいる。 「白瀬さん」 「……はい」 「今日は寝ろ」 こはるは、少しだけ目を見開いた。 「配信は?」 「知らん」 「……でも」 「でもじゃない。倒れた人間は寝る。これは世界共通のルールだ」 「怒られます」 「怒られたらいい」 「迷惑が」 「今さらだろ」 「……嫌われます」 その声が、妙に幼かった。 俺は、少しだけ言葉を探した。 「嫌う奴には、嫌わせとけ」 こはるは、俺を見た。 雨に濡れて、顔色は悪くて、目の下には薄い影がある。 それでも、その目はやけに綺麗だった。 「……そんなの、無理です」 「そうだな」 「簡単に言わないでください」 「簡単じゃない」 俺は、カウンターの方を見た。 誰もいない店内。 古いスピーカー。 叔父が残したコーヒーミル。 客が三人しか来ない喫茶店。 「俺もできなかったから、言ってる」 こはるは何も言わなかった。 俺も、それ以上は言わなかった。 しばらくして、こはるのまぶたが落ち始めた。 限界なのだろう。 マグカップを持つ手も、少しずつ力が抜けている。 「寝ろ。カップは俺が持つ」 「……すみません」 「謝罪禁止」 「……ごめんなさい」 「言い換えただけだろ」 こはるは、ほんの少しだけ口元を緩めた。 今度は分かった。 笑った。 小さくて、弱くて、すぐに消えた笑みだった。 でも、確かに笑った。 俺はマグカップを受け取り、毛布をかけ直した。 こはるはソファに横になり、スマホを胸元に抱えたまま目を閉じる。 その姿は、とても大人気VTuberには見えなかった。 ただの、疲れ切った女の子だった。 店の外では、まだ雨が降っている。 俺はカウンターへ戻り、落としたスプーンを拾った。 洗い直そうとして、水道の前で手を止める。 震えていた。 俺の手が。 「……冗談だろ」 誰もいない厨房で、俺は呟いた。 推しの中の人を拾った。 言葉にすると、馬鹿みたいだった。 ライトノベルかよ、と自分でも思う。 でも、現実はもっと面倒だ。 彼女は都合のいいヒロインではない。 俺を救うために現れた天使でもない。 たぶん、彼女自身が今、誰かに救われなければ危ない。 そして俺は、誰かを救えるほど立派な人間じゃない。 自分一人の炎上から逃げるだけで精一杯だった男だ。 それでも。 休憩室のソファで眠るこはるを見た。 雨の音に混じって、彼女の浅い寝息が聞こえる。 俺は小さく息を吐いた。 「……明日、考えるか」 今夜だけは、何も燃えなくていい。 通知も、コメント欄も、案件も、謝罪も、炎上も。 全部、外の雨に流されればいい。 そう思った時だった。 こはるのスマホが、また震えた。 俺は見ない。 見ないと決めた。 けれど、伏せられていなかった画面が、暗い休憩室の中でぼんやり光る。 そこに表示された短い通知だけが、やけに鮮明だった。 【マネージャー:こはねさん、本当にこのまま飛ぶなら、契約の話になります】 俺は奥歯を噛んだ。 眠っているこはるは、何も知らない。 いや、知っているからこそ、眠っていても眉間に皺が寄っているのかもしれない。 俺はスマホから目を逸らし、店の照明をさらに落とした。 雨の夜。 潰れかけの喫茶店。 炎上して消えた元ゲーム実況者。 そして、誰にも助けてと言えない推しの中の人。 最悪みたいな組み合わせだった。 だけど、なぜか俺は思ってしまった。 この子を、もう一度あの雨の中に戻してはいけない。 その時点でたぶん、俺の静かな逃亡生活は終わっていた。 俺の推しは、俺の店の裏口で、雨に濡れて倒れていた。 そして俺は、見て見ぬふりができるほど、まだ器用な大人にはなれていなかった。第61話 後戻りできない資料 翌朝、俺はこはるの顔をまともに見られなかった。 理由は分かっている。 昨日の夜、こはるが俺を呼んだ。「……悠斗さん」 たった五文字。 声としては、かすれていた。 小さかった。 たぶん、配信で使っていた月乃こはねの声とはまるで違う。 それでも俺には、耳の奥に残るには十分すぎた。 朝、コーヒー豆を量っている最中にも思い出した。 カップを洗っている時にも思い出した。 店先の五つのトマトを見た時にも、なぜか思い出した。 五つのトマトと「悠斗さん」に何の関係があるのかは分からない。 ただ、思い出した。 人間の脳は、時々まったく関係ないものを同じ箱に入れる。 たぶん今の俺の頭の中には、「白湯」「トマト」「悠斗さん」「照れ逃げ顔」が一緒の棚に入っている。 最悪だ。 こはるも、明らかにおかしかった。 窓際の席に座っているが、いつもより少し姿勢が硬い。 白いパーカーの袖を指先まで引っ張り、ホワイトボードを膝に乗せている。 俺が白湯を置きに行くと、彼女は一瞬こちらを見て、すぐ目をそらした。「白湯、置いとく」 俺が言うと、こはるは小さく頷いた。 そして、ホワイトボードに書く。【ありがとうございます】 いつもの文字。 いつものやり取り。 なのに、昨日の声が間に挟まっているせいで、どうにも落ち着かない。 俺は意味もなくカップの向きを直した。 こはるも意味もなく白湯のカップを少し回した。 二人して、白湯の周りで不審
第60話 推しが、俺の名前を呼んだ日 好きだったものを、嫌いにならないために休む。 その言葉は、朝になってもこもれびのテーブルの上に残っていた。 紙に書いたわけではない。 けれど、そこにある。 白湯のカップの横。 名前の箱のそば。 証拠の箱の上に置かれた、昨日の方針札の隣。【今日の置き場所】 その紙を見るたびに、俺は昨日のこはるの文字を思い出す。【月乃こはねを辞めたいほど苦しい】【月乃こはねを嫌いになりたくない】【嫌いにならないために、離れたい】 矛盾している。 だが、人間の本音なんてだいたい矛盾している。 辞めたい。 でも、捨てたくない。 逃げたい。 でも、嫌いになりたくない。 声を休ませたい。 でも、待ってくれている人に何かを返したい。 その全部を、昨日こはるは箱に入れた。 今日は、それを言葉にする日だった。 喫茶こもれびは、朝から妙に静かだった。 静かすぎて、かえって落ち着かない。 店先には、昨日の五つのトマトが並んでいる。 八百屋の親父さんは、「五人衆は崩すな」と言って帰っていった。 崩すなと言われても、トマトだ。 熟れたら食べるしかない。 源三さんは入口近くで新聞を読んでいる。 今日は足元に何もない。 と思ったら、カウンターの端に小さなザルが置いてあり、中にきゅうりが三本入っていた。 もう誰が置いたのかも分からない。 商店街では、野菜が自然発生する。 こはるは窓際の席にいた。 白いパーカー。
第59話 辞めたいと言った夜 その夜、こはるは一度も泣かなかった。 だから、逆に危ないと思った。 泣く時は、まだ外へ出ている。 涙という形で、体の外へ出ている。 けれど、泣かない時のこはるは、内側に水が溜まっていくように見えた。 静かで、薄くて、触れたら冷たい。 昨日、事務所上層部から「本人との直接面談」「契約上の問題」という言葉が来た。 こはるは書いた。【声が出ない私は、損害ですか】 その文字は、俺の中にまだ残っている。 損害。 十九歳の女の子が、自分の喉と自分の存在に対して使うには、あまりにも冷たい言葉だった。 俺は怒った。 真柴さんに止められた。 芽衣はプリンを出した。 源三さんは「紙は人の上に置くな」と言った。 そして、こはるは名前の箱と証拠の箱の横に、方針の札を置いた。【直接会うかどうかは、私の体も一緒に決めます】 それは、昨日の小さな勝ちだった。 けれど、小さな勝ちは、次の日の朝に全部を救ってくれるわけではない。 朝のこもれびで、こはるはいつもの窓際の席に座っていた。 白いパーカー。 膝の上のホワイトボード。 隣に白湯。 スマホは避難箱の中。 証拠の箱と名前の箱は、カウンターの下の棚に並んでいる。 店先には、今日もトマトがある。 四つだったはずのトマトは、五つになっていた。 さすがに聞いた。「八百屋さん、トマト増えてません?」 八百屋の親父さんは、店先で腕を組みながら言った。「五人衆だ」
第58話 契約上の問題 契約上の問題。 その言葉は、朝になっても喫茶こもれびの中に残っていた。 昨日、月乃こはね公式アカウントが動いた。 体調不良による活動休止継続。 憶測には回答しない。 詮索、接触、撮影、確認行為は控えてほしい。 今後の活動については、本人の体調および関係各所との協議を踏まえ、慎重に判断。 外から見れば、無難な文章だったのだと思う。 けれど、こはるには違った。 彼女は書いた。【月乃こはねが、遠くなりました】 そして、夜には名前の箱へ三枚の札を入れた。【月乃こはねは、少し遠くにいる】【声を守る人】【ここにいる白瀬こはる】 それだけで、昨日は閉店できた。 だが、閉店できたことと、問題が消えたことは違う。 朝のこもれびには、まだ「契約上の問題」という冷たい言葉が置かれていた。 俺は、カウンターの上を拭いていた。 拭く必要は、たぶんない。 昨日も拭いた。 一昨日も拭いた。 カウンターだけなら、今のこもれびは王宮の食卓より綺麗かもしれない。 だが、手を動かしていないと落ち着かなかった。 こはるは窓際の席にいた。 白いパーカー。 膝の上のホワイトボード。 隣の白湯。 目の前には名前の箱。 今日は、その箱を開けていない。 箱を見るだけで、月乃こはねという札が大きくなりすぎる気がするのかもしれない。 源三さんは入口近くで新聞を広げている。 今日は足元に何もない。 そう思った瞬間、テーブルの横に白菜が半玉置いてあるのに気づいた。 もう何も聞かない。