LOGIN目覚まし時計のアラームが鳴り響き、目を覚ますと窓から朝日が差し込んでいた。手を伸ばしてアラームを止め、ベッドから身体を起こす。
全身にまだ疲れが残っていて、昨夜バイトから帰ってきてすぐに眠りについたことを思い出した。
顔を洗い、髪を整えて、階下へと降りていく。リビングからは母の声と父の笑い声が聞こえてきて、朝食を作る良い匂いが鼻をくすぐった。
「おはよう、千景」
母が振り返って微笑み、僕は小さく頷いた。
「おはようございます」
父が新聞から顔を上げ、「よく眠れたか」と尋ねてくる。僕は「はい」と答えて、テーブルに着いた。
母が焼きたてのトーストと目玉焼き、サラダを運んできて、僕の前に置く。湯気が立ち上り、バターの香ばしい香りが広がった。フォークを手に取り、目玉焼きを一口食べると、優しい味が口の中に広がっていく。
「今日は授業、何時まで?」
母が尋ね、僕はコーヒーを飲みながら答えた。
「四時半まで。その後はバイト」
「そう。無理しないでね」
母の優しい声に、笑顔で頷いた。
母も義父も、僕がカマバーでバイトしているとは知らない。深夜まで営業している飲食店とだけ伝えていた。
朝食を終え、大学へと向かう。電車に揺られながら、窓の外を流れる景色を眺めていた。
大学に着くと授業を受け、友人と他愛もない話をする。
午後四時半に授業が終わると、僕は大学を出て玲司のマンションへと向かった。鍵を開けて中に入ると、リビングから玲司の声が聞こえてくる。
「おかえり」
「ただいま」
答えながら、荷物を置いて浴室へ向かった。
シャワーを浴び、身体を洗い流してから脱衣所に戻る。クローゼットに保管してある「ちか」の衣装を取り出し、黒のワンピースを取り出す。ブラジャーを身につけ、身体のラインを整えてから、ワンピースを着る。
「玲司、ファスナー上げて」
リビングに出て背中を向けると、玲司が立ち上がって近づいてきた。細く長い彼の指がファスナーを掴み、ゆっくりと上へと引き上げていく。背中が覆われていき、ワンピースが身体にぴったりと沿った。
「よし」
玲司が短く言い、僕は鏡の前に座った。化粧品を並べ、ファンデーションを顔に塗っていく。肌の色を均一にし、アイシャドウで目元を強調し、口紅で唇に色を足していく。
ウィッグを被り、長い黒髪が肩に流れ落ちる。玲司が後ろに立ち、髪を整えてくれた。櫛で丁寧に梳かし、ヘアピンで固定し、自然な流れを作っていく。玲司の手は慣れた動きで、あっという間に髪型が完成した。
「綺麗だよ」
玲司が囁き、僕の頭頂部に軽くキスを落とした。温かい唇が髪に触れ、胸が少しくすぐったくなる。
「ありがとう」
鏡に映る自分を見つめると、「ちか」がそこにいた。
玲司と一緒にマンションを出て、車で店へと向かう。店に着くと、ママである宮坂環さんが笑顔で迎えてくれた。
「ちか、今日も綺麗ね」
「ありがとうございます」
微笑み返し、カウンターの中に入る。グラスを磨き、ボトルを並べ、開店の準備を始めた。午後七時、店のドアが開き、最初の客が入ってくる。
「いらっしゃいませ」
声を作り、「ちか」を演じて笑顔で迎えた。客がカウンターに座り、注文を受ける。カクテルを作り、グラスに注ぎ、笑顔で差し出した。
店の中は徐々に賑やかになり、客の笑い声と音楽が混ざり合っていく。僕は「ちか」として接客を続け、客の話を聞き、笑顔で応じていった。
自分が同性愛者だと気づいたのは、中学二年生の時だった。周りの男子が女子の話で盛り上がっていても、僕は全く興味が湧かなくて、ただ好きな人がいないだけだと思っていた。
当時の体育教師に言い寄られ、放課後の体育倉庫に呼び出された。中年の男性教師が僕の肩に手を置き、身体を壁に押し付けてきた時、恐怖と嫌悪感が襲ってきた。抱かれそうになり、必死で抵抗したが、好きでもないのに身体が反応してしまったことに気づいて愕然とした。
あのときは誰かが倉庫の近くを通りかかった音に驚いた教師が、僕を離した。すぐに逃げるように倉庫を出て、家に帰ってシャワーを浴びながら泣いた。自分の恋愛対象が男であることを認識し、しばらくは受け入れられなくて苦しかった。
その後、母の再婚を知らされた。相手の男性とその息子に会う日が来て、玄関先で初めて伊織兄さんを見た瞬間、世界が変わった。
整った顔立ち、凛とした佇まい、優しい笑顔に、心臓が激しく鼓動を打ち始めて、顔が熱くなった。
恋をするという意味を知った。
性の対象が男であることを知り、さらに好きになってはいけない人を好きになったことで、僕の心が崩壊した。
真面目でいるのが苦痛で、悪い奴らとつるむことで心の均衡を保とうとした。授業をサボり、タバコを吸い、夜遅くまで繁華街をうろついた。
ある日、不良グループと喧嘩になり、ボロボロになった僕を環さんが拾ってきてくれた。開店前の店で、玲司が無言で傷の手当てをしてくれた。消毒液が傷口に染みて痛かったが、玲司の優しい手つきに涙が出た。
「つらいときはここに来ればいいわ」
環さんが優しく言い、僕の肩に手を置いた。温かい手のひらが、凍りついた心を溶かしていくようだった。
それから、開店前の準備を手伝わせてもらうようになった。グラスを磨き、テーブルを拭き、環さんと玲司の話を聞きながら、少しずつ心が落ち着いていった。
大学生になり、正式にバイトをさせてほしいとお願いした。環さんは少し考えてから頷き、「ちか」という源氏名をくれた。
週に四日間だけ、午後七時から午後十一時半まで働いている。店自体は深夜一時まで営業していて、金曜日と土曜日に限り、僕もラストまで入らせてもらっている。
深夜零時、玲司のマンションに一人で帰宅した。疲れた身体を引きずるようにして浴室へ向かい、シャワーを浴びる。メイクを落とし、ウィッグを外し、「ちか」から「千景」へと戻っていく。
タオルで身体を拭き、千景の服に着替えてからキッチンに立った。冷蔵庫から食材を出すと、朝食の準備を始める。
これから帰ってくる玲司の朝食を、バイトのある日は僕がいつも作っている。両親には飲食店で働いていると言っている手前、「ちか」としての仕事道具を置く場所が家にない。
玲司の好意によって、仕事道具を全て置かせてもらっている。そのお礼として、バイトがある日は朝食を作ってから帰っている。
ダイニングテーブルに用意した朝食を並べると、ラップをして帰る準備を始めた。
マンションを出て、夜道を歩いて自宅へと向かう。静かな住宅街を抜け、家の前に着く。両親はすでに寝ていて、玄関の鍵を静かに開けて中に入った。
階段を忍び足で上がり、自分の部屋に行く。ベッドに倒れ込むように横になり、深く息を吐いた。
朝は真面目な大学生として、夜は「ちか」として。二つの顔を使い分けながら、僕は生きている。「千景」も「ちか」も、どっちも僕には必要な顔だ。
深い眠りに落ちていく直前、兄さんの顔が浮かんできて、胸が熱くなる。会いたい、触れたい、抱きしめてほしい。願いが心の中で渦巻き、やがて意識が闇の中へと溶けていった。
日曜日の朝の光が、カーテンの隙間から細く差し込んでいた。 隣で眠る千景の寝顔を、頬杖をつきながら眺める。枕に広がった黒髪の間から覗く白い耳、規則正しく上下する薄い肩。朝の柔らかな光を受けて、指輪の表面に淡い虹が走っていた。 バーで「ちか」と出会ったあの夜から、もう五年になる。カウンターの隣に座った美しい女性が実は義弟で、男で、六年間も想い続けてくれていた人間だったと知ったときの衝撃は、今でも鮮明に覚えている。あの頃の俺は、仕事がどれだけ順調でも、どこか不完全な人間のように感じていた。営業成績も昇進も同僚からの信頼も、全てが砂上の楼閣のように脆く思えて、「女を抱けない」という一点が、積み上げてきたものの土台を静かに蝕んでいた。 千景が、全てを変えてくれた。 千景の睫毛が震えて、ゆっくりと瞼が持ち上がった。焦点の合わない瞳が天井を彷徨ってから、俺の顔を見つけて柔らかく細められる。二十八歳になった千景の寝起きの顔は、出会った頃よりも少しだけ大人びていて、目元に浮かぶ穏やかさが増していた。「おはよう」「おはよう、伊織」 軽く唇を重ねると、千景の温かい吐息が鼻先に触れる。優しい朝のキスは、一日の始まりを告げる大切な儀式のようなものだ。 先にベッドを出て、キッチンに立った。手際よく朝食の準備をしていく。 背中に温もりが触れた。千景が後ろから抱きついてきて、俺のシャツの背中に頬を押しつけている。細い腕が腰に回されて、寝起きの体温がじんわりと伝わってきた。「今日、どうする?」「午後から店に行く予定だよ。環さんから話があるって」「環さん? もう帰ってきてるの?」「うん。先週帰国したって」 フライパンの上でベーコンが弾ける音を聞きながら、千景の腕を軽く叩いて離してもらう。卵を割り入れると、白身がじゅうっと音を立てて広がった。「会いたいな」「一緒に来る?」「俺が行っていいの?」「環さんも会いたがってたから。喜ぶと思うよ」 千景が嬉しそうに頷いて、トースターにパンを入れた。二人で並んでキッチンに立つ日曜の朝は、五年間で当たり前の風景になっている。当たり前であることが、どれほど贅沢なのかを噛み締めながら、俺は目玉焼きを皿に移した。 向かい合ってダイニングテーブルに着き、トーストにバターを塗りながら千景が口を開いた。「玲司と一ツ橋さん、来月から同棲
黒地に赤い椿が散りばめられた着物の帯を締め直しながら、僕はカウンターの端に置かれた姿見で全身を確認した。華やかな帯揚げが胸元できちんと整っているのを確かめてから、袂を軽く払う。和服を着るようになって一年が経つけれど、帯の締め加減にはまだ神経を使う。きつすぎると呼吸が苦しくなり、緩すぎると着崩れてしまうから、毎回、微妙な加減を探りながら調整していた。「ママ、今夜も綺麗ですねえ」 カウンター席に腰かけた常連客が、グラスを掲げながら声をかけてくる。僕は口元に微笑みを浮かべて「ありがとうございます」と軽く頭を下げると、客のグラスに手を伸ばして水割りを作り始めた。氷がグラスの中でからからと回る音が、フロアに流れるジャズのピアノと重なっていく。 Queen's Nightの店内は、三年前と大きくは変わっていなかった。カウンターの木目も、壁に飾られた常連からの色紙も、奥のテーブル席に灯る間接照明の色合いも、環さんがいた頃のままだ。変わったのは、環さんの定位置だった場所に今は僕が立っていることだろう。バーテンダーの玲司はいつも通りシェイカーを振っている。 一年前、環さんは長年の夢だった世界旅行へと旅立った。「あなたたちに任せるわ」と笑って店の鍵を玲司に預けた環さんの後ろ姿を見送ったのが、つい昨日のことのように思い出される。新オーナーとなった玲司が経営面を担い、僕はバイトから正社員になって、ママ代理として店を切り盛りしていた。 かつての源氏名「ちか」は、いつの間にか「ちかママ」に変わり、新人キャストたちからも常連客からも、自然とそう呼ばれるようになっている。 新人キャストの一人がフロアから戻ってきて、「ママ、三番テーブルのお客様がお会計です」と耳元で囁いた。僕が頷いてレジへ向かおうとしたとき、入り口のドアが勢いよく開く音が店内に響いた。「こんばんはー!」 聞き覚えのある元気な声とともに飛び込んできたのは、短く刈り込んだ髪にがっしりとした肩幅、スポーツマン体型の男性だった。スーツの上着を小脇に抱えて、ネクタイを緩めた姿で息を弾ませている。「一ツ橋さん! 玲司、恋人が来たよ」 カウンターに向かって声をかけると、グラスを磨いていた玲司が顔をあげた。切れ長の目が一瞬だけ柔らかく細められて、「ああ」と短く応える声に微かな喜びが滲んでいる。交際を始めて一年半が経つ二人の間
窓の向こうに広がる夜景が、宝石を散りばめたように瞬いていた。 高層階のレストランは、フロア全体が落ち着いた間接照明に包まれていて、テーブルの上に灯された蝋燭の炎がゆらゆらと揺れるたびに、千景の横顔に柔らかな陰影を作り出している。純白のテーブルクロスの上には、フレンチのコース料理が一皿ずつ運ばれてきて、銀のカトラリーが静かに触れ合う音と、グラスを傾ける微かな水音だけが、二人の間に漂っていた。「今日は特別な日だから」 向かい合って座る千景にそう告げると、千景が少しだけ恥ずかしそうに目を伏せて、口元を綻ばせた。卒業証書を受け取った瞬間の誇らしげな横顔を思い出して、俺の胸にも温かいものが込み上げてくる。「卒業おめでとう」 グラスを掲げると、千景も赤ワインの入ったグラスを持ち上げて、澄んだ音を立てて合わせてくれた。蝋燭の光がワインの深紅を透かして、千景の白い指を赤く染めている。「ありがとう、伊織」 名前を呼ぶ声が柔らかく響いて、胸の奥がじんわりと熱くなった。呼び方が「兄さん」から「伊織」に変わってから、名前を口にされるたびに鼓動が跳ねる感覚は、何度経験しても慣れることがなかった。「あの日、バーで出会ってから……いろいろあったな」 ワインを一口含むと、芳醇な香りが喉を滑り落ちていく。あの夜、カウンターの隣に座った「ちか」の姿が脳裏をよぎった。長い黒髪、洗練されたワンピース、低くてハスキーな声。酔いに任せて弱みを曝け出した夜から、想像もしなかった場所まで二人で歩いてきたのだと思うと、感慨深い。「うん。伊織と付き合えて、僕はすごく幸せだよ」 千景がナプキンの端を指先で弄びながら、照れくさそうに微笑んだ。蝋燭の炎を映した瞳が潤んでいて、薄い唇が僅かに震えている。言葉にするのが気恥ずかしいのだろう、視線をワインのグラスに落としながらも、頬は仄かに紅潮していた。「俺も」 短く答えて微笑むと、千景がようやく顔を上げて目を合わせてくれた。視線が交わった瞬間に、千景の瞳に宿る光がふわりと柔らかくなって、レストランの喧騒が遠のいていくような錯覚に陥る。 デザートのクレームブリュレを食べ終えて、エスプレッソを飲みながら千景の話に耳を傾けていた。卒業式での友人との別れ、ゼミの教授からかけられた言葉、卒業論文を提出したときの達成感。一つ一つを嬉しそうに語る千景の表情を眺
玄関のドアを閉めた途端、千景の唇が重なってきた。 靴を脱ぐ間もなく、薄暗い玄関先で互いの体温を求め合うように抱き寄せると、千景の腕が首に絡みついてくる。ウィッグの黒髪が肩口に流れ落ち、微かに残る店の香りと千景自身の匂いが鼻腔をくすぐった。 唇を離しては重ね、離してはまた吸い上げる口づけを何度も繰り返すうちに、呼吸が荒くなり、互いの吐息だけが狭い空間に響いていく。 舌先が千景の上唇をなぞると、小さく身体を震わせて口を開いてくれた。差し込んだ舌が千景の舌と絡み合い、唾液が溢れて口の端から零れそうになる。飲み込む音が静かな玄関に響いて、千景の耳が薄く赤く染まっていくのが、廊下から漏れる常夜灯の灯りで見て取れた。 キスをしたまま、手のひらをワンピースの裾から滑り込ませると、太腿の柔らかな肌に触れた。指先を内側へと這わせながら上へ辿っていくと、スカートの布地を押し上げるように硬くなった千景の熱が手のひらに当たる。薄い布越しに包み込むように触れた瞬間、千景の喉からくぐもった甘い声が漏れて、膝ががくりと揺れた。「あっ……んっ、あ」「玄関だから、静かにね」 耳元で囁くと、千景が潤んだ瞳で睨むように見上げてきた。「兄さんが触るから……」 責めるような口調なのに、腰は俺の手に擦り寄せるように動いている。頬が紅潮し、長い睫毛の下で瞳が蕩けかけていた。唇が微かに震えて、次の言葉を待っているのがわかった。「兄さんじゃなくて、そろそろ俺のこと『伊織』って呼んでほしいな」 千景の顎に指を添えて顔を上げさせると、大きな瞳がさらに見開かれた。常夜灯の淡い光を受けて、アーモンド型の瞳が濡れたように輝いている。「いっ……いおり」 小さく、掠れた声だった。名前を口にしただけで千景の耳まで真っ赤に染まっていくのが愛おしくて、頬を両手で包み込むと額に唇を落とした。「うん。これからは、ずっとそう呼んで」 柔らかく唇を重ねると、千景の力が抜けたように身体が預けられてくる。甘く、蕩けるような口づけだった。舌を絡ませるのではなく、唇だけで触れ合う優しいキスに、胸の奥がじんわりと熱くなる。「伊織、久しぶりに……したい」 唇が離れた隙間から、千景の切ない声が零れた。「もちろん。俺も我慢できない」 千景の腰を引き寄せて深いキスをすると、玄関で靴を脱ぐ音がばたばたと重なった。互いの唇
金曜日のQueen's Nightは、週で最も客入りの多い夜だった。カウンターの向こう側で玲司がシェイカーを振る音と、フロアに流れる低いジャズの旋律が混じり合い、店内には華やかで親密な空気が漂っている。 ドアの向こう側が、にわかに騒がしくなる。 環さんが小首を傾げて入り口へ視線を向けているのが目に入り、僕もつられるように顔をあげると、ドアを押し開けて入ってきたスーツ姿の男性が、兄さんだとわかった。ダークネイビーのスーツに身を包んだ長身の体躯が、店のネオンに照らされて輪郭を際立たせている。仕事帰りなのだろう、ネクタイは少し緩められていて、普段の隙のない佇まいよりも幾分砕けた雰囲気をまとっていた。 兄さんの半歩後ろに、見覚えのない男性が一人、物珍しそうにきょろきょろと店内を見回しながら立っていた。兄さんより少し背が低く、がっしりとした肩幅にスポーツ刈りの髪型で、顔立ちは人懐っこい犬のような愛嬌があった。「ちかちゃんの彼氏さんと――部下の人かしら?」 環さんが、赤い唇に指を添えて呟くのが聞こえてくる。僕は入り口へと足を向けた。ヒールが床を叩く規則正しい音が、自分の鼓動と重なっていく。(兄さんが僕のバイトの日に店に来るのは珍しい)「ばったりそこで会ったので」 兄さんが環さんに向けて、いかにも困りましたという表情を浮かべながら説明していた。眉間に僅かな皺を寄せて、片手で後頭部を掻いている姿は珍しい。「部下の一ツ橋でっ……あっ!」 僕が近づいた瞬間、兄さんの隣に立っていた男性が大きく目を見開いて声をあげた。丸い瞳が僕の顔を捉えると、まるで有名人に遭遇した少年のようにぱあっと表情が輝いていく。「写真の人」 一ツ橋と名乗った男性が、弾んだ声で続けた。「部長の待ち受けの――めっちゃ美人な彼女……さん? 彼氏さん? どっちだ?」 正解がわからないらしく、首を右へ左へと傾けながら僕と兄さんの顔を交互に見比べている。「恋人でいい。ってか、声が大きすぎる。ボリュームをさげて」 兄さんが眉を顰めて低い声で窘めると、一ツ橋さんは「あ、はい!」と威勢よく返事をしてから、「すんません」と軽く頭をさげた。声を落としたつもりなのだろうが、あまり変わってない。「ちかです」 僕が微笑みながら名乗ると、一ツ橋さんはキラキラと光を湛えた目のまま僕の両手を掴んで、まじまじと
俺は出勤すると自分のデスクへと向かい、鞄を置いて椅子に座った。 パソコンを起動させようとしたとき、内線電話が鳴った。受話器を取り、耳に当てる。「営業部、松井田です」『人事部の田中です。松井田部長、すぐに人事部まで来ていただけますか』 低く、事務的な声が響いた。嫌な予感が胸の奥に広がっていく。「分かりました。すぐに伺います」 電話を切ると、俺は深く息を吐いた。人事部からの突然の呼び出しと聞いて、なんだか気が滅入る。人事部と聞くだけで、緊張感が増すはなんでだろうか。 デスクの抽斗を開け、奥に仕舞っていた茶封筒を手に取ると、お守り代わりにスーツの胸ポケットにしまった。 営業部を出ると廊下を歩く。足音が響き、窓の外には青い空が広がっている。エレベーターに乗り込むと、ボタンを押した。上昇していく感覚が身体に伝わり、階数表示が変わっていく。人事部のある階で止まると扉が開いた。(空気からして重い) どんより暗い雰囲気みを感じるのは、錯覚なのかもしれないが――。営業部の階と違って、重苦しい空気が漂っている。 廊下を突き進み、人事部長の部屋の前に立つと、扉を三回ほどノックした。「どうぞ」という声が聞いてから、俺はドアを押し開ける。「失礼します。松井田です」 人事部長はすでに応接用のテーブルに座っていて、俺を見ると椅子を指差した。表情は硬く、眉間に皺が寄っている。(ああ、この表情はいいことではないな)「座ってください」 俺は促されるまま椅子に座った。人事部長が手元にあった封筒から何枚かの写真を取り出し、テーブルに並べ始める。一枚、また一枚と増えていく写真を目にして、俺の手が僅かに震えた。 全て俺と千景が写っている写真だった。 バイトの迎えに行ったときの写真。手を繋いでいる写真。キスをしている写真。親密な関係が一目で分かる構図ばかりだった。この写真には見覚えがある。つい先日、白石さんが俺に見せてきたのと同じものだ。「松井田部長、行きつけのバーの男性キャストと不適切な関係にあるという報告を受けましたが」 人事部長が一度言葉を区切ると、厳しい顔つきでこちらを見てきた。鋭い視線が俺を捉え、答えを待っている。 白石さんの密告だと分かった。俺と一対一で上手くいかなかったから、黒瀬を利用した。それも上手くいかなかったから、今度は上司を利用したのだろう。
朝六時、目覚まし時計が鳴る前に目が覚めた。身体がびくんと跳ねて、意識が浮上してくる。上半身を起こすと、下半身に不快な違和感が広がっていて、深いため息が自然と漏れた。 布団から足を出し、パジャマのズボンと下着のゴムを引っ張って中を覗き込む。濡れた下着が肌に張り付いていて、白く濁った痕が広がっているのが見えた。げんなりとした気分が胸を満たし、頭が重くなる。「またやってしまった」 呟きながら、ベッドから降りた。 あの日から毎日、同じことが続いている。ちかを抱く夢を見て、目が覚めると下着を汚している。ときにはちかではなく、千景の姿で現れることもあった。 今までだって、欲求不満の具合によっ
自分の部屋でベッドに横になりながらスマホを眺めていると、階下から騒がしい声が聞こえてきた。何事かと思い、スマホを手に持ったまま部屋を出て廊下に立つと、声が聞こえてきた。 階段を降りながら玄関を覗き込むと、スーツ姿の義兄、伊織が立っていた。長期休みにしか帰ってこない兄さんが、平日の何でもない日に帰宅するなんて予想もしていなくて、心拍数が跳ねあがる。(なんで兄さんが――)「伊織くん、どうしたの?」 母が驚いた声を上げ、義父が心配そうに兄さんの顔を覗き込んだ。「体調でも悪いのか」 父の問いかけに、兄さんは首を横に振って答える。 僕は階段を降りながら、いつも通りを装って声をかけた。
ホテルのロビーを抜け、エレベーターに乗り込むと、ちかが俺の腕に身体を寄せてきた。柔らかい感触が腕に伝わり、甘い香りが鼻をくすぐる。エレベーターが上昇していく間、鏡に映る二人の姿を見つめながら、信じられない気持ちに胸が支配されていた。(もう童貞じゃない――) 廊下を歩き、部屋の扉を開けて中に入ると、ちかが先に部屋の奥へと進んでいく。俺は扉を閉めて鍵をかけ、振り返った瞬間にちかが身体を押し付けてきて、壁に背中を押し当てられた。「待っ――」 言葉が唇で塞がれ、ちかの舌が口の中に侵入してくる。激しく、貪るようなキスに息が詰まり、抵抗する間もなく舌を絡め取られていった。ちかの手が俺の首に回さ
会議室に拍手が響き渡り、大型契約が成立した瞬間の高揚感が胸を満たしていった。相手企業の部長が満面の笑みで握手を求めてきて、俺は完璧な笑顔を作りながら応じた。「松井田部長、お疲れ様でした! さすがです!」 会議室を出ると、営業部の後輩たちが興奮した様子で駆け寄ってきて、俺の肩を叩きながら祝福の言葉を投げかけてくる。契約書類を抱えた女性社員が頬を上気させながら「部長、今夜は飲みに行きましょう! 私、もう予約しちゃいました」と甘えた声で誘ってきて、周囲の同僚たちも「そうですよ、たまには付き合ってくださいよ」と囃し立てた。 俺は柔らかな笑顔を浮かべ、丁寧に首を横に振った。「すみません、明日