廊下を走り抜けて階段を昇り、たどり着いた場所は、今朝滝沢と訪れたばかりの屋上へと続く踊り場だ。 極力、第三者に話を聞かれる可能性の低い場所を考えたら、やはりここしか思い浮かばなかった。「ちょっと、桐生君、離して!」 足を止めた途端、陽川は腕を強く降って、俺の手を振りほどいた。「こんな所に連れてきてどうするつもり……?」 猛獣のような視線が俺を射抜く。陽川の声色は落ち着いていたものの、静かに怒気をはらんだものだった。 だけど、俺の言い分も聞いて欲しい。なんせ、今後の学生生活にも関わってくる事なのだ。 一時は静観しようとも考えたけれど、勘違いをそのまま放置していたら、俺はおろか、滝沢すらも後ろ指をさされながら苦しい生活を送らざるを得なくなる。 なんとしても勘違いを否定した上で、理解をしてもらう必要がある。 さもなくば目も向けられない学生生活まっしぐらだ。横島先生の不敵な笑みも脳裏をよぎる。「どうもこうもないさ。正しい事実を理解してもらおうと思ってな。勘違いされたままじゃあ、困るからさ」 「それなら教室で、みんなが聞いている前で堂々と話せば良かったじゃない」 陽川の言っていることは正しい。 しかし────あの場で俺が何を話そうとクラスメイトは俺の話を信じようとはしなかっただろう。 人間ってのはだいたいが、自分にとって都合のいいほうか、関係のない事なら面白いと思った方を真実だと思い込もうとする。 そう言った心理的要素を、心理学用語で確証バイアスと言う。 あの恋愛心理学書にもそう書いてあった。思い込もうとする人の心は厄介だ。 噂話に尾ひれ背ヒレがついて拡散していく。 そうなってしまっては後の祭り。そうなる前に元を断つ。 仮に噂話になってしまっても、陽川と昨日までの元通りの関係を築けていれば、次第に噂は立ち消えとなるだろう。「クラスメイトなんてどうでもいいさ。せっかく仲良くなれた陽川に勘違いをしてほしくなくてさ」「なによそれ……早い話、言い訳を聞いてほしいってだけだよね?」 陽川は自らの右手の肘を左手で掴み、少し身を捩った。 人が人を拒絶する時に見せるポーズだ。「陽川がそう思うのなら、それで構わないさ。とにかく俺は、包み隠さずに事実だけを話す。後は陽川が判断してくれ」「……」 睨め回すように俺のつま先から頭の先までを順
次の休み時間。陽川らしくない、そこらの普通の女子生徒のように、キャピキャピとした様子でこちらに向かって歩いてきた。 誤解ないように説明をしておくと、彼女の目的は吉岡であって、俺ではない。「けんちゃんと一緒に仕事ができるなんて、私すごく嬉しい!エマも協力してくれるって言ってたし、絶対、成功させようね!」「姫。お前、俺の事嵌めたな?」「えーっ?なんのはなしー?」 白々しくしらを切る陽川。吉岡と二人で学園祭のクラスリーダーになるために、不意打ちをしたのは火を見るよりも明らかだった。 それはないだろうと訴える吉岡の抗議は無視してギュッと腕に抱きついた。「これで一緒にいられるね」「俺は姫と一緒にいたくない」「なんでそんなこと言うの?けんちゃんひどーい。ぴえんだよ」 はー。もう見ちゃいられないね。 トイレにでも行こうかと立ち上がると、いつもの鋭い視線が飛んできた。 そんな事しなくても邪魔者はさっさと消えますよ。「ちょっと、待ちなさいよ。桐生君」 しかし、立ち去ろうとする俺を予想に反して呼び止めてきたのは陽川の方だった。俺の聞き間違いの可能性も考えて一応聞き直す。「……俺?」「そう。桐生君はあなたしかいないでしょ?」「なんだよ?せっかく吉岡とイチャコラできてるからこっちは空気読んて消えてやろうとしてんのにさ」「イチャコラなんてしてない。姫が勝手に抱きついてきてるだけだ」 吉岡は抗議をした上で必死に陽川を振りほどこうとしているが、陽川が離れる気配はない。むしろしがみついている手にさらに力が込められたようにすら見える。いや、吉岡の嫌がる反応を見るに、実際にそうなのだろう。「あなた、滝沢さんと付き合っているの?」「はっ!?!?」 突拍子もない陽川の発言に、時間が制止したように感じた。 否定すれば良いだけの話なのだけれど、おとなしく俺の横の席に座る滝沢は、聞いていなかったのか聞こえていなかったのか無反応だ。「そ、そんなわけないだろ!急に変なこと言うなよな」「ふーん」 陽川は意味ありげに俺の足元から頭の先までを順に見た後、吉岡から手を離して俺の方に歩みを進め、顔が接触してしまうのではないかと思う距離まで近づくと、俺の耳元の方に口を寄せた。 そして、吐息のような声色で囁いた。「……最近、滝沢さんの家に入り浸りなんですってね?」「な
「二週間後には中間試験も迫っています。十分に気持ちを引き締めて欲しいのだけどな、十月の後半には学園祭も控えている。 ……というわけで、今日のロングホームルームでは一年三組ではどんな出し物を行うのか話し合いをしてもらおうと思う。じゃあ後のことはクラス委員、頼んだ」 マジメモードの横島先生がそう言ってすぐに教室後方の端にパイプ椅子を置くとそれに座り、クラス委員の玉野と古谷が変わって教卓に立った。「はい。ということで、皆さん何か案はありますか?」 古谷が春の日差しの如く柔らかな物腰でクラスに問いかけると、ちらほらと手が上がりホワイトボードに、出し物の案が羅列されていく。 メイド喫茶に、男装執事喫茶、お化け屋敷。よくありがちな候補ばかりだ。 ……まあ、そっちはクラスのみんなに任せよう。 昔から学校でのイベントには俺は積極的に参加をする方ではない。 耳の機能をシャットダウンして、今朝あったこと柄の整理をする事にした。今はそちらが俺にとっては最優先事項だ。 まず第一に、陽川が俺を疑っていた事。 どこでなにがそうなったのかは分からないが、陽川に不信感を与える行動をしてしまったという事だよな…… あんたのこと勘違いしていたかもねみたいな内容の個人チャット。あれはなんだったのろうか? 陽川のハッタリ?それとも、あの個人チャットが送られてきた以降に何かがあったのだろうか? そういや、情報源はさくらちゃんがどうのとか言ってたよな…… そのさくらちゃんって方にも心当たりは無いんだよな。 いったい、どこの誰なんだ?うちのクラスの生徒なのだろうか?軽く教室内を見回してみるが、親しくもない女子生徒の下の名前なんて知るはずもない。誰がさくらちゃんなのか見当もつかない。 昔の人は火のない所に煙は立たずと言ったもんだけど、全くの嘘っぱちだ。火のない所にも煙は立つんだな。今の俺の現状がそれを物語っていた。 とりあえず、陽川の件に関しては、少し距離を保ちつつ様子を伺うのが最善だろう。 うん。そうしよう。なんせ俺は何も悪いことをしていないのだから。「おい、桐生。聞いてんのか?桐生」 机をちょんと小突かれて、前の席の吉岡が話しかけてきている事に気がついた。「……なんだよ」「なんだよじゃねえよ。何度も呼んだんだぞ。まつたく……ストリーちゃんについて話し合うって事にな
色々と勘ぐられないように滝沢が教室に入るのを見届け、少し時間が経ってから教室に入ると、何やら教室内はざわついていた。 滝沢が登校してきた事についてかと思い内心少しヒヤリとしたのだけれど、クラスメイトの話に耳を傾けてみるとどうも様子が違った。 ストリーがどうのとか。あれヤバいでしょとか。ストリーの話一色だったのだ。 そんなにこのクラスでストリーが流行っているとは思っていなかったが、吉岡にとっては朗報なのではないだろうか。こんなに推しが広がっていたのだから。 俺が作ったグループの存在意義は薄れてしまうかもしれないが。 喜び勤しんでいるだろうと、自らの席へ向かって前の席を見ると、仏頂面の吉岡がいた。 「良かったな。ストリーが有名になって」 「ああ?全然よくねえよ」 かなり機嫌が悪いようで、こちらを見ようともしない。 俺の方が先にストリーを知っていたのに、みたいな感情からくる不機嫌だろうか?そういう感情を持つ人も一定数はいるとあの恋愛心理学書にも書いてあった。 たしか、先取権バイアスだっけか? 知らない人達がSNS上でそんなやり取りをしているのも目にした事があった、あれは不毛な戦いだ。きっと吉岡の中でもそれが起こっていると仮定して、言葉を続けた。 「でもお前、古参って奴だろ?だから気にすんなよ。どんなに新参者が入ってきたって、昔から知っているお前の方が偉いんだ。だから気にすんなよ」 精一杯気づかった言葉をかけたつもりだったのに、吉岡はこちらに向き直ると、俺の胸ぐらを掴んだ。 そういう奴だと思っていなかったから、とても驚いて、反応がコンマ数秒遅れた。 「どうしたんだよ。そんなに熱くなって」 「お前、本気でそんな事言っているのか?お前だって『ストリーのファンだ』そう言っていたよな?それなのに、この状況を看過できるのか?」 グループを作った便宜上、ストリーのファンと言う事になっていたな。そういや。 今となっては、頑張りやである、彼女のライトなファンである事は間違いないが。 それにしても、吉岡の怒りが、俺の感じた先取権バイアスでは説明がつかないように感じて、一つ質問をした。 「こんな状況ってどういう意味だよ?」 「……お前、グループトーク見てないのか?」 昨夜眠りに着く直前から登校してくる間にか
「今、誰かいなかった?」「私は何も感じなかったけど?」 あまり防音はしっかりしていないようで、扉の向こうからクリアに声が聞こえてきた。「なんか、扉が閉まるような音がした気がしたのよ」 「えー、でもここの扉は鍵が閉まっているんじゃなかった?昔屋上で悪いことした先輩がいたからって」 声の主がそう言った直後、ガチャガチャと扉のドアノブが動かされるも、やはり、嫌な予感通り鍵がかかってしまったようで、扉が開くことはなかった。「開かないわね。気のせいだったのかしら」 扉の向こうの人物の疑念は晴れたようで、ノブを捻る音は止まった。 脱出方法は一先ず置いておいて、とりあえずの危機は去ったようだ。 安堵して、扉横の壁にもたれながら滑るように腰を下ろすと、その横に滝沢もスカートの裾を気にしながら座った。「嫌な事があったらいつだって抜けていいから。もしなんかあったら、私にすぐ相談して。桐生君に問題があれば、私が締めるから」 なんか物騒なやり取りが扉の向こうで繰り広げられているが、扉の向こうには少なくとも二人はいるようだ。 まさか桐生って俺の事か?俺以外にこの学校で桐生と言う名は目にしたことはないが。「大丈夫。彼だってそんなに悪い子じゃないと思うの」「ちょっと良いやつなのかもって私も思ったんだけどさ、昨日の夜、サクラちゃんから噂話を聞いちゃってね」「噂話?」「ああ。それはいいの。まだ確定したってわけじゃないから。 もし、私のエマを傷つけようとしたらただじゃ置かないんだから。ようやく現れたエマに近づかせてもいいかもって思える男かと思ったのに」 扉の向こうの人物が誰なのか確定した。 思わずため息が漏れてしまう。 陽川姫に矢野エマだ。 短い会話だったが、突っ込みどころ満載だ。 噂とは果たしてなんの事なのか、俺が矢野さんを傷つけるとはどういう意味なのか、まったく身に覚えがなかった。 以前、告白をして振られた事そのものが、矢野さんを傷つける行為だったと言われれば否定のしようもないが。 不思議そうな顔で滝沢が俺の方を見ていたが、洋画なんかで外国人が何のことやらみたいな時にするポーズを取って肩をすくめてみせた。特に意味はない。「姫がなんの話をしているのか、よくわからないんだけど?桐生君がどうかしたの?」「とりあえず、今のところエマは細かい事は気にし
朝一番乗りで教室にたどり着いたのは、入学式以来初の事だ。 誰もいない教室は静謐さがあって、滝沢が問題を起こしたあの教室同ものとはとても思えなかった。「おっと」 耽っていても仕方がないから、とりあえずは自分の席に荷物を置いて、朝一番にやってくるはずだった人物を隠れて待つことにした。 教室後方のカーテンに巻き付いて、その人物の到着を待つ。 その人物は五分もしないうちに教室へ足を踏み入れてきた。 かなり挙動不審な感じで、周囲の様子をキョロキョロ伺いながら教室前方に位置する、矢野さんの机へとまっすぐに向かっていく。 その手には、何か紙のような物が握られているのが見えた。 まったく……結局、言いつけは守らなかったみたいだな。危惧していたとは言え、信用されていなかった事に少しがっかり感を覚えつつ、その後ろ姿に声を掛けた。「滝沢。お前何してんだ」 誰もいないと思っていた教室で、突然に名前を呼ばれたもんだから、小心者の滝沢の肩が大きく跳ね、動きを停める。 背後から近づいていき。滝沢から紙をひったくる。「手紙はもうやめろって、俺言ったよな?」 滝沢は壊れた首振り人形のように、首肯を繰り返して肯定を重ねる。「……ご、ごめんなさい」「とりあえずここで長話はまずい。場所変えるぞ」 パソコンがエラーを吐いたように、その場に立ち尽くす滝沢の手を引いて、教室を後にした。 誰かに俺達の会話を聞かれるのはまずい。どこか、あまり人が来なそうな場所はなかったかな……? あっ。1箇所だけ思い当たる節があった それは屋上へと続く階段の踊り場。 屋上は施錠されていて入れないし、朝のかったるい時間にわざわざここまでやってくる物好きは俺達を除けばそうは多くないだろう。 少なくとも俺なら近づかない。つまり、内緒話をするにはもってこいの場所って事だ。 滝沢の手を引いて、まだ他の生徒の姿がない廊下を進み、屋上へと続く階段を登る。 屋上へと続く扉の前にたどり着き、そこで滝沢を開放した。 いつも通りの怯えたような表情で、俺の出方を見守っているようだ。これじゃあ俺が滝沢に危害を加えるとでも思われているようじゃないか。当然、そんなことはないって理解はしているが。 「今まで矢野さんにやってきたような行動は今後一切辞めるようにってここ最近、毎日、毎日、口が酸っぱくなる