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聞こえぬ想い、骨まで届く

聞こえぬ想い、骨まで届く

By:  舒白Completed
Language: Japanese
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鹿井初寧(しかい はつね)の奔放な性格を抑えるため、父は最も信頼する部下――三条千臣(さんじょう ちおみ)を呼び寄せ、彼女を躾けさせた。 だが初寧が、たかが子会社の社長の言葉に耳を傾けるはずもない。 彼女はあの手この手を使い、彼を諦めさせようとした。 初出勤の日、彼女はいきなり彼のポルシェを叩き壊した。 しかし千臣は冷ややかに一瞥をくれただけだった。 「修理に出せ。費用は鹿井さんの給料から差し引け」 二日目、彼女は千臣の会議資料とPPTを卑猥な映像にすり替えた。 だが千臣は動じず、その場で計画書を丸暗記で一字一句淡々と語り上げ、大型案件を見事に落札して場を驚かせた。 それでも初寧は諦めず、接待の席で彼の酒に強い薬を仕込んだ。 彼を人前で醜態を晒させるつもりだったのだ。 だが結果は逆で、彼女が彼にホテルのスイートに担ぎ込まれ、さんざん弄ばれることになった……

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Chapter 1

第1話

鹿井初寧(しかい はつね)の奔放な性格を抑えるため、父は最も信頼する部下――三条千臣(さんじょう ちおみ)を呼び寄せ、彼女を躾けさせた。

だが初寧が、たかが子会社の社長の言葉に耳を傾けるはずもない。

彼女はあの手この手を使い、彼を諦めさせようとした。

初出勤の日、彼女はいきなり彼のポルシェを叩き壊した。

しかし千臣は冷ややかに一瞥をくれただけだった。

「修理に出せ。費用は鹿井さんの給料から差し引け」

二日目、彼女は千臣の会議資料とPPTを卑猥な映像にすり替えた。

だが千臣は動じず、その場で計画書を丸暗記で一字一句淡々と語り上げ、大型案件を見事に落札して場を驚かせた。

それでも初寧は諦めず、接待の席で彼の酒に強い薬を仕込んだ。

彼を人前で醜態を晒させるつもりだったのだ。

だが結果は逆で、彼女が彼にホテルのスイートに担ぎ込まれ、さんざん弄ばれることになった……

世間の人々は、彼を清廉で温厚、まさに君子のようだと評する。

だが初寧だけは知っていた。

夜の帳の下、彼が彼女をベッドに押し伏せ、狂おしいほど翻弄する姿を……

ロールスロイスの後部座席。会議室のデスク。オフィスの大窓の前でさえ……

燃えるような赤いドレスを纏った初寧は、禁欲を装った男に細腰を掴まれ、様々な姿勢で「躾け」られ続けた。

ひとしきり終えたあと、男は浴室へ入っていった。

その間に初寧の携帯には、親友からのメッセージが届いた。

【信じられない、鹿井お嬢さん。まさか本当に恋愛脳になったの?】

【三条千臣なんて、所詮鹿井家の子会社の社長にすぎないのに。彼のために、南市一の大富豪である東三条家の御曹司との婚約を捨てるなんて!?】

初寧は返信しなかった。

彼らは知らなかった。千臣の本名が、東三条千臣であることを。

そう、東三条家の御曹司が千臣だった。

彼女が骨の髄まで愛し、夜ごとに抱きしめたいと渇望する男――もともと婚約していた相手なのだ。

本来なら、この上なく幸福であるはずだった。

だが初寧の顔に、笑みはひとつも浮かばなかった。

しばしの沈黙ののち、彼女は父に電話をかけた。

「東三条家の御曹司との婚約、鹿井麗(しかい うらら)に譲ってもいい。でも条件がある」

受話器の向こうで、両親の歓喜の声が弾けた。

「条件って?いくらでも言いなさい!婚約を譲ってくれるなら、私たちは全部承知する!」

「四千億円欲しいの」初寧は瞼を伏せ、冷ややかに告げた。

「四千億!?」相手の声は裏返った。

「気でも狂ったのか!うちを破産させるつもりか!」

初寧は冷たく笑った。

「とぼけないで。東三条家からの結納金は六千億円。そのうち二千億はあなたたちの手に入る。鹿井麗も一流の豪門に嫁げる。これ以上に得な取引がある?」

相手は黙り込んだ。二秒後、焦った声が返ってきた。

「……それで決まりよ!」

「待って、どう保証するの?」

初寧の母としての鹿井彰恵(しかい あきえ)警戒心を剥き出しの声音は、鋭い刃のように初寧の心を突き刺した。

長年の偏愛に、彼女はもう麻痺しているはずだった。けど胸の奥は、どうしようもなく痛んだ。

「もう手続きは済ませた。半月後には海外に出る。二度と戻らない」

初寧は震える声でそう言った。

二十年前。彼女は鹿井家で最も愛される姫様だった。

だが両親が連れ帰ったひとりの少女――幼い頃に誘拐されていた実の姉、麗が現れた日から、すべては変わった。

麗の悲惨な過去に罪悪感を抱いた両親は、すべての愛情を彼女に注いだ。

その日から初寧は、不公平な仕打ちを受け続けた。

大切にしていたお姫様の部屋は、麗へ。

三か月徹夜で仕上げたコンテスト作品も、麗へ。

命を懸けて人を救ったことでもらった功績の勲章すら、麗へ……

初寧が反発すれば、返ってくるのは叱責だけだった。

「姉はこれまで苦労してきた。お前はずっと恵まれてたのだから、譲ってやっても当然だろう!」

まるで綿を少しずつ掻き出される人形のように、彼女はすべてを奪われていった。

今や、彼らは祖母が生前決めた東三条家との婚約までも、麗に奪わせようとする。

それがきっかけで、初寧は両親と激しく争い、屋敷を滅茶苦茶に壊した。

最終的に初寧の父としての鹿井厚俊(しかい あつとし)は、子会社の社長の千臣が部下をよく管理していると耳にして、彼女を子会社に送り込んだのだった。

長い吐息をつき、初寧は千臣の携帯を手に取った。

パスワードは麗の誕生日。

指先に力を込め、彼女はlineを開いた。

千臣は麗とのチャットをピン留めしていた。

その内容には――

彼女を幼稚だと叱るくせに、麗の可愛いスタンプは大切に保存。

彼女には冷たい顔ばかりなのに、麗には毎日欠かさず食事や休憩の声掛け。

彼女のメッセージは既読すらしないのに、麗には些細なことまで逐一報告。

そして、初寧の名前の横には「通知オフ」の印。

唇に冷笑が浮かんだ。

脳裏に蘇ったのは、彼に初めて心を動かされた時のこと。

初寧は酒宴をめちゃくちゃにし、彼の契約を潰した直後、洗面所で押し倒され、ドレスを引き裂かれたあの瞬間。

彼を噛んで抵抗したが、後ろから洗面台に押し付けられ、耳朶に口づけられた。

低く甘い声が囁いた。

「初寧、いい子に」

その一言が、彼女の心を完全に砕いた。

祖母が亡くなって以来、誰もそう呼んでくれなかったのだ。

――きっと、あまりにも孤独だったから。あるいは、彼があまりにも誠実に尽くしてくれたから。

変質者に絡まれた時は守ってくれた。

宴席では酒を代わりに飲んでくれた。

山崩れに巻き込まれ、生き埋めになった時は、素手で掘り出し、彼女を背負って五キロ歩き病院へ運んでくれた。

その時、霞む視界の中で見た彼の横顔は、どこまでも凛々しかった。

その積み重ねの記憶により、初寧は本気で彼を愛してしまったのだ。

だからこそ、彼に贈り物を用意し、告白しようとした。

だが――書斎に足を踏み入れた瞬間、耳に入ったのは電話の声だった。

「東三条家の御曹司、いつまで子会社の社長ごっこを続けるつもりだ?お前なら何でも手に入るだろうに。

どうしてわざわざ鹿井家なんかに入社して、年収四千万の仕事を?まさか鹿井麗のそばにいるためか。昔、誘拐された時に支え合った恩義を返すために?」

千臣の声は冷たかった。

「麗がいなければ、俺は生きていなかった。だから必ず報いる」

「でもお前、鹿井家の次女とも婚約してるだろう?彼女のことが好きで、東三条家の嫁にしたいんじゃないのか?」

わずかに笑う声。

「ただのわがままな子供だ。我が家の妻には不釣り合いだ」

その一言一句が、鋭い刃となって初寧の心を切り裂いた!

千臣の心にいるのは、最初から麗だけだ。

初寧は――「躾ける」必要な愛人にすぎなかったのだ。

その瞬間、彼女は贈り物を窓の外へ投げ捨てた。

千臣という男を、もう好きでいるつもりはなかった。

婚約さえも、要らなかった。

目に涙をためながら、初寧は必死にこらえる。

その時、浴室のドアが開き、千臣が姿を現した。

彼女の赤い瞳を見て、一瞬動きを止めた。

「……少し強くしすぎて、泣いてたのか?」
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松坂 美枝
普通に好き合ってたのにアホなことして全てを失ったクズだがまあ五体満足そうだし今後もやっていけるよ! 主人公はいい性格してるし楽しく暮らして行きそう
2025-10-01 11:38:28
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23 Chapters
第1話
鹿井初寧(しかい はつね)の奔放な性格を抑えるため、父は最も信頼する部下――三条千臣(さんじょう ちおみ)を呼び寄せ、彼女を躾けさせた。だが初寧が、たかが子会社の社長の言葉に耳を傾けるはずもない。彼女はあの手この手を使い、彼を諦めさせようとした。初出勤の日、彼女はいきなり彼のポルシェを叩き壊した。しかし千臣は冷ややかに一瞥をくれただけだった。「修理に出せ。費用は鹿井さんの給料から差し引け」二日目、彼女は千臣の会議資料とPPTを卑猥な映像にすり替えた。だが千臣は動じず、その場で計画書を丸暗記で一字一句淡々と語り上げ、大型案件を見事に落札して場を驚かせた。それでも初寧は諦めず、接待の席で彼の酒に強い薬を仕込んだ。彼を人前で醜態を晒させるつもりだったのだ。だが結果は逆で、彼女が彼にホテルのスイートに担ぎ込まれ、さんざん弄ばれることになった……世間の人々は、彼を清廉で温厚、まさに君子のようだと評する。だが初寧だけは知っていた。夜の帳の下、彼が彼女をベッドに押し伏せ、狂おしいほど翻弄する姿を……ロールスロイスの後部座席。会議室のデスク。オフィスの大窓の前でさえ……燃えるような赤いドレスを纏った初寧は、禁欲を装った男に細腰を掴まれ、様々な姿勢で「躾け」られ続けた。ひとしきり終えたあと、男は浴室へ入っていった。その間に初寧の携帯には、親友からのメッセージが届いた。【信じられない、鹿井お嬢さん。まさか本当に恋愛脳になったの?】【三条千臣なんて、所詮鹿井家の子会社の社長にすぎないのに。彼のために、南市一の大富豪である東三条家の御曹司との婚約を捨てるなんて!?】初寧は返信しなかった。彼らは知らなかった。千臣の本名が、東三条千臣であることを。そう、東三条家の御曹司が千臣だった。彼女が骨の髄まで愛し、夜ごとに抱きしめたいと渇望する男――もともと婚約していた相手なのだ。本来なら、この上なく幸福であるはずだった。だが初寧の顔に、笑みはひとつも浮かばなかった。しばしの沈黙ののち、彼女は父に電話をかけた。「東三条家の御曹司との婚約、鹿井麗(しかい うらら)に譲ってもいい。でも条件がある」受話器の向こうで、両親の歓喜の声が弾けた。「条件って?いくらでも言いなさい!婚約を譲ってくれるなら
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第2話
彼の親指が、赤く腫れた彼女の唇をなぞる。低く響いた声には、どこか艶めいた色が潜んでいた。水滴が鎖骨を伝い落ち、無造作にまくり上げられたシャツの隙間から、浮かび上がる筋肉の線が覗ける。怠惰に見えるその姿の奥に、血を逆流させるほどの張り詰めた色気が宿っていた。初寧のまつ毛が震え、彼女は顔を背ける。「……どっか行って!」千臣は口の端をわずかに上げ、愉快そうに囁いた。「一緒に風呂に入ろうか?」その瞬間、彼の携帯が震える。画面を素早く消したものの、初寧の視線はすでにそこに落ちていた。差出人は――麗。【千臣、雷が鳴ってるの。怖い……】千臣の眉がわずかに寄る。すぐに初寧の方へ向き直って言った。「会社で用事がある。じゃあ」返事を待たずにコートを手に取り、男は大股で部屋を出ていった。ドアが閉まった刹那――ドン!雷がゴロゴロと轟いた。初寧の体が反射的に震え、背筋が硬直した。顔色は瞬く間に蒼白へと変わっていく。彼女もまた、雷が怖かった。かつて千臣と一緒にいた時、怯えた彼女は思わず彼の胸に飛び込み、離れようとしなかった。その時彼は、薄く笑ってこう言った。「何も怖くないお嬢様が、雷だけは怖いのか。ずいぶん大げさだな」だが今……麗が怖がれば、彼は迷いなく駆けつけ、その眉には深い憂色が刻まれる。愛されるか、愛されないか。その違いは、これほどまでに残酷に現れる。初寧の瞳に、嘲るような光が宿った。再び雷鳴が轟き、彼女は肩をすくめて縮こまる。やがて、麗からの写真が届いた。そこには――初寧とセックスをする時さえ冷淡な男が、毛布で麗を包み込み、何度も何度も背を撫であやしている姿。その表情は、溢れるほどに柔らかかった。初寧は唇を噛み締め、携帯を床に投げ捨てた。朦朧としたまま夜をやり過ごし、夜明けが近づくころ、彼女は立ち上がり、着替えて鹿井家の屋敷へ戻った。門を入るや否や、厚俊の冷たい視線が突き刺さる。「またどこで遊んでたのか。少しは姉を見習って大人しくなれ!私たちに心配ばかりかけおって!」「彼女が、大人しい?」初寧は鼻で嗤った。「病院に行って目を診てもらったら?ついでに心臓も診るといい。盲目で、心まで見えてないんだから」「鹿井初寧!」厚俊が机を叩きつけ、
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第3話
けれど、麗が素早く口を挟んだ。「お父さん、お母さん、心配しないで。私は信じてるの。初寧はまだ寝起きで気分が悪かっただけ。わざとじゃないのよ」初寧は、その偽りの優しさに吐き気を覚えた。麗が家に戻ってきた頃、彼女もまた苦労を重ねた姉を憐れんでいた。一番大切にしていたぬいぐるみまで差し出していた。しかし、この「可哀想な」姉が、後にどれほどの痛みを与える存在になるかを、彼女は知らなかった。始まりは些細なことだった。麗は彰恵が丹精込めて育てた花を切り落とし、ハサミを初寧の部屋に置いて「彼女がやった」と告げた。厚俊の大切な骨董の花瓶を割り、破片のそばに初寧を誘い出し、「彼女が壊した」と言った。やがて事態はさらに荒唐無稽になっていった。半年かけて準備した競技会の出場証を麗に失くされ、「うっかりだった」と涙ながらに訴えられた。さらには、自分で川に飛び込んで、「初寧に突き落とされた」と叫んだのだ。そのたびに両親は無条件に初寧を叱った。必死に弁解しても「言い訳だ」「心が狭い」と突き放された。ようやく初寧は悟った。――麗は最初から自分を妹と思っていなかった。両親の愛情もまた、もう自分には注がれていなかったのだ。そして今、再び同じやり口で濡れ衣を着せようとしてくる。厚俊は話も聞かず、初寧を指差して罵った。「せっかくの朝食を台無しにして!お前のその性格はいつになったら直るんだ!」「どうしてこんな横暴な娘を産んでしまったんだ!あなたなんか姉さんの足元にも及ばない!」初寧は唇を噛みしめ、両親に守られながら挑発の光を宿す麗の瞳を見据え、怒りのあまり笑みを浮かべた。幼い頃なら泣きながら必死に否定したかもしれない。だが今は――「横暴?それがどういう意味か教えてあげようか」初寧は口元を歪めて言い放つ。「これこそが横暴っていうのよ!」彼女はテーブルクロスを掴み、一気に引き剝がした。ガシャーン……精緻な朝食が床に叩きつけられ、めちゃくちゃに砕け散った。千臣の視線が初寧に向かい、その表情がわずかに揺れる。リビングには厚俊の怒号が響き渡った。「鹿井初寧!今すぐ出て行け!」初寧は冷ややかに笑い、振り返ることなく歩き出した。ハイヒールの音が大理石に鋭く響き、まるでここにいる全員の頬を打つかのよ
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第4話
その言葉を聞いた瞬間、初寧の鼻の奥がつんと痛んだ。かつて契約書を届けに行った際、競合相手の罠にはめられ、倉庫に閉じ込められたことがあった。彼女を探し出すまで、千臣は街中を駆け回り、最後には抱きしめて慰めてくれた。――「もう大丈夫だ。俺がいる」その声音は淡々としていたのに、心には深く根を下ろした。彼女は信じていた。もしかすると、彼もまた自分を想っているのだと。だが今思えば――なんと残酷なことだろう。彼は好きどころか、真相を確かめることさえせず罰を下したのだ。「触らないで!」初寧は必死に振りほどこうとし、ついには彼の腕に噛みついた。千臣は眉をひそめ、仕方なく手を離す。すぐに車のエンジンがかかり、彼は彼女を屋敷へ連れ戻した。有無を言わせずリビングのソファに投げ出した。怒りをぶつけようとしたその時、彼は温めたサンドイッチを黙って差し出した。「食べてから会社へ行け」その声音に拒む余地はなかった。初寧は顔を背ける。「余計なお世話だ。近づくな!」「近づくなって?」千臣は唇を歪め、片手で彼女の横を支えながら、嘲るように囁いた。「お前に、それが耐えられるのか?」その一言は刃のように心を貫いた。彼は知っている――初寧にとって彼が唯一だと。なのに局外者のように見下ろし、あざ笑う勝者のように挑発する。初寧は唇を噛み締め、沈黙を選んだ。千臣は彼女の蒼白な顔をじっと見つめ、ゆっくり口を開いた。「今日のこと、お前は故意じゃなかった。なぜ弁解しなかった?」初寧は一瞬動きを止めた。――見ていたの?「弁解しても無駄」その声には刺があった。「どうせ誰も信じない」両親はいつも麗を庇い、彼女を悪者にする。だから言葉など意味を持たなかった。「俺は信じる」そのわずか言葉は短いのに、心臓に重く響いた。初寧は呆然と彼を見つめ、そして冷笑した。――信じると言いながら、自分を罰した。そんな信頼など、何の価値もない。「だが、麗はお前の実の姉だ。優しい子だし、そこまで敵意を抱く必要はないだろう」初寧の指が掌に食い込む。「あなたに関係ない!」怒りを噛み殺しながら突き飛ばし、初寧は客室へと逃げ込んだ。ドアを荒々しく閉め、その日一日、彼は現れなかった。だが麗か
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第5話
その瞬間、会議室にいた全員が驚きに息を呑んだ。麗は恐怖に駆られ、鋭い悲鳴を上げて千臣の胸に飛び込む。「千臣、怖い……」千臣はすぐに彼女を抱き寄せ、宥めるように腕を回した。その眼差しは一瞬にして冷え切り、初寧を射抜く。「鹿井初寧。麗に発表を続けさせろと言ったはずだ。これ以上わがままを言うな。そうでなければ、俺も容赦しない」初寧は、その瞳に宿る冷淡と警告をはっきりと感じ取った。彼が彼女を「フルネーム」で呼ぶことなど滅多にない。それだけ怒りをあらわにしている証拠だった。だが初寧はただ冷笑し、哀れを装う麗を見据える。「自分で作った企画だって言うんでしょう?パソコンがなくても、細かいところまで説明できるはずじゃない?」麗の目に一瞬、不安の影が走り、そっと千臣の袖を引く。「……企画の内容が多すぎて、ちょっと思い出せなくて……」「第一部分は、今期の北米と東南アジアの受注の総括……」初寧がすかさず言葉を継いだ。ざわ、と会議室の空気が揺れ、人々が手元の資料を開く音が響く。「第二部分は、買収予定会社の財務状況の詳細分析……」ページをめくる音と、初寧の理路整然とした声が重なる。「流動資産は一千百九十五億三千万円、流動負債は四百九十九億八千万円。よって流動比率は239.155622パーセントに達する……したがって、買収条件を満たしている」言葉が落ちると同時に、会議室は静まり返った。数字の細部に至るまで、すべてが完全に一致していたのだ。先ほどまで初寧を非難していた者たちの視線も、次第に驚きから敬意へと変わっていく。一方で麗の顔色はみるみる蒼ざめていった。「だからこそ、この企画が誰のものか、もう皆さんにはわかったでしょう?」初寧は麗をまっすぐに見据える。「私の企画を盗んだ泥棒さん、皆にどう説明するつもり?」麗は立ち尽くし、唇を震わせながら後ずさった。その刹那、千臣が立ち上がり、彼女の肩を支えると同時に冷たい眼差しを初寧へと向ける。「初寧。お前は度を越している。会議を乱すとは。……誰か、彼女を連れ出せ!」「どういう意味?」初寧の指先は掌に食い込み、信じられない思いで彼を見た。「私はただ、自分の権利を守っただけよ!出ていくのは私じゃなく、あの人でしょう!」「連れ出せ!」千
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第6話
「あなたとは関係ない!」初寧は反射的に携帯を掴もうとしたが、それを千臣に先に奪われた。「返して!」手を伸ばすと、手首をがっちりと掴まれ、力がこもる。痛みに顔をしかめ、彼女は必死に叫ぶ。「離して!」「はっきり答えろ。航空券を取ったんだろ?どこへ行くつもりだ?」鋭い眼差しが、逃げられぬように彼女を射抜く。「男のモデルと一緒にモルディブで休暇だ!これで満足!?」初寧は顎を上げ、微動だにせず気迫を示す。「モデルだと?」千臣の表情に影が落ち、怒りを通り越して笑った。「なるほどな。どうやら、俺がお前を放任しすぎてたようだ」「どういう意味?」胸の奥に悪い予感が走る。初寧は振り返って逃げようとしたが、すぐに引き戻され、透明なガラス壁に押し付けられた。「何をするの!?」――ビリッ。背中のファスナーが容赦なく下ろされ、白い肌が空気に晒される。「三条千臣!」恐怖に駆られ、声を震わせる。「気でも狂ったの!?ここはあなたのオフィスよ――」「ここでやったことは、一度や二度じゃないだろう」彼は抵抗する手を掴み、壁に押さえつける。「でも、これは透明なガラスなのよ!」「それがどうした?」耳元に唇を寄せ、残酷な声が囁く。「初寧、先に俺を怒らせたのはお前だ。その罰を受けてもらう」頭に冷水をぶちまけられたように、初寧の全身は凍りつく。なぜ――麗には宝物のように優しく接するくせに、自分には躾けられるだけの存在、感情もなく弄ばれるだけなのか。会議で麗の顔を潰したから、その報復として、肉体だけでなく尊厳まで踏みにじろうというのか。しかも外の人々の視線に晒されながら。「……っ!」必死の抵抗も、彼の前では無力だった。冷たいガラスに押し付けられ、外を行き交う人影が視界に映る。唇を噛みしめ、声を漏らさないようにするが、彼はあえて彼女の誇りを潰そうとする。やがて耐え切れず、彼女の爪がガラスを引っ掻く。不快な音が響く。誰かに見られている――そんな錯覚に心が引き裂かれ、張り詰めた糸がぷつりと切れた。涙が溢れ、身体の力が抜け落ちる。千臣は片腕で彼女を抱き上げ、ファスナーを戻しながら、壊れた彼女の姿を一瞬だけ見つめた。そして声を和らげる。「安心しろ。このガラスは新しくした。片面で、防
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第7話
再び目を覚ましたのは病院だった。初寧の病床のそばには誰もいない。全身の傷が焼けるように痛く。廊下の外では、看護師たちが小声で話している。「この男、かっこいいわね。彼女にすごく優しいし……」「そうね。足をちょっと捻っただけなのに、あんなに心配して、両親もずっとそばで見守ってるのに、こっちは全身傷だらけでも誰も来ないなんて……」初寧は点滴を自分で抜き、壁に手をつきながら一歩ずつ廊下を進む。案の定、VIP病室の前には千臣と厚俊、彰恵の姿があった。千臣は麗のベッドの高さを調整し、常に快適かどうかを気にかけている。厚俊は麗に水を注ぎ、特に冷ましてから手渡す。麗は甘えるように小さな声を漏らし、彰恵はハンカチで口元の水滴を拭う。慈愛に満ちた暖かな光景だ。その様子を目にした初寧は、息が詰まりそうになった。涙が目にあふれる。おかしい。もう手放すと決めたはずなのに、なぜ胸の痛みは消えないのか。まるで何千本もの針で突き刺されたかのように、呼吸すら苦しい。――泣くな、初寧。彼女は顔を上げ、涙を押し戻す。――誰も気にかけてはくれないのだから。病室に戻ると、ほどなく千臣が入ってきた。「まだ痛むか?」目の下に青黒い影があり、疲れた様子で彼女を見つめる。その視線には、緊張が混じっているようにも見えた。かつてなら、初寧は泣き喚き、なぜ先に麗を助けたのか詰め寄っただろう。しかし今は、黙ったまま顔をそむける。静かすぎるほど静かだ。千臣は眉をひそめ、痛みで返事ができないのだろうと考え、問い詰めなかった。その後の数日、彼は珍しく仕事を控え、病院で彼女の世話をしていた。しかし変なことに、以前なら彼の前でぺらぺら喋っていた初寧は、終始沈黙を守った。治療を静かに受け、食事を静かに取り、眠り、ただ出発の日を静かに待った。出発の三日前、彼女はバルコニーに出て、新鮮な空気を吸った。どれほど経ったのか、かすかに麗の電話の声が聞こえてきた。「まあ、安心して。今はみんな私をお姫様みたいに甘やかしてるわ。全然気づかないのよ。本当の鹿井麗はもう死んでるから……」初寧は一瞬固まったが、すぐに駆け出した。顔色が一変し、駆け出すと、麗の得意げな表情とぴったり対面した。麗は来る人に気づき、心なしか動揺を見せる。
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第8話
パチン――という音とともに、鞭が彼女の身体を打ち据え、言葉を遮った。「鹿井初寧!お前はわがままで横暴なだけでなく、姉を傷つけ、さらに濡れ衣まで着せるのか!反省してるのか!」「私は悪くない!反省なんかしない!――」初寧は唇を噛みしめ、必死に声を絞り出す。鞭が落ちるたび、全身が震え、額からは冷や汗が滲む。それでも彼女は悲鳴すら上げず、毅然とした声で言い放った。「彼女は本物じゃない!あなたたちが人を見る目がないだけ!自分の娘すら見抜けないくせに……」「この不孝娘!」厚俊の顔は怒りで歪み、鞭を何度も容赦なく打ち下ろす。血が滴り落ち、衣服はすぐに赤く染まった。最後の一鞭が落ちると、鞭すらも折れてしまった。初寧は床に倒れ込み、息も絶え絶えだった。その視界に、千臣の姿が浮かぶ。初寧は必死に彼を見つめた。以前のように、抱き上げて慰めてくれると思った――「大丈夫だ、俺がいる」しかし今回、千臣の顔は陰鬱だった。「鹿井初寧、お前は本当に頑固だな」その言葉は、まるで刃のように彼女の心に突き刺さった。初寧は突然笑った、涙も溢れながら。「そうね、私が頑固なの。三条社長、次はどう『躾ける』つもり?」「もう俺には無理だ」千臣は目を閉じ、冷たく言った。「誰か、こいつを刑務所に連れて行け。三日間拘留しろ」その三日間は、初寧にとって人生最悪の悪夢だった。殴られ、罵られ、傷口に辣油をかける者までいた。彼女の叫び声が刑務所中に響き渡る。傷は手当てされず、化膿し、心の底まで痛む。「三条社長の命令です。ちゃんと躾けろって!」初寧は地面に丸くなり、唇を噛み砕く。千臣がそんなことをするはずはないと信じていたが、現実は、容赦なく彼女に残酷な答えをくれた。三日後、ようやく彼女は解放された。千臣は目の前に立ち、冷淡な声で言った。「反省したか?」初寧は何も答えなかった。彼女の青ざめた弱々しい顔を見て、千臣は眉をひそめ、声のトーンを落として言った。「初寧、刑務所に入れたのは罰のためじゃない……」だが言いかけたところで、助手が声をかけた。「三条社長、車が手配済みです。会議はこれ以上遅らせられません」千臣は一瞬止まり、彼女をじっと見つめてから口を開く。「病院へ送れ。他の話
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第9話
飛行機は空を切り裂くように進み、雲の中へと消えていった。初寧は窓の外の白い雲と青い空を見つめ、下唇をぎゅっと噛みしめて意識をそらす。体中を突き抜けるような痛みが、まだ傷口から全身へと広がっていた。もう少し、もう少し耐えれば、飛行機は着陸する。そうすれば、自由だ。空港を出ると、まるで一生分の時間を使い果たしたかのように、足を引きずるように歩いた。しかし路上に出た瞬間、耳元でスポーツカーの鋭い急ブレーキ音が響いた。車は彼女の目の前で安定して止まった。だが彼女には顔を上げる余裕もなく、力尽きて地面に倒れ込む。これではまるで、異国に着いたばかりで当たり屋になったようなものだ。笑いたかったが、痛くて笑えない。意識を失う直前、彼女は車のエンブレムを目にした。赤いフェラーリ――跳ね馬のマークが誇らしげに掲げられている。力強い腕が素早く彼女を抱き上げた。その人の身にまとわる鋭い香りが、彼女を包み込む。フェラーリの香水の匂い――ブランドにまで一途な男……「光野様、もう行かないと旦那様たちに追いつかれます。この事故は私が処理します」「ぶつけたのは俺だ。逃げられない。彼女を病院に連れて行く」まさか、御曹司なのに、責任感まであるとは思わなかった。――光野、どこか耳に覚えのある名前だった。彼女の脳裏に最後の思考がかすめ、そして闇に沈んだ。……車内で千臣はふと眉をひそめた。なぜか、心臓が一瞬止まるような感覚。指先から何かが流れ出る気がして掴もうとしたが、何も掴めなかった。「東三条さん、どうかしましたか?」「大丈夫」千臣は平静を装った。――きっと錯覚だろう。三日後、ついに会議が終わった。東三条グループは最終的な権利の更替を完了した。これまで明暗に権力争いをしていた叔父たちはすべて排除され、東三条グループ、それに東三条家の実権もすべて東三条千臣に移ったのだ。「東三条当主、お若いのに実に有能ですね!」千臣はグラスを手に取り、冷たい表情に薄く笑みを浮かべる。六年にわたる布石、忍耐の末、ついに全ての網を引き締め、大勝利を収めた。祝うべき喜びの席なのに、酒を手にした彼の脳裏にふと初寧の姿がよぎる。赤ワインのグラスは、鮮やかな赤いドレスを纏った美女のようだ。初寧と同
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第10話
千臣は助手の驚いた表情を見て、淡々と口を開いた。「そんなに驚いたか?」助手は顔を赤らめ、汗をぬぐいながら答える。「ただ、麗様に対する社長の関心が、初寧様よりもずっと強く見えるので……」千臣はしばし沈黙し、薄い唇をかすかに開いた。「それはな、俺の命そのものが麗からもらったものだからだ。もし彼女がいなければ、俺は今、生きていなかった……」揺れるクリスタルのワイングラスに、彼の端正な横顔が映る。普段は冷静で自制心のあるその瞳に、ほんのわずか柔らかい光が滲んだ。かつて誘拐された記憶が、波のように押し寄せる。二十年前、彼は人身売買業者に連れ去られ、東三条家を脅すための協力を拒否したことで、ぶん殴られ、檻の中に放り込まれた――まるで犬のように。三日間、一口の水も食べ物も与えられなかった。彼は自分の命がゆっくりと失われていくのを、肌で感じた。死ぬと思ったその時、汚れた小さな手が、半分のパンを握りしめて差し伸べられた。「だ、大丈夫?」小さな女の子の声は震えていた。「こっそり少し食べ物を隠しておいたの。食べて、ちゃんと生きて……」汚れた小さな顔。しかしその瞳は星のように輝き、彼の冷たく薄暗い心を照らした。恐ろしい人身売買組織の中、毎日、誘拐された子供たちの悲鳴が響く。だが、二人は互いの手を握り、慰め合い、唯一の心の拠り所となった。「絶対に耐えるんだ。きっと出られる」彼女の眉は弓なりに上がり、二つの三日月のようだった。「出たら、私たち、友達のままだよ、いい?」彼は頷いた。「私は鹿井麗。君は?」「僕は……」名前を言う前に、ドアが開き、強い光が差し込んだ。二人はしばらく離れ離れになった。最終的に彼は救出され、東三条家の人間に連れて行かれ、彼女とは連絡が途絶えた。東三条家から独立したのは、二十年後のことだった。彼は彼女を忘れたことは一度もない。様々な手を尽くして探し、ついに麗も救出され、鹿井グループの長女様であることを知った。そこで彼は自ら鹿井グループに入り、彼女の傍に付き、静かに恩を返そうと決めた。そして、幸運にも鹿井グループに入ったことで、幼少期に婚約を交わした初寧に出会うことになる。千臣は唇の端に、自然と笑みを浮かべた。初めて初寧に出会ったのは、会
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