ログインカーンと冴え渡った空を、純白の龍が飛ぶ。背中には、カガリ、リズ、そして春香を乗せていた。荷物の類は全て、カガリが確と抱えている。「凪彩、君は何者なんだ」 十丈はあろうか、という巨龍の背で、春香が問う。「色々と込み入った事情がある故、全てをここで説明することは叶いませんが……端的に言えば、龍そのものを身に宿した、人と妖魔の中間にある存在、となるのでしょうか」「わからんな……」 そんなものがいるのか、と言いたくなる彼だったが、現実として目の前にそれは存在する。ならば、問うだけ無駄だろう。肌を切り裂くような冷たい風の中、彼は坐天島北部の集落を見下ろした。 寂れた村だ。唯一目立つのは、古びた桟橋だけ。帰ってきた漁船から、魚の数々が陸地へと揚げられていた。 その砂浜に、凪彩は降り立つ。ズゥン、と重低音が村に響き渡る。古い火縄銃両手に様子を見に来た村民たちは、険しい表情を浮かべるばかりだ。 春香らが龍の背から降りれば、凪彩も人間──の形をした存在へと戻る。「本当に、大丈夫なんでしょうか」 そう声を震わせるリズを、春香はそっと抱き寄せた。「今は、信じるしかない」 凪彩が風に布切れを靡かせながら、村民と二言三言、会話を交わし始める。しばらくして、クイと片手を上げて春香らを呼んだ。「すみません、急に来たもので、まだ信頼してもらえていないのです」 弓を背負う彼女は、苦い顔で街の南へ向かう。『村長』と書かれた看板の出ている、茅葺屋根の家。その隣に、立派な門構えをした、瓦葺の細やかな屋敷が築かれていた。「これが、雷業の隠れ家です。雷天に何かがあれば、ここから脱出する手立て、となっていたのですが……」 凪彩は、重い扉を開く。誰も住んではいない。黴臭いような空気が漂う。春香は、そこに父の残滓を探そうとした。どこまでも厳しく、役割に殉じろと語る父だ。もう、会わないものだと思っていた。 庭を横切り、蔵。凪彩がポーチから鍵を取り出し、開く。刀や槍、銃の納められたそこの奥に、紫の光を漏らす扉があった。「あれか」 開けたいのか、開けたくないのか。春香は、答えが判然としないまま、近づいていく。無数の命を吸った、相伝の刀。左腰に差した二振りを頻りに触りながら、彼の指が、取っ手を掴んだ。「この先、バズにある屋敷に繋がっております。春成様が、お待ちです」「……バズで
「クィオウ・ニーウもまた、生きています」 春香は、目の前の気が狂ったような格好の女──凪彩にそう告げられた。局部を隠す、服というよりも黒い布切れと言うべき存在が、冬の夜風にはためく。まともなものといえば、腰に巻かれたポーチと、背中にある矢筒と弓くらいのものだ。「……嘘だ」 数秒の沈黙の末、春香の口から漏れた言葉はそれだけだった。「真実です。しかし、今、その自由は著しく制限され……命さえも危うい。どうか、お力を貸してはいただけませんか」「クィオウは死んだ。下らない嘘で何をするつもりかは知らないが、趣味が悪いぞ」「あの手紙、どれほど信憑性があるとお思いですか?」「何が言いたい」 彼の口調には、業火と言えずとも、確かに燃え上がる時を待つ種火のような熱が孕まれていた。「遺書を活字にする。その工程では、第三者に内容を見られる可能性を否定できない……いえ、クィオウ様自身が組版を行わない限り、誰かが遺書を読むのは、確実です」「クィオウの死を偽装した者がいる。そう言いたいのか」 こくり、凪彩が頷いた。その間、春香は隣に立つ頸創の顔を見る。「クィオウってのは、お前の死んだ許嫁だろ? 生きてんなら、どうするんだ」「そのことは、その時考える」 紅玉の瞳に熱い雷霆が迸っているように、頸創には思えた。「しかし、まずはクィオウ様の生存を裏付けるものが必要でしょう。こちらをご覧ください」 凪彩は、ポーチから一葉の写真を取り出し、春香に渡した。玄関の電灯で照らしたそこには、墨色の瞳と、乱暴に引き千切られたように荒れた銀髪が映っている。周囲には、赤いワインや黄色いチーズが置かれたものだ。 確かに射抜いてくるような、墨色の瞳。彼は間違いなく、この女性がクィオウであると感じ取っていた。「カラー写真……春香、こいつはかなり新しい写真だ。俺らが二年前に撮った写真だって白黒なんだからな」「つまり、少なくともカラー写真が実用化された時までは生きていた、ということだな」「ええ、春香様」 凪彩は顔を伏せたまま、答えた。「クィオウ様の美貌は、方々の狩人の耳にも届いております。ぜひ娶りたい、という数多くの求婚を断り続けたがために、塔へと幽閉され、今猶、春香様のお迎えを待っておられる」 今度こそ、クィオウを幸せにできるかもしれない。春香は冷たい空気を肺に送り込み
「春香さん」 縁側で雪を眺めていた春香に、リズの細い声が投げかけられる。「ご飯、できたみたいですよ」 「そうか」 のっそりと立ち上がった彼は、短い左袖を揺らすリズと並び、奥座敷へと向かう。喪服のような黒い羽織も、夜の色をした黒髪も、紅玉のような瞳も、変わってはいない。ただ一つ、幼さを捨てた顔に刻まれた悔恨を除いては。 本日の夕餉は、鯖の味噌煮だった。狩人二人には一尾丸ごと。只人であるリズ、佳代子、老婆には半身が提供された。春香と頸創が上座に座り、その斜向かいにリズがいた。「いただきます」 合掌した春香の声に、皆倣った。「頸創、逆梟の話をここしばらく聞かないが、活動は落ち着いているのか?」 麦飯を片手に、彼は問う。向かいにいる褞袍の頸創は、茶髪と緑青の目で答える。「二年前、俺らが潰してからはかなり大人しいぜ。フザンが送り込んでくる刺客も、月に二人いるかってくらいだし……ま、平和ならそれでいいだろ」 「だが、あにう──フザンがまた何かを企んでいるかもしれない」 兄上と言いかけて、彼は慌てて言い直したのだ。「かもしれない、だけだろ? 根拠がないなら安心しろよ」 安心。鷹眼──いや、フザンと彼は呼ぶようにしていた。あれは、憧れた兄ではないのだから。 閑話休題。そのフザンとの戦いから二年。安心というものは遠く、時折姿を見せるフザンの幻影と言えるような刺客もいる。何も考えず大の字になって眠れる日はもう来ない。春香は、刀を手放せない日々に心を蝕まれつつあった。「春香さん」 少し隈のあるリズが呼びかけた。「今度、本屋さんに行きたいんです。明日か、明後日か……」 「そうか。付き合おう。だが、読みたい本でもあるのか?」 「新聞に出てたんです。その辺りで、歴史書の続刊が発売されるって」 「なら、買いに行かねばならないな」 春香は微かに表情を緩めて、応じた。火鉢の熱。炭が割れる。それでも、彼はずっと張りつめた緊張の中にある。「ごちそうさまでした」 皆、ほぼ同時に食べ終わる。合掌し、頭を下げ、彼らは立ち上がった。それぞれのやるべきことをやる。「風呂は沸いているか」 春香が佳代子に問うた。「ええ。奉公人が炊いているはずです」 「あいわかった。詰所にも暖かい飯を届けてやれ」 ペコリ、佳代子は頭を下げて台所へ走った。頬に
「では、正式に婚姻を了承するということで、よろしいですね?」 襖越しに、春香は父と来客との会話を聞いていた。警備の任を受け、数人の侍と共に襖の前に正座し始めて、既に数十分。チチチッ、と雀が昼空へと飛び立っていく。「ああ。これで、レヴェダギと雷天の友好の証としよう。ヴォウ・ニーウ」 ヴォウ。クィオウの父親だ。屋敷に来た時に見た顔は、クィオウにはあまり似ておらず、むしろ無骨な印象を与える男性だったな、と彼は思い起こす。鱗は頬にまで達していたことが、印象的だった。「二年の歳月を経て、クィオウから何度も手紙をもらい、家臣からも報告を受けておりますが……春香くんは、随分と実直で素朴な少年のようですな」「未熟だが、腕もそれなりに立つ。いずれ、雷業の家臣団を率いるに足る人物となるだろう」 あの父が、自分を認めてくれている。春香は、それが嬉しかった。滅多にないこと。侍たちも、ニコニコと笑っていた。「坊ちゃん、やりましたね」「やめてくれ、こそばゆい」 囁き合って、会話の進展を待つ。「春成殿は、お酒は嗜まれますか?」「飲まんようにしている。いつ何時敵が来るかわからないものでな」「では、このウォッカは持ち帰るといたしましょう」 ヴォウの渋い笑いが聞こえてきた。同時に、衣擦れの音も。「だが、クィオウを嫁にやって、家のことはどうするつもりだ? 一人娘なのだろう?」「イェルラという年の離れた弟がおります故、然して問題にはなりませぬ。向こう十五年は、やってもらわねば」「随分と期待しているのだな」 父の声が知っているものよりずっと穏やかで、春香はもっと聞いていたくなる。「……そうだな。今日ばかりは酒宴としよう」 警護の侍たちは、ニヤリと笑みを交わし合った。「今晩、我が雷天の酒を以て、ヴォウ殿をもてなそう。よろしいか」「ええ、異存ありません」 その晩、盛大な歓待が行われた。雷業屋敷の滅多に使われない大広間。そこに、雷天の誇る美酒美食、総計八十八の器や徳利、瓶が並んだ。 上座に座るのはヴォウではなく、春香とクィオウだった。当然酒は飲めず、行商人の持ってきたサイダーなるものを供される。「レヴェダギ国と雷天の末永き友好を祈って、乾杯」 下座の春成が音頭を取ると、出席した旗本や、ヴォウ直属の騎士という身分の者たちが酒の入った器を掲げる。「乾杯!」 白い
稲妻が、樹木を叩き割った。パァン、と派手な音が響く。「まさか、紅雷龍なのか⁉」 そう春香が声を発した時、空を舞う十字の影が、急降下を開始した。重々しい、地鳴りにも似た音を鳴らしながら、深紅の龍が彼の前に降り立つ。 陽光を反射する、紅玉めいた鱗。頭に生えた長い角。背中から生える蝙蝠のような翼。四本の脚は、若草繁る地面に、深くめり込んでいた。 屹立した首の上、牙の並ぶ口の中に、雷の弾が産まれる。「春香、来る!」 背中のクィオウが発した一声を聞いて、春香は横に飛ぶ。一瞬前までいた地面が、三尺は抉られただろう。 天津龍。龍の中でも、最強と名高い四種の龍。出会えば最後、死ぬか殺すか。逃げるなどは、叶わないのだ。 だとして、春香は死ぬつもりもない。兎に角、気を廻らせた体で逃げ回り、撒いてしまわなければ、物言わぬ肉となる。それだけは、避けたい。(父上……!) 胸中で助けを求める。木の陰に入っても、気を探知した紅雷龍は木々を貫き、春香まであと一寸という所を過ぎる雷撃を連発していた。 脚を止まれば、死体の一片も残らないかもしれない。走りながら浅くなる呼吸。恐怖が背中にピタリと張り付いて、肩を引く。(生きろ、生きろ、ここでクィオウを死なせるな!) 春香は、洞窟を見つけた。紅雷龍の邪気は遠い。一度、彼はクィオウを降ろした。「ここで隠れていてくれ」「でも、あんな龍に勝てるの?」「……勝つしかない」 肌を突き刺すような邪気が、少し
伊英の街に、雪が降っていた。縁側の遥か頭上。真っ黒な空を仰いで、春香は目を閉ざした。あの出会いも、冬の日だったのだから……。◆ 雷業春香が十になった年、冬の終わり。坐天島、雷天の街に来訪者の姿があると聞き、彼はまだ幼い体に刀を差して、玄関に向かった。 一目で、彼はその来客に惚れた。墨色の瞳。長い銀髪。赤茶色の服を着ている。腰にサーベルを佩いた一団を背後に控えさせた、少女の姿だ。「はじめまして」 流暢な東方語で挨拶するその声は甘く、聞く者の心を蕩けさせる。「雷業春香だ」「ヘヴノヴールより参りました、クィオウ・ニーウ。これから、よろしくお願いします」 微かに振る雪の中、二人は握手を交わした。そこで向けられた、布団のように安心感のある微笑みのせいで、春香は相手を直視できなくなった。「こちら、ご挨拶にと思いまして」 パパン、とクィオウが手を鳴らすと、家臣の一人が紙袋を持って前に出た。「中を見てもいいか?」「ええ、もちろん」 茶色い紙袋だ。それを覗いた春香の鼻腔を、甘い香りが擽る。茶色い、小麦粉の塊だ。立ち昇る、中に酸いものもある芳香で、彼はそれが菓子であることを理解する。「ヘヴノヴールでよく食べられる、ケーキというものです。乾燥させた果物をふんだんに使ったものですのよ」「そうか、皆で分ける。ありがとう」 礼を言った時、彼の耳に足音が届く。無遠慮で重く、それでいて隙の無い足音だ。「お前の妻となる女だ」「父上&helli