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幾千度も夢の中で彼女を探しつつける

幾千度も夢の中で彼女を探しつつける

By:  九州Completed
Language: Japanese
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星華高校職員室。 「先生、決めました。進学します。ただし、北都大学ではなく、保安大学校の情報学部に進みたいんです」 深秋の風に、天海依乃莉(あまみ いのり)の細い肩がわずかに震えた。それでも、その瞳は凛として揺るぎない。 大林先生は一瞬呆然とした後、次の瞬間、喜びの表情を浮かべた。 「天海くん、ついに考えが変わったのね!てっきり時田隊長と結婚するために、北都大学の推薦枠を君の従妹に譲るのかと思っていたわ。 でも、保安大学校の情報学部は特殊なの。我が国の秘密組織の要員として育成されるから、入学すると、前の経歴を全て抹消されて、偽名で生活しなければならないんだよ。ご家族とは話し合ったの?」 「大丈夫です。自分で決められます」 「家族」という言葉を聞いた瞬間、依乃莉の胸の奥が少し疼いた。 ――でももう大丈夫。彼らの世界から完全に消え去れば、もう何も奪われずに済むのだろう。

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Chapter 1

第1話

星華高校職員室。

「先生、決めました。進学します。ただし、北都大学ではなく、保安大学校の情報学部に進みたいんです」

深秋の風に、天海依乃莉(あまみ いのり)の細い肩がわずかに震えた。それでも、その瞳は凛として揺るぎない。

大林先生は一瞬呆然とした後、次の瞬間、喜びの表情を浮かべた。

「天海さん、ついに考えが変わったのね!てっきり時田隊長と結婚するために、北都大学の推薦枠を君の従妹に譲るのかと思っていたわ。

でも、保安大学校の情報学部は特殊なの。我が国の秘密組織の要員として育成されるから、入学すると、前の経歴を全て抹消されて、偽名で生活しなければならないんだよ。ご家族とは話し合ったの?」

「大丈夫です。自分で決められます」

「家族」という言葉を聞いた瞬間、依乃莉の胸の奥が少し疼いた。

――でももう大丈夫。彼らの世界から完全に消え去れば、もう何も奪われずに済むのだろう。

……全てはあの日から始まった。

幼い頃、川で溺れかけた依乃莉を助けようとした叔父さん(叔母の夫)が亡くなって以来、両親は「お前は完子に命の借りがある」と言って、叔父さんの娘――従妹の夏見完子(なつみ さだこ)を家に引き取った。

それからは、何もかもを「譲る」日々。衣食住の全て、そして親の愛までも。

ついには婚約者の時田辰哉(ときた たつや)までもが、完子のものになろうとしていた。

家族の愛情も、恋人の愛も、すべて奪われてしまった。

今また、一生懸命勉強してやっと手に入れた名門校・北都大学の推薦枠を、両親は依乃莉に譲るよう迫っている。

そればかりか、辰哉までもが「結婚することで交換しよう」と言い出した。

依乃莉は昨夜、ベランダに置いた簡易ベッドで一晩中考え抜いた。

そして朝日が昇る頃、悟ったのだ。

――もう、何も譲らないと。

この縁、断ち切ろうと。

二度と関わり合いになりたくないと。

……

大林先生と相談した後、依乃莉は一人で街を歩いている。

紅葉が炎のように美しく燃える中、彼女の背中はただならぬ寂しさに包まれている。周りは退勤後の人々で溢れ、自転車に乗りながら幸せそうな笑顔を浮かべている。

賑やかで喧騒なこの世界は、彼女だけがまるで浮いている。

突然、一台のジープが眼前に停車した。

窓から覗いたのは、冷たい表情の美青年――婚約者の辰哉だ。

「乗れ」

彼は不機嫌そうに言った。

「進路の件、学校にはきちんと説明したのか?」

依乃莉は黙った。

もちろん彼女はきちんと説明した。だが辰哉の命令通りに北都大学の推薦枠を譲り渡したのではなく、彼が決して見つけられない場所へ行くことにしたのだ。

依乃莉が答える前に、完子が後部座席から頭を乗り出した。

「姉さん、見て!辰哉さんがたくさん買ってくれたんだよ。服に靴、最新スマホも!北都大学に行くんだから、馬鹿にされちゃいけないって」

完子が、得意げに戦利品を見せつけてくる。

しかし依乃莉はただその首にかかるネックレスを見つめて、顔色が変わった。

胸を刺し貫かれるような痛みが走り、血の気が引くのを感じた。

――あれは、祖母が自分に遺してくれた形見で、自分から辰哉へ贈られた「愛の証」でもあった。

まさか、辰哉がそこまで完子を偏愛し、そのネックレスを渡すとは思わなかった。

辰哉は依乃莉の視線に気づき、ほんの一瞬だけ居心地悪そうに目を伏せたが、すぐに平静を装った。

「完子が気に入ったんだ。どうせ大したものでもないし。俺と結婚したら、もっと良いものを買ってやる」

依乃莉の胸の奥に、苦い痛みが広がった。

ネックレスそのものに価値があるのではなく、大切なのはそれが象徴する愛だ。

だが、辰哉にとっては、取るに足らないものでしかなかった。

――そうだ。彼は最初から、自分を愛していなかったのだ。大切にしないのも当然だ。

完子は「結婚」という言葉を聞いた瞬間、瞳に嫉妬の色が走った。

そして、わざとらしく涙を浮かべて言った。

「辰哉さん、姉さんが怒ってるみたい……私が北都大学の推薦枠を取っちゃったから?ごめんなさい、私が悪いんだ。

姉さんのものを奪うんじゃなかった。全部私のせい、こんな私、誰にもいられなくても当然よね……」

辰哉は完子の涙を見るなり、表情を強くした。

「完子はもう十分不幸な境遇なんだ。お前は何でも持っているくせに、どうしていつでも完子と争うんだ!」

そして、彼は完子の頭を撫でながら優しく言い添えた。

「心配するな。北都大学の推薦枠は君のものだ。誰にも奪えやしない」

彼は依乃莉に鋭い視線を向け、冷たく告げた。

「お前、自分で歩いて帰れ。よく反省してから完子に謝れ。さもなければ、お前を許さないからな」

言い終えると、彼はアクセルを踏み込み、断固として去っていった。残されたのは舞い上がった土煙だけだった。

後部座席の窓から、完子は依乃莉に向かって、得意げな挑戦の眼差しを投げかけ、顔には嘲笑が溢れていた。

依乃莉は土煙で咳き込みながら、その場に立ち尽くした。涙が頬を伝い、止まらなかった。

――ほら、何も言わなくても、何もしていなくても、すべてが自分のせいである。

どれほどの時間が過ぎただろうか。

肩にひとひらの紅葉が落ち、薄い服の上から冷たさが骨身に染みる。

かつて、両親の偏愛に居場所をなくした彼女に、「俺がそばにいる」と言ってくれたのは、辰哉だった。

その言葉が、世界に愛を感じる唯一の理由だったのに。

しかし、一生自分を守ると言ったその男さえも、結局は裏切った。

灰色の空の下、依乃莉は涙を拭い、ポケットからキャラメルを一つ取り出し、苦笑しながらそれを見つめる。

それは、辰哉が昔くれたものだ。

「悲しいときは、これを食べろ。人生が少し甘くなるから」と言った。

依乃莉はずっと食べずに大事にとっておいた。

今やキャラメルの賞味期限は、もうとっくに過ぎちゃった。

まるで、辰哉の愛のように……

依乃莉はキャラメルをゴミ箱に放り投げた。

えこひいきする両親も、心変わりした婚約者も、すべて!もういらない!
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KuKP
自分との結婚を褒美だと思ってる優柔不断クズ男が自分の罪を数えて一瞬ストーカーになったり罪を償ったりする話 「償い」のひとつの解がここに…! 主人公は絶望後に力を発揮して陰のある大人になったので健康で幸せになってほしい 命の恩のために助けた側を優遇し助けられた人を冷遇するって考えは何なんだろうね…助けた人も「頑張って命助けたのになんで辛い目に遭っとるん?」てなるだろ そんな両親と寄生侵略女の結末は残当
2025-11-01 12:37:44
1
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松坂 美枝
おぉおークズが這い上がったー 贖罪というものをしっかり果たしたクズだったが誠実な男になった 実の娘をベランダで暮らさせ大学の枠までクソ女に譲らせる毒どもは後悔先に立たず 読み応えあった
2025-11-01 10:36:28
1
22 Chapters
第1話
星華高校職員室。「先生、決めました。進学します。ただし、北都大学ではなく、保安大学校の情報学部に進みたいんです」深秋の風に、天海依乃莉(あまみ いのり)の細い肩がわずかに震えた。それでも、その瞳は凛として揺るぎない。大林先生は一瞬呆然とした後、次の瞬間、喜びの表情を浮かべた。「天海さん、ついに考えが変わったのね!てっきり時田隊長と結婚するために、北都大学の推薦枠を君の従妹に譲るのかと思っていたわ。でも、保安大学校の情報学部は特殊なの。我が国の秘密組織の要員として育成されるから、入学すると、前の経歴を全て抹消されて、偽名で生活しなければならないんだよ。ご家族とは話し合ったの?」「大丈夫です。自分で決められます」「家族」という言葉を聞いた瞬間、依乃莉の胸の奥が少し疼いた。――でももう大丈夫。彼らの世界から完全に消え去れば、もう何も奪われずに済むのだろう。……全てはあの日から始まった。幼い頃、川で溺れかけた依乃莉を助けようとした叔父さん(叔母の夫)が亡くなって以来、両親は「お前は完子に命の借りがある」と言って、叔父さんの娘――従妹の夏見完子(なつみ さだこ)を家に引き取った。それからは、何もかもを「譲る」日々。衣食住の全て、そして親の愛までも。ついには婚約者の時田辰哉(ときた たつや)までもが、完子のものになろうとしていた。家族の愛情も、恋人の愛も、すべて奪われてしまった。今また、一生懸命勉強してやっと手に入れた名門校・北都大学の推薦枠を、両親は依乃莉に譲るよう迫っている。そればかりか、辰哉までもが「結婚することで交換しよう」と言い出した。依乃莉は昨夜、ベランダに置いた簡易ベッドで一晩中考え抜いた。そして朝日が昇る頃、悟ったのだ。――もう、何も譲らないと。この縁、断ち切ろうと。二度と関わり合いになりたくないと。……大林先生と相談した後、依乃莉は一人で街を歩いている。紅葉が炎のように美しく燃える中、彼女の背中はただならぬ寂しさに包まれている。周りは退勤後の人々で溢れ、自転車に乗りながら幸せそうな笑顔を浮かべている。賑やかで喧騒なこの世界は、彼女だけがまるで浮いている。突然、一台のジープが眼前に停車した。窓から覗いたのは、冷たい表情の美青年――婚約者の辰哉だ。「乗れ」
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第2話
依乃莉が家に着くと、中から賑やかな笑い声が聞こえてきた。見上げた空には、炎のように燃え立つ夕焼けが広がっている。まるで、彼女の孤独な姿を嘲笑っているかのように。両親が完子を家に迎えて以来、依乃莉はこの家で「余計な存在」になってしまった。叔父さんが自分を救って亡くなったという理由で、彼女は常に「譲る側」に立たされてきた。最初はおもちゃや洋服、次は両親の愛情、そして今は――婚約者まで。まるで世を彷徨う幽霊のように、依乃莉は静かに玄関に立ち尽くした。家からの笑い声は鋭い刃となって胸を刺し、痛みは足元まで滲んでいく。その痛みはやがて大きな影となり、彼女を丸ごと飲み込んだ。ドアを押し開けた瞬間、家の中の笑い声がぴたりと止んだ。彼女の存在が、この「幸せな家庭」の空気を壊してしまったかのように。依乃莉の母親――天海晶子(あまみ しょうこ)はちらりと彼女を見ると、隅に置かれた小さな椅子を指さした。そこには一碗のご飯と、ほんの数本の青菜しか入っていない。一方、食卓には魚や肉の皿が並んでいる。幼い頃から、両親は「完子は成長期で栄養が必要だ」と言って、良いものはすべて完子に与えてきた。そして依乃莉には「譲ることを覚えなさい」と教え込み、席も食事も譲らせ、今ではベランダの小さな簡易ベッドで眠らせ、粗末な野菜ばかり食べさせている。けれど両親は一度も考えたことがなかった――依乃莉だって、完子よりわずか半年しか上で、同じ成長期の少女なのだと。晶子は立ち上がり、わざとらしく魚の一切れを取って依乃莉の茶碗に入れた。「あなたの好きな魚よ。さ、座って食べなさい」依乃莉は表情一つ変えず、静かに言い返した。「母さん、私、魚アレルギーです。好きなのは従妹の方ですよ」晶子はいつものように不機嫌になるでもなく、珍しく穏やかな笑みを浮かべた。「学校にはちゃんと話した?北都大学の枠を完子に譲るって。あなたは成績がいいんだから、来年また入試を受け直せばいいでしょ」依乃莉は沈黙した。その沈黙に、晶子の表情が一変した。「どうして嫌がるの?完子はあなたに命の恩があるのよ!枠を譲るくらい、何でもないでしょう。少しは分別を持ちなさい!」何度も繰り返されてきた光景なのに、晶子の偏った態度は、いつも彼女の心をえぐり取った。その時、依乃莉の父親――
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第3話
その夜、依乃莉は夢を見た。幼い頃、両親に抱きしめられ、細やかな愛情に包まれていた。二歳年上の辰哉が、彼女のほっぺをつまんでは「可愛いな」と笑っていた。温かな泉に浸かっているようで、依乃莉は目を覚ましたくはなかった。けれど、夢の中に完子が現れた瞬間、すべてが悪夢へと変わる。両親の顔は歪み、怒鳴り声が響き、辰哉も彼女を置いて遠ざかっていった。「父さん、母さん、辰哉さん……!行かないで!」泣き叫びながら手を伸ばしても、足元は深い奈落だ。彼女はそのまま落ち、絶望と痛みの中に沈んでいった。両親も辰哉も振り返らず、完子に寄り添いながら遠ざかっていく。依乃莉は、永遠に終わらない暗闇の底で、静かに消えていった。……外の花火の音で、依乃莉ははっと目を覚ました。枕は涙で濡れていた。もう彼らのことで泣くことはないと思っていたのに、心の奥底ではいまだに愛されること、認められることを望んでいる自分がいた。――ただの夢で、よかった。そのとき、一台のジープが庭に進入してきた。降りてきた長身の男を見て、依乃莉は慌てて階下へ駆け降りた。「依乃莉、北都大学に合格したそうだな。よくやった」男は辰哉の父親――時田国隆(ときた くにたか)。天海家とは旧知の仲で、かつて光雄に命を救われた恩があり、その縁で二人は幼い頃から許嫁として決められていた。そうした経緯もあり、国隆は依乃莉にとって、唯一心から彼女を大切にする人となった。彼は依乃莉の頭を軽く撫で、空の花火を見上げながら辰哉にうなずいた。「お前もやるじゃないか、依乃莉を祝うために花火を上げるとは」「父さん、違う」辰哉は眉をひそめた。「花火は依乃莉のためじゃない。依乃莉が進学したくたいから、北都大学の枠を完子に譲ったんだ。完子は努力家だし、期待に応えると思う」国隆の表情が一瞬で険しくなる。叱責しようとしたその時、依乃莉が慌てて間に入った。「おじさん、久しぶりのご帰宅でしょう?今日はゆっくりなさってください。詳しい説明はまた今度に」保安大学校の情報学部を志願したことは知られてはいけない。彼女は静かに去りたかったのだ。国隆は不機嫌そうに息子を睨みつけ、足早に家の中へ入っていった。残されたのは依乃莉と辰哉だけ。「結婚の件は、父にはまだ内緒だ。北都大学のことも、
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第4話
辰哉の声には、かすかな震えが混じっていた。信じられないというように、彼は依乃莉を見つめた。「依乃莉、これは……俺が贈ったプレゼントだぞ。なんで……なんで燃やすんだ?」何か大切なものが、手の届かないところへ永遠に消えていく――そんな言いようのない不安が、胸をよぎった。依乃莉は燃え盛る木彫りの人形を見つめ、それが灰へと変わり果てるのを確認してから、ゆっくりと顔を上げた。その静かな瞳と視線が合った瞬間、辰哉は、目の前の立っている少女が確実に、自分から離れていくような気がした。依乃莉は小さく息を吸い込み、贈り物が灰になったそのとき、胸の奥に絡みついていた執着が、ふっとほどけていくのを感じた。もう両親の偏愛を気にすることも、辰哉が誰を選ぶかで胸を痛めることもない。すべては自分とは無関係だ――これからはただ、自分の道を進もう。「カビちゃったの。だから燃やしたの」そう口にしながら、本当は伝えたかった――もう、あなたを愛していない、と。けれど、あと二十日ほどで永遠に消えてしまうことを思い出し、彼女はただ堪えた。辰哉はほっと息をつき、軽くうなずいた。「燃やしたっていいさ。どうせ大した物でもないし、籍を入れたらまた買えばいい」依乃莉は静かに、ほのかに笑った。――彼とはもう、籍を入れることも、未来を共にすることもない。すべて、終わったのだ。辰哉はすぐに自分に言い聞かせた。――依乃莉には自分しかいない、ほかに行く場所などないはずだ。さっきの不安など、きっと取り越し苦労だったのだ。再び彼はいつもの高慢な態度に戻り、眉をひそめて不機嫌そうに言った。「そんな怖い顔ばかりするなよ。完子は両親を亡くして、うつ病なんだ。これ以上刺激するな。お前には全部あるんだから、わざわざ争う必要なんてないだろ」依乃莉はふっと、嘲るように笑った。「全部あるって?具体的に……私に、何があるっていうの?」両親の愛も、婚約者の思いやりもなく、まともな服一着すらない。完子は彼女のすべてを奪い取って、なお、いったい何を望むというのか。だが辰哉は、依乃莉の訴えなど聞こうともしない。苛立ちを隠そうともせず、吐き捨てるように言った。「お前には両親も、俺もいるだろ?完子は今、病院で苦しんでるんだ。謝ってくれ」依乃莉は一瞬、聞き間違え
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第5話
辰哉は、依乃莉が何の反論もせず、あっさりと受け入れたことに驚き、言葉を失ったまま長く立ち尽くしていた。依乃莉は彼を見ようともしなかった。視線は庭の外の梧桐の木に向けられる。十一歳のあの日を思い出した――完子の罠にかかり、両親に吊るされ、ひどく殴られ、家を追い出された日。孤独と絶望の中、梧桐の木の下でうずくまって泣いていた。その時、辰哉が現れ、手を差し出して言った。「一緒に帰ろう」柔らかな笑顔と穏やかな声、そしてその姿は暗闇を照らす光のようで、彼は彼女の世界に初めて希望をもたらした。それから、辰哉は「北都大学を目指せ」と言ってくれた。その言葉を胸に、十一歳から大学入試まで、彼女はひそかに努力を重ね、ついに合格を手にした。これでずっと彼のそばにいられると思っていた。だが今にして思えば、それはただの幻だった。目の前の辰哉は、もうかつての彼ではない。完子を北都大学に行かせるために、愛してもいない相手との結婚を選ぶ――なんて偉大な「愛」だろう。皮肉にも程がある。「籍を入れるのは延期だ」と言われた瞬間、依乃莉の心は静まり返った。もう何も期待していなかったから。延期の次に来るのは、約束の破棄、その時、大学への道も、結婚の約束も、すべて失われるだろう。――それはもう、分かりきったことだった。けれど幸い、北都大学の推薦枠は譲らない。あと二十日もすれば、自分はこの家を離れ、保安大学校へ行く。彼らとは、完全に縁を切るのだ。「依乃莉、あまり考えすぎるな。約束は必ず守る。今は完子の精神状態が不安定だから、刺激したくないだけだ」辰哉は、彼女の静かな態度にかえって不安を覚え、慌てて言い訳をした。依乃莉は梧桐の木から視線を戻し、ふと口を開いた。「辰哉さん、十一歳のあの日、あの木の下で私に何を約束したか、覚えてる?」辰哉の顔がわずかに強張る。一瞬、彼の瞳に罪悪感のような光が走ったが、言葉を発する前に、警備員が駆け寄ってきた。「時田隊長、病院から至急の連絡です!夏見さんがまた自傷行為を――」彼は眉をひそめ、それ以上何も言わずに振り返り、急いで車に飛び乗った。遠ざかるジープを見送りながら、依乃莉はゆっくりと部屋――あの狭いベランダに戻った。もう自分のものはほとんど残っていない。辰哉からの贈り物
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第6話
辰哉は完子を部屋まで送り届けたが、ベランダの小さなベッドに置かれた保安大学校の雑誌を目にした瞬間、胸の奥に強い不安が湧き上がった。彼は慌てて階下へ駆け降り、詰め寄るように問いかけた。「お前、なんで保安大学校の資料なんか読んでるんだ?」突然の質問にも、依乃莉の表情は微塵も乱れない。彼女は答えもせず、汗を拭うためにタオルを手に取った。「答えろよ!」辰哉は彼女の手を掴んだ。指先が震えている――まるで大切なものを失いそうな不安に駆られている。依乃莉はその手を静かに振りほどいた。かつては何度も夢見た男が目の前に慌てているが、今の依乃莉は何の感情も揺さぶられない。彼女はかすかに笑い、「ただの興味よ」とだけ言った。辰哉は彼女の瞳をじっと見つめ、嘘ではないと確信すると安堵の息をついた。「そうか……でも、あんなところ見ても仕方ないだろ。お前の体力じゃ保安大学校なんて無理だ。来年もう一度受験すればいい。成績だっていいんだから、チャンスはいくらでもある」「チャンス?」依乃莉は皮肉っぽく口元をゆがめた。「両親に言われたの。夏休みが終わったら働いて、完子の学費を稼げって。もうすぐ出ていくわ」辰哉の表情が硬直し、しばし沈黙した後、気まずそうに言葉を探した。「……心配するな。アルバイトなんて行かせない。金のことは俺が何とかする。完子の学費はもう用意してある」依乃莉は笑った。――やはり、彼は完子にだけ優しい。彼女のためなら、何でも整えてやる。北都大学の推薦枠を譲らせた上に、学費まで。なんて「完璧な」家族だろう。彼女にはわかっていた。辰哉の不安は愛ではなく、ただの罪悪感だと。どうせ完子が泣き喚けば、えこひいきする両親はまた自分に働けと言い、辰哉は黙って見ているだけ。でも――もうどうでもよかった。辰哉は依乃莉の沈黙を嫉妬と勘違いした。彼は彼女の短くなった髪に触れ、目の前の少女は昔のような優しい雰囲気ではないとようやく気づいた。見慣れた彼女が、少しずつ遠ざかっていくような気がして、胸がざわつく。「依乃莉、俺は必ずお前と結婚する。信じてくれ。少し延期するだけだ」その声はいつも通り自信に満ち、疑う余地のない口調だった。もし以前なら、依乃莉は涙を浮かべて喜んだだろう。だが今は、ただ淡く笑って
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第7話
「まさかお前の心がここまで冷たく歪んでるとはな。嫉妬で人を殺そうとするなんて、悪人よりもたちが悪い。俺にこんな娘がいる覚えはない!」光雄の目は血走り、まるで仇敵でも見るように娘を睨みつけ、激しく二度も蹴りつけた。晶子は完子を抱きしめ、泣き叫んだ。「ごめんなさい、ほんの少し外に出ていただけなのに、まさかこんなことに……完子、しっかりして、すぐ病院に連れていくからね!」完子の顔は血にまみれ、いかにも重傷のように見えた。だが実際はただの擦り傷にすぎない。彼女は悲鳴を上げ、光雄と晶子、そして辰哉の心を揺さぶるように痛々しく泣きわめいた。しかし三人の視界に入らない角度で、依乃莉に向かって冷ややかに、邪悪な笑みを浮かべた。二階から落ちた依乃莉の傷は、完子よりもずっと重かった。言葉を発することもできず、さらに何度も蹴られ、体は海老のように丸まった。だが、肉体の痛みなど、心の傷に比べれば取るに足らないものだった。両親は、いつだって自分を信じてはくれなかった。どれほど説明しようと、無駄だった。彼らは、無条件に完子だけを信じた。何分か経って、ようやく依乃莉は立ち上がった。顔は青白く、全身が震えていた。視線の先には、失望を露わにした辰哉の顔があった。完子は涙を浮かべ、か細い声で訴えた。「姉さん、ごめんなさい……私が勝手に辰哉さんに甘えていたから、あなたを怒らせてしまったんだね。私のせいでみんなが傷つくくらいなら……私、死んだ方がいい。そうすれば姉さんも、伯母さんたちも悲しまないで済むのに……」依乃莉は、氷のような視線で完子の偽りの涙、そして両親の怒りに満ちた目を見つめ続け、視界が暗く沈み、胸の奥まで絶望が染み渡っていく。孤独にも、悲しみにも、もう慣れていた。両親も、辰哉も、もう譲ると決めていた。――こんな人たちは、もう二度といらない。なのに、なぜ完子は、なおも自分を陥れようとするのか。辰哉の手が振り上がり、頬に焼けつくような痛みが走った。「結婚するって約束しただろう!なのにどうして完子を傷つけるんだ!あの子はもう十分苦しんでるのに、お前はそれでも追い詰める気か!」依乃莉の頬には真っ赤な手形が刻まれ、口元から血がにじんだ。呆然と辰哉を見つめる。――彼もまた両親と同じで、無条件に完
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第8話
氷のように冷たい家。血の通わない家族。依乃莉の、すでに千々に引き裂かれた心は、再び粉々に砕け散った。彼女の視線がゆっくりと周囲を巡る。憎悪と嫌悪を露わにする両親の顔。失望を隠さない辰哉の瞳。そして――得意げな笑みを浮かべる完子の唇。かつて最も身近だった人たちが、何度も依乃莉を傷つけてきた。敵よりも、よほど冷酷に。完子が仕組んだ罠なのに、自分は跪いて謝らなければならない。以前なら、家族の愛情を取り戻したくて、認められたくて、きっと妥協していただろう。だが今の依乃莉は、自分の生まれたこの家を、心の底から憎んでいた。なぜ、こんな冷血な家族のもとに生まれてしまったのか。光雄は彼女の沈黙を「反抗」と受け取り、顔を歪めた。そして怒鳴りながら足を振り上げる。「まだ自分が悪くないと思ってるのか!」蹴り飛ばされて、依乃莉は床に倒れ込み、再び血を吐いた。辰哉は一瞬、表情を曇らせた。だがすぐに顔を引き締め、彼女のもとへ行こうとする足を止めた。――これくらいの罰を受けなければ、彼女はわからないだろう。そう考えて、光雄を制止し、小さく首を横に振った。その仕草に気づいた光雄は、ようやく怒りを抑え込んだ。依乃莉はわずかに胸の奥で何かが揺れた――彼が、助けてくれたのか。けれど、辰哉の口から出たのは、こういう言葉だった。「今のお前の状態じゃ、俺と結婚するなんて無理だ。もし完子が運悪く死んでいたらと思うとゾッとする。だから罰として、俺たちの結婚は延期だ。それに……完子への償いとして、彼女と先に式を挙げる」依乃莉の全身が震えた。――信じられない、この人はどうしてこんな言葉を口にできるのか。これが「罰」?彼女の目に浮かんだ皮肉を見て、辰哉は一瞬たじろぎ、顔をしかめた。「本当の結婚じゃない。ただの償いだ」声に焦りが混じっている。両親と辰哉は、まるで猛獣を警戒するように、完子の前に立ちはだかった――依乃莉が怒り狂って暴れるとでも思ったのだろう。だが、依乃莉は静かに笑った。唇から血の泡をこぼしながら、歯を食いしばって言う。「それはそれは……おめでとうございます。お二人とも、心から祝福を。もう話は終わり?なら、私は休ませてもらうわ」そのまま、壁に手をつきながら、ふらつく足取り
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第9話
高級ホテルの門前で、辰哉は不意に胸騒ぎを覚え、顔を上げた。その瞬間、依乃莉を乗せたジープが遠ざかっていくのが見えた。胸の奥に、言いようのない不安が押し寄せる。天海夫婦は満面の笑みを浮かべ、誰にでも「今日は二重の喜びだ」と言って回っていた。――完子が北都大学に合格した以上、さらにこの街で一番の男性と結婚するのだと。辰哉の心には、言いようのない不快感が広がった。北都大学の推薦枠も、結婚も――それは本来、依乃莉のものであるはずだった。彼はただ、完子の治療のために、仕方なく同意しただけなのに。だが、周囲の祝福の声には当然のような響きがあった。完子は彼の腕にすがり、人混みを見渡しながら、涙ぐんだ声で言った。「姉さんがいない……祝福してくれるって約束してくれたのに。怒ってるのかな、私が幸せになるのがいやなの?やっぱり、私はちゃんと姉さんに跪いて謝るべきよ……」またしても始まったその演技に、光雄の表情が曇った。「恩知らずめ、こんな娘を産んだのが間違いだった。完子の一万分の一もないやつ」晶子もすぐに頷いた。「依乃莉は本当にわがままね。従妹が結婚するというのに来もしない。前に完子をいじめたことも忘れたの?完子が大目に見たんだよ。そしてこの前、危うく殺しかけたというのに、まったく反省しないなんて。帰ったら、きっちり叱らなきゃ」両親の意見はすぐに一致した――完子の大事な日に、依乃莉も少しは大人にならねばならない。完子は涙をこぼしながら、さらに火に油を注ぐように言った。「姉さんは、たぶん辰哉さんのことが好きなんです。私、奪うつもりなんてありません。ただ、一度だけ結婚式を挙げたかっただけ。式が終わったら、辰哉さんは姉さんにお返しします。もし姉さんが怒っているなら……この結婚式、やめましょうか」完子の駆け引きに、天海夫婦の怒りは再び燃え上がった。完子はその反応を聞きながら、依乃莉の絶望に歪んだ顔を思い浮かべ、心の底で満足げに微笑んだ。辰哉はずっと外を見つめていた。だが、いつまで経っても依乃莉の姿は現れず、胸の中は焦りでいっぱいになっていった。結婚式を受け入れたのは、完子を助けるためであって、本気で彼女と結婚するつもりではないと、彼はそう信じていた。依乃莉なら、きっと理解してくれる。命
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第10話
辰哉は梧桐の木の下にしゃがみ込み、灰の山をじっと見つめていた。依乃莉が去っていく兆しは、思えばずっと前からあったのだ。けれど、誰も気づかなかった。愛されない子どもは、こうして何も迷わず消えていく。彼女は贈り物を焼き捨て、思い出を壊し、一枚の梧桐の葉すら持っていかなかった。辰哉は、ただ完子の願いを叶えるために「形式だけの結婚」をした。捨てるなんて一言も言っていない。なのに、なぜ彼女は去ったのだろう。いくら考えても分からない。ただ、夏の熱気が胸を押し潰すように息苦しかった。熱風が吹き抜け、梧桐の葉がはらはらと舞い落ちる。辰哉は茫然と顔を上げた。そこに、かつての面影が重なる。木の下で、家族に見捨てられ、泣いていた小さな少女に「もう、寂しい思いはさせない」と言って彼は手を差し伸べた。そのときの依乃莉の瞳には、確かに光が宿っていた。だが、いつの間にかその光は消え、彼女はまた元の、心のない抜け殻のようになっていた。もしかすると、あの「北都大学の推薦枠を完子に譲れば結婚する」という提案が、彼女の心を完全に壊したのかもしれない。当時の驚いた顔が、今も脳裏に焼きついている。依乃莉が自分を想っていたことなど、自分はずっと前から知っていた。だが、周囲の噂を恐れて、あえて応えなかった。そんなある日、天海夫婦がやってきて言った――「依乃莉に言って、北都大学の推薦枠を完子に譲るように説得してほしい」と。本当はいけないことだと分かっていた。北都大学が彼女にとってどれほど大切か、痛いほど知っていた。それでも、何か理由が欲しかった。結婚するために。無意識のうちに、彼はそんな提案をしてしまったのだ。そして、予想外にも依乃莉は迷わず頷いた。彼女なら次の年もきっと合格できる。そのときは皆を黙らせて、堂々と一緒にいられると――そう思い込んでいた。だが、依乃莉はすべてを誤解し、何もかも捨てて、去ってしまった。「……彼女は、まだ遠くへなんて行ってない!」辰哉は何かに気づいたように立ち上がった。依乃莉には行くあてがない――そう信じて、知り合いや部下、あらゆる人脈を使って探し始めた。駅も、バスも、全部調べた。それでも、どこにも彼女の姿はなかった。依乃莉は、まるでこの世から消えたかのよう
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