LOGIN会議室のドアを押し開けると、長いテーブルの両側にはすでに大勢の役員が席に着いていた。澪と潤が並んで入室し、出席者たちに視線を巡らせる。皆一様に、思惑を抱いているようだ。隼人は克哉の横に座り、目の前に書類を広げて何事か低い声で話し込んでいた。そして杏は隼人に寄り添うように座り、傲慢な表情を浮かべている。「白川先生、まさかこんな場所でお会いするなんて。翠川町の法テラスへ飛ばされたと聞いていたのに、どうして?やっぱり、あんなど田舎は合わなかったの?」テーブルのあちこちから、冷笑が漏れた。しかし、澪は取り合うことなく、手元のファイルを開いた。潤が澪の代わりに口を開く。「では、会議を始めましょうか」株主総会が始まった。序盤は植田家が圧倒的なほど優勢に議論を進め、やがて克哉が採決を取り始めた。「私が会社の全権を掌握することに賛成する者は、挙手をお願いします」テーブルの両側で、次々と手が挙がっていく。克哉は満足げに手を下ろし、勝利を確信した笑みを浮かべた。「九条さん、どうやら……」「ちょっと待ってください」潤が不意に口を挟んだ。彼は立ち上がり、ジャケットのポケットからある書類を取り出してテーブルに置く。「父が俺に残した株式は、35パーセントじゃなく……」潤はその書類を克哉の方へ滑らせた。「48パーセントです」会議室が騒然となった。克哉が弾かれたように立ち上がる。「そんな馬鹿な!」「この紙が証拠です。株式名簿の書き換え記録を、好きなだけ確認してください」潤は書類をさらに前へと押しやった。「小林さんがこの2年間、あなたの目を盗んで水面下で進めていたのは、この手続きですので」克哉の顔から血の気が引く。彼は書類をひったくって目を通すと、その手が小刻みに震え始めた。「君の……君の父親が……」「父はあなたがこう出ることが分かっていたのでしょう」潤は克哉の言葉を遮った。「だから死ぬ前に株式の譲渡を済ませ、今日のこの日のために布石を打っていたみたいです」潤はその場にいる株主たちを見渡した。「俺の48パーセントに、従業員持株を合わせれば過半数です。だから、本当のことを言えば、今日のこの総会、俺の権限でいつでも中止にできたんですよ?でもそうしなかったのは、植田社長が何をおっしゃるのか、最後まで聞いてみたか
鍋が煮え立ち、夏美は具材を放り込みながら尋ねた。「で、どうなの?あの潤さんって男とは、一体どういう関係?」「ただの友人だから」「ただの友人が、わざわざ一緒に帰ってくるわけないでしょ?」夏美は全く信じていない。「いい、澪。私は潤さんに会ったことすら無いけど、この3年間あなたが電話で話す時、10回中8回は彼の名前が出てきてたんだから。まあ、自分じゃ気づいてないみたいだけど」箸を動かしていた澪の手が、ピクリと止まる。夏美は指を折りながら数え上げ始めた。「今日は潤さんが誰々の鶏を探してくれた、潤さんがまた喧嘩した、潤さんが減らず口を叩いて怒られた、潤さんがまたご飯を届けてくれた……ねえ、自分の胸に聞いてみなよ。これがただの友人に対する態度だと思う?」澪は数秒間黙り込んだ。「彼は……」言いかけたが、やはり口をつぐむ。夏美は澪の言葉を待っていた。「彼はとてもいい人だよ」澪は結局、その一言だけを口にした。夏美はしばらく澪を見つめ、ふっと笑う。「そっか。いい人なら、それでいいよ」食事を終えて店を出ると、時計はすでに9時を回ろうとしていた。二人が路地の入り口で立ち話をしていると、夏美が澪の腕を小突く。「澪、あそこ見て」澪は夏美の視線を追った。すると、視線の先の路地の向かいの大通りには、黒い高級車が停まっていた。ドアが開き、二人の人物が降りてくる。一人はダークグレーのロングコートを着た、長身ですらりとした男。街灯の灯に照らされ、顔には光と影が落ちている。隼人だ。そしてそのそばには、サングラスをかけた杏が寄り添っていた。夏美が小声で言った。「最近この近くでドラマの撮影をしてるらしいから、多分仕事帰りだと思うよ」澪は何も言わず、視線を隼人へと向ける。3年という月日。それでも、隼人は何も変わっていないように見えた。相変わらず落ち着いているが、それでいてどこか人を寄せ付けない空気を纏い、人混みの中でも一番に目を惹く存在。何かを感じ取ったのか、隼人が不意にこちらを振り向いた。道路を挟み、暗闇の中で二人の視線が交差する。澪は視線を逸らさなかった。ただその場に立ち、無表情のまま、隼人を見つめ返す。すると隼人は一瞬戸惑い、そして石のように固まった。彼は無意識のうちに、一歩前へと踏み出
車が都心部へと入った時、澪は自分が3年間も帰ってきていなかったことを改めて実感した。車窓を流れる高層ビル群、見知らぬ顔ぶれに変わった巨大な広告看板、立ち並ぶ街路樹でさえ、記憶よりずっと高く成長していた。潤は道中、ずっと電話で連絡を取り合っていた。通話を終えると、彼は澪の方を向いて言った。「まずはホテルに荷物を置こう。夜に会わせたい人間がいるんだ」「誰?」「父の昔からの部下なんだけど、今も会社のために奮闘してくれている。現状を詳しく聞き出しておかなければならないからさ」澪は頷き、それ以上は聞かなかった。夜8時、潤は澪を連れて個室がある料亭へと向かった。個室に入ると、50代半ばくらいの男性が座っていた。白髪交じりの頭に眼鏡をかけたその男は、潤が入ってくるなり、すぐに目を赤くする。「潤くん……」「小林さん」潤は歩み寄り、小林慎也(こばやし しんや)の手を固く握った。「戻りました」慎也は潤の肩を力強く叩き、しばらくの間、言葉を発することができなかった。澪は静かにその後ろに控えていた。二人が席に着くと、慎也が澪の存在に気づいた。「こちらの方は……」「弁護士の白川澪さんです」潤が紹介する。「翠川町での3年間、澪さんにはずっと助けてもらっていたんです」慎也は澪に視線を向け、深く頷いた。「白川先生もどうぞお掛けください」3人が席に着くと、慎也が本題へと切り出した。「潤くんが去った後、会社の状況は悪化の一途を辿っています」慎也が重い溜息をつく。「実は、植田家の連中が必要以上に圧力をかけてきていまして……まずは大口のクライアントを2社奪われ、さらには株主総会で『前社長の死後、会社を牽引できる人材がいない』と糾弾し、取締役会の再編を要求してきたのです」植田家?湯呑みを握る澪の手が、ピクリと止まった。「現在、彼らはどれほどの株式を握っているんですか?」と潤が聞いた。「23パーセントです」慎也が答える。「それに、彼らの息のかかった株主を合わせれば、30パーセント強にはなるかと思います。こちら側には、社長が潤くんに残した35パーセントの株があるのですが、その中の一部は従業員持株会が保有しているため、今の社内の混乱に乗じて、すでに植田家と接触を図っている者もいるようです」潤は数秒沈黙した。「植田家
潤は何かを言いかけたが、特に何も言わなかった。それでも、澪は言葉を続ける。「戻りなよ。そして、あなたのお父さんが残したものをすべて取り戻すの。守りきれるかどうかと、戦いを放棄することは別問題だから。お父さんがあなたに会社を残したのは、こんな場所で逃げ隠れさせるためじゃないはずだよ」潤は澪を見上げた。背後から差す夕陽が、澪の輪郭を黄金色に縁取っている。潤はふと、3年前に初めて澪と出会った時のことを思い出した。あの修羅場と化した人だかりの中で、澪は眉をひそめ、一人真剣な顔をして立っていた。あの頃は、この都会から来た真面目くさった弁護士は、絶対にお堅くて付き合いづらい女だと思っていた。それでも、3年間、澪の様々な顔を見てきた。怒りに任せて書類を叩きつける姿、一つの案件のために深夜まで頭を抱える姿、町でしゃがみ込んで老婆と世間話をする姿、そして、裁判に勝って隠れて涙を拭う姿……だが、こんな澪を見るのは初めてだった。真っ直ぐに立ち、瞳には強い光を宿して、心に言葉を突き刺してくる。「澪さん」潤は口を開いた。声が少し掠れる。「俺を挑発してるの?」「うん」澪は頷いた。「効果はあった?」潤は数秒間澪を見つめ、それから笑った。それは、いつもの気怠げな笑いではなく、目の奥から溢れ出るような、本物の笑顔だった。「ああ、効果絶大だよ」潤は立ち上がり、澪と向かい合った。「俺、戻るよ」澪も頷く。「うん」「一緒に来てくれ」澪は一瞬呆気に取られた。「私?」「ああ」潤は彼女を見つめた。「翠川町にもっと弁護士を呼びたいってずっと言ってただろ?専門家が不足しているとも。だったら、一緒に戻ろう。そうしたら、俺が代わりに交渉して、人材を集めてやる。何人でも、澪さんの望むだけ引っ張ってきてあげるさ」「その自信はどこからくるの?」「俺が『九条』だから」潤は顎をしゃくった。「父は死んだけど、ビジネス界隈じゃあ、九条家の名前はまだそれなりに値打ちがあるんだぜ?」澪は彼を見つめた。夕陽は完全に沈みきり、空の果てにわずかな赤みが残るのみとなっている。「少し考えさせて」「考える暇なんてない」潤は澪の袖を乱暴に掴んだ。「明日すぐに出発だ。これ以上引き延ばしたら、俺がまた逃げ出すかもしれないだろ?」澪は掴まれた袖に目
その夜、潤は帰ってこなかった。翌日も、戻らなかった。3日目の夕暮れ時、澪は町の入り口の木の下に座り、沈みゆく夕陽を眺めていた。すると、背後から足音が聞こえてくる。潤が歩いてきて、澪の隣に腰を下ろした。二人の間にしばらくの沈黙が流れる。「どこに行っていたか、聞かないのか?」潤が先に口を開いた。「話したければ、自分から話すでしょ?」潤は少し笑ったが、その笑みはどこか悲しげだった。「澪さん」潤は珍しく、澪の名前を呼んだ。「俺がなんでこんなところに来させられたか、知ってる?」「あなたのお父さんを怒らせて入院させたからって、前は言ってた」「あれは作り話なんだ」澪は潤を見つめる。夕陽が彼の顔を照らし出し、光と影が交錯して、その表情は読み取れなかった。「父親を……」潤は一拍置いて言った。「俺は父親を殺した」風が止まる。辺りが静寂に包まれた。潤は遠くに連なる山々を見つめながら、まるで他人の話でもするかのように淡々と語り始めた。「うちは商売をやっていて、それなりに大きい会社なんだ。それに、俺は一人息子だから、父は俺を後継者にしようと必死だった。でも俺はそれが嫌で、毎日父に反抗ばかりしていた。金融を学べと言われれば芸術を専攻し、会社に入れと言われればドキュメンタリー映画なんかを撮ったりした。父に『道楽者』と罵られたから、そのまま家を飛び出して何ヶ月も帰らなかった」潤は一旦、言葉を区切る。「でもある日、母が癌で倒れたんだ。父は会社の仕事をすべて放り出し、3ヶ月間も母につきっきりだった。でも馬鹿な俺は、外で仲間と遊び歩いてた。どうせ父がいるんだから、母は大丈夫だろうと高を括ってて」「それで?」澪は静かに尋ねた。「その後、母は死んだ」潤の声が沈み込む。「息を引き取った日、俺は遠方にいたうえに、スマホの充電が切れて電話に出られなかった。慌てて駆けつけた時には、もう遅かった……」彼はうつむき、自分の両手を見つめた。「でも、父は俺を責めることもなく、淡々と後処理をして、葬儀を行い、やるべきことをやっていた。でも、俺には分かった。父が俺を恨んでいるって。父が口には出さなくても、痛いほど分かったんだ。それからしばらくして、父も病に倒れた。半年間闘病したけど、結局、父もこの世を去った。死ぬ
芳子は一瞬呆気に取られた後、それから目を潤ませた。「白川先生、なんていい人なんですか……」澪は微笑むだけで、何も答えなかった。二人を見送った後、潤がどこからともなくひょっこりと現れ、澪の籠を覗き込んできた。「おや、また卵か?ここで養鶏場でも開く気なのか?」澪は潤を無視した。しかし、潤は構わず一人で喋り続ける。「でもまあ、弁護士冥利に尽きるってもんだろ?さっきのあの夫婦の顔を見たか?今にも土下座しそうな勢いだったぜ」澪は籠を抱えたまま歩き出した。「なんでついてくるんですか?」「飯に誘いに来たんだよ」潤はそう言った。「恵美さんが今日は豚肉を煮込んだから、呼んでこいってさ」澪は足を止め、潤を見つめる。「なんで毎日私をご飯に誘いに来るんですか?」潤は一瞬固まり、それから笑った。「一人で飯食ってもつまらないだろ?」彼は相変わらずの調子で笑っていたが、その瞳の奥には、いつもとは違う何かが揺らめいているように見えた。澪は潤を数秒間見つめた後、再び歩き出す。「行きましょうか」「どこへ?」「恵美さんの家。ご飯じゃないんですか?」……それから瞬く間に、3年の月日が流れた。「白川先生!白川先生!」町の入り口の槐の木の下で、一人の老女が声を張り上げている。澪はオフィスの窓から顔を出す。「井上さん、どうしました?」「うちの鶏が、またいなくなっちまったんだよ!」澪は思わず吹き出した。「待っていてください。潤さんに探させますから」「潤って九条の若造かい?」井上百合(いのうえ ゆり)は口を尖らせた。「あの子は当てにならないよ。この前鶏を探しに行かせたら、鴨を抱えて帰ってきたんだから」「あれは彼なりの気遣いですよ。井上さんが寂しくないように、遊び相手を増やしてくれたんです」百合は一瞬きょとんとし、それから笑いながら悪態をついた。「本当にそんなことばっかするんだから!」澪は頭を引っ込め、隣の部屋に向かって叫んだ。「潤さん!井上さんの鶏がいなくなったって!」隣の窓がゆっくりと開き、寝ぼけ眼の潤が顔を出す。「またかよ?先月いなくなったばかりだろ?」「探しに行ってあげて」「探すまでもないさ。どうせ町の東の、小野さんの畑にいるに決まってる」潤は大きな欠伸をした。「あの鶏、小野さん